残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

「数学ガールの秘密ノート」最新話241-242回が禁断のヤバみーー数学という権威、暴力、あるいはノナちゃんは銀色サヴァンなのか

このおれがノナちゃんだ!

失礼しました、興奮のあまり意味不明な書き出しをしてしまいました。でも、やっぱり自分(筆者)はノナちゃんですよ……(伏線

 

↓今回(今週)のお話(2018/11/23金曜から、一週間無料閲覧可能)

 

cakes.mu

 

結城浩氏(プログラミング書や「数学ガール」シリーズや、数式混じりの読解しやすい文章の作法についての本を書いていらっしゃいます)の、webマガジンサイト「cakes」での連載、「数学ガールの秘密ノート」。

www.hyuki.com

cakes.mu


このcakes連載は、最新話だけ無料で、あとは有料課金方式です。
本体「数学ガール」における、数学のエッジーで豊かな知の深みを徹底的に議論していくのとは違い、「秘密ノート」は、日常のちょっとした疑問から、「数列」や「微分」「ベクトル」、あるいは数学考古学、などの数学の一領域をたのしく概観していく、という初心者向けのシリーズです。

で、先週から今週で、「無限のキャンバス」と題した「数学を学ぶ」数学トークなお話の回になったのですが……正確ではない。
「数学を学ぶ」というよりは……「恐ろしい数学をなんとか教え込む」……ちがう、「トラウマレベルになってる数学から、トラウマをなんとか除去させようとする」……もっといえば「学校教育や世間における【いわゆる受験のための数学】教育から、数学のたのしみっていうものを、なんとかカケラでも見いだせやしないか」というか……。

はい、つまり、「数学嫌い(意味不明)」少女を、どうやって癒していくか、という、ある種禁断の数学話になってくるわけです。

登場人物を整理しましょう。この話限定で進めるので、ミルカさんやテトラちゃんは抜かします。ていうかこの場に黒髪才媛ミルカさんが居たらどーなるんだ……(恐ろしさに頭を抱える)

「僕」……主人公。数学が好きで得意。「教える(ことを通して、相手と一緒に数学をたのしむ)」ことに、自身の可能性を見出しかけている。「悩み」担当。

「ユーリ」……「僕」のいとこの「妹ポジ」な天真爛漫中学生にして、ある種のひらめき直感型の天才肌なところがある。パッと見複雑な理論モデルを論理的に追っていきそうになるとめんどくさがる(先輩たちの手を借りていけば、論理を追うことは出来る)

「ノナ」ちゃん……新キャラ。「ユーリ」の友達。絵が得意で絵画の知識もある。数学が嫌い。数学が意味不明。学校数学の点が悪い。


基本的に、数学ガールというのは、「数学好きの少年少女たちの数学愛トーク」なわけです。
ミルカさんや「僕」は数学が好きで得意。それに対し、これまで後輩のテトラちゃん(数学は好きだけど、得意ではない)や、ユーリ(数学に興味があるし、ひらめき直感才能もあるけど、めんどくさがり)が、「数学が好きだけど苦手(寄り)」な対比がありました。
先輩たちが、後輩を導き、逆に後輩の発見から先輩も教えられる、という。

ところが、ノナちゃんは、その前提にすら立っていない。
とにかく「数学が嫌い」「苦手」「意味不明」
しかし、「興味が持てない」わけではないのです。それは、学校の友達であるユーリが話す、ちょっとした数学トーク……というか、「数学モデルな考え方、世界観」に、ノナちゃんは興味を持っているらしく。

ここに救いが一つありましたね……。こういう風に「数学にポジティヴな何かをほんの少しでも感じ取れる経験」があったということは、この時点で相当ラッキーです(後述伏線)。「そんな経験さえなく、数学を押し付けられた数学劣等生」がこの世には山ほどいるのですから……。

 

「僕」は、ユーリの頼みもあって、ノナちゃんに数学を教えようとします。
で、まずは「僕」はノナちゃんは数学のどこが苦手か、どこが嫌いか、どこが意味不明か、理解度は……と、分析的に聞いていきます。


やっちまった。
ノナちゃん、弱気になっていきます。というかオドオドしていきます。ユーリには「早口になりすぎ!」と注意されます。

 

さて、ちょっと本文を読んでもらえたらわかるのですが、このノナちゃん、いわゆる数学ガール的な、あるいはいわゆる理系的な「才気煥発」なシャープさは、まるで感じられない人物造形です。何を考えてるかわからなく、ぼんやりしているように見えて、実際返ってくる言葉もぼんやり……もっとはっきりいえば「ニブそう」……もう露悪的に言えば「頭悪いんじゃないのこいつ」。ってレベルで。もっとひどい言葉もあるのですが、さすがに書くのはやめましょう。

ノナちゃんは、数学に恐れを抱いています。
それも、どこまで「数学そのものに対する恐れ」なのか、「数学教師、世間の大人、に対する恐れ」なのかわからない。混然一体としたまま……というか、腑分けして分析しようにも、恐怖が先に出る。あるいは、もともとノナちゃんは、分析的な思考を、ひどく不得手にする人間、と思います(こちらが基本路線でしょう)

そしてもうひとつ。ノナちゃんは、非常に「アーティスティック」な人間である、ということ。数直線のグラフで、座標の話をしたときに(数学の基礎ですね)、点の「」を考え出したのです。
色。カラーです。BECKの新譜です(関係ない)
「そんなこと数学にはなんの関係もない」と、普通の……数学を普通に治めてきて、赤点とったことない普通のひとたちは、思うでしょう。

さあ、ここから本題に入ります。
なんで自分が、今回の秘密ノートにこれほど注視しているか。
自分(筆者)こそが、ノナちゃんに他ならないのです。


●計算障害の自分語り

 

まずはじめに、自分は、今でこそ、数学が好きな人間です。最近買った数学関連の本は、フィッシュ「巨大数論」森田真生「数学する身体」、 林 晋、八杉 満利子「情報系の数学入門」、 マーカス・デュ・ソートイ「素数の音楽」、ってとこです。最近は、巨大数の殴り合いを楽しみながら、数学の情報系/コンピュータ援用の方面を勉強したりしてます。いや、最近3Dモデリングとかを始めてて、とくにボクセルアート(3Dドット絵)やRaspberry Pi積んだ電子工作とかやってると、簡単なプログラムを書く必要もあったりするので。

 

ただし、九九が本当に出来ません。正確には、計算障害です
例えば、ぱっと3×8、と考えてもても、答えがわかりません。乗算の偶奇法則から、22か24か26、というアタリはつけているのですが、大穴で28の可能性もあるし……とかっていう風に、九九を半分以上リアルに忘れていますし、「暗算計算するくらいなら、電卓やスマホを探し出して、計算機する」というハックを公言してます。
いまだに繰り上がりの概念でビビっています。

皆さんすぐお分かりのように、数学は、小学生はなんとか「意味もわからず丸暗記」で乗り切りましたが、苦行。そして中学、高校で、数学についていこうとしたものの、やっぱりだめ。赤点の連続。15点を越えることは、ほとんどなかったのではないかと。

数学……自分の人生のある時期までの数学は、「権威の武器」っていうイメージでしたね。とくに高校はひどく、「受験勉強」のスキームのもとに、「数学するたのしみ」なんてどこ吹く風で、とにかく「テストで点が取れるように、問題を解いて解いて、宿題でも解かせて……」っていうものでした。

そして「権威の武器」のもうひとつは、自分の父親にもありました。自分の父は、暗算が物凄く得意で、理系の大学で電子工学を勉強していたこともある人でした。その暗算の得意さを活かして、商売の道で相当上手くやっていた人間でもあります。あっという間に頭でパーセンテージの暗算をはじき出して、いろんな分析をするのが得意な人でした。
そういう父から、さんざんバカにされたものです。自分の「数学できなさ」……というより「算数できなさ」は。父は結構自由な人間でしたが、「計算が出来なければ人生を渡っていくのに不都合だ」という考えを持っていて、それは上記の商売をやってるとこからも、容易に類推できますね。小学生のころ、自分は「これくらいの計算が出来なければ、●●するぞ!」と、脅されたものです。父なりの教育だったのでしょうが、自分にとっては暴力でしたね。

 

なんでこれほど、数学……算数が、計算が出来ないのか。
ノナちゃんと同じなのです。自分は、数の「色」とか「形」とか、関係ないことが、頭の中にバーーーッと一瞬で発想する頭なんです。

 

どうも、30歳を過ぎてからようやく、「自分の数の捉え方は、ひとと相当異なっているらしい」ということに気づきました。
例えば、「3」は、どう考えても自分の頭の中には、黄緑色のカエル(蛙)なんです。
「4」はわりとダークな色の赤紫の鋭角的な図形なんです。「6」は同じような色で、もうちょっと丸みを帯びてる。「8」は無論のこと群青色です。背景が白い。「9」も黄色でしょう。「13」は白と緑(ビリジアン)の若干ストライプ風味なセスナ機です。そんなイメージにわりと似ている数字は「17」なんですが、17のセスナ機はもっとメカニカルかな……。

 

(2017年秋のついーと。1年前も同じこと言ってた)



そうですね、今適当に、「3027」って打鍵してみましたが、これのイメージは……ええと、「30」あたりが緑の草原っぽく、そこに「2」があるからちょっとラズベリーの果実が低い位置にちょこんと咲いてて、「27」あたりで南欧っぽい樹木が、黒にも近い曇天に向かってそびえている、っていうものです。風は西南から吹いていて……
……って、こんなこと書かれても意味不明ですよねw
でも、自分が「数」というものを認識し、考えるとなると、こういう余計なことばっかりを自然に考えてしまうのです。
どうもこれって、心理学でいうとこの「共感覚」に近いものがあるらしく。

そんなことばっかりを考えていては、当然数学なんて出来ませんね。

 

また、ノナちゃんは今回の話で、最後にこう言います。「僕」が「(点を座標で表す、数学モデルという)アイデアを理解することは大切」とノナちゃんに説いたら、

 

ノナ「アイディアを理解するって、どういう意味なの……」

 

と問われ、「僕」は逆にびっくりします。

わかるわ……ノナちゃんの云うことよくわかるわ……。もちろん、次回の話でノナちゃんはこの言葉をまた違った意味で言うかもしれませんが、自分はこう捉えました。

 

「アイディアは一発で【見える】ものだから、理解するっていうものなの?」

 

という風に。そう捕捉すれば、ノナちゃんの「アイディア」と「理解」の間を結ぶのに困惑する、っていうのがわかります(次回以降がまだわからないのでこれは仮説ですスイマセン)

 

しかしそう仮説したら……
自分(筆者)、あるいはノナちゃんのような人間にとって、アイディア(無からの発想、連想)は日常茶飯事で、いつも頭の中が爆発してます。アイディアに困るってことはないです。枯れ葉を見ては何かを思いつき、午後のカーテンがふわりと舞って空中に光の粒がちらばったその瞬間に何かを幻視する。そんなのは、当たり前だったのです。自分たちの生活では。
でも、そういうのは、当たり前じゃなかったようです。

ノナちゃん、多分、アイデアには困らないだろうけど、「問題解決」には相当に困ってるだろうな、と思います。なにせ、今回「僕」のとこの扉をたたいたのも、数学苦手、という「問題解決」に他なりません。
もーとにかく、我々はアイデアは閃くけど、問題解決は苦手です。スケジューリング下手です。自分が何に迷ってるか、っていうのもわからない。


なんだか長くなってきたので、あと一つだけ書いてから。
自分の問題点のさらなるひとつが、「クイズが嫌い」っていうのがあります。これも実は30歳前後になってようやく気付いたのですが、自分は「●●を解いてみましょう(解いてみよ)」と提示されたら、「もういいです」と思って興味をなくしたり、この提示を大人や権力者の「強制」と捉えたり、というパターンを踏んでいます。
さらには自分は、「自分で手を動かして試行錯誤して学んでいく」のは大好きですが(工作とか)、「誰かに教えられるのが不得意で、覚えもすこぶる悪い。ほぼ忘れる」という法則すらあるのです。
自分は、別にアンチ権威主義というわけでもないですが、「自分の邪魔をしてくれるな」という思いが、ほとんど幼稚園以前のころからあります。趣味で工作とかをするのの、邪魔をするな、と。そして、「自分の好きな趣味の時間を安全かつ確実に確保する」のなら、大人や権力者が「やれ」というものは素直に聞いておいて、そして自分の好きな趣味の時間を確保しよう、という考えになります。

いやー、これは「学校教育」と相性が悪すぎる。というかなんでこういう人間がよくもまあ長年学校に通っていたものだよな、と。自分は、工作も、コンピュータも、文章も、数学も、科学も、運動も、作曲も、他人から教えられたもので身に付いたものは何一つとしてなく、全部「独学」で身に付いたのです。
別に、だから「学校教育は無価値」とは断言は絶対にしませんが、しかし「学校教育がこれほど合わない人間という、希少例が自分」であった、とも言えます。じゃあなんで学校制度からドロップアウトせんだったのか? つまりは「学校は義務」と捉えていたんですね。義務ならしょうがない、一応言うことは聞いてるふりをしておこう。そしてあとで自分の好きなことをしよう、という。

 

好きの反対は嫌いじゃない、無関心だ。
という言葉があります。真実だと思います。

 

まあ学校のことはここまでとして、しかしノナちゃんが、「僕」の分析的な早口問いかけに拒否感を示したり、「例示を作ること、それすらも強制に聞こえる」くらいの、大人社会に対するビビり&究極的な無関心。こういうのが、自分のことと思えてならんのです……。


でも、よくノナちゃんも、自分も、
「それでも」数学をやってみよう、と思いましたよね。まったく。

 

我々は、己が見る夢には、ほんと一生懸命になれる人間です。ノナちゃんの絵のように。ジョルジュ・スーラの点描理論、自分も小学生のときに熱心に解説文を読みましたし、スケッチブックやマリオペイントで再現もしましたよ。
そういう「己が見る夢」が何なのかを知るには、自分で「権威」とか「暴力」「バカにされる」ことから、自分を守らねばならないのです。ところが、共感覚もちとか、アーティスティックだとかな人間って、なかなかそれを確立すんのが難しいですよ。あるいは、バリアを確立しすぎて、今度は逆に超かたくなになったりもしますし。

独特な感性でいながら。それでいて「知の世界」の豊潤にもアンテナや回路をつないだままにするには。こればっかりは個別の人生としか言いようがないですし、ノナちゃんラッキーだったね、まあ自分も30過ぎてなんとか数学好きになれたよ、とは言えます。でも、「そうじゃないままずーっと」な人が、この世には山ほどいて。数学憎し、という。そういう人たちが、次世代の権威となって、「数学嫌い、憎い、無関心」な子供を増やすのかなぁ、って考えると、ほんとなんかなぁ、って思います。

可能性というか、せめて「ラッキー」に触れる事の、多からんことを。多分ですけど、結城氏が今回このような難題禁断に挑んだのも、「数学は数学好き(向いてる人)だけで楽しんでいればいいんだよ!計算障害はきえろ!」という明るい暴力性・排他性のようなものにアンチテーゼ……ということでもないな。今回のお話に、そういうアゲインスト(叛逆)の匂いはない。
むしろ、「苦手なままでいいけど、嫌いにならないでもいい」とか「苦手なひとは、苦手なひとなりに楽しみ方がある」というか。
それほど数学の世界は、あまねくひとに開かれているんだ、と。好きに数学をたのしんだらいい。義務こそ、競争こそ、権威こそ、数学(のたのしみ)のまったき敵なんだと。そんなものでひとつの公理系も出来るものか!

そんなわけで、この記事は「好きに数学をたのしみましょうね」というあたりでどっとはらい。自分は「3」をカエルと認識するこの脳を治すつもりはないですし、「3」をカエルとみなすような世界をアートで作ればいいだけの話です。そうすれば、アートしていながら、実は自分なりの数学をしてる、って話すらにもなってくるんですから。数学とアートは、「融和・融合」という方向性だけではなく、そんなやりかた(相互独立・相互参照)でも仲良くなれる。そんなふうに考えて、今日も数学をたのしみましょう。

最近お気に入りの音楽(2018/11月あたり)

実はこのブログ、音楽ブログだったんですよ!(衝撃の事実

先日、ついったーで、ハッシュタグ

 

が、自分のお知り合いの方たちの間で流行していまして。日頃、こういうタグに乗ることのない自分なんですが(ソフト流儀スタイル)、まあ今回はちょっとやってもいいかな、と
ありがたいことに、いくつかのfavを頂きました。(いいね、とは書かんぞ。favと書くぞ)

で、ユニゾンの「シャンデリア・ワルツ」を書いたところで、いったんリアルが忙しくて頓挫していました。
でもやる気自体はあったので、こういう形の記事にしました。


(なお、このお気に入り曲紹介スタイルは、愛読してる音楽ブログ「ヨーグルトーン」の月恒例の「お気に入り曲まとめ」ぱくr……リスペクトだったりします。ヨーグルトーン/管理人とるーあんと氏の音楽選曲趣味は、自分のもともとの音楽選曲趣味とほとんど被らないので、それゆえに大変興味深く読んでいます。自分にとって知らない音楽世界を教えてくれるので)

d.hatena.ne.jp

 

 

●UNISON SQUERE GARDEN「シャンデリア・ワルツ」

 


「シャンデリア・ワルツ」from UNISON SQUARE GARDEN LIVE SPECIAL "fun time 724" at Nippon Budokan 2015.7.24

(念のため、テキストと動画を再貼りします)

最近一番聞きまくってるといったら一も二もなくこれ。圧倒的演奏力と透き通ったvoが放つ、歌詞の夢。
「教会通りを走っていこう、絶対に話さないように/レンガ造りのウォールロードが重なった希望に見える/わからずやには見えない魔法をかけたよ」

 

で、ここからがブログ新規分です。

 

●同 UNISONB SQUERE GARDEN「オトノバ中間試験」


【弾き語りコード付】オトノバ中間試験 / UNISON SQUARE GARDEN【フル歌詞】


2人で オトノバ中間試験【UNISON SQUARE GARDEN】

 

アルバム「Dr.IZZY」収録。出だしからノリノリですが、なんといってもサビ前の中間部における、リズムの打ち方のドライヴ感がタマラんち。リズムのアクセントが最初の方にカマせながらの表拍と裏拍を混在させるリズム。しかもこの手のリズムは洋楽ならともかく、邦楽でここまでドライヴしているのは、なかなか聞けない。恐るべき演奏力ですが、同時に田淵(Ba)の曲が良い。歌詞も「轟音騒音みたいでcheeky 絶え間ない言葉peaky 息継ぎがてんでないじゃんか」と斉藤(vo、Gt)のヴォーカルスタイル=ユニゾンの音楽スタイルのパブリックイメージを自己批判するというとんでもないもの。しかもそれに対して斉藤くん自身が「あのね歌ってるのは快気怪奇な僕なんで 呆れるまで斉藤に任せといて」とカウンターカマすというねw 田淵は何を歌わせてるんだ。しかし斉藤くん、歳とキャリアを増すごとに、逆に清冽な色気(セクシィ)がどんどん増していくのは困りますいや困らない。数年前の「場違いハミングバード」の渋谷公会堂ライヴの時より……そのときも全然悪くはなかったですが、今はさらに格段に若返って優男王子様ルックスになっちゃって……タマラんち……。

 

キズナアイ「Hello,Morning」


Kizuna AI - Hello,Morning (Music Only)

 

Kizuna AI’s Homepage

(あえておれはこっちの旧ホームページを張る。love、テキストサイト

 

バーチャルYouTuberに関しては、わたくしほぼ全くわかりません。にじさんじ」も何なのかよくわかっていないくらいですから……。「バーチャルのじゃロリyoutuberおじさん」の手作り個人勢なDIY感とVR技術のエヴァンジェリスト感、そして何より人格の誠実さは大変好ましく思っていますが……。考えたら自分は、ナマのyoutuber自体も全く知らないのでした。いろんな素材(パスタとか段ボール)を包丁に加工する動画はよく見ていますが……。ニコニコ動画の時も同じで、基本的にニコニコ技術部しか見ない人間でしたからわたくし……

そんな自分であっても、キズナアイ親分のサウンドトータルプロデュース」力と、「親分自身の声質」は大変好ましく思っています。この「Hello,Morning」にしたって、極めてプログレッシヴなステップ系のEDMトラックに負けない親分自身の魅力的な声です。
なにせ親分の「分析力」は確かです。それは歌においても。自分が何者で、何を発信したくて、どういう存在で、何を相手に伝えたいか、というのが、自分でしっかりわかってる。自分はAI(エーアイ)であり、愛(アイ)の始まりであり、あなたに逢い(ai)たいキズナアイ、である。そんな名刺代わりの一発です。

そこらへんのモデル性が、極めて黎明期のボカロ……初音ミクという存在モデル性を巡る、界隈の(妄想)イマジネーションとかぶってるわけで、もちろん親分はそこらへんを批評的に盛り込んで、しかもミクさん……いやミク先輩、に対するリスペクトまで込めて。というのも、その実例として、

 

キズナアイ「メルト」歌ってみた

 

www.youtube.com

www.youtube.com

(ライヴフルver)

このライヴを見せられたら。これはニコニコのリアルイベントのトリ(ほぼ最終)で、これをやったのですから。これは参った。あの「メルト」の完コピです。初音ミク先輩=ニコニコの文化を、これからは自分も引き継いでいく、という決意表明であり、それを証明しきった形です。リアルタイム伝説感がすごい。

キズナアイの声質というのもまた大変によくて、そりゃあアニソン歌唱、アイドル歌唱で、自分はもともとそういうのが苦手なんですが、

 

キズナアイ「ぽっぴっぽー」歌ってみた

www.youtube.com

この「楽曲を完全に自分のものにしきっている」感といったら。自分の声質に関しても、完全に分析して把握して、その上で最高のパフォーマンスを見せている。
というわけで、ライヴに向けてのキズナアイ親分の楽曲リリースが連続9週で続きますが、アルバムが出た暁には、何はなくとも、「トータルプロデューサー」としての親分の実力を堪能するため、アルバムを買いに行きます。

2018hello.world

panora.tokyo

 

King Crimson「Discipline」

 


discipline - King Crimson

最近、クリムゾンをずーっと聞いています。「宮殿」、「ポセイドン」、「リザード」、「レッド」、そしてライヴ盤……と、キャリア全般を聞いてますが、しかしここで選ぶのは1981年に出たこれ。問題作、と言われてます。いわゆるクリムゾンのユーロロック的な美学……湿った狂気のヨーロッパ的世界観、クリムゾン的狂気牧歌荘厳美メロ、というものは、ここにはありません。チャカポコしたギターやリズムの反復。
ただそのチャカポコ的なカッティングやリズムが、今のこの時点で聞き返せば、90年代後期からゼロ年代において花開いた、アングラオルタナの「痙攣ビート」的な、といってもいいのかな……一部ポストロックでファンク再解釈な、チャカポコ変拍子ファンクロックを、80年代初期のこの時点において、完全に先取りしてる。というか、ゼロ年代のそれと比べても余りに遜色が無いばかりか、これをゼロ年代や今のテン年代に投下したとしても、全然凌駕して戦える。ーーという風に、今の耳で聞いたら思えるのです。やっぱり音楽の評価って時と共に変わるなぁ、というおはなしでした。

もちろん、80年代クリムゾンはこれが突然変異だったか、というと、そう言い切るのは早くて。パンク以後のワールドミュージック展開、ニューウェイブの潮流で、ポップ・グループとかPILとかのアフリカンポリリズム探求の中の潮流の中のひとつ、とこの時期のクリムゾンを言った方が適切なんですが。しかし、それ以外のプログレがやっぱり同時期も「ヨーロッパ耽美」の方向性の美学を持っていたのに対し、単身フリップだけが、この「Discipline」の無機質でチャカポコした音の強度の探求をやっていて。この音は、本当ZAZEN以降の向井秀徳の世界ですよ。というか向井が聞いていないはずがない。
ともかく、「プログレ問題作」として聞くより、「チャカポコ都会ファンク」として聞いた方が絶対に正しいし、なによりたのしい。

 

●Ariabl'eyeS「転生アプリオリ

 


Ariabl'eyeS / 転生アプリオリ cf demo

よーし待っていた。完全に待っていた。アリアの「バラードアレンジアルバム」。オビに「珠玉の名曲をバラードアレンジ」と自分で書いてありましたが、アリアは完全にそれが許されるグループです。なんといってもこの連中の耽美世界観を表すメロディとツインボーカルの強度は凄すぎる。よく自分はコンポーザーでBaのリゼ氏のメロディセンスを「どんなメシ喰ったらこんなメロディ思いつくんだ」と、名フレーズ名メロディ連作連発っぷりを褒め称えるものです。だいたいひとと自分がアリアの話をしたら、自分はこの表現使ってるはずです。

しかし改めて「蒼月オラトリオ」の圧倒的な名曲の浪々とした歌い上げはすごいですね。バラードにアレンジして、メロディの良さがまた違った側面から味わうことが出来ます。と同時に、これを聞いてバンドサウンドの原曲を聞くとまた良い。今回、当然電機ギターを使わない、アコースティック/ヴァイオリン中心のバラードアレンジです。ひたひたと染み入るような音です。「太陽や大気の下の牧歌的」ではなく、ジャケット通りの「静かな月夜」のバラードですね。冷たい月明かり……そうよ、その冷め覚めとした蒼色の美学こそがAriabl'eyeSよ。

ariableyes.com

明け暮れ明星日記「円形脱毛症の話」(第3回)

なりました。ちょうどつむじのあたり(頭頂)が、凄く頭髪が薄く……ほぼ肌色の頭皮が出ています。この間、一年ぶりに散髪に行った時に気づきました。

(頭髪に関してはデリケートな話題なので、「HAGE」という俗語は使いません)

この脱毛症で、自分は「円形脱毛症」という「頭髪状況」については、全く問題にしていません。要するに、頭髪の薄い濃い・長い短いのルックス的面については、本当に全く気にしていないのです。

しかし、「円形脱毛症に成るに至った、ここ最近のライフスタイル」に関しては、非常に問題視しています。

以下、そのあたりを備忘録&自分の整理のために、書き記してみます。

 

●ルックス面


この間、33歳になりました。自分はもともと、加齢については、そこまでネガな認識をしていません。なんてったって、自分のロールモデルが、人間椅子の和嶋慎治と鈴木研一なのですから。

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和嶋慎治(ギター

 

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鈴木研一(ベース

www.youtube.com


こういう風に歳をとっていって、「妖怪」みたいになれたらいいなぁ、と本気で思っています。

自分は、頭髪がある程度まで薄くなったら坊主にしよう、と、6~7年まえから決めています。鈴木の研ちゃんみたいに。というか、すでにこれまでに何回も坊主というか、頭をバリカンで剃ったことも何回もあります。

これはあくまで個人的な感覚ですが、「自分が、中途半端に薄い頭髪のままだったら、何だか未練たらしいから、さっさと坊主にしてしまおう」という考えのもとです。
もちろん、世の頭髪の薄い方々が中途半端なひとだとか、そういう話ではなく。個人の頭髪は個人のものですから。そこには哲学と迷いと決断があります。
ただ、あくまで「自分は、自分の頭髪に対して」そう思ってる、ってだけの話です。

だから、髪が薄くなること自体は、とくに問題とは思っていないのです。これが広がれば、坊主になればいい、というだけのこと。妖怪にまた一歩近づいたぜ!と。


問題は、頭髪が薄くなるに至った「リアル仕事の多忙によるストレスフル生活」「ライフスタイル・ライフサイクルのどん詰まり的ストレスフル」にあります。それは、妖怪として、すげぇカッチョ悪い。

 

●凡人の生活

 

異様に忙しい。リアル仕事が、忙しい。それに尽きます。この円形脱毛症の理由は。

なにしろ、家業が自営業なので、仕事とプライベートのメリハリなんてほぼないようなもの。ゆえに、際限なく細切れ仕事がプライベートに浸食してくる。当然、家事もしなくちゃならない。ウチの中で年齢的にも職業的にも一番下っ端なのが自分なので、各種の雑用が自分のところに降りかかる。しかし、上司(親様)の方も方で、マネジメントやら交渉やら経理やらの上司的仕事に追われてるわけですから、あっちもあっちで大変なんだ、ということが重々解る程度には、自分も家業に精通しております。

さらには、今ウチの家業は事業の方向性を転換しようとしていて、それ関連の事務作業が、この通常家業仕事に上乗せされます。ウチでPCを扱えるのが、ほぼ自分しか居ない。しかし自分は上司(親様)ほど各方面と交渉も出来ず、事業方向性の裁量決定権もないので、いろんなPC事務作業が「上司待ち」になります。もちろん、それゆえに楽といえば楽ですが。

また、ウチはほぼ毎日出荷がある、食品関連の仕事なので(ナマモノ製造業)、基本的に「一日フルに休める休日」というのが、ありません。正月の1日くらいかな……。
休日でも、出荷作業があります。

一番キツいのは、実は最後の「フルタイム休日がなし」なので、「連休という概念がない」=ちょっと小旅行やミニキャンプでリフレッシュ、ということすら出来ない。

そう、休めない。

合間時間でスマホをいじってるのも、いけない。もっとも、メールやSNSはほとんどしていなく、電子書籍やブログを見まくっています。
「お、読書家ですね」で済めばよかったのですが、最近はこれ、「本を読みまくってるとあほになる」と思うようにもなってきました。
合間時間で、何かこの現状を打開するようなライフハックな方策を探して、読書、読書、読書。
神経が休まりません。ある人にこう言われました。「常に何かを考えている状態」。
なるほど。休憩時間が休憩してない。

これは疲れるなぁ、と。ここまでを読んでても相当しんどいですね。

あと、常に自分は「自分は結構ラクな立場で、ニートとまではいわないけども、一般の社会人のひとに比べて、相当ラクをしている」と思っていたのですね。
世の中には、ブラック企業なところで、日々辛い思いをしてるひともいるのに……って。
また、長い間病気生活で、半分以上ニート生活をしていたので、動ける今、「ある程度は仕事しなくちゃなぁ」とも思っていて。

そんな状態を、ずっと続けていました。

そこに、この円形脱毛症です。
頭髪が薄くなったことそれ自体は問題じゃない。
「薄くなるに至った、今の仕事の日々が問題過ぎる」。

象徴ですね。この円形脱毛症は。
いわば、「プチ吐血」というか。吐血よりはだいぶ症状は軽すぎますが、それでも、それが表しているのは、「現在の仕事日常は、無理があって、問題である」という。
プチアラートを出している。
プチアラートがいま、ということは、この先もっと我慢して仕事の日々を過ごしていくと、遠からずツブれることは、言うまでもない。
さらには、自分がこれまで克服してきた各種神経・精神病理に、また立ち戻ってしまう。とすると、自分のこれまでの数年間の闘病生活が、無意味になってしまう。
これはいけない。

 

●どうすればいいのか

 

一番良いのは、「強制的に休む」ことですね。これも人から言われました。
「実家家業」なのがいけなく、まず家から離れないといけない。

さらには、自室のオタク図書館状態もいけない。
つい、活字を追っかけてしまう。何かのヒントを模索してしまう。

そして、スマホもいけない。電子書籍に罪はなく、そこに逃げ場書を追い求めてしまう自分がいけない。

結局これは「仕事(義務)」に疲れると同時に、「活字(意味)」に疲れる、という話でした。
義務、と、意味。
あーそりゃー疲れるなー、と。

仕事の意味はなんぞや?とか、自分の意味はなんぞや?
仕事をもっとうまくこなせるハックは?とか、休みの上手い使い方とは?とか、「意味」を調べまくってた。

義務を意味で解消しようとして、その意味をさらなる意味収集(読書・ネットによる情報収集)で解決しようとした。
義務と、意味。この二つしかなかった。

今こうしてテキストを打鍵してるのだって、これだって「意味」の話です。
やばい。活字依存もここまでくれば、あほの領域だ。愛嬌のないあほだ。

そういえば、ずいぶん「絵を描く」とか「ただ模型を作る」とか。
音楽にしても、工場作業のBGMとしてウォークマンをただ突っ込んではいましたが、じっくり「味わう」こともなかった。

「味わう」。
ただの行動、それそのものを、時間をかけて「味わう」。たのしむ。

余裕が完全にない、って話でした。
じゃあ余裕をどうやって生むか。
それは、テキスト打鍵からではないですよねー。

「じゃあどこから時間を捻出すればいいんだよー!」と、ウチの誰もがいいます。
やばい。
しかし、ふと気づきました。
「仕事のために日常や、休みがある」
のがこれまででしたが、これはない。
「日常のために、仕事がある」
こっちですよね。

調整すべきは仕事なんですよね。
あー(ぽっかり)
的な気づき度合いなんですが。
どうすればいいのか。「仕事」を前提にするんじゃなくて、「日常/休み」を前提にする。その意識転換こそをしなくてはならない。休みの最高率化を目指すんじゃなくて、仕事の最高率化でしょう。それすらも意識の内から度外視していた、っていうのは極まれりです。

 

●近視眼的

 

自分でも、そうなるんだなぁ、って思います。
それだけ、仕事をする社会人になったのか。病理から抜け出ることが出来たのか。それでも、こうやって極まってるだけ、なんか変だ。
ニートな自分が仕事www っていう、なんかおかしみはあるんですが。今はあの、ニートな日々のヒマさっていうのが、すごく懐かしい。

でも、円形脱毛症はないわ。
脱毛は別にいいですが、ストレスにこんだけ参ってる日常、ってのはあかん。
なにせ、それは「妖怪」ではない。そんな凡人な。
もっともっと、人間をやめよう。あ、ここで言う人間っていうのは、「仕事ストレスで狭く悩んでる、小さい奴」っていう意味です。そんなものに意味はない。

そう考えれば、まあこれは水木先生的な哲学ですが、鬼太郎の妖怪って、確実に「仕事ストレスで狭く悩んで」いない、ですよね。
尺度を、基準を、「仕事な日常」においていない。「個人の存在」に置いている。いや、違うな。「そいつがそいつであること」っていうことに置いている。個人、っていう近代概念とも又違うのだから。

あー個人がー、社会による搾取が-、ってなると、マルクス共産主義革命の方にいきますので、ここではここでやめます。はい。

エロゲ対談/読書会ブログ「止まり木の足りない部屋」補足情報ページ

※この記事は、feeさんと共同で運営している対談ブログ「止まり木の足りない部屋」を、より楽しんで頂くための、補足ページです。
このページは、残響が勝手に管理しています。

 

●「止まり木の足りない部屋」

止まり木の足りない部屋

(以前使用していたjugemブログから引っ越ししました)

feeさんと残響の対談ブログ。エロゲをプレイして、それを語り合ったり(基本、メインキャラルートを、1記事ずつディープに)、小説一冊を精読して「読書会」を行ったりする、対談形式のブログです。

 

feeさん……書評・エロゲレビュー・サッカー観戦ブログ「止まり木に羽根を休めて」管理人。

止まり木に羽根を休めて

エロゲー批評空間でも、御健筆を奮ってらっしゃいます。

feeさんのサマリー ErogameScape-エロゲー批評空間-

 

残響……この日記ブログや、「ホームページオブ百合機械」という百合趣味、模型趣味のwebサイトの管理人。

ホームページオブ百合機械

エロゲー批評空間でも、同名義で書いてる

残響さんのサマリー ErogameScape-エロゲー批評空間-

 

●これまでの対談の歴史

千夜一夜エロゲ対談」

……お互いの趣味嗜好や、好きなエロゲ、最近のエロゲ界隈の情勢についての語り合い。基本ノンテーマ

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SMEE「ラブラブル」対談

……イチャラブゲーが好きな残響が「これで対談やってみません?」と提案。シナリオ読みを重視するfeeさんと、イチャラブ/キャラゲーを重視する残響、お互いの立ち位置の「たのしい相違」は、この段階ですでに。また、対談読者の方からおたよりも頂きました。そのレスのひびきあいもどうぞ

 

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レイ・ブラッドベリ「太陽の黄金の林檎」読書会

SF短編集であるこの本を、全短編を語りつくします。残響はブラッドベリを「華氏451度」の「焚書ディストピア未来」というイメージで、「社会派なのかな」と勝手に推量していたのですが、ブラッドベリ・ファンのfeeさんに、その偏見を大いに打ち砕かれるものとなりました。

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レイ・ブラッドベリ火星年代記』読書会

同じくブラッドベリ。この連作短編集『火星年代記』は、feeさんのフェイバリットのひとつ。全作品を精読し、お互いの物語観や、宇宙の詩情について語り合う、「読書会」です。

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つよきす」対談

(1)「無印(1学期)」対談

シナリオライタータカヒロゼロ年代中ごろに出した、世間では「ツンデレゲーの傑作」とくくられている、「つよきす」。「たのしいゲームをしたい!青春の!」というfeeさんの希望でやってみたら、……「ツンデレゲー」というパブリックイメージとは、どんどん違うものがずるずる。むしろ「人間模様」と言ったほうがいいくらいの。

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(2)「三学期」対談

タカヒロきゃんでぃそふとを退社し、その後きゃんでぃそふとは、オリジナルスタッフでない布陣で、つよきすの続編を作ります。「二学期」はさておき、この「三学期」は、「さかき傘」というライターを招聘して制作された、かなりボリュームのある作品です。そして、この作品が、なかなか読ませるのです。タカヒロの精神を継承した、力の入った作品です。

 

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真剣で私に恋しなさい!!』対談

このみなとそふとタカヒロが起こした会社)の2009年の意欲作「まじこい」を巡っての対談が、今回完結したものです。若人の輝きとヤンキー性、タカヒロのキャラメイキングと、余計な作中ゲームバトル。そして、魅力的な群像劇。考えれば、ずいぶんタカヒロ(的なるもの)に、この対談で触れ続けてきました。

 

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(↓ Twitterモーメント)

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●そして次回は

 

Key「リトルバスターズ!(エクスタシー)」をやります。すでに実際のリアル対談は終了しており、現在ブログ記事に編集中です。お楽しみに!

 

また、対談へのおたよりは、いつでもお待ちしております!対談ブログのコメント欄や、Twitterなどでどうぞ。

第2回ごうつホビー祭りイベントレポート(2)島根県江津市、イベント内容

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 会場「パレットごうつ」の天井の開放感です

●チノハテ

 

島根県は東部と西部に分かれます。県庁所在地・松江や、出雲大社の出雲。これらが「東部」です。
西部は、港町「浜田」、森鴎外の故郷「津和野」、そして今回の舞台「江津(ごうつ)」です。

江の川を挟んで、主に工業都市な江津。有名ローカル鉄道「三江線」が去年廃線されてからも、近年は若い有志による地ビールの工場が建設されたり、とさまざまな試みが行われています……が。
が。

どうにも「この土地には目立ったものがない」というある種のフラストレーションにも似たものがあるようで。

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まずもって、この江津というのは、地理的に「東京から来るのに、一番不便」なところなのです。近くに空港もないし、新幹線の路線から物凄い距離がある。実際、自分(島根県東部在住)にしたって、第1回ごうつホビー祭りが開催されるまで、全然江津って行った事無かったですからね……その時点で推して知るべし、ではあります。

しかしそれ以上に問題なのは「たのしみ(ホビー)」のなさ。島根県のいろんなところに、「たのしみ(ホビー)」を抱えて、日々その探求に勤しんでいる人々がいる。しかし「発表の場」は、少ないです。

「ならば、自分たちで楽しい場(祭り)というのを、立ち上げてしまえば良いではないか!」というインディペンデントな思想が、理工クラブのHPからはビンビン伝わってきます。自分にしたって、この心意気でもって、第1回の参加を決めたようなものですから。

前回の記事で、このイベントが去年も、そして今年も「手作り感」のある自由な気風、と書いたのは、まずこの「地元に何もないな……よし、やろう!」というDIYの気概。そしてそれに賛同する作者(モデラ)たちの気概。及ばずながら自分も参加出展者としてその末席に加わらせていただいても良いかもしれませんが。
参加者の皆さん、多少はそういう「島根の鬱屈」がバックボーンに、うっすらとはいえ、ある程度はあるのかもしれない、と思う次第であります。

腐ることは簡単です。ネガ愚痴をたたくのも。でも、なかなかこういう風に「じゃあ何かをやろう!」という方向にはいかないものです。
まして、「自由の気風」と自分が感じられるほど、風通しの良いイベントたるや。そこのあたりは、理工クラブさんと地球堂さんが非常に努力されておられるのだなぁ、と思います。

閉鎖的な「サークル内イベント」であったり、「模型オタクのジャンル流儀マニアックイベント」ゴリ押しで、というのは、このごうつホビー祭りには、合わないと思うのです(念のため。そういうイベントを批判してるわけではありません)。
それよりもまずは「ホビーのたのしさを!」という思想。それに賛同し、もり立てていこう!という実際の行動、作品展示・企画による参加。それが今回の場合は、大事だったのです。

「たのしさ(ホビー)」とは、生きる意味そのものです。それを日々の仕事の中に見いだす人もいれば、日々の作品作りの中にライフワークとして見いだす人も居る。お好み次第です。
重要なのはそこから「熱」を得ることです。モチベとも言いますが。

 

●第2回ホビー祭り 企画内容


今回の催しものは以下のようなものでした。

 

・模型展示会(ノンジャンル・ノンスケール)
・工作スペース
ジオラマ制作教室(KATO)
鉄道模型試走(蔵模型)
・エアガン試射
・プログラミングロボ
プラ板制作
・ネイルアート
・バンド演奏・アニメ曲吹奏楽演奏
・物販(キットや完成品おもちゃや、模型関連書籍が買える)
・ラジコン試走
ぷよぷよを、プロゲーマーと対戦
・将棋やTVゲーム
アナログゲーム、カードゲーム対戦

次回からは、このそれぞれについてレポートをしていきます。

 

今回は前回に比べて、格段に規模が増えました。後述するように自分は半ばスタッフ側になったものですから(笑)、この全部を回りきる事は出来ませんでした。

しかしこれだけを招聘するのも、大変なことで。
どれもが「楽しんでいってください~」という雰囲気があったのでよかったのですが、一歩間違えれば、このゴチャ度合いはカオスですよね。

でもそこは、再三申している「風通しのよさ」があった。
それはイベントを無理に一つのマニア的方向に結ぼうとしない「自由の気風」があってこそ、だと思います。

このホビー祭りにランキングはありません。
別にランク上位にいくことがすべてではない……というか、そういう方面での「ガチ」さは今回ノーセンキュー、not for us(うちらのやり方とはちょっと違うよ)っていうだけです。

かといって、ストイックでない、というのは違う。皆さん作品作りと「この場を楽しもう!」という意識はストイックです。そして、もともと真のストイックとは、そういう「楽しみのためのストイック」であるはずだと思うのですよ。やっぱり。

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次回に続く……

第2回ごうつホビー祭りイベントレポート(1)今年も開催されました

このイベントレポート連載は、全部で7~8回くらいを予定しています。

 

 ●目次

 

(1) 
いまここ

(2) 

第2回ごうつホビー祭りイベントレポート(2)島根県江津市、イベント内容 - 残響の足りない部屋

●hobby is 何


「なるほど社会の為に働き、社会を護るのが人間の存在価値という貴様の主張は解った。そして質問させて欲しいが、では、社会の……我々の【何】を護るために働くのかね?」


「人は、パンのみにて生くるにあらず」

そんなことはある種の人々にとっては、考える間もなく当然なことなんですけどね。娯楽が、遊びが、「ホビー」がこそが、人間の生きる意味を、日々の仕事にいそしむ意味を形作る。マァそんな哲学は追々語るとして……。

●第2回ごうつホビー祭り

52sat.cloud-line.com

去る2018年8月末に、「東京から最も単純移動時間がかかる町(教科書認定」こと島根県江津市の駅前「パレットごうつ」にて、二日間の「ホビー」の祭典、ごうつホビー祭りが今年も開催されました。
この催しは、地元の有志団体「江津理工クラブ」さんが、地元の商店や、各地の企業と連携をとって、去年2017年から行われているものです。不詳わたくし残響も、去年の第1回ごうつホビー祭りのイベントレポートを書きました

 

あれから1年。理工クラブの方々から「今年(第2回)もやります!」とオフレコで情報を頂いてから、わたくしもとてもたのしみにしていました。
第1回はとても手作り感と「自由の気風」溢れる、風通しの良いイベントでした。何もかもが手探りでしたが、予想を越える反響を得て(主催側が「ここまでとは!」と思うほど)、各々が手応えを感じていたと思われます。

わたし(筆者)にしたって、ずいぶん久しぶりに模型展示会に参加しました。しかも出展側で(同人CDは同人即売会で頒布の経験がありますが、模型の出展はなかったのです)。しかし、そんな「お初」であっても、とても良い経験・思い出を作らせていただいた、と思っております。

そんな自由の気風溢れるごうつホビー祭り。今回は規模を拡大しての催しです。去年の段階で、都市の企業がわざわざ江津まで来てくれました。また、工作スペースを会場に設けたり、ゲーム対戦を実際に会場で出来たり、と様々な企画がありました。


しかし今回はその規模をさらに拡大
「二日間開催」ということもそうですが、
ホビー関連参加/協賛企業の数の多さ(20企業はある)、
物販ブースの設置、ラジコン体験コーナー、プロゲーマーのさらなる招聘(この1年でどれだけeスポーツ関連の隆盛があったか)、
エアガン試射や、プラバン工作、プログラミングロボット工作、ネイルアートなどの企画。
ブラスバンドによる生演奏、地元バンドによるライヴ、
ココイチカレーやアイスクリーム屋、タコス屋といった屋台の常設……

などなど、「祭り」の規模をさらに拡大しての催しなのです、今回は。
実際、今回の集客は、前回よりも「さらに」よかったそうです。

 

前回は会場がパレットごうつの1階スペースに集中していたので、結構手狭な感じはありましたが(すし詰めほどではないものの)、今回は「熱気のある会場をゆったり回れる」くらいでありました(体感として)
どのブースも人が途切れることはなく、展示された力作の作品に多くの人が見入り、そして作品の作者、参加企業、スタッフ、来客の皆が「良かった」と充実した二日間を過ごせた催しだったと断言出来ます。
それは自分の古くからのネット友人である義実たかさんが、わざわざ遠方からこのホビー祭りに二日間来てくれて、以下のレポートを即座に書いてくれたことからもわかることです(まずはリンク先のこのレポートもお読みいただけたらと思います)

yoshimitaka.hatenablog.com


今回から連載するこの「第2回ごうつホビー祭りレポート」では、作品紹介や企画紹介をするとともに、その場に居合わせた「わたしたち」がどのように楽しんで、ホビー文化について考えていたか、を紹介していけたら、と思います。
というのも、参加した自分にしても、義実さんにしても。理工クラブの方々にしても、模型関連を取り仕切っていた地球堂模型さんや地球堂さん旧知のスタッフにしても。そして参加者からお聞きした言葉にしても……
たのしくお話している間で、時たま「自省的(省察的)」な言葉や「思想」を伺うことが出来たからです。

それは激しいものでも、反逆的なものでもない。もっと静かなもので……

「自分(たち)にとって、趣味(ホビー)とは何か」
「子供たち(後世)に対して、何を伝えていったらいいか」

という無言の省察をどこかで雰囲気感じていたのです。自分は。
そういう意味で、ずいぶん考えさせられることの多いイベントでありました。

今回のこの第二回ホビー祭りのオフレポがこんなに遅れたのは、そのいろんな考え・省察の整理に時間がかかってしまったから、というのがあります(すいません)。
ただ、もうそろそろ纏まった、というのがあり。また、いくつかのカテゴリにバラけさせて語ることにより、このホビー祭りがいかに「いろんな輝き」に溢れていたか、の総体的なレポになるかな、と考えて、今回こうして連載形式で書くことにしました。
とりあえずは、まずは写真をいくつか掲載しますね。(撮影許可は理工クラブさんに取ってあります)

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次回に続く……