残響の足りない部屋

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引用論「3。ジュリア・クリステヴァ」

※連載です。第三回目。

全部で44000字あります。今回は8500字。

古今東西の「引用」についてのおはなしです。

今回は哲学者・ジュリア・クリステヴァの理論を使いながら語ります。なお、筆者は別に専門的な哲学者じゃないので、用語とか理論のマチガイなどありましたら(そうお思いになられましたら)、コメント欄やtwitterなどで御教えいただけたら助かります。でも、この読み物においては、「このように引用」しました。

なお、彼女のバイオなどについてはウィキペディアなどどうぞ

 

ジュリア・クリステヴァ - Wikipedia

 

 

クリステヴァ―ポリロゴス (現代思想の冒険者たち)

クリステヴァ―ポリロゴス (現代思想の冒険者たち)

 

 

 この論考は、クリステヴァの引用論=間テクスト性、に大いに寄っているものであるし、またそれを指して「この引用論はクリステヴァの引用ではないか?」という向きも当然出てくるであろうし、わたしはことさらそれを否定しようとも思わない。論考の価値、それは貴君が断じてもらえたらよい。

 

 さて、ポスト構造主義の論客ジュリア・クリステヴァの学究業績は、時期によって、テクスト論から、フェミニズム論まで幅があるが、ここでは初期の、彼女が論壇の「構造主義的文芸批評」に風穴を空けた「超出=言語(学)的(トランス・ラングイスティック)」の論考を、まずは概略をまとめつつ、わたしの論考にどのように援用するか、を語っていきたい。

 クリステヴァのテクスト論の骨子は、

シニフィアン(記号、記述、表現)

 

シニフィエ(内容、意味)

 

による。この二者の検討の深さこそが、テクスト論である。

シニフィアンシニフィエを表象し、シニフィエがテクストをどのように規定しているか、そしてシニフィエが文芸の本質にいかに抜き差しならぬ様相を帯びさせているか、の検討である。

 だがその本質論は、簡単に語れるものではないゆえに、彼女は様々な概念を提示して、文芸におけるシニフィエの謎――奇妙性(ストレンジネス)を、なんとか暴こうとしている。

 わたしとしては、一気にこのシニフィエ/シニフィアン論でもって、引用論を語っていきたいのだが、さすがにそれは読み手の難易度も、書き手の難易度も高い。よって、彼女が提出した概念を、これまで述べた引用論・引用の諸相と絡めながらみていきたい。

 

3ー1。 ジェノ・テクスト、フェノ・テクスト

 

 クリステヴァがテクストにおいて二つの次元を設定したのは、この「ジェノ・テクスト」「フェノ・テクスト」の区分である。

 その学問的厳密な意味検討だけで、論が終わってしまうので、ここではわたしなりの解釈を述べる。

 ジェノ・テクストは【意味を生成するテクスト】であり、フェノ・テクストは【本に書かれているテクスト】である。大ざっぱ(すぎる)にいえば。

 引用の本質とは何か、といえば、それは「何らかの意味を生成する」ということについては、議論の余地がないと思われる。接続詞のようなものとは違う。形容詞に限りなく近いながらも、それは先に述べたように、高次のレベルでは「構造」、卑近なレベルでは「ステータス」を定義・設定するものであるからだ。

 つまり、引用がジェノ・テクストとして用いられる場合は、それは本質的、であると言える。

 ではフェノ・テクストの場合は? もちろんここまでの論述で貴君は「なるほど、先ほどおまえがいっていた【表現的引用】に相当するのだな?」と仰るだろうし、その通りである。

 クリステヴァが論じるところでは、ジェノ・テクストは、作品に「深さ、ないし、厚み」を与えるものだ、と論じる。深さは本質によって担保される、という当然な議論を踏めば、それは即座に納得されるだろう。

 では、表現的引用であるフェノ・テクストは、ジェノ・テクストの下位存在として取るに足らないものか――? ここが重要なところであるが、クリステヴァはそのような二元対立/上下対立を、真っ向から否定する

 クリステヴァのこの理論は、「深層構造/表層構造」(チョムスキーによる)と、ほぼ同一のように見られるが、実はクリステヴァはジェノ・テクストを、プラトン的な「イデア」として(神聖的に)は捉えていない。クリステヴァは、シニフィアンシニフィエなくして存在しえず、またその逆も然り、という、きわめて現実的は把握から、フェノ/ジェノ・テクストの関係性も同じだと論じる。ジェノ・テクストはあくまで「意味を算出する装置/概念/原理」であり、フェノ・テクストは「読者がテクストに触れるにおいて、窓口となる存在として欠かせないし、軽視されるものではない」とする。つまり、重要性も同一ならば、ふたつのテクストの構成要素も、さして変わるところがない、というのが、彼女の説くところだ。

 ここにおいてクリステヴァは(間テクスト性の論考も含めて)【調和(harmonie)】という言葉を使っているが、これはそれぞれが妥協しあっているのではなく、それぞれの役割を遵守しつつ、ある意味で「仲良く」、本質と表現が手を結んでいる、というように捉えてみてはいかがだろうか。いささか牧歌的な表現に過ぎるが、こと文芸評論において、【本質】と【表現】の差異のバキバキな区別を論じてきたのが、これまでの流れであったのだから、それに対して、このような表現を用いることは、ある意味では、彼女のさらに【ラディカル】な側面を見せている、といえる。余談であるが。

 

 さて、引用論において、ジェノ/フェノ・テクスト、のもたらす解釈を検討していこう。

 まず、わたしは2。において(前回の源氏物語の小考の「2.」のところ)、構造的引用と表現的引用に、ことさらの上下/高低順列をつけなかった。それは畢竟、文芸――表現において、この二者は、車の両輪である。もちろん、互いに侵犯しあい、反発ももちろんある。だが【どちらかひとつだけで文芸を成立せしめるものではない】ことだけははっきりしている。

 偉大な想念・思想ありとて、表現(ジェノ・テクスト、シニフィアンなしには形を取り得ないし、そもそもひとが意味内容を感得するのは、「表現」を通じてであるゆえに、表現の如何によって(読者にとっての)「内容」自体も変わってくる。

 そして逆も然り。構造なき名文、意味なき名文、ということを考えたとき、それはほとんどシュルレアリズムの自動筆記の領域である。生粋のシュルレアリストによれば、そのような「シュール・テキスト」から無数の意味を見いだせ! と主張されるのだろうが、結局見いだすものは「意味・内容」ではないか、という循環論法がここで成り立ってしまう。そして、ダリやエルンストが偉人であったのも、彼らの芸術営為に「内容、意味、構造」(シニフィエ、ジェノ・テクスト)が存していたからである。このような物言いはほとんど意味をなさない言説であるが、補助線として記述しておく。

 

 迂遠な物言いとなってしまったが、ジェノ/フェノ・テクストの【並列性】【相互補完性】はこれで語れたか、と思う。

 ではそれが引用論においてどれくらい重要かというと、これが最初の「犯人探し」に繋がってくる。

 引用の意味は、常にその文脈を意識せねばならず、同時にその引用が、どれほど本質的で、どれほど「アイテム」的か、という見極めが、キモを握っている。このバランス感覚なくして、比較文芸論、比較表象文化論は成り立たない。「犯人探し」の例でいえば「探偵的バランス感覚」とでも呼ぼうか。

 このバランス感覚に基づいて各種比較論をするとすれば、探偵=論客=批評家は、自分の論にとって意味ある「証拠」「アリバイ」を、作品の外部・内部から見つけだすことが、論考の第一歩である、といえる。なにを当たり前のことを、といわれるかもしれないが、結局その手の「内容のない表現」的な……といっては言い過ぎであるが、批評家自身が、表現のシニフィエをくみ取らず、己のエゴでもって作品を規定しようとして(もしくは小銭稼ぎとして)論考を進めるとき、大抵は「犯人探し」で終わってしまい、「ひとの救済」まで話は進まないのである。

 そして話は飛躍するが、「ひとの救済」に至るテクストを我ら批評家が紡ぐのであったら、まず作品のシニフィエ/ジェノ・テクスト、引用箇所のシニフィエ/ジェノ・テクストに「降りよ!」というのが、わたしの主張である。もう少し付け加えるなら、作品/引用のシニフィエに共振した、貴君自身のシニフィエをまず検討すべし、ということでもある。陳腐な言い回しになるが「まず【感動】よりはじめよ!」ということになる。わたしが、裸になる勢いで、冒頭「世界の終わり~」での引用に震えたのを書いたのも、その故である。おそらく、どの理論よりも、批評家が頼りにすべきなのが、この震えなのだろう。知識の神経症的震えではなく、読者の魂が表現に触れ、新たに魂自身が何かを生成しようとするときの「知恵の震え」。

 なにもそのようなデリケートなものを、露悪的に吐露しろ、というのではない。そのような読書感想文は、この論考の第一章だけで十分である。そうではない。貴君の批評家としてのモラルとして、この感動、震えを、いつまでも大切にしてほしいのである――まるで詩人のように!

 

 精神論はわかった、では実際にどうすればいいのか? と問われたら、わたしならクリステヴァを援用しつつ

「まず引用のジェノ/フェノテクスト(構造/表現)性を、とりあえずは分析してみよう

 というところから話ははじまる。これも簡単にいい換えるなら「テキストの読解をより深く」みたいなことになってしまうし、それは貴君らの文芸上の師匠からもさんざっぱら言われ続けて耳タコであるだろうし、わたし自身もこんな紋切り型の主張をしてどうする? と思う(これが徹底できていないから、というのもあるが)。

 が、おそらく方法論としては、これしかない。ただ、わたしが言いたいのは、「視点を変えよう」ということだ。

 それだけ? 

「それだけ」に留まるものか! 

 フランスあたりの現代思想の多くがプラトンアリストテレスのギリシャ哲学の読み直しからはじまっている事実を、「何百年、何千年ぶりに視点を変えた」と言ってもよいのだから。別にデリダクリステヴァを卑近化させるつもりはないが。

 

 視点の変更、という視点(視座)。

 ここでわたしはクリステヴァを再度援用して、我々批評家が、引用研究における、「念頭におく」的テーマ【間テクスト性】について語る。

 

3ー2。間テクスト性

 

 西川直子のクリステヴァ論/解説(「現代思想の冒険者たち 30 クリステヴァ ポリロゴス」)が、【間テクスト性】を簡潔に表現している。【間テクスト性】とは、

 

「【いかなるテクストも、さまざまな引用のモザイクとして形成されており、すべてのテクストは他のテクストの吸収であり、変形にほかならない】という考え方のことである。あるひとつのテクストは、けっしてそれのみが孤立して存在しているのではなく、いままでに書かれたテクスト、いま書かれているテクストと関係しあっている、というふうに歴史の厚みのなかでテクストと他のテクストとの関係性を考える立場である。この概念によって、テクストは文化環境と歴史という外部へと開かれたものとして捉えられることになる。しかもその外部がテクスト内に記載されている、という認識が重要性を帯びるのである。」

 

 そもそもテクスト=表現、は、無数の記号によって生成されているものだ、ということ。無数の記号が、すべてオリジナルである必要はないこと。また、各記号の、それぞれの歴史的・文化的文脈における精査は重要であるが、それで「犯人探し」的に事足れり、では意味がなく、シニフィエ/ジェノ・テクストのレベルの検討(文脈、内容、構造、作中意味、作外意味、一般感動性、個人的(特殊例)感動性、もろもろ)を踏まえてはじめて、引用論は形を成しうる、ということ。

 そして、そもそも表現とは、最低限でもそのレベルのカオス性を持っている、ということ。

 カオス理論の研究では、まず演算させてみるとき、シンプルで短い数/数式を設定する。そこからコンピュータを用い、「カオティックに」莫大なアメーバ的増殖演算をさせて、カオスの理解を求めるらしい。が、文芸がカオスを論じるにおいて、要素還元主義というか、犯人探しというか、一番最初の「短い数」に当たるもの(要素)のニッチ的解釈(ある意味オタッキー的)に陥るのはなぜだろう。そしてそれを拡大解釈していって、己のドグマを押しつける引用論になるのはなぜだろう。わたしにはわからない(無論わかっているが書かないのだ。察してほしい)。

 カオスの理解・把握・検討、とは、そういうものではない。頼りにすべきは作品と自身のシニフィエの共振。上記の要素還元主義・犯人探しが、いかに狭い領域しか見ていないことが、ここで知れよう。そして狭い領域研究を、グローバルな価値あるものにするのは、矛盾するようであるが、森博嗣が説いたように「狭い領域研究をどこまでも正道(王道)に突き進めていくことによって得られる」というものである。これもまた、貴君らの師匠に耳タコ的に言われただろうが「着実に、一歩一歩」である。

 

 ここまで論じて、単一の見方による引用論、比較論がいかに危険なものであるか、感得されたものであると思う。

 では、短いながらも、実践編を提示して、この章を終えたいと思う。ジェノ/フェノ・テクストと間テキスト性の理論を元にした、村上春樹紫式部のふたつの傑作における、わたしなりの引用論である。もちろん貴君らはこれより優れた論考を紡ぐ論客であるので、わたしのこれらは、猿の曲芸をご覧になるかのようにしていてくれたらうれしい。つまり「たたき台」。

 

3ー3。間テクスト性引用論、実践編

 

【1。世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドにおけるダニー・ボーイ】

 

 まずわたしは謝らなければならない。ダニー・ボーイは、「世界の終わり」セクションではじめて出たものではなく、その前の章でもでていた、という事実をここまで書かずに論を進めてきたことを。

 「世界の終わり~」という小説は、二つのセクションが章ごとに、順繰りに交代していくことによって展開していく物語だというのは知られている。

 そしてダニー・ボーイの作中での初出は「35 ハードボイルド・ワンダーランド ――爪切り、バター・ソース、鉄の花瓶――」のラストで、主人公が、極めて適当に歌うのが、初出である。

 ここで歌うのは、本当に緊張感がなくて、「僕」が「僕」を取り戻すきっかけになる、なんて、予兆さえいだかせない。

 だが「36 世界の終わり ――手風琴――」で、その歌は歌われる。

 おわかりだろうか。【文脈】ひとつで、引用はここまで様相を変えることを。これこそシニフィエの相違である。

 また、それと同時に、これは仮説であるが、引用というのは、「単独箇所」で用いられる場合と、「二つ以上の複数箇所」で用いられる場合とで、意味合い(シニフィエの相違、ジェノ・テクストとして、フェノ・テクストとしての【ふるまい】の相違)が異なってくるのではないか、と。

 単独箇所で用いられる場合、それは「アイテム」として使い捨てされてもかまわないものである。ゆえにこの手の引用で満ち満ちた文体・内容は、往々にして世界が「書き割り」的だ、と評される。初期の村上世界が「バタ臭い」と評されたのも、結局はここに落ち着くような気がする。先行するものからの、アイテムとしての引用の多さ。

 だが複数箇所……今回の場合は「2コ」だったが、この「」以上、というのは、引用にとっては、見過ごせないほど抜き差しならない効果を与えるのではないか? なぜなら「」は「」であり、「」は「線」。アイテムとプロットの違い。それはどのような違いを持つか――? ほとんど明白な問いだが、ひとつだけ暫定解を出せば「物語の時間的流れ、ベクトル」を、「線=プロット」は持つ持たねばならない

 よって、引用が複数回に渡る場合は、単純な数計算での単純な取り方であるが、「何を論証のための【引用=証拠】とするか」の採択基準の、バカにならない手法といえる。

 

 いかがだろうか。駆け足のレジュメめいた議論であるし、強度も足りない論考であるが、貴君らにはどう写るであろうか。

 

【2。源氏物語の引用――美のカオス――】

 

 上記「点と線」の仮説をとってみれば、桐壷巻における、長恨歌の圧倒的引用を、見過ごして「語る」のは、やはり適切ではあるまい。

 そこで検討するのは、「紫のゆかり」構想であるが、この構想自体「芽生え」としてのジェノ・テクストである。長大なプロットを立てる際の「心棒」の必要性についてはすでに論じたが、源氏自体が、どこまでもカオス――といって語弊があるなら、あまりにも様々なモノをブチ込んだミクロコスモスである、というのは、すでに様々に言われていることである。

 その「ほとんど現実の投影」的な世界と、「現実の美化」ともとれるデフォルメ。

 後者のメソッドを用いて、桐壷巻は構成されているが、しかしこの巻自体、どこまでがジェノ・テクストとしての引用で、どこまでがフェノ・テクストとしての引用か、これまた研究者の間で、それだけで1テーマとすらなっているのだから(要するに深読みの問題)、ジェノ/フェノ・テクストの峻別、と説いたわたしの主張は、実に貴君らに無理難題を強いているのだろう。

 ではわたしは、和漢比較文芸から離れて、より一般論に移ってみよう。卑怯者と罵っても可であるが、俯瞰視点というものも必要だ。

 

 何故、引用まで用いて、美化されなければなかったか? 「源氏」は?

 なにをバカなことを、と言われるかもしれない。「源氏的に美化」された内容(平安時代の諸相)だからこそ、源氏は源氏足りうるのではないか、と。

 Da.その通り。しかしそれは問いのズラしでもある。なぜ源氏は「美」を――極彩色のミクロコスモスの四季の美を、あるいは死者を悼む荘厳な「玉の雫は落ち」の美を、ここまで追求したのか? つまるところ、陳腐な言い回しだが、「源氏」とは何か? 美を問うことは、本質を問うことだから。

 これも、仮説として、補助線をひとつ敷くにとどめる(おそらくこの問題には、岡崎義恵「源氏物語の美」の読み直しが求められるが、この試験的小論でそこまでしている余裕はない)。

 

 引用とは何か?

 では源氏の「女」たちにおいて、どこまでが引用か?

 ――直截的に話を進めてしまおう。「桐壷帝」「更衣」が、長恨歌の主人公&ヒロインの引用であるのなら、他の登場人物もそうではないのか? 然り。すでに先行研究は、明石の君の形象を、同じく白居易の長詩「琵琶行」の楽人との比較検討を行っている。

 物語の登場人物として形象される場合、宝石を(この時代で言ったら「衣」「扇子」か)当てはめるかのように、アイテムとして表現的引用をしつつ、同時に抜き差しならぬ領域まで内容上の――構造的引用をする。だからやっかいなのだ、「2コ=線」の引用の検討は。「1コ=点」と同じメソッドで行って、事が正しく行われるとは思えない。

 ではさらに「仮に」である。

 源氏物語に登場する「女」たち――源氏が愛した相手だ――のそれぞれに引用論を当てはめたとして(漢文だけにとどまらず)、それを総括して浮かび上がってくる「総合引用小説」「総合引用体系」としての、源氏とは、いったい「何」であろうか? おそらく、源氏のカオス性を論じるには、このような問いの立て方こそが妥当ではなかろうか。

 それに対する答えのひとつが「紫のゆかり」である。これは長恨歌=藤壷=紫上の、王道のプロットを主眼として持ってきたところに浮かび上がる論理である。

 と同時に、それに対するカウンター的反論として「源氏は単独の女によって成るものにあらず」の論理が出る。どちらかと言えばフェミニズム的方向から。よって源氏とは、「女の諸相」を分析せねばならない、と。(この問題をさらに押し進めていけば、やがて後期クリステヴァのフェミ論と道を同じくするのだが、岡崎読み直しのように、本小論では、そこまで射程を伸ばす必要と時間はない)

 が、わたし――ジェノ/フェノ・テクストの精査をここでは掲げている――の立場からしたら、自分で立てた二項対立ではあるが、このふたつを「論派」としてバキっと分けることもまた問題である。

 なぜなら「女の諸相」を描くために長恨歌を引用したともとれる。だが、長恨歌、あるいは大詩人・白居易のより深き理解のために「女の諸相」という視点を採用することで、実作しながら紫式部は学んでいったのだ、ともとれる。

 更に言えば、「女の諸相」という、いわば平安女性のケーススタディともとれる「源氏の【女】たち」、彼女たちこそ、物語のシニフィエ規定するためのシニフィアンであり、そのゆえに登場――否、当時の「女」なるものの諸相、からサンプリングされて引用されてきた存在なのではないか?

 話の射程がやはり長くなってきたので、ここで置く。

 わたしが主張したいのは、「総体をこそ!」である。個別特殊解の論派のドグマは、森博嗣の説く学問の王道(ロイヤルロード)として、麗しくない(「喜嶋先生の静かな世界」)。ロイヤルロードは、勇者が歩む厳しい道なのだから。学際的であれ。常にではなくとも、その視点を忘れるべからず。おそらくそれこそが、カオスとしての源氏の理解の近道なのではなかろうか――

 

 いかがだろうか。駆け足のレジュメめいた議論であるし、強度も足りない論考であるが、貴君らにはどう写るであろうか。

 

 では、モードを変えて、次章では、我々「ひと」が、いかに先人や時代状況、社会状況を乗り越え難いか、のケーススタディをお送りする。