残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

2016/4/29 APOLLO MUSIC AREAライヴレポート

鉄は熱いうちに打て、兵は神速を尊ぶ……ということで、今日行われたライヴレポートを書きます。

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参加アーティストは、

霜降り猫

土曜日と人鳥とコーヒー

ミズタアイコ

という、関西・神戸勢の遠征ライヴでございます。

 

●そもそもなんでこのライヴ聞こうと思ったの?

 

自分は、以前、大阪のポストロック/シューゲイザーシーンにとても興味をもったことがありまして。

それはこのブログでも何度か書いております(一部記事が、今ネット上にありませんが、追ってまたサルベージします)

modernclothes24music.hatenablog.com

 

また、このシーンのライヴにも、大阪まで参戦しにいって、見てきたこともあって。

(ライヴレポはこちら)

modernclothes24music.hatenablog.com

 

で、このライヴで、実は土曜日と人鳥とコーヒーのベーシスト、氏家(うじけ)氏とお知あいになれて。そこから、土曜日と人鳥とコーヒーを聞き込んで、こういうレビュー書いたり

で、去年も、土曜日と人鳥とコーヒー(どよぺん)は、島根に来ているのですね。霜降り猫と一緒に。霜降り猫のバンドメンバー氏の出身地ということで、凱旋ライヴを、松江カノーバでやりまして。それも見に行きました。どよぺんと霜降り猫は、シューゲイザーと、轟音オルタナ、というふうに、またジャンルや音世界がかなり違うながら、仲良く、しばしば対バンしているそうです。このときのライヴも、両者鬼気せまるものがありました。

そこから一年。今回も、この関西のポストロックの雄は、島根にきてくれました。っていうかねぇ……こういうのはすごくありがたい話しで、だいたい島根って、アーティストのライヴがスルーされる地域なので。鳥取のほうがバリやりますよ。

それだけ、このバンドたちは、地続きの、手渡しのライヴを大切にしている……現場感覚のミュージシャンだということなんですな。

 

●ライヴレポのまえに

 

今回、久々に音楽について書きますが、まあちょっとしたことがあって、このところ1年ばかり、音楽について語ることをやめてきました。封印っちゅうか、筆を折ったというか。もう「作り手」になったこともありますし、過去のミスっちゅうか過ちっちゅうか出すぎた真似というか、そういうあれこれが、ぼくの心のなかでいろんな形をとって、ぐちゃぐちゃしていて、音楽を素直に語ることができなくなっていました。

 

でも……先日のM3でも、今回のライヴでも、やはり良き音楽は良き音楽。そういうものを、素直に言語化することが、自分にとっての、またひとつの喜びでもあった、と今再確認している状態です。

というわけで、素直に書こうと思います。筆を、今一度。

 

●ミズタアイコ

Discography

↑音源はこちら

 

このアコースティック弾き語りの女性シンガーは、今回始めて聞くひとでした。どうくるのか、という期待というか、疑問がありました。この面子とくるんだから、変則チューニング&ループシステムを使った、フアナ・モリーナ/アルゼンチン音響派的なのでも驚かないし、テクニカルタッピングを駆使した技巧派でも驚かない。

しかして、今回ミズタ氏のスタイルは、ストレートに歌を響かせる、至って王道のシンガーソングライター弾き語りスタイル。余計な仕掛けなしに、ギターと歌だけ。

で、実際聞いたときも、特殊奏法とかもなく、普通の弾き語り歌唱スタイルなわけです。しかし、退屈はせず、どんどん聞き込んでいきました。

理由としては、まずギター・ストロークの強靭さ。いやぁ、ホネがありますね。流麗、というよりも、ゴツンゴツン、ガシッガシッと響かせるギター奏法。そのダイナミックさにパワーを感じます。

と思いきや、歌唱も基本ストレートなのですが、「歌詞の主人公のキャラ」を忠実に再現する歌唱であります。どういうことかというと、裏切られて、弱弱しく嘆くキャラの場合は、その通りに、「うた」としての強度を捨てても、本当に嘆いて泣きそうな感じに歌うのです。このヴォイシングは達者だなぁ、と思いました。

しかしそれも、すべてはギターや歌を通して、歌の「世界」を表現するため。メッセージ込みの世界観を表現、っていったほうがいいかな。一つの短編を読んでいるかのような感じすらありました。そういうことでいえば、アレンジも達者なのですよ。ギターの低音弦をでベースラインをぐいぐいやってくとことか、「うーんこういうの好き」って素直に思えます。

3曲めから5曲めからのたたみかけは、ロッキンでありながらストレートアヘッド、閉塞感はないけれど、しっかりシリアスでダイナミック。とくにラストの曲の「一歩も後に引かんぞ」の勢いは、心に残りました。やはり弾き語りは音楽の基本にして完成形よ! そこに物語性ものれば……!

 

●土曜日と人鳥とコーヒー

 

音が……揺れる……幻想の光……。

昔、ぼくはこのバンドのことを、「轟音版the cure」って言ったのですが、それはどよぺん側にもウケてくれたようでw そのような、独特の白昼夢めいた耽美性をもったシューゲイザーバンドです。

そしてやはり自分は2曲め、「ニーナ」で泣く

youtu.be

この郷愁を深く琴線をゆさぶるメロディ、コーラス、ギター。「もう取り戻せないんだけど」という白昼夢の幻影!

音がたゆたっている、yuki氏の高音voと氏家氏のコーラスがあいまって。ていうかイントロからして泣くねん。「うわぁもう泣くぞこれ」っていう。

そこから轟音

ビリビリと服が振動する!(大マジ)

今回、前回のライヴを踏まえて、身体にちょっと楽をさせるために耳栓を持ってきました。これが役に立った……。ずいぶん身体が楽でした。まあときどき、マゾヒズム心が首をもたげて、耳栓外してみましたが、耳がビリビリ!

音楽の風圧である……。しかし、今回、ドラムが交替、ということになりましたどよぺん。前任者であったミヤモト氏のドラムが、どよぺんのリズムと世界観を、アンカーのように固定するものであったら、今回のイサノ氏のドラムは、全体を保ち構築しつつ、前へ移動さすような、そんな感じの変化がありました。

そこがより顕著だったのは、三曲め、「mahāparinirvāṇa」で、この曲はどよぺんのなかでも、長尺ノイズインプロがある曲。でも一瞬たりとてダレなかったのは、リズム隊がかなり動くからなのかなぁ、と思ったり。今回のノイズパートは、いつもに比べかなり長かったですが、変幻自在の妖しさはそのままに。

んで、最後。4曲目……

あの、ライヴ始まるまえに、ぼく幸いにも、どよぺんメンバーとお話しする機会があったのですね。そこで、氏家さんが「Boris聞きましてね」って話をされて。「Borisの轟音のあとには、今までの轟音の大きさじゃ満足できない」って氏家さん、語っておられました。こ、これ以上音でかくなるんかい……とおののきましたが。

そして4曲目で、……リフ?ロッキンなリフ? そして疾走!轟音!

た、たゆたってない、音が!轟音は轟音でも、直線的に突き進む轟音だ!ぶっちゃけ俺いつ「キルミスター!」って叫ぼうかと思った(やらんかったけど)w

どよぺんの新機軸であります……しかし、やはり轟音の申し子よ、このストレートアヘッドな轟音もモノにして、鬼気迫る。今までの幻想たゆたいこそないものの、この勢いは良しっ!モグワイだって疾走もあればたゆたいもあるでしょうっ!

そして、感極まったのか、なんと最後に、暴れるギターとベースが、そのままの勢いで、ガシャーン!とそれぞれの楽器をぶつけ合う! おいおい、どよぺんってそういうキャラだったかいな!wダイジョブかおい。

とまあ、最後、狂乱するどよぺんでありました。こいつら獣を心のなかに飼ってるぜ……。

 

霜降り猫

 

このバンドは、

www.youtube.com

オルタナらしいキレキレのギターに、柔軟なリズム隊、というオルタナギターロックの王道ながら、メロディには歌謡センスを堂々と取りいれる(節回しが歌謡クサいんじゃなく、歌謡のウェットな音の質感を取り入れる、って感じ)、激情を主とするスリーピースであります。

このバンドも音がでかい。やはり俺は耳栓をする。が、テレキャスターとベースの絡みが、よいのよこのバンドは。変拍子キメをやっても安定感がすごくて「イェア!」って感じだし、ドラムは常に安定しているし。

また、ベースがバキバキに動いたり、それでいて結構歪んでいたりして、素直にかっこいい。そこから、テレキャスターが暴れる!怒涛のノイズギターインプロをかましたり、バキバキのカッティングをかましたり!

途中、「静かな曲やります」っていいましたが、静かじゃねえw しかし、激情一本なパンクではなく、叙情をこの曲ではしっかりと描いてくれました。上にあげたスタジオ音源では、線細いのかな?と懸念するかもですが、ライヴでは音域全方位にぶっとい音をかましてくれます。っていうか、スリーピースとは思えん音の厚みだ……。

なんといっても、絶対に後には引かん、的なサムライの意気込みがすごい。トリということもあるのでしょうが。会場もノっておりました。ステージングも、モニタースピーカに足かけて動きまわるので、派手。

ミズタ氏とは違った形での王道でストレートですが、やはりこういうバンドはヘタにテクニカルでごちゃごちゃやるよりも(実際は結構テクニックかましてますが、基本精神として、ね)衝動と激情と不退転でGO!って感じでストレートにやるのが一番ですなぁ。ロッキンですなぁ。

 

●久々のライブでよかった

 

三者三様……!

まさにその言葉が似つかわしく、それぞれのキャラがまるで違いますが、どれも音楽性がシリアスでストレートでロックしてるので、こちらも「聞くぜっ!」と思わせるライヴでした。

やっぱり、こういうふうに音楽聞くといいですね。そんで、自分はやっぱりポストロックが好きなんだな、と思わせてくれるライヴでした。よし、自分も自作曲をがんばろう、創作がんばろう。そういうふうに、健全な力を与えてくれました。

あとは……やっぱ、ぼく30歳なんですけど、やっぱこれからライヴいくときは耳栓もっていこうw(こんなオチ

 

ネットコミュニケーション個人史

前々回と前回のつづき。

modernclothes24music.hatenablog.com

 

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とはいっても、今回は、以前の記事のような負のアウラだだもれ、ということもなく、淡々とネット個人歴史と、それにまつわるネットユース、ぷらす個人の意識の変遷を語っていきたいと思います。

 

時系列順に書いていったほうがいいと思うので、さくさくと。

 

ゼロ年代前夜

 

だいたいぼくがはじめてネットに検索打ち込んだワードっていったら、「カードキャプターさくら」についての情報でした。ああこの時点でいろいろとお里が知れるぞウィンドウズ98se。(なつい!)

しかもグーグルじゃなくて、トップページだったMSNで。その当時はYAHOOって名前は聞いたことはあっても、具体的に何をしてるとこか、っていったらワケワカメで「なんか新しそうなことしてる!」っていうのでしたな。

ああそうそう、CCさくらの検索結果でしたが、何をトチ狂ったか、MSN検索は「CCさくら女装コスプレページ」をたたき出しましてな。うおーいこれはいったい何なんだ、目の前のディスプレイから映し出されるは、CCさくらのオッサン女装。そこから、「ネットってやつは、どうも現実世界とイコールじゃないっぽい」というのは肌身で覚えたというか。あるいは「リアルの奇妙な乱反射がネットなのだ」というふうに覚えたというか。

 

というか。

そもそもネット=電脳空間、というのが、パラダイスで平和でユートピア、というもんじゃない、っていうふうに思っていたのは、大清水さちの「ツインシグナル」という漫画ででしょうな。

ネットにはアングラもありーの、カオスもありーの、といったものだ、ちう固定観念がありまして。

 

そういういろいろを経て、ネットに対する固定観念は、わりとはじめに出来上がって……たちの悪いことに、それが対して間違った固定観念でもなかった。とりわけゼロ年代前期までの「ねちっと、じっとりしたネット」では。

 

テキストサイト

 

まあ侍魂とか。

考えたら、この侍魂でも、エロゲについて語られていたんですな……。それだけ当時のネットでは、エロゲが「共通テキスト」になっていた、というか。まあそれも葉鍵ゲー限定かもしれませんが。

今考えたら、大体の個人サイト所有者は、エロゲをやっていたと思うのですが、「ものすごく手を広げて」エロゲをやっていた、というのとはまた違う、というふうに思えます。葉鍵ゲーを中心として、萌えゲーだったりシナリオゲーだったり。というか、あからさまな萌えゲー、と、ドシリアスなシリアスゲー、というのが未分化だったというか。端的に例を述べれば、萌えゲーやってても、だいたいひとつか二つは、ルートで結構な鬱傾向にあるシナリオがあったり、とか。

当時は、もうエロゲも成熟していた、という認識……そうか、当時からもうあったのか、「エロゲ衰退議論」は……。まああったのですよ。そのなかで、自分にあったエロゲを皆探していましたね。

テキストサイトの話しから、一気にエロゲの話しになってってますが、この「自分で探していく」っていうのが、当時のテキストサイトの管理人たちの流儀でもあり、またユーザの流儀でもあったかと思うのです。今のように「なんとなくのアトモスフィア」が絶対的になってなくて、商業的なアレコレも……まああったけど、今ほど支配的ではなかったかと。

だからこそ、当時あれほどベンチャー企業的にぼこすこ新ブランドが出来てって、というか。

 

テキストサイト……テキストサイトとは、なんだったか。少なくとも、今のブログブームであるとか、ブログ飯であるとか、ブログマネタイズであるとか、とかはまったく違うものだったかと。

 

・だいたいわかってきたぞ

 

ぼくもぼくで、当時のネットが懐かしくてしょうがない、って類のひとみたいです。だからといって、今のネットで育んだ付き合いとかっていうのを、当時よりも低きにおく、ってことは絶対思ってませんが。(そう見られてしまったら、それは誤解です)

というか、当時のことをこれほど思っているのは、ひとつには「当時からの付き合い(10年近い)のあるサイト管理人さんがいる」からで。同じ境遇を記憶しているひとがいて、そのひとが今もネットで息をしている、ということは……ある意味で「自分のネット史」を知ってる、というか。自分もそこにいたんだよ、ってことの証、というか。変な話ですね。

たしかパスカルがいってたのかな、「モンテーニュの時代では、世の中にどんな本があって、どんな学問ジャンルがあるのか、ほとんど把握できてたけど、今はそんなことはとーてい無理!」っていうのは。

パスカルの時代からより、よりとんでもなく時代を経ている我々にとっては、じゃあ今ってどーなのよって話でw

でも、今のネットユースを考えて……「これはネットのなかにある情報だな」「これはネットの外にある情報だな」って、区分けて考えることって、ぼく、もう出来なくなりました。なんかネタを振られても、ネットをしっかり検索すればだいたいは出てくるでしょうし、それでも骨子の部分はネットには改ざんして書かれているでしょうし……くらいのことしか言えなくなってしまいました。

昔のネットユースでは、どこか「全能感」みたいなものがあって、広大なネットフィールド、といえども、その「最果て」というか「だいたいの国土」みたいなものを皆把握していたと思うのです。その中心が2chだったり、有名テキストサイトだったり、で、案外全体国土ってもんは狭かった。もちろん、最深部というとこは今も昔もあって、その深さたるやとんでもないものですが、その「最果て」の深さは皆「全部」を知ってるわけではないものの、「最果て」があることは知っていたり、とか。

というか、「最果て」がすぐ自分たちの裏っかわにあった!的な発見もまた、当時のネットユース的なものだったかもしれません。まあその原理は今も変わらないわけで、ネットまとめサイトが「【速報】ネットの片隅でこんなサイト発見wwwwww」系の「最果て」サイトのこつこつした更新を、一気にあざ笑う、みたいなパターンは今もあるわけで。

ただ、その「最果て」を「今から生み出そう!」という気概はすごくすくなくなったかなぁと。見出すのもね。

 

・ああそうか、なんでこういうネットユースを語りだしたのか、ぼくは。その理由

 

自分は自分なりに「最果て」に対する憧れがあったのですな。

最果てサイトの管理人は、とくべつな人ではありますが、同時に「自分たちと地続き」の人間でもありました。だからこそネットをやってる、という論法で。

10年続ける、ということは、言葉では簡単ですが、やるのは至難のわざ、ということをこの歳になってしみじみ思うわけで。

じゃあいまからしろよ!の言葉はまったくそう、で。しかし……今から身体とネットの組成を組みなおす、というのもまた難しく。

 

twitter以後

 

twitterで語るひとが増えて、そっちのほうが主流になってって。というと、個人サイトとか、コメ欄とかで議論する、って方向が減っていって。

それを嘆いているのかな、ぼくは。そういうふうな「嘆きの物言い」をぼくは否定していたけど。そもそもサイトコメ欄における長文やりとり、ってもんが「最善手」ではないからこそ、twitterが出てきているわけだし。

それでも、どうしようもないほど、かつての長文やり取りが懐かしくなってしまうのは、なぜかな。

そのときは、「俺vs管理人」っていう、ある種の錯覚があったのかな。でも、これを錯覚と呼びたくはなくて。……これは錯覚ではないだろう!

もちろん、twitterで、「俺vsフォロワー」の関係性でもって、お互いの文脈を戦わせることもあります(それはバトル、というよりは、やはり「議論」でしょう)。ただこれも、だいたいの場合が「袖触れ合うも一期の縁」みたいな感じで、刹那といえば刹那。でも……考えれば、長文コミュにしても、同じく刹那、でありましたよね。

 

そうか、またわかってきた。ようは、ぼくは弱くなったのだ。自分がオタとして屹立した観念をもって、意見をもって、「俺はここにいるんだ!」ということを、あの当時は発していた。それが、SNSでもって「まあ、みんな、ここにいるんじゃね?」って感覚が普及して、前みたいに「この一期一会の関係性だけど、俺のオタクとしての意見を、この際だからぶつけさせてもらうぜ!」っていう刹那の暴力にも似た、長文コミュは、薄まって、薄まって、というものかもしれない。

 

まあSNSというのが、そういうふうに「コミュニケーションを薄めて(馴れ合い化さして)、偏在化さす」……いつでも、どこでも!というふうな方向性のものなのだろうから、この「長文議論コミュ」っていうのが、時代の仇花としてパッと咲いて散った、っていうことなのかも。

 

でもなぁ。

やっぱり、自分の場ってものは、そっちにあった、と思うのが、ぼくなのですよ。だから、こんなに3回もブログ記事をこしらえて、当時を懐かしがったり、当時のひとたちから嫌われることを恐れたりしている。

 

ネットコミュニケーションとエゴのこじらせ

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前回の続き。フーハハァ眠い!眠いが、なんか書きたくなってしょうがないので、書く。自分はなんでネットをし始めたんだっけ、と思ってしょうがないから。
自分はなんでネットをしたんだっけ。そりゃ最初は……もう12年か……最初は「新しいものだ!」「最先端がコンピュータだ!」っていう概念があったさ。そのうちにアングラへの興味っていうのがありましたね。そこからエロゲ/オタ文化へ一直線でしたわ。体系だった把握までは無理でも、「なんかここに可能性があるらしい」ってことは感じていました。


そこから、いざほかの人とコミュニケーションをとってみる、までに、時間がかかりました。自分にとってネット上の人々っていうのは、コンテンツ作者も、レビューサイト管理人も、サイト掲示板常連も、みなひとりひとりが、「舞台にあがってる人たち」の感覚があった。役者さん、というか。自分がそこに入っていっていいのか、の感覚。


だからROMが長かったネー。その間、結構自意識をこじらせてしまっていた。で、自分がネットにはじめて書き込んだとき……そのときの内容はともかく、テキスト表現が、実に痛々しい。「神!」とかってやたらと使ったりして……。


ようは、自分と文章と他者、との距離感がつかめていなかった。


それは今はどうか、というと、まあ多少は「慣れた」といっていい……とうか慣れなきゃ、おまえ12年間なにをしてたの、っていうか。
ただ、過敏症にはなった。こじらせがよけいひどくなった、というか。ああ、じゃあ、自分はネットをよき方向には使っていなかったのか。そうじゃない、そうじゃないんだ、自分はネットでよき人たちと会うことができたんだ、いささかなりとも孤独から脱することができたんだ、可能性ってやつを、広がりってやつを得ることができたんだ。それは嘘じゃない。


ただ、その可能性と広がり、を、自分自身の手で、より開拓していく方向……自分自身を表現していく方向、に、もっといってもよかったよなぁ、と今ちょっと思う。
まあ自分のこれまでなんて、なるようにしかなってこなかったのだけど、それでも「もうちょっとなんか……」っていうのはある。ネットは自由だという思いをもう一度取り戻せ。何がインターネット生態系だ。ネットのしきたりだ。空気ってなんだ……ネットにまで空気か。


あるのは、古きネチケット(この言葉を使うのも久しぶりだ)。それだけで十分だと思う。それさえも十分に守れていないのが俺なのだから。俺はそこに立ち返れ。そして、井戸端会議の参列者にだけなってるのをやめろ。


ふと気づいたときに、自分の好きなコンテンツの「語り」の場を、ためすすがめつして見ている自分。それはそれでいいものだ。自分が好きなものを、同じように好き、と語り合っているひとたち。自分よりも豊かな表現でもって、以外な表現でもって、好き!を語り合っているひとたち。そのひとたちはぼくにとって眩しかった。
彼らにも彼らなりの人生はあるのだろうけど、自分(ぼく)のよーな他人にはそれをビラビラと見せない強さが彼らにはあった。ただ「好き!」を語っていた彼ら。


今のネットは……いや、今のネットユースがどう、といってもしょうがない。キヨラカに、マネタイズになってってる方向をいってもしょうがないし、向こうもこっち(ぼく)には興味があるまい。
反発しあう磁石のように、強烈な違和感どうしが語り合っても……。
ぼくは、ぼくのネットコミュにケーションを、もう一度考えなくてはならない……ということもなく。
ぼくと語ろう、としてくれてる方々を、てきとーにあしらうようなまねだけはしたくない、ってだけだ。ぼくはそのようなことを訓戒しなくちゃならんまでに、墜ちたか。


なんでこんなことをウダウダ書いてるか、というと、やっぱりリアルでこういうことをウダウダ考えているからで。文体も論理もかなぐり捨てて、とにかく思ったことを吐き出す。韻律(ライミング)も語彙も気にせずにとにかく書く。書くということに己がある。己の限界は、今このようにして書いてるものだけだ。それ以上に己はない。自分の可能性、ってやつも、このかかれたテキストにしかねえ。「もっとマシな自分」はない。「もっとコミュニケーション巧者な自分」もない。「テキスト巧者」な自分もない。「思想的に豊かな自分」もない。「表現者としての豊かさ」もない。ああ、今ここにしかない。可能性ってやつは、限界を見据えたところにしかない。そして今の限界は、まさしくここだ。もっと文章を練って、思考を練ればもっといいものができるって? 君はそうかもしれんが、ぼくは今こうやってジャズアドリブをするかのごとく、言葉を吐き出すほかねえ。息(ブロウ)を吐き出してメロディらしきものをつかみ取っては、それを自分だって、詐称するんだ……。


なんの話か。コミュニケーションの話だ。
まあもっとも、自分はコミュニケーションだけに全振りしているスキル人間をヘイトしているのは事実で。まず人格なり、そのひとの固有スキルなり、固有コンテンツなりがあって、そこからコミュニケーションははじまる。コミュ術なんて所詮は潤滑油だ。(コミュマナー=ネチケット、とはまた別ですよ)
そう、自分が固有コンテンツを耕しきれてなく、結果自分がどんどん墜ちてってしまってるから、ひとは……かつて和やかに会話していたひとたちは離れていったのではないか。
じゃあ、ネットが、SNSが悪いんじゃない。自分が悪いか。その自分の悪さに、自分自身が耐えられないというだけだ。


どうも自分は自分を攻撃するのが得意でしょうがない。テンサイだ。その攻撃の弁舌を、ほかのもんですればいいのだろうが、どうも自分にいく。自分を攻撃すれば許される、という論理。だけど最近はその論理も破綻して、ただ自分を殺せば、なんかよくなる、というふうに信じ切っているのだからこまる。


それでいて、自分の攻撃性を、つぶさに観察して、小説にでも仕立てることも……できず。攻撃性を、音楽に仕立てて、ひとを熱狂さすことも……できず。
ただ、こういうコンプレックス文章を、吐き出すようにして書くだけ。そこまで墜ちたひとを、過去の自分はどう思うか、ということもまた、考えても仕方なく……わかりきったことだ。

コミュニケーション。
そこに祈りも介在せず、いつしか「当然」もなくなってしまったこと。まあそのようにして鈍化した存在に自分がなってしまったから、生き延びられているのだろうが、それはそれとして、いつか仕返しがやってくる……違う。だれか、がそのように悪墜ちするんじゃない。自分が、自分を攻撃するタネをもっと拾ってくるだけだ。


文字が文字としてこの紙面を黒に埋め尽くす。そんなに怨念のなか生きているようになってしまったのか。生きてるのなんて楽しくねえよ。


なんつうか、自分が自分であるだけで、自分を肯定できたら、ってほんと思うよ。
そうじゃないから、自分が何かをつくらないと、自分を肯定できない、って信じ込んでるから
そして、だから、作る手が、止まる。止まったら、よけい自分を攻める。攻撃。否定。そんな自分。
自分は自分にこだわりすぎてる、ということだ。もっとエゴを離れろ、結局エゴは作品の出来を損ねる。
そうはいっても、自分を動かしてるのはエゴだ。何かの奉仕として生きたい自分もいるけれど、それは結局肥大化したエゴの裏返しだ。それは俺が一番よく知ってるよ。
もうこんなエゴなんていらない。石炭のように、くべてしまえばいいのだ。そして表現のスチームエンジンをわかせ、なんでもいいから作ってしまえ……。もう考えたくない。考えたくない。考えたくない。
「若さ」なんて、もうないよ。気づいたときには失ってたよ。あるのは、「これまでの惰性」という慣性上の動きだけだよ。そんなベクトルだけの存在に墜ちてしまったのかよ。
誰を愛することも忘れ、誰を大切に思うことも忘れ、ただこのようなポエムにだけ自分を託して、これなんかが自分の限界で……ひどい。


疲れたので、また今日はここで記事書くのやめる。こんなの書き続けて、どうにかなんのかな自分は。ああ、また自分のことを考えている……

twitter以後とで変わっちまったネットコミュニケーションとぼく

いやtwitter使ってるわけなんですけど、これやってて、或る程度のひとと疎遠になったかなーって思うことがあるんですよね。
なんでそう思ってしまうのか、というとぼくの人格の弱さだっちゅう話しだと思いますが。まあ自意識過剰というか。
もっと個人対個人、でSNS抜きにしてやってたときの付き合いのほうが、平和だったよな、と。そのころに付き合ってた方々とも、今付き合ってるわけですが、今の自分(ぼく)を見て、「あああいつ変わっちまった」「あいつとはちょっと距離置こう」と思われてるんじゃないか、っていうことです。

どーにもtwitterが使いやすくてこまる。こういうふうにブログで書いたほうがいいよなことも、ヴァンヴァンtwitterで書くもんだから、余計にtwitterの中毒アデクションとなってしまって、もう抜け出せないアヘンアヘン。
最初はこんなんじゃなかったと思います……ってtwilogで振り返ってみたら(だいたいtwitter使い始めのころから、twitterログとってあるのでこういう形で)、まあ最初のほうからtwitterで長文で誰にも読まれないようなことをガガガーと書いているのですからまあ俺の世話はない。
ただ、どこかで「TLの話題に即して話す」ようになりましたな、長文で。

それを所属クラスタの変化と読んでもいいのでしょうが、まあぼく自体は変わってない……とはいえず。ある程度変わっていってるわけです。それをぼくのほうを向いて「お前は変わったよ!」といわれるのが怖いって側面はありますな。
どの道自分が変わってってることは、多少織り込んでもらいたい、っていう点はあります。まあ自分と付き合いが長いひとに対しては、とくにそう思うっていうか、そう思うひとと「より、よりこれからも長く深く」付き合っていきたいなぁ、と。即ち「自分を理解してくれている」ってひとですね。そういうひとには、おりこんで話を聞いてもらいたい。

でも、そういう人(自分を理解してくれている人)って、twitterをやりはじめて、twitterのフォロワー的なほうで増えたかっていうと、これはtwitterのなかで完結していると思うのです。

そもそもネットで、自分を理解してほしい、っていうほうが間違っている、といわれたら、そう。
趣味の話しをするにしても、趣味に対する自分の好悪と深度を語るのみで、お互いが依存しあうような感じになるのは絶対に違うと思うし。
そもそもテキストだけですからね。

それが、時折ふっと、深い交流になってしまう。なってしまう、というか、そういうふうにしたのも自分だろ、というか。
テキストだけだから、そもそもがディスコミュニケーション的な文筆交流、っていう話は成り立つと思いますが、そのテキストを操っているひとは自分ですからね。人間です。だから、時折、深い方向にふっといっていまう。

これが、人間の心として、弱い方向、っていうふうに言うことも可能なのかもしれません。というか自分自身がそういうもんだし。
ええと、何の話してたんだっけな。そう、ネットで友達をつくることのそもそも的無理性、というか。twitterだと余計無理性、というか。

手段はなんであれ、ふっと「深く/弱く」の方向にふっといってしまう、っていうのがネットだと思います。ただそれはあまりに衆人環視の場、ではなく、或る程度クローズドの場でね。個人サイト・ブログの掲示板/コメ欄とか(常連さん、ってやつ)、twitterだったらDMとか。あるいはメールとか。

そういうことをかさねていても、一向に「こいつわかんねえよ……」があるでしょうし、「あれ?こころが重なった?」ってことがあるかもしれない。でも、基本は「ネットコミュニケーションは無理ゲー」と思っておいたほうが、ダメージは少ない。そもそもダメージの過多で人生を語ろうとするひとは、ネットなんざするんじゃねえ。

まあ自分のダメージならいいんですけど(よくはないけど)、問題は村上春樹もいうたように「他人にダメージ与えてしまったらどうすんか」ってとこですね。これはキツい。自責の傾向にあるひとにとってはこれもきつい。ていうか自分のことばっかりだなこのブログ記事……。

そうそうtwitterとコミュニケーション、ネットとコミュニケーション、の話し。
シロクマせんせid:p_shirokuma)が「いくらネットでコミュニケとってても、或る程度リアルでコミュニケとってないと危険」ってことをどっかで書いてたように思うのですが、それに対して「テキストは超えるのだ!」っていうふうにイキがって反論したく思いながら著書とかブログを読んでたのですね。でも今になって、「ネットって限界があるよなぁ」と改めて思うようになったのは、それだけネット・ナマキズが増えたからか。

なんつうか「ネットで険悪ぎみなことになっても、リアル、もしくは或る程度クローズドな場で話しこめば、多少の議論の険悪なアラは見逃してくれるだろ」っていう、ダメな信頼があって。
おいそこに信頼おくべきじゃないだろ、信頼ってそういう、低きに流れるっていうもんだったか?っていう疑問があって。でもそういう疑問も、どっかにいつの間にか流れていってしまって。
もっと「あいつだったら、もっと高みに上っていけるぜ!」っていうことをぼくだって語りたいし、語ってほしいですよ。馴れ合いとかじゃなくて!

そうか、twitterっていうのは基本馴れ合いだったな、っていまになったら思うわけで。
ひとつの話題と無数のレス/RTでもって世間が構成され、気の利いたことひとついえればポジショニング、みたいな。
それが原則だったね。そこから「真のコミュニケ!」ってやつを求めるほうがなんかトチ狂ってるというか。というか真のコミュニケってなんだ……。

こんなに自分、ネットに固執する人間だったかなぁ。コミュニケーションに期待したり固執する人間だったかなぁ。模型だけ作っていればOKだった少年時代はどこにいったよ。それをコミュニケーション人間的成長、っていえようか。いえないなぁ。ハードボイルド成分が足りんよ。

弱くなったな、自分も。それだけ自分のなかに他者を入れるようになったか。
固形的だった自分というのは、そうやってジブンが希釈されていくのだ。
果ては、「みんな」の目を気にして、自分では何もせんほうがいい、みたいな哲学をつまびらかにしてね、そんで過去の自分が大笑いして侮蔑してるのにも気づかず、日常に埋没していってね、そんで何も出来なくなっていくわけさ。当然世間の奴らはそういう俺を笑う。

あー、なんだろう。
なんだろう。まとまらないので、ここで記事終わり。

twitter小説のこととかも書こうと思ったけど、疲れたので。

たいきさんのSQLで自分のエロゲーマー的異端を計ってみる

立ち寄らば大樹の陰 【エロゲー批評空間】ユーザー指定での「得点-中央値」一覧表示SQL

 

↑今回のネタ提供してくだすった、たいきさんのブログ。

 

 

エロゲー批評空間では、有志によるSQLプログラムが書かれています。
ようは検索機能の拡張キットというか、データベース作成の拡張キットというか。

そこで、とある解析漢(GUY)が、本日新たに時の声をあげた……!

その漢の名はたいきさんエロゲー批評空間id、かつ、twitterID taiki_VA)。
かねてから物語の解析的読み込みで界隈を唸らせてきた人物が、
今回
自分が批評空間(の一般的点数)よりも高評価している作品ってなんだろ

レビュアーの高/低得点作品の傾向ってなんだろ
という疑問に答えるSQLを製作してくれました。


●自分って変? レビュアーさんって変? の思い

別に、自分がレビュアーとして個性的たりたい、っていうわけではないですけども。
それでも、自分の個性、みたいなものを、数値として把握しておきたい、みたいなときに、このSQLは役立ちます。
「だいたい中央値(平均偏差値)これくらいだろう、このタイトルは」
「俺くらいだもの、このタイトルにこんだけつけてる人は」
……って思っていても、それらのデータが膨大になってくると、ワケワカメになってきます。
たいきさんも

>世間評価高い作品は上位にきやすいし、数が多いとそこから自分に合った未プレイ作品の発掘はしにくい。

と仰ってますし。

エロスケ偏差値・中央値がすべてではないものの、つい
「うんうん、80点台なら、結構信頼できるんじゃないの」
とか
「70点台……怪しいか?」
「60点台……これは”覚悟”が必要だな……」
とかって、エロスケ慣れてれば無意識に思ったりします。

そこで、信頼すべきは、自分と価値判断・思いを同じくするレビュアーさんで。
でも、レビュアーさんの「代表的な一作」は把握していても、そこから全作じっと追っていくとなると、案外ムズかったりするもので。

ぼくなんかは、だいたいお気にのレビュアーさんの長文感想全部読解!っていうふうにしらみつぶし型をします(だいたい、読み物が好きだし)。
まあそれもあっての、以前やった「エロゲーマー諸子百家」企画だったりしますが、それは余談だ。

ただ、まず「ぱっと見」として、そのレビュアーさんがどういう「偏屈さ」を抱えているか、というのは、わかりにくい。
まあ当然で、だからこその長文感想なのですし。


たいきさんは述べます。

>プレイ作品数多い方だとパッと見でどういった作品が好きなのか分かりにくい。

>90点台を見て自分が好きな作品が結構あれば趣味合うなと思うけど

 

まあそんな使いづらさも含めてのエロスケ道や……!というのもアレですしねえ。

 

くどくどいうのもいいや、やってみよう!

で、残響ので、でたのが、こんな感じ。

 

●結果

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とりわけ目立ってるのからいってみましょう。

はい出たー!魔法少女の大切なこと。」! それから「どこでもすきして いつでもすきして!」
C:Drive系列そんなに好きか自分っ!
その次のアトラクとのデータ数が、質も量もなんかいびつだっ!

……まあアトラクくらいの名作となると、基本これくらいのモンになるんですなぁ……。
それにしても、自分はこの2作に異様に執着……とりわけ「海原楓太」に執着してるんだなぁ、と。


C:Drive系列に加えて、SMEEもかなりランク。というか、自分同棲ラブラブル、こんなに高評価してたんだ……というよりも、同棲ラブラブル、案外評価低くね?
当時のイチャラブ界隈では、これ相当絶賛だったっしょ。
「所詮FD」の表れなのか、それとも周りの非いちゃラブユーザの冷静な眼目ってこんなもんだったか。

それを踏まえて考えると、「恋春アドレセンス」の高さが妙に目についてしまう。
これもか。これも「非イチャラブorバカゲー好き」以外は点が辛くなってしまうのか。

あと、「みずかべ」に関しては、当時にしてはデータ数少ないのはサモアリナン、といったとこだし、そもそも「ゲーム」としては相当ボリューム少ない……おのれっ!「ニューななみん」の破壊力だけでは……だめだったか……。

考えてみたら、自分は「イイイチャラブシナリオひとつあれば、それだけで高得点つける」って傾向にありますねこれ見ていたら……。

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そう、「こいびとどうしですることぜんぶ」も、「らぶでれーしょん!」も、ともにイチャラブゲーの古典にして名作なわりには、75、6点だし、中央値。
そこにこんだけ点をぶっこんでいるから、まあ自分のこういうイチャラブゲーの好きなこと……

以前、ほかのレビュアーさんとお話していたときに思ったんですよ。
そのかたはシナリオゲーがお好きなかたで。
……一向に交わらないんですな、お互いのやってるゲームも、点数評価も。
そりゃあ、自分がこんだけイチャラブゲーに点をいれてたら、それも仕方ないかなぁ、と改めて思いました……

しかしそれにしても、レイルソフト初期2作(霞外籠逗留記、紅殻町博物誌)よりも、「信天翁航海録」の点数って低かったんだなぁ……っていうか自分がバカみたいに信天翁にブッコんでるのが悪いのか、レイルソフト全体の評価がなんか下がってきているのが悪いのか……どんどんマニアック向けになってきている、と評すべきか……


それからね、やっぱ同人とファンディスクは弱いね、データ数。
そんで、こういうのでイチャラブを滅茶苦茶補充しまくってる、となると、自分の偏屈っぷりが見えるね!
ふぐり屋の「その花びらにくちづけを」シリーズとか、夜のひつじの「妹「お姉ちゃんクソビッチなんで~」」とかね!

 

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しかしまあ……エロスケデータ入力数の少なさ、といわれてますが、近年のゲームのデータ数は確かに少ないです。1000とか、今じゃ「サクラノ詩」くらいしかいってないんじゃないか?(未確認

そりゃあ自分だってサボってますけど、データ入力。自分がもってるゲーム、全部は入れてないもんなぁ。長文感想を投下するときだけだし。入力するの。
……そういうひとが、嘆いていてもしょうがないな。

 

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さて。お待ちかね。低得点(俺の)ゲームの紹介death。

いや~、最近の俺のバカ傾向がここでつまびらかにされたというか。
まずトラベリングスターズは、自分から突っ込んでいって自爆したから、しょうがない。というか、自分ばっかりが下げてるんじゃないぞ、この点数は。

「恋神」に関しては、エロゲーマー復帰したてのときに、「いわゆる普通のゲームやってみっか!」というふうになって、そんで試しにやってみたら、あんまり「ひ、ひっかかるもんがねえぇぇぇぇぇえ!」と愕然となって、こんだけ低い点数つけてしまったんでした。
今やれば「……まあ頑張ってるのかなぁ」と思えるのでしょうが、当時の「え、何、今のエロゲの凡作って、こんなヌルいの……」という衝撃が、この点数でした。このくだりについては、そろそろ論をしたてよう……。

「ユリキラー」。
ウーン、結果俺が10点も中央値下げているのかー、というふうに安易には捉えませんが、しかし……データ数すくねえな!
これだけだったのか、ユリキラーやった人……。

あー、それから、姉ゲーが二つ続いてますが、低価格抜きゲーで姉、という文句に踊らされたぼくが、見事にペケくらったのがこの2作で、「見事に求めていたものとミスマッチ」だったのがなー。

初恋タイムカプセル……。これは……実際に予約までして、見事に陥没してしまったもので。こんなのを立て続けにはやろうと思わん。というか、これもトラベル(略)と同じように、自分から地雷を踏みにいったもんだからなー……興味の或るひとは、このブログの検索窓から検索してみてください。プレイ日記書いてあります。


いやー、おもろかった。こういう振り返り。
自分は、とにかくイチャラブゲーが好きなんだ、ということ。
それから、同人はやっぱりエロスケ内では弱い、ということ。
低得点のなかにも、自分の点数の付けかたが苛烈だったものがあるということ。
ファンディスクの扱いの難しさ。

そんなことを考えさせられました。
ありがとうたいきさん!

百合フリゲー「Euphoric Create」かんそう

公式サイト

Euphoric Create(ユーフォリック・クリエイト)~トップ~

 

 

新年一発目の百合語りは、サークル「夢幻飛翔」さんが年末にフルverを発表した「Euphoric Create」(ユーフォリック・クリエイト)の感想文から参ります。

このゲームはフリーゲームです。内容は、公式から引用すると、

遠い遠い未来の物語。
DesireIn(ディジアイン)と呼ばれる想像を具現化させる薬の登場により
人々は他人との交流を忘れ、妄想に浸る日々を過ごしていた。
理想の幻想のみ見つめ、つまらない他人に無関心に生きることが常識となったそんな世界。
物語の主人公、弥生もまた、他の人々の同じように他人に無関心で
DesireIn(ディジアイン)で 妄想に浸る日々を過ごしていた。
胸に虚しさが積もっていくも、何も感じない日々。
そんな日々の果てに、弥生は千架に出会う。
こんな世界に似つかわないほどに活き活きとした生き方をする千架。
そんな千架に弥生は瞬く間に恋に落ちる。
そしてその片想いを成就するために生きる決心をするのだった―――

 

なんちゅうか、ガチのハードSFということもなく、またサイバーパンクということもなく。遠未来、と書いてありますが、描写はちょい近未来、くらいです。でも、これが静かなるディストピアだということは、開始直後からわかります。といっても、ネオサイタマみたいな完全暗黒ではなく、むしろ「安らかに、静かに、相互不干渉が完成されたディストピア」です。

ここでキーとなるのが、DesireIn(ディジアイン)という合法ドラッグで、これは「呑んだら妄想が具現化(人が手で触れること可能)する」というものです。たとえば、理想のイケメンがほしかったら、即座に妄想すれば出てくる、という。

これによって、いくつかの「人間的な、あまりに人間的な」ものが失われました。

・人間同士のコミュニケーションだとか(そばに居てくれる存在は、妄想すればいいのです)

・人間が自らつくる創作物・表現物とか(そんなのよりもカンペキな妄想があるのです)

こういった「人間的な、あまりに人間的な」ものが失われていった結果、どうしたか。すごく「ラクな世界」ができました。ひととひととがガチでぶつかり合うことのない、無菌で安全な世界。……という感じのディストピアです。

さてわれわれはこのディストピアを笑えるでしょうか。ぼくは笑えない。だってぼくは、ひがな「こういう軋轢の社会はもういいよ……」って思ってるからね。

それに、いろんな意味で、ストレスフルであるがゆえに、おのおのの「非社会」への依存度が高まっているのも、またリアル社会。そこから逃げたい人間がどれだけいる? いない、といえるのならば、新興宗教に逃げるひとの数を勘定してみてからいってみてくれ。

そんなわけで、この静かなるディストピアは、むしろいろいろリアルが面倒な今だからこそ、逆にキツい。

 

 

で、物語の主人公、弥生(やよい)は、そんななかで、典型的ヒキーとして生活しておりました。

……で、ゲームプレイしはじめて、いきなりビビったのが、リストの「愛の夢」が鳴り響くなかでの、弥生と千架(ちか)の対面シーン! 今回のヒロイン役にしてイケメン役の千架が、そっと弥生の頬をとって見つめる!それに陶酔する弥生! ああもうこの時点でこの絵づらのカンペキさ、ヤベエくらいのベタさあふれる選曲! 古典少女漫画やんけぇ! といわんばかりのツカミにより、この作者わかってるねえ!という認識をこっちにあたえてくる……これは百合ゲー、まごうかたなき百合ゲーですぞ!

 

物語は、最初は千架をリスペクトして、追う形で進んでいきます。

ある日ヒキー弥生の目の前に唐突にキラメキでもって現れた千架、そのきらめきをもっと知りたいっ!ってな感じで、彼女がつくるコミュニティにいざ出陣……

当初、ぼくは弥生がイケメン(千架)によって変わっていく物語、だと思ったのですね。でも、以外とそうはならず……というか弥生=千架、という狭い範囲で収まらず、文(ふみ)と桜(さくら)というタイプの違うふたりのサブキャラを配することで、さらに物語に奥行きと百合情緒を与えていきます。

この奥行きと百合情緒は、すなわちヒキー弥生が「イケメン弥生」に変わっていくところなんですよ! この作品のなかでぼくが一番点をつけたいとこはここだっ!

なんといっても、天然女タラシ! メインヒロインは千架なので、弥生は千架に近づこうという自分本位の思いで、コミュニティ内部の問題を解決してくのですが、そもそもヒキーがそんな大それたことできるわけねえ! 初期の弥生はキョドりまくりです。

ちょっと補助線を引くとすれば、弥生の服装はすごくモノトーン(青系)で統一されて、華美なとこがない……千架のようなコケティッシュさもない。むしろ文のほうが、典型的文型メガネ女子の文のほうが、まだおだやかさと開放感がある。最初からキツめの眼光と、ハードタッチ気味のロングヘア、そっして先のジミ服装ですよ。これが、初期弥生のキョドさをとても演出している。

……が、文の問題、桜の問題を解決していくことにより、このジミさが、「頼れるお姉さん」的な感じに見えてくるのですから、俺はもう親弥生派になってしまっている、プレイ中に。だんだんと「弥生はうそをつかない、だまくらかさない、嫌なことはいやという」タイプの実直さが作中で評価され、そのラインでイケメン度が上がっていく成長物語は、見ていてとても自然であると思いました。

そのアウトラインは、最初千架がいうてるのですが、

「何かをしようとして、蒼白になるほど悩んでいる→この他人に無関心なディストピア世界では、そんな美徳を持ったひとはいないよ」

って具合に。

そうとにかく弥生は悩む。はっきりいって、この作品の7割くらいが、弥生が人間関係で悩むってしろものです。でも、その悩み方は筋が通っていて、しかも逃げない。最終的に、地道で……ドロくさい、等身大の悩み方/解決の仕方をします。

たとえば文のこと。今まで文の問題は、コミュ内で解決すべきもん、といわれてましたが、その実、「あるひとつの問題」を解決する、ということに終始して、「ひとりの人間・文」によりそうことは今までしてこなかった、ということが文パートラストで言われます。これは、なかなか示唆に富む発言です。現象・事件としての解決では、ひとは救われない。ひとは、必ずほかのひとが寄り添って、手を取り合ってでないと、現象・事件とちゃんと向き合って解決はできん、ということです。行政や警察の人間見てるかっ!

 

また、桜の「創作」に関することもなかなかシビれます。先にも述べたように、創作の意味がなくなってるディストピア。だからこそ、ナマの生き生きさ=創作表現、でもって、人々の生気を取り戻したい、という桜。

ただ、そこで創作者特有の「嫉妬」がからんでしまう、という。もちろんイケメン弥生に対しての嫉妬ですよ。自分の創作がひとを変えられず、イケメンの誠実さがひとを癒していくさまをみて。ここはもうちっと「創作者のエゴ」という方面で掘り下げてもよかったと思いますが、しかし創作はあくまで一部分でしかない、ということですからね、物語上は……。で、結局はこの桜さん……超テンプレツンデレなんですな。作中で超絶のメタツンデレ発言をやらかしてくれるので、そこはぜひ見てほしい。

 

このあたりの、弥生がナチュラルな魅力を放って、成長していく、という描きは、とても率直で、よきものでした。ナチュラルに女ひっかけていくとこもな!w

 

ただ、メインヒロインたる千架をめぐる、後半部の雪美(せつみ)とのやりとりに関しては、ちょっと点が辛くなってしまいます。

いえ、「千架×弥生」がうまく機能していない、ということももちろんですが、まあ千架が雪美に惚れてる、というとこも、物語としてはおkなんですが。

しかし、ここからの雪美の計画を弥生が補助るにせよ、千架が補助るにせよ、どっちも悪手を踏んでるんですな。もちろん悪手を踏むからこそ、物語が進行していくんですが、ここで描くのが、これまでなんだかんだで「千架×弥生」が通低音として存在していた百合ものだっつーのに、後半部から「雪美×千架」にシフトする。

で……シフト自体も、実は問題はないんですよ。百合のパターンとして、まあ安直な表現出しますが「昔の女をどう振り切るか」のパターンですから。

でもそこで、「千架×弥生」のカプの存在感が、急激に失せる、というのはどうか、とぼくは思ったわけです。いづれ振り切られるべき「雪美×千架」を片付けながら、一方で新たな芽吹きとしての「千架×弥生」を描いてくれないと、ラストのあの印象的な「これからよろしく」の一枚絵の魅力が数割減ですよ。あの絵ほんっとーにイイんですからっ。

 

ようは、恋の永続感がどうもちょい弱い、ってとこです。

ここで「Euphoric Create」というタイトルのことを言及しますが、Euphoricは「幸福な」を意味します。幸福を作っていこう、というメッセージ。あるいは「幸福の作り方」というメッセージ。さて、euphoricの名詞形として、Euphoriaというのがあります。これは(一時的な)強い幸福感、という意味合いがあります。ドラッグを想起させますね。このあたりの言葉の両義性を踏まえて、この英語を使ったのでしょうが、永続感が弱い、となると、これは「一時的な強い幸福感」というところに落ち着きはしないでしょうか。

そこが惜しかったなぁ……という感想です。

さらにいえば、「千架×弥生」が弱い、ちうよりは、後半部の「千架のキラメキが弱い」「後半部の千架の堕ちっぷりが、キラメキとあんま対比させられてない」といえるかもしれません。

 

あとは、ラストの「幻想具現化バトル」ですね。……うーん、ここは……正直そんな燃えなかった。まあでも、基本的にドラゴンボールにおける元気玉、って感じなんですが、そこをバリ元気玉っぽく「絆っ!」って感じにならなかったのは、まあいいかも……。

 

 

後半部、くだくだいいましたが、それでも文章……というか、弥生が前のめりにしっかりと悩んでくれるので、文章は先に読ませます。

そう、ひたすら実直に弥生が悩んで悩んで、っていうゲームです。これは。

ラストは、後味がいいですよ。結局悪者はいなかったんだ、っていう。でも、千架のカリスマは、やっぱり「消えてはいない」とぼくは想像したいのですが。

まあこのあたりは、この世界観、シリーズものとして展開してくみたいなので、いつかはこのカプの後日談を見てみたい感じもありますね。

 

点数は、エロスケ換算だと、78点。

以外なほど、なやんでなやんで、って話なわりには、ダルさはないんですよ。それは、キャラの個性が実に生き生きとしていて、キラメキが見えるからですね。屈託を抱えながらも、弱さを抱えながらも、幸せの形、ひとと人との交流の形を模索し続けることに意義がある、っていう思いは受け取りました。