残響の足りない部屋

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日記10/18 新キャンプギア、AI絵と哲学と優しさ

●冬キャン・ギア(USB電気毛布)

先日のキャンプ記事の続きです。

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My New Gear……ということで、USB電気毛布です。いや、今週末行く隣町の山林キャンプ場なのですが、当日の最低気温を天気予報で見たら、どうも8~9℃っていうじゃないですか。寒いですね。現在冬はおろか晩秋までもいかずの秋ですが、どうも冷え込みが急。

冬キャンプの経験はございます。それ用の装備も、もちろん備えております。冬用のキングサイズ寝袋(わたくしの図体がでかいもので……)を使いますし、ホッカイロも持っていきます。服も冬用のを着ていきます。ですが、それでもまだ不安。一年ぶりのキャンプということもありますし。この不安がるビビリ精神は、キャンプというレジャーにおいては安全側の良い傾向なのでしょう。しかしそれでも、不安に苛まれるのはよくないですし、「準備をしとけばよかったーッ」と後悔もしたくない。

なので、本日ホームセンタでYAMAZENのUSB給電式電気毛布を買ってきました。モバイルバッテリから給電するポータブル・タイプです。今この日記記事を打鍵している最中も、試験的に膝にかけておりますが、あったかいナリィ……。これは「良い」ですね。寝袋の中にも入れられますし、キャンプ椅子に座る時のブランケットとしても使えます。冬に作業机でまんがを描く時にも使えます。これまで、冬、机と椅子で作業をするのは寒かった……(当然の理屈)

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先日、モバイルバッテリも大容量のを2個買いました。それまで使っていたポータブルのモバイルバッテリが、さすがに少容量で、キャンプには心もとなかったのです。長年使用しているので、供給電力にも不安がありました。今回、USB電気毛布もこの大容量が2個あれば大丈夫でしょう。

 

●続・AI絵の話

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この話題(AI絵)、いま私はほとんど追っていないです。それでも聞こえてくる話は、AIの進化が凄いみたいですね。

ところで、このAI絵でこんなに話題になる……ということで思うのが、「結局多くの人は、ご自身であまり絵を描きたくなかったのかな」ということです。たぶんね。

絵を描きたいというより、絵を「欲しい」という。結果としての絵をこよなく愛す反面、手段としての絵を愛せず……という。

その気持ちは凄くよくわかります。とくにそれが「絵が描けないコンプレックス」に基づくものだとしたら、私の同胞と申す他ありません。自分の画力の低さに絶望し、しかしそれでも絵が「欲しい」、というお話は、本当によくわかる。本当に、私の同胞です。自分の画力をスルーして絵を描くことが出来たのなら、それはどんなに夢の魔法かと。

たまたま、今の私は「絵を描くことを趣味に出来んものか」と考えて、現在絵の勉強をしています。歩みは遅いです。全然絵が上手く描けない。絵という「手段」を本当に自分は趣味として愛せるまでに育てあげられんのかい?と何度も思います。でも、自分は絵を描いてみたいのです。「絵を描く人生」を送ってみたい。

 

AI絵の問題は実は哲学の領域に足を踏み入れているのだと思います。

哲学者は哲学の問題解決を、他人まかせに出来ないのだ、と言う話があります。「俺(他の哲学者)がこの問題はここまで解決しておいたから、お前(哲学者)はここまでの思考をスルーしても良いよ」という訳にはいかない、という話です。

これで言うなら、科学は「積み重ね」が出来ます。「俺(他の科学者)がここまで考えておいたから、お前はここまでの思考をスルーしても良いよ」ということが成り立つジャンルなのです。「巨人の肩に乗る」ことが出来る。ところが、哲学はそうはいかない。

哲学者が問題を抱えるのは、その哲学者自身の実存に関わってくる問題である。哲学者自身が解決を導き出して納得せねば、他人にどう言われても、自分は納得しない。出来ない。例えるなら、「俺はカレーをここまで食べておいたから、君はここからカレーを食べていこう」と言われるのに等しい不条理がある……という話。

これに似たところが、私とAI絵を巡る話であるのです。焦点は「私が絵を描くこと」にあって、AIが絵を描いても、「私が絵を描きたい気持ち」は無くならないのです。いや、もっと渇いて、餓えることになるのだと思います。なぜなら、「私が絵を描いていない」からです。私がやらなくちゃ、渇きが満たせないジャンルがあり、そういう人間がいます。私であったり、あるいは世の中にもこういう人間がそれなりに居るはず。絵に執着する……呪われた人間が。

 

さて一般論。絵が描けない、という現実を突きつけられて、己の無力感というか、敗北感に触れることになります。これは、学校において勉強が出来ない、とか、運動が出来ない、とかと同じものです。たまたま、現代社会では「絵が描けない」ことが、人間性の否定とは結び付かないので、絵が描けなくても差別されることはありません。それが勉強(学問)だったらそうはいかない、という。

私は今でこそそれなりに本を読み、勉強をする人間です(と思う)。絵を描くにしたって、まず画法書から買い込みましたからね。でも、そうであるがゆえに、ある方面での優しさというものが欠如していっている人間だ、ということを、最近よく自覚します。

たまたま私は、絵が描けなくても良い社会で生き、たまたま私は、勉強・学問が苦ではないように発達した。しかしそれが故に、「勉強をするだけで苦痛、敗北感、差別感を味わう」人たちの気持ちを忘れていた。

私だって昔は、数学とか全然出来なかっただろう、と。たまたま大学時代に自分なりの勉強の仕方を覚えたから、独学で数学に親しむ今がある。そして、数学を苦手としなくなったから、かつての理系コンプレックス(アレルギー)を忘れようとしている。愚かだった時代、みたいに。

優しさがない。おそらく、AI絵を巡る議論にも、この私と同じように優しさがない。優しさの無い議論は、どうにも0か100かになりやすい。そこにコンプレックスとエゴが付与されると、もう蟲毒だ。

AI絵の議論に対して、私はたまたま「絵を描くことを趣味にしてみたい」という気持ちがあるから、自分自身が絵を描く理由はきちんとあるのだ、という立場になれている。そういう立場上、まだ精神安定は良い。自分自身で絵を描く勉強をし、作品を作っていれば良いのだから。

でも、「とにかく絵が欲しいッ!」という人や、「AIの方が楽に絵が出来てしまう、くくやしい……」という人、「AIに自分の仕事や存在意義が脅かされるッ!」と焦る絵師の話を聞くと、やはりこの問題と議論に、優しさが欠けている、と思う。そして私自身の立場がのんきなものかもしれない、とも。

答えは出ませんね。ともかく、「私は」絵が上手くなりたい、と思う。なんのために絵が上手くなりたいのか。絵で思考したい、絵で楽しみたい。絵で「自由」になりたい。それらは、私自身が描かなければ得られない価値なのです。まぁ、渇きや餓えを癒したい、と言うこの気持ち……絵の呪い。これを強迫的・焦燥的に解決しようッ!って考えるのも、また問題なので、長いスパンでもってじっくりと絵を学んでいきたいと思います(肝に銘じる)。