残響の足りない部屋

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酒を呑まない人生

私は今36歳で、自分の人生で、酒を呑まないことに決めている。

成人してからこのかた16年で、その間お酒を呑んだすべての総量を計算したら、おおよそコップ3杯になる。多めに見積もってコップ5杯か。これには養命酒などの薬膳酒や、料理酒の味見も含んでのことである。

お酒が「嫌い」というよりも……。まず、アルコールが喉を通る時のあの焼ける感じが極度に苦手だ、というのがある。しかし、そもそもコップ3杯も飲んでいない人生なのだから、もともとお酒で酩酊したこともない。だから、嫌いも苦手も、まだ判別できる状態ですらない、とも言える。

それでも、酒を呑まない人生にしている。自分の意志でそう設定している。

私の母方の祖父は、焼酎を良く飲む人間であった。その飲み方があまりよろしいものではない。飲んでは愚痴を言い、飲んでは気分が大きくなり下品になる。そして、祖父が来客をもてなす時は、当然酒であった。来客もまた祖父と同様になる。

要するに、良い酒の飲み方というものを見てこなかった私である。そうだな、私は酒の嗜み方、というものを、教育されるどころか、見ることすら叶わなかった。

これでは酒に対するイメージがどんどん悪くなるのは当然である。

 

ところで、酒を薦められることはないのか、と思うかもしれない。もちろんある。その度に断っている。私を知る人間で、私が酒を一口でも飲んだ姿を見たことがある者はいないはずだ。なにせ、実際に呑んでいないのだから確かである。

とにかく私は酒を呑まない。例外がない。

こうなるに至ったのは、ひとつは私の父君の影響が強いかもしれない。父君はとても若い頃、酒場でバイトをしていて、その時にアルコール中毒になったという。それ以来父君は一切の酒を断った。この断ち方は、息子である自分から見ても、相当徹底していたと思う。

彼(父君)の酒の断ち方の特徴は、「誰の酒だろうと断る」ことにあった。相手がどんな人間だろうと、社会的立場が上だろうと、とにかく断る。一切断る。そこに相手に対する忖度はなかった。これを成立させたのは、つまり、断酒において「例外」というものがなかったのだ。

よく、「あの人に勧められたら断れない」という話で、つい酒を呑んでしまう、ということを聞く。付き合いの酒は断れない、と。この話を展開すると、

「君はプライベートで酒を呑んでいるだろう。俺(上司とか)は君と親密レベルを上げたいのだ。俺の酒を拒むということは、俺からの親密レベル要求を破棄することになるのだぞ(圧)。酒が飲めないということはあるまい、君はプライベートで酒を呑んでいるのだから(QED)」

……という話である。つまり、上司(等)によるプライベートをたてにとった侵食という、酒の勧めである。これは確かに断れない。自分がプライベートで酒を楽しんでいる以上、上司の酒を断るのは、上司を断絶するのに等しい。ひどい。

しかし、「プライベートでも一切酒を呑まない」とすればどうだろう。相手が侵食するこちらのプライベート飲酒は、もはや無いのだから、相手が酒を無理強いする条件はいとも簡単になくなる。「私はいついかなる時でも飲みません」となっているのだから。「例外」を作らないことが、ここでは重要なのである。

もっとも、例外がないと言ってきた彼の断酒であるが、自分が見てきた中でただひとつだけあった。地元の神社の神事の時であった。この御神酒を一杯だけ口をつけた。つまり父君は、神にまつわる酒だけはやむなく飲み、人界の酒は飲まなかった、と言えるかもしれない。これは、筋の通った話であると自分は思う。

かいつまんで書いたが、私はこの父君の飲酒(断酒)に影響を受けていると思う。「例外」を作らなければ、酒を断ることは出来るのだ、と。

 

それにしても、酒を呑まないことで、デメリットもそれなりにあるのではないか?と思うときもある。酩酊によって、上手く人生のストレスを吐きだせない、というのは、確かに人生の色彩をハードにさせる。

「緊張と緩和」ということでいえば、自分の人生には緩和(リラックス)があまり足りていないかもしれない。上手く酒精でもって、人生の緊張を緩和させる必要がある、という話は、受けとめるに吝かではない。一理ある。常に緊張して、相手にそれをぶつけるような人間など、よろしくないにも程がある。

緩和のためには、別に酒でなくても良いのだが、しかしちゃんとリラックスという時間と行動を、自分の人生にセッティングしておく必要がある。これは確かに、課題である。一日の終わりに、自分の緊張した精神を上手くほぐしてあげること。明日に上手くつなげていくこと。

 

酒は飲まないけれども、精神病、神経症のお薬はPONPON飲んでいるというのもある。この手のお薬と酒を併用したら、待っているのは破滅と死だ。実際、そうして亡くなった自分の友人もいるのだ。これだけはしちゃアカンだろう、と思う。彼の死を想う度にそう思う。

まぁとにかく、なるべく服薬コンプライアンスを遵守し、きちんと服薬して病気と付き合っていこうとしている。なら、酒を断つくらい何ということはない。

しかし、身体へのダメージということを考えると、酒で肝臓をやってしまってはいないが、その分薬でダメージはキテいるからな。酒はないが、薬はある。こうバランスをとって(?)考えてみると、まぁ……ちょいマイナス収支で済んでいるのは僥倖かな、と。酒飲んでたら凄いことになっていたな、肝臓……内臓。

 

もっとも、ここでこう薬の話を出す、ということでお察しのことかもしれないけれども、自分は(あるいは自分の家系は)「依存」というものに弱い。両親ともに煙草は良く吸う。そもそも父君にしたって、断酒キャリアの最初はアル中であったではないか。自分も清涼飲料水(ジュース)については中毒であると思っている。禁断症状も出た。ジュースで、と笑うかもしれないけど。

そして薬だ。「薬さえ飲めばなんとかなる」という考えが自分の中に、ないとは言えない。今でこそ、「生活全体や、身体のホメオスタシスを向上させていって、そうして薬を適時使っていくことで、健康になっていくのだ」というトータルの身体観を持つようにはなってきたが、それでも薬をPONと入れて楽に、という考えは、まだある。薬を頼りにするのは間違ってはいないが、それは心身をトータルで健全にしていこう、という身体観を持ってはじめて効果を成すものだ。薬に依存してはいけない。

だから、自分が酒に手を出したら、まず間違いなく依存し、生活を破壊するだろうな、という確信がある。酒精による酩酊という快楽に抗える自信がない。まったくない。そんなことがわかり切っている人間に酒を持たせてはいけないのだ。DVするのが解り切っている人間に子供を産ませるのはどうか、というのと同じくらい。

「上手く付き合っていくことが大事なんだよ」という正論はまぶしすぎる。酒を呑む自分は……鬱や、自信喪失になったとして(なる)、そこに酒があったら、絶対に手を出して「逃げる」。これは間違いが無い。そういう自分の中の破壊衝動・自己破壊精神と、酒はすぐ仲良くなる。最悪の形で。そんなのは簡単に予測できるのだ。

 

ただ、酒を呑まないという「我慢」「苦行」をしているのではない。むしろ自分は「酒を呑まない、という実験」を、自分の人生をかけて行っている、と思っている。

ここまで酒を呑まない人生だったら、この先どうなるんだろう。とマジに楽しみにしている。こんなに酒を呑まない人生を行っている人は、そう多くはない。そして、今、酒を呑まないことは、無理をしてもいない。だったら、このまま人生を送っていって、どうなるかちょっと自分で楽しみだったりもするのだ。

別に、酒を呑まないから生産的だ、というつもりは全くない。むしろ、自分の酒を呑まない人生からは、「酒を通した友情」や「酒も含めた食文化」というものをスルーしているから、トータルで実りは多いか、というと、それは言い切れない。先にも述べたように、緩和(リラックス)が足りないし、とくに「酒と音楽」というコンビネーションは全くスルーだ。

それでも、酒を呑まない人生というのは、自分は納得はしている。納得してるから、全く後悔もない。そして自分は、たぶんオリジナル創作の箱庭遊びを続けていくのだろう。酒もなしに。そういう人生観がどういう人生に辿りつくのか、ちょっと見てみたい気持ちがあるから、やっぱり酒を呑まない人生なのでした。