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漫画「メダリスト」感想(2) 勝ちと負けと成長と和解

前回のつづきです。つるまいかだ氏作の漫画「メダリスト」について。

前回 ↓

modernclothes24music.hatenablog.com

 

前回の「メダリスト」感想記事を読んでくださった友人からメールでコメントを頂きました。ありがとうございます。そのやりとりで、前回の私の読解に誤りがあった、もしくは書き方にミスがあった、と私がしっかり自覚できる部分がありましたので、この追加記事で改めて考えてみます。

お題は「勝ち」とは何か、について。

 

友人氏から頂いたコメントは、私が前回、記事の前半部で

結局のところ、司先生といのりさんは「どこまでも勝ち進む」というのを最終目的にしているのではない。

と記述したくだりに疑問を感じる、というお話でした。
つまり、漫画「メダリスト」を語るにあたって、「勝負」…勝ち負けの価値をオミットしてしまうことは、登場人物たる司先生&いのりさん、そして作中のコーチ&選手たちが、「勝ち」を目指してやっていることから目を逸らしてしまうことになる。このお話はすごく納得出来ました。

なにせこの漫画はフィギュアスケート「競」技のお話です。そもそも勝った負けたのお話です。登場人物たちは「勝ち」に向かってあらゆる思考と鍛錬と練習を重ね、競技の場で勝敗を競うのです。「勝ち」を目的としたあらゆる試行錯誤。それが「メダリスト」の本質である、というご指摘は、本当にその通りだな、と思いました。なので、競技を描く作品において「勝ちにそんなに意味はない」という書き方は、これは本当によろしくない。司先生もいのりさんもライバル&コーチたちの、目的に向かっての努力に、朗らかに笑って水を刺すような言い方にも等しいのだから。

 

前回の記事で私が問題視したかったのは「復讐精神」によるバースト行為の不健全さ、でした。ではなぜ、そもそも復讐精神によるバーストをかけるのか、というと、それはもちろん相手に「勝つ」ためです。

ただ、そこで私が「どこまでも勝ち進むのではない」と誤記してしまったのは、試合における一回の「勝ち」と、人生における「勝ち続ける」というのは、本質的に違うものだからだ、ということを書きたかったからなのです。この「勝ち」と「勝ち続ける」の違いの話は、プロゲーマー・梅原大吾ウメハラ)氏が著書や動画配信などで考察し続けている話によるものです。

梅原氏の思想では、良くない「勝ち」もある。
良い「負け」のおかげで結果として「勝ち続ける」ようになることもある。
そして「勝ち続ける」とは、外部の評価がどうこうの話でなく、自分が自身の成長を認識出来るようになることにより、その成長のサイクル(積み重ね)がやがて幸福になり、結果として勝ってしまう、というスタンスのことだ、といいます。

(あ、ほんとに私は誤記していましたね。前回の記事で「勝ち続ける」をきちんと定義していない)

 

少し話が進んでしまいました。
前回も書いたと思うのですが、どうにも私は「勝負」や「競争」「競技」というものが好きになれません。たぶんこれは勝ち負けの悔しさよりも、勝負に対するセンスがないのだろうな、という気がします。

なんか、勝った負けたで気分が上がりも下がりもしない。酷いときには恐ろしい勢いで勝負の結果を忘れる。どうにも、勝っても負けても「落ち着かない」のです、私は。だから多分、私は勝負事に向いていないと思う。

勝った負けたに対する違和感。これはずっと前から私が抱いていたものでした。例えば、トーナメントにおいて優勝者はひとりですが、他の選手のやったことっていうのは砂塵に消えてしまうようなものなのか? あるいは単純に、勝者に対して敗者は「駄目」なのか? こういうことを私は考えてしまいます。

たぶん、本来こうやって考えることも間違いなのでしょう。本来は…
勝った負けたはその時々の暫定的な結果。競技者は緊張感ある試合の中で全力を出してぶつかり合い、良い結果が出たならフィードバックしてさらに成長。悪い結果が出てもフィードバックして次回は成長。各々がそうして競技人生を歩んでいけば良い……
……という風に言うことは出来るのでしょう。
ただし、これが相当な綺麗事に聞こえてしまう、ってこともわかります。

 

なにせ、勝たなきゃ意味がないのが競技人生ってものです。
昔、マラソンランナーの有森裕子氏は村上春樹氏のオリンピック・レポート「シドニー!」でのインタビューで、「勝てば官軍、じゃないけど、私だって【その正義】に乗っかってきた人間です」という話をされていました。そういうギリギリの所で勝負をしている選手の競技人生に対して、「やっぱりマイペースな成長だよ〜」って言えるはずもないと思います。

いのりさんが「勝負をしたい」と告げるシーンがありました。彼女はコンプレックスでも復讐精神でもなく、勝負の世界の残酷さをすでに受け入れます。
勝負は勝った負けたであり、栄光は勝者のみにある。敗者は苦しい。悔しい。それでも……「それにも関わらず!」と(マックス・ヴェーバー的言い方)、彼女は勝負の世界に入っていきます。
いのりさんはスケートリンクの上で「勝負」をしたい。それで「自分自身」を表現したい。そういう人生のために努力を積み重ねていきたい、と。

 

「勝ち」は確かに勝負の世界における条件です。でも、その「勝ち」を得る前に、多分「勝ち続ける」=「成長」し続けられるような思考、メンタル、日々の練習法、体の鍛え方、成長サイクル、そして哲学が絶対に必要なのだ、という話を、私はここで書きたいのです。

私は勝負に対するセンスがありません。でも「自分自身に勝つ(成長)」という話に興味がある。私にとって勝負とはメタファーです。
もちろんこれは自分自身に対する復讐精神で勝つのではありません。その時点ですでに自分自身に対して負けてるじゃないですか…。

いのりさんの言う「冷たい気持ち」だった時の自分との和解、っていうのは、実際のところかなり難しい。作中で司先生も述懐しているように、そういう自分に「ありがとう」と言えるようになるのは、なんと難しいことでしょう。でも、それをしないことには、多分いつまでもやはり「冷たい気持ち」を抱いたままなのでしょう。

復讐精神、とは、この「冷たい気持ち」を薪にして燃やしてバーストをかけることです。薪にして燃やせば、そして成功すれば、あの冷たい気持ちは無くなるんじゃないの…? そういう誘惑です。でも、無くならないんですよね、冷たい気持ち…。コンプレックスに根ざした復讐精神で、「勝つ」ことはありますよ。でも「勝ち続ける」のはどうかな。結局「冷たい気持ち」だった時の自分と和解をしていないですから。常に自己否定をし続けて、ギリギリのところでターンをするようにして勝利を得る。ギャンブルですね。

じゃあ、それを止めたら競技者として…人間としての価値がなくなるのでしょうか。ギリギリのところに居続けて、勝ち続ける。そうじゃなきゃ「駄目」なんでしょうか。無論、これはライバル・夜鷹コーチ&光ちゃんの征く道のことを言っています。圧倒的な天才としてスケートの覇道を征く夜鷹&光ちゃん。その覇道の果ての栄光を掴むため。なるほど、これは司先生&いのりさんにとって確かに「対峙すべきもの」です。復讐精神によるギャンブルの強烈なbetと天才的成功。それはこの現実世界でも結構見かけるものです。

司先生はもちろんその覇道をいのりさんには歩ませません。いのりさんも歩みません。でも光ちゃんに激しく魅了されるわけです。覇道ゆえの魔性の魅力。それもまた確かにこの現実世界にあるものです。

でも、この漫画作品「メダリスト」を読めば、読者の方々はわかりますよね。光ちゃんのこの覇道の緊張はいつまでも続くものではない、と。
夜鷹&光ちゃんに対して、司先生&いのりさんの「成長」という形で、作中においてふたりが「勝ち」を提示するのを見てみたい。でもその「勝ち」は光ちゃんを屈服させるものではなく、夜鷹にさらなる破滅をもたらすものでもない。たぶん、夜鷹&光ちゃんも救う形であってほしいと願う。

私は勝ち負けをどうにも好まない、と書きました。でも、本当に良い勝ち、充実した試合、というのは、勝者も敗者も共に「この勝負をやってよかった」と思えるようなものだと思います。というか、そう信じたい。その緊張感と充実感。そこにこそ勝負の本当の意味があるんだと信じたい。

 

前に「綺麗事」と書いた文をもう一回書きます。

勝った負けたはその時々の暫定的な結果。競技者は緊張感ある試合の中で全力を出してぶつかり合い、良い結果が出たならフィードバックしてさらに成長。悪い結果が出てもフィードバックして次回は成長。各々がそうして競技人生を歩んでいけば良い……

……「私は」、これが綺麗事ではなく聞こえるようにしたい。自分の人生を。そういう風に、私の人生に成長のサイクルを取り入れたい。

勝負、というのは私にとってメタファーだけれども、そのメタファーから学べるものも絶対にある。私が取り組むべき創作活動において、こういう成長のサイクルの哲学っていうのは、日々健全に過ごし、考え続け、作品を作ることを実践しフィードバックし、幸福になる、っていうことだと信じるから。

 

参考文献

メダリスト|アフタヌーン公式サイト - 講談社の青年漫画誌

勝ち続ける意志力 | 書籍 | 小学館

勝負論 | 書籍 | 小学館

「1日ひとつだけ、強くなる。 世界一プロ・ゲーマーの勝ち続ける64の流儀」梅原大吾 [ビジネス書] - KADOKAWA

シドニー! - Wikipedia