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漫画「メダリスト」 呪詛を念じて勝利する復讐精神への「NO」

つるまいかだ「メダリスト」ってフィギュアスケート漫画があるんですよ。今、アフタヌーンで連載されています。

「自分が何も出来ない」コンプレックスを抱えるフィギュアスケート初心者少女(以下いのりさん)を、アイスダンス競技者として「折れた」青年(以下司先生)が、真のポジティヴ思考と分析力でもってコーチし、ふたりでフィギュアスケートの道を征かんとすスポーツ漫画です。

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この漫画って、何回も執拗に「コンプレックス」についてを描写します。嫉妬、無力感、「どうしてあいつは…」みたいな感情。でもこの漫画は、そのコンプレックスをバネにして歯を食いしばって克己!…っていう「スポ根」漫画ではなくて。

むしろその「コンプレックスをバネにする」っていう負の復讐精神っていうのは、とても危険だ、と捉えるスポーツ観によって成り立っています。

 

わかりやすく言うと、負けて悔しいから「あいつに勝てば全部見返せる!」みたいなモチベーションでスケートに臨むと、いずれ自滅し破滅する…っていう捉え方を主人公側はします。少なくともコーチ・司先生は、自らの自滅経験から、「コンプレックスをバネにして勝てば全部見返せる!」式の努力を、いのりさんに「それは決してしてはいけないんだ」と何度も忠告します。

(いのりさんはその教えを要所要所で思い出すのですが、しかし復讐精神でガッとバーストかける式の思考に陥ってしまいそうになる所もあって、そこのところの精神的駆け引きが漫画のダイナミクスにも繋がっています)

 

結局のところ、司先生といのりさんは「どこまでも勝ち進む」というのを最終目的にしているのではない。
司先生は「フィギュアスケートのある人生が、いのりさんの人生を豊かにすること」を願っているし、いのりさんは(今は)「司先生の示してくれた道を自分なりに咀嚼し、自分で考えながらどこまで行けるのかを試してみたい」という健全な競技者としての精神を持とうとしている。

勝てば何もかもオールオッケーになるんじゃないの?承認欲求や自己肯定感も、社会からの賛辞も、なにもかも得て………彼女は「英雄」になれるんじゃないの?いのりさんは努力型の天才だからそういうゴールを歩むんじゃないの? 
そこに対して明確に「NO」を提示しているのがこの漫画が倫理的・哲学的・文学的に優れているところです。

最近私はヤンジャンで連載されている「ウマ娘 シンデレラグレイ」を素晴らしいスポ根漫画と思っていました。もちろん今も「シンデレラグレイ」の漫画力、勢いを素晴らしく思っています。

ただ「メダリスト」を読むと、この作品で描かれている「コンプレックス」を巡る様々な思考に、こちら(読者)も深く考えさせられてしまいます。フィギュアスケートにとくに興味がなくても、そもそもスポーツという「競争・競技」に興味がなくても、この「コンプレックス」はとても見覚えがあるから。私の場合、再三このブログで書いてきているように、絵・漫画を描けないコンプレックス、というものがあるから。

 

例えば、コンプレックスに根差した努力ということで言うと、「強く願った分だけ叶う」式の考えというものがあります。正確に言うと「成功しなくちゃダメだ、と念じて自分を追い込んだ分だけ、成功確率は上がる」式の考え方。

司先生はそれに「NO」を言います。念じて、念じて、深く念じて自分を追い込んで。自分という存在をギャンブルのチップにして。そしてbetすれば勝てるんじゃないの?勝てるんじゃないの?!……そういう思考を司先生は「不健全」と見なします。必要なのは今の自分自身と、今自分がやろうとしていることをきちんと見据えること。「念じる」のは思考停止だ、とすら言わんばかりです。

「どれだけ世界を細かく言語化出来るか」

必要なのはそこなんだ。世界に対する呪詛をバーストさせてスキルを爆上げするのではなく。今五感でとらえている世界を、どこまでも細かく観て、捉える。無論それは自分自身の身体も。世界に対する呪詛を「念じる」のではなく、世界を健康な目で観て冷静に考え、その上で生き生きと自らを表現する。
それがスポーツであり、人生を豊かにしていくことなんだ、と。そのメソッドは結果として世界と自らを愛することに繋がる。それは言うまでもなく、あの冷たかった世界と和解する形での自己肯定なんだと。

でもやっかいなのは、我々(読者含む)生身の人間じゃないですか。呪詛や世界の冷たさや怒りや嫉妬を知っているわけじゃないですか。それを復讐精神バーストで冷たい炎として「燃やす」ことの快感!勢い!そして成功したら…?エクスタシーですよ……どこまでも昏い。いのりさんもその魅力を知っています。何よりもいのりさんは自らの根深いコンプレックス、世界が冷たかった時代を知っているからです。

それでも司先生は「NO」を言います。漫画の作中では司先生はいのりさんの様々な面を肯定しまくるので、この漫画は何もかも肯定しまくるポジティヴ漫画か!?とちょっと思ってしまいそうになりますが、この「いのりさんが負の逆襲精神」に吞まれそうになる度に司先生は確実に「NO」を言います。あなた(いのりさん)が幸せ・豊かになれないようなフィギュアスケートに何の意味がある?と言わんばかりに。

 

もし、あなたの人生が誰かのために奉仕するしかない人生だったら、呪詛を念じてフィギュアスケートをすれば良いだろう。そうして結果を出せばよいだろう。みんなはそれに賛辞を贈る。だって、他の人間はあなたの「結果」にしか興味がないのだから。

でも、あなたの人生はあなたの人生だ。他人が望む「結果」だけの存在ではない。あなたは幸福になる権利がある。あなただけの世界と幸せを感じて良いのだ。

念じるのではなく、考えて。呪詛のための言葉よりも、正しく世界を見るための言葉を。世界を細かく見て、自分自身で考えよう。叶うならば世界を愛して、自分と和解してほしい。

……司先生が自分自身でもがきながらも差し出そうとしているのは、果てなき「勝利」の連続ではなく、フィギュアスケートを通して「幸せになる方法」なんだと思う。

 

もしいのりさんの勝利にだけ用があるのだったら、この漫画「メダリスト」はそんなに面白くないのかもしれない。サクセスストーリーの痛快感、そうか、なるほどね。でもこの漫画は、司先生の悩みながらの思考と言葉、いのりさんの悩みながらの思考と言葉こそが本質である。そんな思考と実行の結果としていのりさんは勝ち続けていくけれども、まぁそれはそれ。いのりさんに幸せになってほしい。それが読者の望みであり、司先生の望みである。

 

最終的な到達点は、自分が自分に対して行う評価が、自分自身のモチベーションになることだ。その世界にいる自分にとって、何を「勝ち」と定義するかなのだ。--梅原大吾『勝負論 ウメハラの流儀』

 

 

●参考記事

絵・漫画が描けないコンプレックスからの脱却について - 残響の足りない部屋

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