残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

オイィ!?クソ長文魔・残響が、てめえの長文癖を後悔しだしたぞぉっ!?

ぼくの悪癖に、「ついつい長く引き延ばす」というのがあるっぽい(ニアリーイコールで、「余計なことを書く」)。これは創作小説でも、こういうブログでも、評論(レビュー)でも。
長くすればそれだけ、そのぶんだけ物語れるという保証があるんだゼ、と信じていたフシがある。
なぜだろう?別にそうだとは限らないのに。

 

文章によって、物事の、伝えるべき要素が、1、2、3、4、5、とあったとして。
「1~5」の伝えるべき要素を全部伝えきったら、基本「伝達」は終了である。
さて今ここでぼくは紙を広げ(比喩的な意味で)、ここから「1~5」を順番に伝えよう……としてないのが、ぼくの常だ。
ぼくは、思いついたままに書く。そりゃあ順番を決める構造構想とかがめんどいってのもある。他人のことをあんま考えてないってのもある。……それと、ぼくは「1~5」以上のことを書こうという高望みをしているのかもしれない。

 

なんというか。「伝えたいおっきなもの」っていう概念があって。
これは5つくらいじゃ収まんないぞ、という思いこみがあって。伝えたいことの事実っていうのは、だいたい5つくらいなんだけど、でもそれは個数であって、実際の質的なものは、10も20も面積でかいぞ、というか。
でも、それがそもそも錯覚なんだよね。

 

おっきなもの、を分割することから、論理的理性的な、構造でもって書くという営為がはじまる。
ぼくは、こういうことをあんまりしない
分割すると、夢が……おっきなものへの夢がなくなってしまうからか。でも、そんなんでなくなるような夢は、たいした夢じゃないことは確かで。

 

だいたい、ぼくの長文におけるウィークポイントはここだ。
整理すれば、
・残響はおっきなものを書きたがる
・残響は論理分割をめんどがる
・結果、よくわからないモノが書き上がる。読みにくい

ってとこだ。

 

長く引き延ばす。

あるいは、ぼくは自分が「分割し、論理でもって、結論を出す」という能力に、内心欠けていることを、見たくないからか?
それかもしくは、長文指向にしてれば、自分がいつかたいしたモノをかけるんじゃないか、っていうふうに、夢見がちな人間でいたいのか。
どちらにせよ、ロクなもんじゃない。

 

文章を他人のために書くひとだったら、はじめからこういうことはないのだ。わかりやすく書くから。
ぼくは、そういう親切心が足りない。人徳がないなぁ。自分の話ばっかりというか。そう、文章で、自分の話をしすぎてしまう。他人の話はよく聞くけれども、その実他人に向けた言葉で語らない。これがポイントだ。

これは、改善がきくのかな?わからないな。それなりに努力がいりそうな気がする。

 

そもそも、だいたい長い文章をひとは読んでくれないって時代に、どんどんなってる。
5000字で限界だってさ。そんなんじゃ、残響なんて書き手は、そりゃあ迷惑だろう。

たまーに、自分の文章を読んでくれた、ってひとがいるんだけど、そのひとがぼくの文章のどこに面白味を感じてくれたのか、っていうのは、結構知りたい。少なくとも、ぼくは、ぼくの文章があんまおもしろいとは思えないからだ。そして、最近とみにーー自分は、誰にも、価値あることを伝えてないんじゃないか、って思うからだ。

俺はすなわち飛び道具文章マン、ルルル卑怯攻撃、とまではいわないけどさ。

 

もうちょっと言えば、ぼくのこの、他者への配慮心のなさっていうか、人徳のなさ。
それを突き詰めていえば、「誰かに伝えたい」って気持ちが、そんなにないのかもしれない。自分で、自分を把握したい。その一念で、ぼくは文章を書く。

……うーん、自分って、やっぱ承認欲求の少ない人間だったかw しかし、創作の原点のひとつたる、「誰かに伝えたい」って気持ちすらない、っていうのは、これ書くまで思ってなかったんで、以外であった。

 

俺の俺に対する文章。
とはいえ、それを読むであろう未来の自分というのも、また他人であるから、未来の自分が最低限わかりやすく思える文章というのは大事、っていう理屈もあって。
でも、それは「自分メモ」としての体裁が整っていればいいのだから、ああ、よけいに自分が「他者を意識したわかりやすく、おもしろい文章」を書こうという努力からは遠ざかるのであった、とっぴんぱらりのぷう。

 

あと最後に、長文ということでいえば、自分は以前、長文すごいねー、と言われたことが何回かあって、それで得意になってたことがある、のは自白しよう。
ただ、自分の長文が、「とくに内容がないよう」って気づいたとき、ああ……恥ずかしい……って思ったのも事実ね。
とくに、自分は長文でもって「おっきなもの」を取り扱おうとしてたのだけど、実際の文章では、そのおっきさが、ちっとも現れていない、というふうに感じ取ってしまったとき。この無力感ね。

 

ぼくは、ぼく自身だけに固執した文章を書いてたからダメだった、というのは、ようやくわかってきたところだ。
他者、というのを、まず文章的に念頭におくことで。他者のために文章を練っていったり、長文を少なくしていくことによって、きっと、「おっきなもの」に対するより有益なアプローチを得ることができるんじゃないか、と。そうだ、きっとそうだ。
文章とは、やはり対話であるのだから。そして対話から、いろんな可能性は開けてくるものであるのだから。

しっかし、具体例のない抽象的な記事になってしまったな今回……。

身体も心もダウンしていた二週間、癒しとなったHP/ブログ記事

どうもです。最近、「ほぼ」ネットを離れていました。というのも、身体と心が実に不調でして。正確に書けば、心がまず超不調になって、そこから身体がめきめき・バリバリ不調になっていった、という。古傷は痛むしよぅ。

で、そういう状態でネット……とりわけSNSをやると、自分の心身に悪影響を及ぼすばかりか、他人・フォロワーの方々にもバリ迷惑をかけるので、「しばらくネットせんとこ」と思ったのです。

静かな二週間をすごしていました。

ただ、ネットをしない、といっても、それは「無制限にネットサーフィンをしない」「そこかしこから溢れてくる、ネットゴシップに触れない触らない」「新たに情報を仕入れない」というもので。ネット使いを9割落とす、という。

……定義的にいえば、「まるっきりやってない」わけではなかった。そんななかでも、例外的に読んでたHP/ブログ/ネット日記、はありました。なんでぇ、ネットやってるんじゃねえか、と言われそうですが。でもそれまでの「PC開けばネット、タブレット開けばネット、スマホでもネット」というネット中毒めいた状態から比べると、使用頻度は明らかに9割以下になっていました。それに、大体、ネットづきあいのある方々のHP/ブログを、私的ブックマークから直に開いていったので。

今日は、そんな、自分的にしんどかった日々を癒してくれたHP/ブログを、備忘録的に書いてみます。

 

止まり木に羽根を休めて : この大空に、翼をひろげて 感想(バレあり)

feeさんのブログ。feeさんについては、過去に「エロゲーマー諸子百家」で書きました。

シリアスゲー・シナリオゲーを愛好される硬派ゲーマーのfeeさん。「やっぱラブラブルはあかんかったか……」と思う反面、「蒼の彼方のフォーリズム」あたりからの「空を夢を巡る、爽やか青春物語」を、わかりやすく魅力的に描いてくれました。あまりよくないルートは、これまた第三者からしたら「アチャーやらかしちまったか」と思えて笑え(笑っちゃいけないんだろうけどさ)、成功したルートは、まさに大空を悠々と飛ぶかのような気持ちのよさがこっちまで伝わってくるかのような、物語読みとしての喜びが伝わってきます。

 

mywaymylove00.hatenablog.com

カナリヤさんのブログ。カナリヤさんについても、過去に諸子百家で書きました。

全曲レビュー!さすがはオルタナ・ロック者や!

自分は、ちょっといろいろあって、音楽を語る筆を折ってしまったのですが、こういう熱の入ったファン魂の記事を読むと、ああやっぱ音楽について語るのっていいなぁ、と思えますね。

歌詞の考察、音像の考察。バンドの過去から未来への、ファンとしての歴史性をたたえながら、小ネタもしっかり拾いつつ……ってことが当たり前のようになされていますが、それこそ「ファン魂」の発露、と思い、ああこれこそが音楽ブログの基本的な精神だよなぁ……俺どこで道を間違えてしまったんだろう……と淡い悔恨を覚えながらも、カナリヤさんの記事は、「やっぱ、もっと音楽聴いてみたいなぁ」と思えるものでした。

 

M.Mの部屋

エロゲレビューサイトです。先日10周年を迎えられました。拍手!

誠実にして穏やかな筆致、それでいて「考察派」の面目躍如たる筆致。読んでいて「ああこれこそエロゲレビューの正道よ……」としみじみ。やっぱり、エロゲは、プレイして楽しい、レビューしてたのしい、というものでした。しみじみ。どこかで、自分、SNSエロゲ語りをしてて、強迫的に「語らなくちゃ!」という意識があったんですなー。

そんなM.Mさんのサイトに関しての細かな賛辞は、先日の10周年日記で書いちゃったから、ここでは割愛。(ていうかごめんなさいいきなりこんな長いの書いて……)

 

rikukaikuu.com

ミリタリーゲーム・アニメ系まとめサイトの、「ガルパン」記事をよく読んでました。かめば噛むほど味のあるアニメやでガルパンは……。恋の呪文はミカアキミカアキ……(百合黒魔法

 

elephant.2chblog.jp

SSまとめサイトの、やっぱり「ガルパン」ssを読んでました。

とくにこのSSはすばらしい。人格の「道」を表すものとしての、戦車道……それを巡るしほママの苦悩と喜びの日々を、時系列に沿って描く……まさにサイドストーリーよ。

 

www.pixiv.net

ガルパン二次創作漫画。

もうこれ正史だろ。

 

(2016.05.13)(tour)穴門山神社に行ってきた - Marumaru's TinyPlaza

 

まるまるさんのHP(ブログ?)の旅行?散歩?レポ。ほのぼのしていていいですね。とてもいい。和む。和むことこそが、今の自分には必要なのだ……。あ、M3レポ……俺も……書かなくちゃと思いつつも……

 

Nagale's Homepage「岳流」

……の日記

わがエロゲ師匠のページ。エロゲーマー諸子百家でも書きましたね。こちらも和む……というか毎日更新、ほんと助かります。ぼくが。和やかな日常を書かれていて、それがほんと和む。さっきから和む和むばっかり言ってますが、逆説的にこの二週間~一ヶ月が、どれほど心和まない日々だったのかという。

 

 

以上、こんな感じでネットを見ていました。

ネット中毒になってない人には、「なんでぇ、ネット見てるんじゃないか」って思われそうですが、

ガチのネット中毒の方にとっては……息するようにネットをするひとにとっては、「この2、3週間、これ以外のネットってほっとんど、まったく見なかったんですよ」って言ったら、すごい驚かれることと思います。

なにしろ、twitterをしていないのだから、そういう「ネットを漫然と見ていて、リンククリックしてネットサーフィン」ってことをしていない。あたかも、良質の雑誌を何度も読むかのごとく、上記記事、hp、ブログを何度も読んでいたのです。それは「ネットユース」というよりは……もっともっと個人的な、何かでありました。それもそれで、悪くない……ばかりか、自分を結構救ってくれるものでした。

記事を書いて/更新してくださった上記の方々、ありがとね。

もうちっと、ぼくは休みが必要かもですが、体力気力が戻ったら、ぼくもなんか書いてみたいと思います。

 

2016/4/29 APOLLO MUSIC AREAライヴレポート

鉄は熱いうちに打て、兵は神速を尊ぶ……ということで、今日行われたライヴレポートを書きます。

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参加アーティストは、

霜降り猫

土曜日と人鳥とコーヒー

ミズタアイコ

という、関西・神戸勢の遠征ライヴでございます。

 

●そもそもなんでこのライヴ聞こうと思ったの?

 

自分は、以前、大阪のポストロック/シューゲイザーシーンにとても興味をもったことがありまして。

それはこのブログでも何度か書いております(一部記事が、今ネット上にありませんが、追ってまたサルベージします)

modernclothes24music.hatenablog.com

 

また、このシーンのライヴにも、大阪まで参戦しにいって、見てきたこともあって。

(ライヴレポはこちら)

modernclothes24music.hatenablog.com

 

で、このライヴで、実は土曜日と人鳥とコーヒーのベーシスト、氏家(うじけ)氏とお知あいになれて。そこから、土曜日と人鳥とコーヒーを聞き込んで、こういうレビュー書いたり

で、去年も、土曜日と人鳥とコーヒー(どよぺん)は、島根に来ているのですね。霜降り猫と一緒に。霜降り猫のバンドメンバー氏の出身地ということで、凱旋ライヴを、松江カノーバでやりまして。それも見に行きました。どよぺんと霜降り猫は、シューゲイザーと、轟音オルタナ、というふうに、またジャンルや音世界がかなり違うながら、仲良く、しばしば対バンしているそうです。このときのライヴも、両者鬼気せまるものがありました。

そこから一年。今回も、この関西のポストロックの雄は、島根にきてくれました。っていうかねぇ……こういうのはすごくありがたい話しで、だいたい島根って、アーティストのライヴがスルーされる地域なので。鳥取のほうがバリやりますよ。

それだけ、このバンドたちは、地続きの、手渡しのライヴを大切にしている……現場感覚のミュージシャンだということなんですな。

 

●ライヴレポのまえに

 

今回、久々に音楽について書きますが、まあちょっとしたことがあって、このところ1年ばかり、音楽について語ることをやめてきました。封印っちゅうか、筆を折ったというか。もう「作り手」になったこともありますし、過去のミスっちゅうか過ちっちゅうか出すぎた真似というか、そういうあれこれが、ぼくの心のなかでいろんな形をとって、ぐちゃぐちゃしていて、音楽を素直に語ることができなくなっていました。

 

でも……先日のM3でも、今回のライヴでも、やはり良き音楽は良き音楽。そういうものを、素直に言語化することが、自分にとっての、またひとつの喜びでもあった、と今再確認している状態です。

というわけで、素直に書こうと思います。筆を、今一度。

 

●ミズタアイコ

Discography

↑音源はこちら

 

このアコースティック弾き語りの女性シンガーは、今回始めて聞くひとでした。どうくるのか、という期待というか、疑問がありました。この面子とくるんだから、変則チューニング&ループシステムを使った、フアナ・モリーナ/アルゼンチン音響派的なのでも驚かないし、テクニカルタッピングを駆使した技巧派でも驚かない。

しかして、今回ミズタ氏のスタイルは、ストレートに歌を響かせる、至って王道のシンガーソングライター弾き語りスタイル。余計な仕掛けなしに、ギターと歌だけ。

で、実際聞いたときも、特殊奏法とかもなく、普通の弾き語り歌唱スタイルなわけです。しかし、退屈はせず、どんどん聞き込んでいきました。

理由としては、まずギター・ストロークの強靭さ。いやぁ、ホネがありますね。流麗、というよりも、ゴツンゴツン、ガシッガシッと響かせるギター奏法。そのダイナミックさにパワーを感じます。

と思いきや、歌唱も基本ストレートなのですが、「歌詞の主人公のキャラ」を忠実に再現する歌唱であります。どういうことかというと、裏切られて、弱弱しく嘆くキャラの場合は、その通りに、「うた」としての強度を捨てても、本当に嘆いて泣きそうな感じに歌うのです。このヴォイシングは達者だなぁ、と思いました。

しかしそれも、すべてはギターや歌を通して、歌の「世界」を表現するため。メッセージ込みの世界観を表現、っていったほうがいいかな。一つの短編を読んでいるかのような感じすらありました。そういうことでいえば、アレンジも達者なのですよ。ギターの低音弦をでベースラインをぐいぐいやってくとことか、「うーんこういうの好き」って素直に思えます。

3曲めから5曲めからのたたみかけは、ロッキンでありながらストレートアヘッド、閉塞感はないけれど、しっかりシリアスでダイナミック。とくにラストの曲の「一歩も後に引かんぞ」の勢いは、心に残りました。やはり弾き語りは音楽の基本にして完成形よ! そこに物語性ものれば……!

 

●土曜日と人鳥とコーヒー

 

音が……揺れる……幻想の光……。

昔、ぼくはこのバンドのことを、「轟音版the cure」って言ったのですが、それはどよぺん側にもウケてくれたようでw そのような、独特の白昼夢めいた耽美性をもったシューゲイザーバンドです。

そしてやはり自分は2曲め、「ニーナ」で泣く

youtu.be

この郷愁を深く琴線をゆさぶるメロディ、コーラス、ギター。「もう取り戻せないんだけど」という白昼夢の幻影!

音がたゆたっている、yuki氏の高音voと氏家氏のコーラスがあいまって。ていうかイントロからして泣くねん。「うわぁもう泣くぞこれ」っていう。

そこから轟音

ビリビリと服が振動する!(大マジ)

今回、前回のライヴを踏まえて、身体にちょっと楽をさせるために耳栓を持ってきました。これが役に立った……。ずいぶん身体が楽でした。まあときどき、マゾヒズム心が首をもたげて、耳栓外してみましたが、耳がビリビリ!

音楽の風圧である……。しかし、今回、ドラムが交替、ということになりましたどよぺん。前任者であったミヤモト氏のドラムが、どよぺんのリズムと世界観を、アンカーのように固定するものであったら、今回のイサノ氏のドラムは、全体を保ち構築しつつ、前へ移動さすような、そんな感じの変化がありました。

そこがより顕著だったのは、三曲め、「mahāparinirvāṇa」で、この曲はどよぺんのなかでも、長尺ノイズインプロがある曲。でも一瞬たりとてダレなかったのは、リズム隊がかなり動くからなのかなぁ、と思ったり。今回のノイズパートは、いつもに比べかなり長かったですが、変幻自在の妖しさはそのままに。

んで、最後。4曲目……

あの、ライヴ始まるまえに、ぼく幸いにも、どよぺんメンバーとお話しする機会があったのですね。そこで、氏家さんが「Boris聞きましてね」って話をされて。「Borisの轟音のあとには、今までの轟音の大きさじゃ満足できない」って氏家さん、語っておられました。こ、これ以上音でかくなるんかい……とおののきましたが。

そして4曲目で、……リフ?ロッキンなリフ? そして疾走!轟音!

た、たゆたってない、音が!轟音は轟音でも、直線的に突き進む轟音だ!ぶっちゃけ俺いつ「キルミスター!」って叫ぼうかと思った(やらんかったけど)w

どよぺんの新機軸であります……しかし、やはり轟音の申し子よ、このストレートアヘッドな轟音もモノにして、鬼気迫る。今までの幻想たゆたいこそないものの、この勢いは良しっ!モグワイだって疾走もあればたゆたいもあるでしょうっ!

そして、感極まったのか、なんと最後に、暴れるギターとベースが、そのままの勢いで、ガシャーン!とそれぞれの楽器をぶつけ合う! おいおい、どよぺんってそういうキャラだったかいな!wダイジョブかおい。

とまあ、最後、狂乱するどよぺんでありました。こいつら獣を心のなかに飼ってるぜ……。

 

霜降り猫

 

このバンドは、

www.youtube.com

オルタナらしいキレキレのギターに、柔軟なリズム隊、というオルタナギターロックの王道ながら、メロディには歌謡センスを堂々と取りいれる(節回しが歌謡クサいんじゃなく、歌謡のウェットな音の質感を取り入れる、って感じ)、激情を主とするスリーピースであります。

このバンドも音がでかい。やはり俺は耳栓をする。が、テレキャスターとベースの絡みが、よいのよこのバンドは。変拍子キメをやっても安定感がすごくて「イェア!」って感じだし、ドラムは常に安定しているし。

また、ベースがバキバキに動いたり、それでいて結構歪んでいたりして、素直にかっこいい。そこから、テレキャスターが暴れる!怒涛のノイズギターインプロをかましたり、バキバキのカッティングをかましたり!

途中、「静かな曲やります」っていいましたが、静かじゃねえw しかし、激情一本なパンクではなく、叙情をこの曲ではしっかりと描いてくれました。上にあげたスタジオ音源では、線細いのかな?と懸念するかもですが、ライヴでは音域全方位にぶっとい音をかましてくれます。っていうか、スリーピースとは思えん音の厚みだ……。

なんといっても、絶対に後には引かん、的なサムライの意気込みがすごい。トリということもあるのでしょうが。会場もノっておりました。ステージングも、モニタースピーカに足かけて動きまわるので、派手。

ミズタ氏とは違った形での王道でストレートですが、やはりこういうバンドはヘタにテクニカルでごちゃごちゃやるよりも(実際は結構テクニックかましてますが、基本精神として、ね)衝動と激情と不退転でGO!って感じでストレートにやるのが一番ですなぁ。ロッキンですなぁ。

 

●久々のライブでよかった

 

三者三様……!

まさにその言葉が似つかわしく、それぞれのキャラがまるで違いますが、どれも音楽性がシリアスでストレートでロックしてるので、こちらも「聞くぜっ!」と思わせるライヴでした。

やっぱり、こういうふうに音楽聞くといいですね。そんで、自分はやっぱりポストロックが好きなんだな、と思わせてくれるライヴでした。よし、自分も自作曲をがんばろう、創作がんばろう。そういうふうに、健全な力を与えてくれました。

あとは……やっぱ、ぼく30歳なんですけど、やっぱこれからライヴいくときは耳栓もっていこうw(こんなオチ

 

ネットコミュニケーション個人史

前々回と前回のつづき。

modernclothes24music.hatenablog.com

 

modernclothes24music.hatenablog.com

 

とはいっても、今回は、以前の記事のような負のアウラだだもれ、ということもなく、淡々とネット個人歴史と、それにまつわるネットユース、ぷらす個人の意識の変遷を語っていきたいと思います。

 

時系列順に書いていったほうがいいと思うので、さくさくと。

 

ゼロ年代前夜

 

だいたいぼくがはじめてネットに検索打ち込んだワードっていったら、「カードキャプターさくら」についての情報でした。ああこの時点でいろいろとお里が知れるぞウィンドウズ98se。(なつい!)

しかもグーグルじゃなくて、トップページだったMSNで。その当時はYAHOOって名前は聞いたことはあっても、具体的に何をしてるとこか、っていったらワケワカメで「なんか新しそうなことしてる!」っていうのでしたな。

ああそうそう、CCさくらの検索結果でしたが、何をトチ狂ったか、MSN検索は「CCさくら女装コスプレページ」をたたき出しましてな。うおーいこれはいったい何なんだ、目の前のディスプレイから映し出されるは、CCさくらのオッサン女装。そこから、「ネットってやつは、どうも現実世界とイコールじゃないっぽい」というのは肌身で覚えたというか。あるいは「リアルの奇妙な乱反射がネットなのだ」というふうに覚えたというか。

 

というか。

そもそもネット=電脳空間、というのが、パラダイスで平和でユートピア、というもんじゃない、っていうふうに思っていたのは、大清水さちの「ツインシグナル」という漫画ででしょうな。

ネットにはアングラもありーの、カオスもありーの、といったものだ、ちう固定観念がありまして。

 

そういういろいろを経て、ネットに対する固定観念は、わりとはじめに出来上がって……たちの悪いことに、それが対して間違った固定観念でもなかった。とりわけゼロ年代前期までの「ねちっと、じっとりしたネット」では。

 

テキストサイト

 

まあ侍魂とか。

考えたら、この侍魂でも、エロゲについて語られていたんですな……。それだけ当時のネットでは、エロゲが「共通テキスト」になっていた、というか。まあそれも葉鍵ゲー限定かもしれませんが。

今考えたら、大体の個人サイト所有者は、エロゲをやっていたと思うのですが、「ものすごく手を広げて」エロゲをやっていた、というのとはまた違う、というふうに思えます。葉鍵ゲーを中心として、萌えゲーだったりシナリオゲーだったり。というか、あからさまな萌えゲー、と、ドシリアスなシリアスゲー、というのが未分化だったというか。端的に例を述べれば、萌えゲーやってても、だいたいひとつか二つは、ルートで結構な鬱傾向にあるシナリオがあったり、とか。

当時は、もうエロゲも成熟していた、という認識……そうか、当時からもうあったのか、「エロゲ衰退議論」は……。まああったのですよ。そのなかで、自分にあったエロゲを皆探していましたね。

テキストサイトの話しから、一気にエロゲの話しになってってますが、この「自分で探していく」っていうのが、当時のテキストサイトの管理人たちの流儀でもあり、またユーザの流儀でもあったかと思うのです。今のように「なんとなくのアトモスフィア」が絶対的になってなくて、商業的なアレコレも……まああったけど、今ほど支配的ではなかったかと。

だからこそ、当時あれほどベンチャー企業的にぼこすこ新ブランドが出来てって、というか。

 

テキストサイト……テキストサイトとは、なんだったか。少なくとも、今のブログブームであるとか、ブログ飯であるとか、ブログマネタイズであるとか、とかはまったく違うものだったかと。

 

・だいたいわかってきたぞ

 

ぼくもぼくで、当時のネットが懐かしくてしょうがない、って類のひとみたいです。だからといって、今のネットで育んだ付き合いとかっていうのを、当時よりも低きにおく、ってことは絶対思ってませんが。(そう見られてしまったら、それは誤解です)

というか、当時のことをこれほど思っているのは、ひとつには「当時からの付き合い(10年近い)のあるサイト管理人さんがいる」からで。同じ境遇を記憶しているひとがいて、そのひとが今もネットで息をしている、ということは……ある意味で「自分のネット史」を知ってる、というか。自分もそこにいたんだよ、ってことの証、というか。変な話ですね。

たしかパスカルがいってたのかな、「モンテーニュの時代では、世の中にどんな本があって、どんな学問ジャンルがあるのか、ほとんど把握できてたけど、今はそんなことはとーてい無理!」っていうのは。

パスカルの時代からより、よりとんでもなく時代を経ている我々にとっては、じゃあ今ってどーなのよって話でw

でも、今のネットユースを考えて……「これはネットのなかにある情報だな」「これはネットの外にある情報だな」って、区分けて考えることって、ぼく、もう出来なくなりました。なんかネタを振られても、ネットをしっかり検索すればだいたいは出てくるでしょうし、それでも骨子の部分はネットには改ざんして書かれているでしょうし……くらいのことしか言えなくなってしまいました。

昔のネットユースでは、どこか「全能感」みたいなものがあって、広大なネットフィールド、といえども、その「最果て」というか「だいたいの国土」みたいなものを皆把握していたと思うのです。その中心が2chだったり、有名テキストサイトだったり、で、案外全体国土ってもんは狭かった。もちろん、最深部というとこは今も昔もあって、その深さたるやとんでもないものですが、その「最果て」の深さは皆「全部」を知ってるわけではないものの、「最果て」があることは知っていたり、とか。

というか、「最果て」がすぐ自分たちの裏っかわにあった!的な発見もまた、当時のネットユース的なものだったかもしれません。まあその原理は今も変わらないわけで、ネットまとめサイトが「【速報】ネットの片隅でこんなサイト発見wwwwww」系の「最果て」サイトのこつこつした更新を、一気にあざ笑う、みたいなパターンは今もあるわけで。

ただ、その「最果て」を「今から生み出そう!」という気概はすごくすくなくなったかなぁと。見出すのもね。

 

・ああそうか、なんでこういうネットユースを語りだしたのか、ぼくは。その理由

 

自分は自分なりに「最果て」に対する憧れがあったのですな。

最果てサイトの管理人は、とくべつな人ではありますが、同時に「自分たちと地続き」の人間でもありました。だからこそネットをやってる、という論法で。

10年続ける、ということは、言葉では簡単ですが、やるのは至難のわざ、ということをこの歳になってしみじみ思うわけで。

じゃあいまからしろよ!の言葉はまったくそう、で。しかし……今から身体とネットの組成を組みなおす、というのもまた難しく。

 

twitter以後

 

twitterで語るひとが増えて、そっちのほうが主流になってって。というと、個人サイトとか、コメ欄とかで議論する、って方向が減っていって。

それを嘆いているのかな、ぼくは。そういうふうな「嘆きの物言い」をぼくは否定していたけど。そもそもサイトコメ欄における長文やりとり、ってもんが「最善手」ではないからこそ、twitterが出てきているわけだし。

それでも、どうしようもないほど、かつての長文やり取りが懐かしくなってしまうのは、なぜかな。

そのときは、「俺vs管理人」っていう、ある種の錯覚があったのかな。でも、これを錯覚と呼びたくはなくて。……これは錯覚ではないだろう!

もちろん、twitterで、「俺vsフォロワー」の関係性でもって、お互いの文脈を戦わせることもあります(それはバトル、というよりは、やはり「議論」でしょう)。ただこれも、だいたいの場合が「袖触れ合うも一期の縁」みたいな感じで、刹那といえば刹那。でも……考えれば、長文コミュにしても、同じく刹那、でありましたよね。

 

そうか、またわかってきた。ようは、ぼくは弱くなったのだ。自分がオタとして屹立した観念をもって、意見をもって、「俺はここにいるんだ!」ということを、あの当時は発していた。それが、SNSでもって「まあ、みんな、ここにいるんじゃね?」って感覚が普及して、前みたいに「この一期一会の関係性だけど、俺のオタクとしての意見を、この際だからぶつけさせてもらうぜ!」っていう刹那の暴力にも似た、長文コミュは、薄まって、薄まって、というものかもしれない。

 

まあSNSというのが、そういうふうに「コミュニケーションを薄めて(馴れ合い化さして)、偏在化さす」……いつでも、どこでも!というふうな方向性のものなのだろうから、この「長文議論コミュ」っていうのが、時代の仇花としてパッと咲いて散った、っていうことなのかも。

 

でもなぁ。

やっぱり、自分の場ってものは、そっちにあった、と思うのが、ぼくなのですよ。だから、こんなに3回もブログ記事をこしらえて、当時を懐かしがったり、当時のひとたちから嫌われることを恐れたりしている。

 

ネットコミュニケーションとエゴのこじらせ

modernclothes24music.hatenablog.com



前回の続き。フーハハァ眠い!眠いが、なんか書きたくなってしょうがないので、書く。自分はなんでネットをし始めたんだっけ、と思ってしょうがないから。
自分はなんでネットをしたんだっけ。そりゃ最初は……もう12年か……最初は「新しいものだ!」「最先端がコンピュータだ!」っていう概念があったさ。そのうちにアングラへの興味っていうのがありましたね。そこからエロゲ/オタ文化へ一直線でしたわ。体系だった把握までは無理でも、「なんかここに可能性があるらしい」ってことは感じていました。


そこから、いざほかの人とコミュニケーションをとってみる、までに、時間がかかりました。自分にとってネット上の人々っていうのは、コンテンツ作者も、レビューサイト管理人も、サイト掲示板常連も、みなひとりひとりが、「舞台にあがってる人たち」の感覚があった。役者さん、というか。自分がそこに入っていっていいのか、の感覚。


だからROMが長かったネー。その間、結構自意識をこじらせてしまっていた。で、自分がネットにはじめて書き込んだとき……そのときの内容はともかく、テキスト表現が、実に痛々しい。「神!」とかってやたらと使ったりして……。


ようは、自分と文章と他者、との距離感がつかめていなかった。


それは今はどうか、というと、まあ多少は「慣れた」といっていい……とうか慣れなきゃ、おまえ12年間なにをしてたの、っていうか。
ただ、過敏症にはなった。こじらせがよけいひどくなった、というか。ああ、じゃあ、自分はネットをよき方向には使っていなかったのか。そうじゃない、そうじゃないんだ、自分はネットでよき人たちと会うことができたんだ、いささかなりとも孤独から脱することができたんだ、可能性ってやつを、広がりってやつを得ることができたんだ。それは嘘じゃない。


ただ、その可能性と広がり、を、自分自身の手で、より開拓していく方向……自分自身を表現していく方向、に、もっといってもよかったよなぁ、と今ちょっと思う。
まあ自分のこれまでなんて、なるようにしかなってこなかったのだけど、それでも「もうちょっとなんか……」っていうのはある。ネットは自由だという思いをもう一度取り戻せ。何がインターネット生態系だ。ネットのしきたりだ。空気ってなんだ……ネットにまで空気か。


あるのは、古きネチケット(この言葉を使うのも久しぶりだ)。それだけで十分だと思う。それさえも十分に守れていないのが俺なのだから。俺はそこに立ち返れ。そして、井戸端会議の参列者にだけなってるのをやめろ。


ふと気づいたときに、自分の好きなコンテンツの「語り」の場を、ためすすがめつして見ている自分。それはそれでいいものだ。自分が好きなものを、同じように好き、と語り合っているひとたち。自分よりも豊かな表現でもって、以外な表現でもって、好き!を語り合っているひとたち。そのひとたちはぼくにとって眩しかった。
彼らにも彼らなりの人生はあるのだろうけど、自分(ぼく)のよーな他人にはそれをビラビラと見せない強さが彼らにはあった。ただ「好き!」を語っていた彼ら。


今のネットは……いや、今のネットユースがどう、といってもしょうがない。キヨラカに、マネタイズになってってる方向をいってもしょうがないし、向こうもこっち(ぼく)には興味があるまい。
反発しあう磁石のように、強烈な違和感どうしが語り合っても……。
ぼくは、ぼくのネットコミュにケーションを、もう一度考えなくてはならない……ということもなく。
ぼくと語ろう、としてくれてる方々を、てきとーにあしらうようなまねだけはしたくない、ってだけだ。ぼくはそのようなことを訓戒しなくちゃならんまでに、墜ちたか。


なんでこんなことをウダウダ書いてるか、というと、やっぱりリアルでこういうことをウダウダ考えているからで。文体も論理もかなぐり捨てて、とにかく思ったことを吐き出す。韻律(ライミング)も語彙も気にせずにとにかく書く。書くということに己がある。己の限界は、今このようにして書いてるものだけだ。それ以上に己はない。自分の可能性、ってやつも、このかかれたテキストにしかねえ。「もっとマシな自分」はない。「もっとコミュニケーション巧者な自分」もない。「テキスト巧者」な自分もない。「思想的に豊かな自分」もない。「表現者としての豊かさ」もない。ああ、今ここにしかない。可能性ってやつは、限界を見据えたところにしかない。そして今の限界は、まさしくここだ。もっと文章を練って、思考を練ればもっといいものができるって? 君はそうかもしれんが、ぼくは今こうやってジャズアドリブをするかのごとく、言葉を吐き出すほかねえ。息(ブロウ)を吐き出してメロディらしきものをつかみ取っては、それを自分だって、詐称するんだ……。


なんの話か。コミュニケーションの話だ。
まあもっとも、自分はコミュニケーションだけに全振りしているスキル人間をヘイトしているのは事実で。まず人格なり、そのひとの固有スキルなり、固有コンテンツなりがあって、そこからコミュニケーションははじまる。コミュ術なんて所詮は潤滑油だ。(コミュマナー=ネチケット、とはまた別ですよ)
そう、自分が固有コンテンツを耕しきれてなく、結果自分がどんどん墜ちてってしまってるから、ひとは……かつて和やかに会話していたひとたちは離れていったのではないか。
じゃあ、ネットが、SNSが悪いんじゃない。自分が悪いか。その自分の悪さに、自分自身が耐えられないというだけだ。


どうも自分は自分を攻撃するのが得意でしょうがない。テンサイだ。その攻撃の弁舌を、ほかのもんですればいいのだろうが、どうも自分にいく。自分を攻撃すれば許される、という論理。だけど最近はその論理も破綻して、ただ自分を殺せば、なんかよくなる、というふうに信じ切っているのだからこまる。


それでいて、自分の攻撃性を、つぶさに観察して、小説にでも仕立てることも……できず。攻撃性を、音楽に仕立てて、ひとを熱狂さすことも……できず。
ただ、こういうコンプレックス文章を、吐き出すようにして書くだけ。そこまで墜ちたひとを、過去の自分はどう思うか、ということもまた、考えても仕方なく……わかりきったことだ。

コミュニケーション。
そこに祈りも介在せず、いつしか「当然」もなくなってしまったこと。まあそのようにして鈍化した存在に自分がなってしまったから、生き延びられているのだろうが、それはそれとして、いつか仕返しがやってくる……違う。だれか、がそのように悪墜ちするんじゃない。自分が、自分を攻撃するタネをもっと拾ってくるだけだ。


文字が文字としてこの紙面を黒に埋め尽くす。そんなに怨念のなか生きているようになってしまったのか。生きてるのなんて楽しくねえよ。


なんつうか、自分が自分であるだけで、自分を肯定できたら、ってほんと思うよ。
そうじゃないから、自分が何かをつくらないと、自分を肯定できない、って信じ込んでるから
そして、だから、作る手が、止まる。止まったら、よけい自分を攻める。攻撃。否定。そんな自分。
自分は自分にこだわりすぎてる、ということだ。もっとエゴを離れろ、結局エゴは作品の出来を損ねる。
そうはいっても、自分を動かしてるのはエゴだ。何かの奉仕として生きたい自分もいるけれど、それは結局肥大化したエゴの裏返しだ。それは俺が一番よく知ってるよ。
もうこんなエゴなんていらない。石炭のように、くべてしまえばいいのだ。そして表現のスチームエンジンをわかせ、なんでもいいから作ってしまえ……。もう考えたくない。考えたくない。考えたくない。
「若さ」なんて、もうないよ。気づいたときには失ってたよ。あるのは、「これまでの惰性」という慣性上の動きだけだよ。そんなベクトルだけの存在に墜ちてしまったのかよ。
誰を愛することも忘れ、誰を大切に思うことも忘れ、ただこのようなポエムにだけ自分を託して、これなんかが自分の限界で……ひどい。


疲れたので、また今日はここで記事書くのやめる。こんなの書き続けて、どうにかなんのかな自分は。ああ、また自分のことを考えている……

twitter以後とで変わっちまったネットコミュニケーションとぼく

いやtwitter使ってるわけなんですけど、これやってて、或る程度のひとと疎遠になったかなーって思うことがあるんですよね。
なんでそう思ってしまうのか、というとぼくの人格の弱さだっちゅう話しだと思いますが。まあ自意識過剰というか。
もっと個人対個人、でSNS抜きにしてやってたときの付き合いのほうが、平和だったよな、と。そのころに付き合ってた方々とも、今付き合ってるわけですが、今の自分(ぼく)を見て、「あああいつ変わっちまった」「あいつとはちょっと距離置こう」と思われてるんじゃないか、っていうことです。

どーにもtwitterが使いやすくてこまる。こういうふうにブログで書いたほうがいいよなことも、ヴァンヴァンtwitterで書くもんだから、余計にtwitterの中毒アデクションとなってしまって、もう抜け出せないアヘンアヘン。
最初はこんなんじゃなかったと思います……ってtwilogで振り返ってみたら(だいたいtwitter使い始めのころから、twitterログとってあるのでこういう形で)、まあ最初のほうからtwitterで長文で誰にも読まれないようなことをガガガーと書いているのですからまあ俺の世話はない。
ただ、どこかで「TLの話題に即して話す」ようになりましたな、長文で。

それを所属クラスタの変化と読んでもいいのでしょうが、まあぼく自体は変わってない……とはいえず。ある程度変わっていってるわけです。それをぼくのほうを向いて「お前は変わったよ!」といわれるのが怖いって側面はありますな。
どの道自分が変わってってることは、多少織り込んでもらいたい、っていう点はあります。まあ自分と付き合いが長いひとに対しては、とくにそう思うっていうか、そう思うひとと「より、よりこれからも長く深く」付き合っていきたいなぁ、と。即ち「自分を理解してくれている」ってひとですね。そういうひとには、おりこんで話を聞いてもらいたい。

でも、そういう人(自分を理解してくれている人)って、twitterをやりはじめて、twitterのフォロワー的なほうで増えたかっていうと、これはtwitterのなかで完結していると思うのです。

そもそもネットで、自分を理解してほしい、っていうほうが間違っている、といわれたら、そう。
趣味の話しをするにしても、趣味に対する自分の好悪と深度を語るのみで、お互いが依存しあうような感じになるのは絶対に違うと思うし。
そもそもテキストだけですからね。

それが、時折ふっと、深い交流になってしまう。なってしまう、というか、そういうふうにしたのも自分だろ、というか。
テキストだけだから、そもそもがディスコミュニケーション的な文筆交流、っていう話は成り立つと思いますが、そのテキストを操っているひとは自分ですからね。人間です。だから、時折、深い方向にふっといっていまう。

これが、人間の心として、弱い方向、っていうふうに言うことも可能なのかもしれません。というか自分自身がそういうもんだし。
ええと、何の話してたんだっけな。そう、ネットで友達をつくることのそもそも的無理性、というか。twitterだと余計無理性、というか。

手段はなんであれ、ふっと「深く/弱く」の方向にふっといってしまう、っていうのがネットだと思います。ただそれはあまりに衆人環視の場、ではなく、或る程度クローズドの場でね。個人サイト・ブログの掲示板/コメ欄とか(常連さん、ってやつ)、twitterだったらDMとか。あるいはメールとか。

そういうことをかさねていても、一向に「こいつわかんねえよ……」があるでしょうし、「あれ?こころが重なった?」ってことがあるかもしれない。でも、基本は「ネットコミュニケーションは無理ゲー」と思っておいたほうが、ダメージは少ない。そもそもダメージの過多で人生を語ろうとするひとは、ネットなんざするんじゃねえ。

まあ自分のダメージならいいんですけど(よくはないけど)、問題は村上春樹もいうたように「他人にダメージ与えてしまったらどうすんか」ってとこですね。これはキツい。自責の傾向にあるひとにとってはこれもきつい。ていうか自分のことばっかりだなこのブログ記事……。

そうそうtwitterとコミュニケーション、ネットとコミュニケーション、の話し。
シロクマせんせid:p_shirokuma)が「いくらネットでコミュニケとってても、或る程度リアルでコミュニケとってないと危険」ってことをどっかで書いてたように思うのですが、それに対して「テキストは超えるのだ!」っていうふうにイキがって反論したく思いながら著書とかブログを読んでたのですね。でも今になって、「ネットって限界があるよなぁ」と改めて思うようになったのは、それだけネット・ナマキズが増えたからか。

なんつうか「ネットで険悪ぎみなことになっても、リアル、もしくは或る程度クローズドな場で話しこめば、多少の議論の険悪なアラは見逃してくれるだろ」っていう、ダメな信頼があって。
おいそこに信頼おくべきじゃないだろ、信頼ってそういう、低きに流れるっていうもんだったか?っていう疑問があって。でもそういう疑問も、どっかにいつの間にか流れていってしまって。
もっと「あいつだったら、もっと高みに上っていけるぜ!」っていうことをぼくだって語りたいし、語ってほしいですよ。馴れ合いとかじゃなくて!

そうか、twitterっていうのは基本馴れ合いだったな、っていまになったら思うわけで。
ひとつの話題と無数のレス/RTでもって世間が構成され、気の利いたことひとついえればポジショニング、みたいな。
それが原則だったね。そこから「真のコミュニケ!」ってやつを求めるほうがなんかトチ狂ってるというか。というか真のコミュニケってなんだ……。

こんなに自分、ネットに固執する人間だったかなぁ。コミュニケーションに期待したり固執する人間だったかなぁ。模型だけ作っていればOKだった少年時代はどこにいったよ。それをコミュニケーション人間的成長、っていえようか。いえないなぁ。ハードボイルド成分が足りんよ。

弱くなったな、自分も。それだけ自分のなかに他者を入れるようになったか。
固形的だった自分というのは、そうやってジブンが希釈されていくのだ。
果ては、「みんな」の目を気にして、自分では何もせんほうがいい、みたいな哲学をつまびらかにしてね、そんで過去の自分が大笑いして侮蔑してるのにも気づかず、日常に埋没していってね、そんで何も出来なくなっていくわけさ。当然世間の奴らはそういう俺を笑う。

あー、なんだろう。
なんだろう。まとまらないので、ここで記事終わり。

twitter小説のこととかも書こうと思ったけど、疲れたので。