残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

たいきさんのSQLで自分のエロゲーマー的異端を計ってみる

立ち寄らば大樹の陰 【エロゲー批評空間】ユーザー指定での「得点-中央値」一覧表示SQL

 

↑今回のネタ提供してくだすった、たいきさんのブログ。

 

 

エロゲー批評空間では、有志によるSQLプログラムが書かれています。
ようは検索機能の拡張キットというか、データベース作成の拡張キットというか。

そこで、とある解析漢(GUY)が、本日新たに時の声をあげた……!

その漢の名はたいきさんエロゲー批評空間id、かつ、twitterID taiki_VA)。
かねてから物語の解析的読み込みで界隈を唸らせてきた人物が、
今回
自分が批評空間(の一般的点数)よりも高評価している作品ってなんだろ

レビュアーの高/低得点作品の傾向ってなんだろ
という疑問に答えるSQLを製作してくれました。


●自分って変? レビュアーさんって変? の思い

別に、自分がレビュアーとして個性的たりたい、っていうわけではないですけども。
それでも、自分の個性、みたいなものを、数値として把握しておきたい、みたいなときに、このSQLは役立ちます。
「だいたい中央値(平均偏差値)これくらいだろう、このタイトルは」
「俺くらいだもの、このタイトルにこんだけつけてる人は」
……って思っていても、それらのデータが膨大になってくると、ワケワカメになってきます。
たいきさんも

>世間評価高い作品は上位にきやすいし、数が多いとそこから自分に合った未プレイ作品の発掘はしにくい。

と仰ってますし。

エロスケ偏差値・中央値がすべてではないものの、つい
「うんうん、80点台なら、結構信頼できるんじゃないの」
とか
「70点台……怪しいか?」
「60点台……これは”覚悟”が必要だな……」
とかって、エロスケ慣れてれば無意識に思ったりします。

そこで、信頼すべきは、自分と価値判断・思いを同じくするレビュアーさんで。
でも、レビュアーさんの「代表的な一作」は把握していても、そこから全作じっと追っていくとなると、案外ムズかったりするもので。

ぼくなんかは、だいたいお気にのレビュアーさんの長文感想全部読解!っていうふうにしらみつぶし型をします(だいたい、読み物が好きだし)。
まあそれもあっての、以前やった「エロゲーマー諸子百家」企画だったりしますが、それは余談だ。

ただ、まず「ぱっと見」として、そのレビュアーさんがどういう「偏屈さ」を抱えているか、というのは、わかりにくい。
まあ当然で、だからこその長文感想なのですし。


たいきさんは述べます。

>プレイ作品数多い方だとパッと見でどういった作品が好きなのか分かりにくい。

>90点台を見て自分が好きな作品が結構あれば趣味合うなと思うけど

 

まあそんな使いづらさも含めてのエロスケ道や……!というのもアレですしねえ。

 

くどくどいうのもいいや、やってみよう!

で、残響ので、でたのが、こんな感じ。

 

●結果

f:id:modern-clothes:20160309193623j:plain

とりわけ目立ってるのからいってみましょう。

はい出たー!魔法少女の大切なこと。」! それから「どこでもすきして いつでもすきして!」
C:Drive系列そんなに好きか自分っ!
その次のアトラクとのデータ数が、質も量もなんかいびつだっ!

……まあアトラクくらいの名作となると、基本これくらいのモンになるんですなぁ……。
それにしても、自分はこの2作に異様に執着……とりわけ「海原楓太」に執着してるんだなぁ、と。


C:Drive系列に加えて、SMEEもかなりランク。というか、自分同棲ラブラブル、こんなに高評価してたんだ……というよりも、同棲ラブラブル、案外評価低くね?
当時のイチャラブ界隈では、これ相当絶賛だったっしょ。
「所詮FD」の表れなのか、それとも周りの非いちゃラブユーザの冷静な眼目ってこんなもんだったか。

それを踏まえて考えると、「恋春アドレセンス」の高さが妙に目についてしまう。
これもか。これも「非イチャラブorバカゲー好き」以外は点が辛くなってしまうのか。

あと、「みずかべ」に関しては、当時にしてはデータ数少ないのはサモアリナン、といったとこだし、そもそも「ゲーム」としては相当ボリューム少ない……おのれっ!「ニューななみん」の破壊力だけでは……だめだったか……。

考えてみたら、自分は「イイイチャラブシナリオひとつあれば、それだけで高得点つける」って傾向にありますねこれ見ていたら……。

f:id:modern-clothes:20160309193657j:plain

 

そう、「こいびとどうしですることぜんぶ」も、「らぶでれーしょん!」も、ともにイチャラブゲーの古典にして名作なわりには、75、6点だし、中央値。
そこにこんだけ点をぶっこんでいるから、まあ自分のこういうイチャラブゲーの好きなこと……

以前、ほかのレビュアーさんとお話していたときに思ったんですよ。
そのかたはシナリオゲーがお好きなかたで。
……一向に交わらないんですな、お互いのやってるゲームも、点数評価も。
そりゃあ、自分がこんだけイチャラブゲーに点をいれてたら、それも仕方ないかなぁ、と改めて思いました……

しかしそれにしても、レイルソフト初期2作(霞外籠逗留記、紅殻町博物誌)よりも、「信天翁航海録」の点数って低かったんだなぁ……っていうか自分がバカみたいに信天翁にブッコんでるのが悪いのか、レイルソフト全体の評価がなんか下がってきているのが悪いのか……どんどんマニアック向けになってきている、と評すべきか……


それからね、やっぱ同人とファンディスクは弱いね、データ数。
そんで、こういうのでイチャラブを滅茶苦茶補充しまくってる、となると、自分の偏屈っぷりが見えるね!
ふぐり屋の「その花びらにくちづけを」シリーズとか、夜のひつじの「妹「お姉ちゃんクソビッチなんで~」」とかね!

 

f:id:modern-clothes:20160309193808j:plain


しかしまあ……エロスケデータ入力数の少なさ、といわれてますが、近年のゲームのデータ数は確かに少ないです。1000とか、今じゃ「サクラノ詩」くらいしかいってないんじゃないか?(未確認

そりゃあ自分だってサボってますけど、データ入力。自分がもってるゲーム、全部は入れてないもんなぁ。長文感想を投下するときだけだし。入力するの。
……そういうひとが、嘆いていてもしょうがないな。

 

f:id:modern-clothes:20160309193903j:plain

 


さて。お待ちかね。低得点(俺の)ゲームの紹介death。

いや~、最近の俺のバカ傾向がここでつまびらかにされたというか。
まずトラベリングスターズは、自分から突っ込んでいって自爆したから、しょうがない。というか、自分ばっかりが下げてるんじゃないぞ、この点数は。

「恋神」に関しては、エロゲーマー復帰したてのときに、「いわゆる普通のゲームやってみっか!」というふうになって、そんで試しにやってみたら、あんまり「ひ、ひっかかるもんがねえぇぇぇぇぇえ!」と愕然となって、こんだけ低い点数つけてしまったんでした。
今やれば「……まあ頑張ってるのかなぁ」と思えるのでしょうが、当時の「え、何、今のエロゲの凡作って、こんなヌルいの……」という衝撃が、この点数でした。このくだりについては、そろそろ論をしたてよう……。

「ユリキラー」。
ウーン、結果俺が10点も中央値下げているのかー、というふうに安易には捉えませんが、しかし……データ数すくねえな!
これだけだったのか、ユリキラーやった人……。

あー、それから、姉ゲーが二つ続いてますが、低価格抜きゲーで姉、という文句に踊らされたぼくが、見事にペケくらったのがこの2作で、「見事に求めていたものとミスマッチ」だったのがなー。

初恋タイムカプセル……。これは……実際に予約までして、見事に陥没してしまったもので。こんなのを立て続けにはやろうと思わん。というか、これもトラベル(略)と同じように、自分から地雷を踏みにいったもんだからなー……興味の或るひとは、このブログの検索窓から検索してみてください。プレイ日記書いてあります。


いやー、おもろかった。こういう振り返り。
自分は、とにかくイチャラブゲーが好きなんだ、ということ。
それから、同人はやっぱりエロスケ内では弱い、ということ。
低得点のなかにも、自分の点数の付けかたが苛烈だったものがあるということ。
ファンディスクの扱いの難しさ。

そんなことを考えさせられました。
ありがとうたいきさん!

百合フリゲー「Euphoric Create」かんそう

公式サイト

Euphoric Create(ユーフォリック・クリエイト)~トップ~

 

 

新年一発目の百合語りは、サークル「夢幻飛翔」さんが年末にフルverを発表した「Euphoric Create」(ユーフォリック・クリエイト)の感想文から参ります。

このゲームはフリーゲームです。内容は、公式から引用すると、

遠い遠い未来の物語。
DesireIn(ディジアイン)と呼ばれる想像を具現化させる薬の登場により
人々は他人との交流を忘れ、妄想に浸る日々を過ごしていた。
理想の幻想のみ見つめ、つまらない他人に無関心に生きることが常識となったそんな世界。
物語の主人公、弥生もまた、他の人々の同じように他人に無関心で
DesireIn(ディジアイン)で 妄想に浸る日々を過ごしていた。
胸に虚しさが積もっていくも、何も感じない日々。
そんな日々の果てに、弥生は千架に出会う。
こんな世界に似つかわないほどに活き活きとした生き方をする千架。
そんな千架に弥生は瞬く間に恋に落ちる。
そしてその片想いを成就するために生きる決心をするのだった―――

 

なんちゅうか、ガチのハードSFということもなく、またサイバーパンクということもなく。遠未来、と書いてありますが、描写はちょい近未来、くらいです。でも、これが静かなるディストピアだということは、開始直後からわかります。といっても、ネオサイタマみたいな完全暗黒ではなく、むしろ「安らかに、静かに、相互不干渉が完成されたディストピア」です。

ここでキーとなるのが、DesireIn(ディジアイン)という合法ドラッグで、これは「呑んだら妄想が具現化(人が手で触れること可能)する」というものです。たとえば、理想のイケメンがほしかったら、即座に妄想すれば出てくる、という。

これによって、いくつかの「人間的な、あまりに人間的な」ものが失われました。

・人間同士のコミュニケーションだとか(そばに居てくれる存在は、妄想すればいいのです)

・人間が自らつくる創作物・表現物とか(そんなのよりもカンペキな妄想があるのです)

こういった「人間的な、あまりに人間的な」ものが失われていった結果、どうしたか。すごく「ラクな世界」ができました。ひととひととがガチでぶつかり合うことのない、無菌で安全な世界。……という感じのディストピアです。

さてわれわれはこのディストピアを笑えるでしょうか。ぼくは笑えない。だってぼくは、ひがな「こういう軋轢の社会はもういいよ……」って思ってるからね。

それに、いろんな意味で、ストレスフルであるがゆえに、おのおのの「非社会」への依存度が高まっているのも、またリアル社会。そこから逃げたい人間がどれだけいる? いない、といえるのならば、新興宗教に逃げるひとの数を勘定してみてからいってみてくれ。

そんなわけで、この静かなるディストピアは、むしろいろいろリアルが面倒な今だからこそ、逆にキツい。

 

 

で、物語の主人公、弥生(やよい)は、そんななかで、典型的ヒキーとして生活しておりました。

……で、ゲームプレイしはじめて、いきなりビビったのが、リストの「愛の夢」が鳴り響くなかでの、弥生と千架(ちか)の対面シーン! 今回のヒロイン役にしてイケメン役の千架が、そっと弥生の頬をとって見つめる!それに陶酔する弥生! ああもうこの時点でこの絵づらのカンペキさ、ヤベエくらいのベタさあふれる選曲! 古典少女漫画やんけぇ! といわんばかりのツカミにより、この作者わかってるねえ!という認識をこっちにあたえてくる……これは百合ゲー、まごうかたなき百合ゲーですぞ!

 

物語は、最初は千架をリスペクトして、追う形で進んでいきます。

ある日ヒキー弥生の目の前に唐突にキラメキでもって現れた千架、そのきらめきをもっと知りたいっ!ってな感じで、彼女がつくるコミュニティにいざ出陣……

当初、ぼくは弥生がイケメン(千架)によって変わっていく物語、だと思ったのですね。でも、以外とそうはならず……というか弥生=千架、という狭い範囲で収まらず、文(ふみ)と桜(さくら)というタイプの違うふたりのサブキャラを配することで、さらに物語に奥行きと百合情緒を与えていきます。

この奥行きと百合情緒は、すなわちヒキー弥生が「イケメン弥生」に変わっていくところなんですよ! この作品のなかでぼくが一番点をつけたいとこはここだっ!

なんといっても、天然女タラシ! メインヒロインは千架なので、弥生は千架に近づこうという自分本位の思いで、コミュニティ内部の問題を解決してくのですが、そもそもヒキーがそんな大それたことできるわけねえ! 初期の弥生はキョドりまくりです。

ちょっと補助線を引くとすれば、弥生の服装はすごくモノトーン(青系)で統一されて、華美なとこがない……千架のようなコケティッシュさもない。むしろ文のほうが、典型的文型メガネ女子の文のほうが、まだおだやかさと開放感がある。最初からキツめの眼光と、ハードタッチ気味のロングヘア、そっして先のジミ服装ですよ。これが、初期弥生のキョドさをとても演出している。

……が、文の問題、桜の問題を解決していくことにより、このジミさが、「頼れるお姉さん」的な感じに見えてくるのですから、俺はもう親弥生派になってしまっている、プレイ中に。だんだんと「弥生はうそをつかない、だまくらかさない、嫌なことはいやという」タイプの実直さが作中で評価され、そのラインでイケメン度が上がっていく成長物語は、見ていてとても自然であると思いました。

そのアウトラインは、最初千架がいうてるのですが、

「何かをしようとして、蒼白になるほど悩んでいる→この他人に無関心なディストピア世界では、そんな美徳を持ったひとはいないよ」

って具合に。

そうとにかく弥生は悩む。はっきりいって、この作品の7割くらいが、弥生が人間関係で悩むってしろものです。でも、その悩み方は筋が通っていて、しかも逃げない。最終的に、地道で……ドロくさい、等身大の悩み方/解決の仕方をします。

たとえば文のこと。今まで文の問題は、コミュ内で解決すべきもん、といわれてましたが、その実、「あるひとつの問題」を解決する、ということに終始して、「ひとりの人間・文」によりそうことは今までしてこなかった、ということが文パートラストで言われます。これは、なかなか示唆に富む発言です。現象・事件としての解決では、ひとは救われない。ひとは、必ずほかのひとが寄り添って、手を取り合ってでないと、現象・事件とちゃんと向き合って解決はできん、ということです。行政や警察の人間見てるかっ!

 

また、桜の「創作」に関することもなかなかシビれます。先にも述べたように、創作の意味がなくなってるディストピア。だからこそ、ナマの生き生きさ=創作表現、でもって、人々の生気を取り戻したい、という桜。

ただ、そこで創作者特有の「嫉妬」がからんでしまう、という。もちろんイケメン弥生に対しての嫉妬ですよ。自分の創作がひとを変えられず、イケメンの誠実さがひとを癒していくさまをみて。ここはもうちっと「創作者のエゴ」という方面で掘り下げてもよかったと思いますが、しかし創作はあくまで一部分でしかない、ということですからね、物語上は……。で、結局はこの桜さん……超テンプレツンデレなんですな。作中で超絶のメタツンデレ発言をやらかしてくれるので、そこはぜひ見てほしい。

 

このあたりの、弥生がナチュラルな魅力を放って、成長していく、という描きは、とても率直で、よきものでした。ナチュラルに女ひっかけていくとこもな!w

 

ただ、メインヒロインたる千架をめぐる、後半部の雪美(せつみ)とのやりとりに関しては、ちょっと点が辛くなってしまいます。

いえ、「千架×弥生」がうまく機能していない、ということももちろんですが、まあ千架が雪美に惚れてる、というとこも、物語としてはおkなんですが。

しかし、ここからの雪美の計画を弥生が補助るにせよ、千架が補助るにせよ、どっちも悪手を踏んでるんですな。もちろん悪手を踏むからこそ、物語が進行していくんですが、ここで描くのが、これまでなんだかんだで「千架×弥生」が通低音として存在していた百合ものだっつーのに、後半部から「雪美×千架」にシフトする。

で……シフト自体も、実は問題はないんですよ。百合のパターンとして、まあ安直な表現出しますが「昔の女をどう振り切るか」のパターンですから。

でもそこで、「千架×弥生」のカプの存在感が、急激に失せる、というのはどうか、とぼくは思ったわけです。いづれ振り切られるべき「雪美×千架」を片付けながら、一方で新たな芽吹きとしての「千架×弥生」を描いてくれないと、ラストのあの印象的な「これからよろしく」の一枚絵の魅力が数割減ですよ。あの絵ほんっとーにイイんですからっ。

 

ようは、恋の永続感がどうもちょい弱い、ってとこです。

ここで「Euphoric Create」というタイトルのことを言及しますが、Euphoricは「幸福な」を意味します。幸福を作っていこう、というメッセージ。あるいは「幸福の作り方」というメッセージ。さて、euphoricの名詞形として、Euphoriaというのがあります。これは(一時的な)強い幸福感、という意味合いがあります。ドラッグを想起させますね。このあたりの言葉の両義性を踏まえて、この英語を使ったのでしょうが、永続感が弱い、となると、これは「一時的な強い幸福感」というところに落ち着きはしないでしょうか。

そこが惜しかったなぁ……という感想です。

さらにいえば、「千架×弥生」が弱い、ちうよりは、後半部の「千架のキラメキが弱い」「後半部の千架の堕ちっぷりが、キラメキとあんま対比させられてない」といえるかもしれません。

 

あとは、ラストの「幻想具現化バトル」ですね。……うーん、ここは……正直そんな燃えなかった。まあでも、基本的にドラゴンボールにおける元気玉、って感じなんですが、そこをバリ元気玉っぽく「絆っ!」って感じにならなかったのは、まあいいかも……。

 

 

後半部、くだくだいいましたが、それでも文章……というか、弥生が前のめりにしっかりと悩んでくれるので、文章は先に読ませます。

そう、ひたすら実直に弥生が悩んで悩んで、っていうゲームです。これは。

ラストは、後味がいいですよ。結局悪者はいなかったんだ、っていう。でも、千架のカリスマは、やっぱり「消えてはいない」とぼくは想像したいのですが。

まあこのあたりは、この世界観、シリーズものとして展開してくみたいなので、いつかはこのカプの後日談を見てみたい感じもありますね。

 

点数は、エロスケ換算だと、78点。

以外なほど、なやんでなやんで、って話なわりには、ダルさはないんですよ。それは、キャラの個性が実に生き生きとしていて、キラメキが見えるからですね。屈託を抱えながらも、弱さを抱えながらも、幸せの形、ひとと人との交流の形を模索し続けることに意義がある、っていう思いは受け取りました。

すべて創作のためにブログを書く、ブログマネタイズ金は宇宙へ放り投げろ

なんでブログを書くかっていったら、まあ過去には多少は「目立ちたいー」とか「お金になったらいいじゃん」的に思って、無様な姿をさらしたこともあります。
それも遠い昔で、今となっては、このようにただ淡々と、思考を綴るのみ。まあ今年からのことなんだけどね。リアル日記を、そのままネットブログ日記にコンバートって具合さ。
その思考を綴るということが、吐き出すということが、自分にとって、ひとつの「意味ある排泄」になってます。排泄の果ては、おそらく創作だ。花詰み、とはよくいったもので……。
ぼくはこのブログで、自分の人格の完成を、「そこそこ」思い、でもここにテメエのすべてをかけようとは思ってはいません。l
自分のすべては、あくまでも「創作……現時点では、詩/短編小説の連作や、作曲。このふたつ。絵も描きたいけど、どうも時間がとれなくて。それに、どうも自分は萌えイラストがそんな得意ではないみたいで……まあいいや、今ふたつある。そこをしっかりさしてから、次にいこう。

 

創作しないと生きてけないってはなし

 

創作、ということでいうと、ぼくはこれがなくては生きていけない人間だということがよーくわかった。これがないと、ほんとに、強盗になんかを強奪された魂になる、とよくわかった。
なくてもイケるのかな?と思っていたけど、そんなことはなかった。この病……創作病は、思っていたよりも強固だった。ねばってた。そして……やっぱり創作の果てにみる光は、ぜんぜん悪いもんじゃない、光ってた。

なんで創作をやるか。いきるためか。いきる意味を見いだすため、刻むため。
なんでブログをやるか。思考整理……すなわち、創作の準備体操。もちろん、よくいわれるように、創作は創作で完結せよ、っていうのはある。ほかで話をしちまったら、内圧がとけて、創作の屹立ができんくなる、世界が屹立できんくなる、っていうのは、まあ、まま、ある。

いきなり創作にブッコミ!っていうのが、まあ正しい方法なんだろう。
でも今年のぼくはそれとは違った手段をつかう。
やれるときは創作をする。時間がなかったり、体力がなかったりするときは、休む……そんでか、もしくは、こうやってブログを書いて、考えをまとめる。
それくらいのモンでいいよなぁ、と思う。自分にとっての主戦場は、創作(あと、エロゲー批評空間での長文レビュー。まあこれは批評、のなかでも、俺的にずいぶん「創作」に近い)であって、そこのために、以後の全部……twitteだの、ブログだのを使う。

 

自分のなかにあるもんはなんだ?

 

まず、自分になにがあるか、を検討したい。そして、それを磨きたい。
自分になにがあるか、っていうのがわかんねえ、というのもヤキがまわってるが、そうとしか言えない。だって、ボヤケがひどくてね……これは病気か、それとも加齢か。あるいは社会のゴタゴタですり減ったか。まあなんでもいいや。とにかく、依然のようにシャープでも、頭のなかにモノを蓄えてるのでもないから、とにかくアウトソースというかたちで、文章をガリガリブログって、とりあえず脳内を整える。

誤字脱字なんて知らない、センテンスのまとまり……あ、これはちょっとは気をつけたほうがいいかも。だって、自分の文章、論理的能力がガンガン落ちてってるかんね。これはやばい。これは、創作においてもデメリットだ。

しかし、ある意味で、こうやって「自分のありもん」を並べて、という作業は、悪くない。自分は限りある存在なんだ、と。でもそこから進めるんだ、と。意志さえあれば……

ああチラ裏。なにがいいたいか、っていうと、自分がブログをどうやって活用していくか、、ってことです。
とにかく、チラ裏と称して、自分の思考をぶちまける。そんでもって、多少整理できたら、即、創作にうつる。ブログ飯とか、ブログでマネタイズとか、知らん。とにかく自分は創作が第一なのであって、ブログで宣伝かけたり、炎上させたりしていくのは、暇がないのだ。っていうか、金のこたぁリアル仕事だけでいいよ。

 

キヨラカでセチガラい2016年のネット

 

どーしてこんなにネットがキヨラカにセチガラくなったかなぁ。クラスの陰から、日向になった、っていう比喩をどっかでみたけど、それもさもありなん。
怨念は、どこにいったか。……いや、怨念がどこいったか、というよりは、怨念の存在するべき「自由の母胎」が、どっか削り取られていってる感が。

世界はどんどんキヨラカにセチガラかぁ。これもまたひとつの世界モチーフかな。キヨラカでセチガラって、誰もが否定できんからね。
でも、それがカオスを否定するんだったら、ぼくはさらにアゲインストするよ。
カオスのない、自由の母胎が少ないとこは、抜け道がないから。それすなわち、自分のよーな奴が、また一人殺されていくとこだから。んで、m自分もまた殺されるっていう寸法ね。

ぼくの創作は、世界を救うもんじゃないけど、自由精神だけは、いつも持っていたいと思う。
それは戦いの果てにつかみ取るもんかもしれんし、座禅の果てに見いだすもんかもしれん。落ち葉拾いの果てになんか見いだすもんかもしれんし、コンビニの夜更け、どこでもいけるという自由も、そうかもしれないね。

角度を変えれば、世界はオモロくシャープに見えて、写真がとれるよ!美しいよ! そんな具合に、詩を書けたらなぁ。そのためには、自分の言語を、「ただす」のではなく、どんどん「言葉に磁力を加えていく」のが正解で、そのついでに、論理的思考力をもったほうがいい。論理的思考力と、詩心は、相反しない。相反する、とするのは、ただのチンケロマンティシズムだ。

説明するな!表現しろ(twitter小説創作論)

今おれいい事いいましたね。この記事タイトルですが。(自画自賛)

(この文章は、twitter小説のやりかたに関して、思考をダダ漏れさしてる、創作論メモです)

 

twitter小説やってますが、悩み

最新情報 - レッズ・エララ神話体系;8TR戦線行進曲

(自分の創作活動の公式HP。自分で更新してます。最近は作曲のことが多い)

 

twitter.com

(これがtwitter小説アカウント)

 

いや、twitter小説こつこつ続けてるんですが、どうも自分では、最近のトゥイート(ネイティヴ発音)のひとつひとつが、キレがないうえに、つまらない。
もち、プロット自体にも問題があるとは思うのですが、この1ツイートあたりの、自分のなかでのキレのなさが、結果的にtwitter小説に対するやる気モチベってもんを、いつの間にか削いでやしないか。

 

●自分がtwitter小説やるようになった理由(簡易版)

 

ああ、そうそう、twitter小説なんでやってるのかって話からしますか
自分は結構長い間、小説を新人賞に投稿していて、そんでそれが芽がでず、ちうのが続き。
じゃあ「小説家になろう」というweb小説投稿サイトにアップしてみよう、として、これも結構長く続いたのですが、一個も反応がこない。これもアカン。
まあなろうに関しては、まだ続けてはいますが、どうにもモチベは下がりますね。これだけ反応ないと。
で、なろうでやってて、何が悪かったか、というと……自分の長文癖が、「創作量」を増やす方向に、結果的にうまくいってなかったのかな、と。

これわかりにくいですね。説明します。
ようは、長文を書くことに……長文で物語を紡ぐことに、毎回疲れてしまってたのです。1回だいたい2000文字の回を書くのに、毎回ヒーコラいってた状況。おい、それって小説書くの向いてないんじゃない? うーんそうかも。でも、文字でしか、文章でしか表現できないことってあるし……

そこで、ブレイクしたてのニンジャスレイヤー、そして当時カルト的人気を博している(いまも)ファイナルファンタジーSですよ。これらに影響をうけて、「よしっ、短文をおもに連発して更新していくスタイルだったら、やれるんじゃないか?」と思ってのことです。

短文……twitterって、なんか自分、ガリガリ放言を書けるんですよ。苦じゃなく。結果、ブログ記事よりもーっと量の多い文章を書けちゃったりするしw

それを小説/物語にあてはめてみればどうか、と思ってやったのが、「twitter小説」……自分はこれを「twitter詩”小説」ってよんでますね、自分の場合だったら

なんでかっていうと、twitter小説の場合、文章の圧縮っていうのが大事だから。
twitterは140文字。それは、文章のそぎ落としがマスト。圧縮するしかない。けど、その圧縮から忍殺語が生まれたのです。FFS文体(エレム文体)が生まれたのです。

……そう、文章、文体の圧縮の個性こそがtwitter小説の醍醐味。じゃ、自分は何を参考に? でも忍殺もFFSも「すでにある」。自分のオリジナリティを確立するには……
そこで目をつけたのが、「」でした。

ぼくは詩が好きで。小説よりもがりがりにこっちを読んでた時期もあり、詩を詠んでた時期もあり。当時はこっちはサブジャンルと思ってましたが、(小説にくらべて)、こと今twitterをやるにあたっては、通常文体の小説に範を求めるよりも、言語研ぎ澄ましの詩に求めたほうがいいんじゃないかって話。

で、ここまでで「なんでtwitterで小説?」については答えましたから、本題。
説明する」と「表現する」のちがい。創作において。

 

「説明」と「表現」

 

どうも、ぼくのこれまでのtwitter小説(詩小説)は、詩、と銘打っているわりには、説明がおおい、散文的なものだったようす。
だからキレがない。既存の小説と同じような文体をしている。

でも文体をキレキレにさす、というのはアンバイが難しいもので。これまでの散文を崩すイキオイが求められながらも、「意味がギリわかる」程度にしなくては、小説の地の文としての効果がない。意味がない。でも、わかりやすすぎたりしたら、今度は詩としてのミリキがない……

これがムズい。でも、基本精神は、やはり「説明するな!」だろうな、と。
説明と、表現はちがう。
真の力量ある作家だったら、説明もまたたのしいものにするもんです。まあ自分には、そこまでの技量がない……これにはふたつあって、

 

1)自分には論理的に説明する能力が欠けている。だからおもろい論理構成でもって語れない
2)自分には論理的にしゃべろうとすると、ただの「理屈っぽさ」になる。わかりやすさがない

 

っていうのが。
「だから」説明、よりも表現、にいこう!とするのも、間違ってる感はありますけど。だってそれって逃げっぽいですし。

ええとね、つまり、イチから10まで、ただ説明するだけの文章/創作にするな、ってことです。
それよりは、説明するのも、「ただの説明」に終わらせるんじゃなくて、「わかりやすくも、魅力的な説明」に昇華さすこと……それが「表現」です。

 

また、説明、の害をいうと、どうも俺ら創作者って「脳内のぜんぶを説明したがる」ってフシがあって。
でも、そのすべてを説明してしまうと、いつまでたっても物語がさきに進まず、描写がトゥーマッチ。
おれらの頭んなかには、町の電柱の線が何本、 まで写ってるんですが、読者はそういうの興味ないしなぁ。
だから、省略する必要がある。
これを、ストーリー作劇にまで適応させた考えを、自分まえにしてるのですが、、まあそれはリンクはっておきます

modernclothes24music.hatenablog.com

そう、おそらく「表現」、の神髄は、文字表現も「魅力ある省略」をすること。ストーリーも「全部描かずに、読者の妄想をかき立てるようなストーリー省略をすること」であります。
イチャラブを例にとっても、だいたい俺らは妄想するときって「本文中に描かれてないこと」を想像しますが、それは「本文中に描かれてること」にもとづいた想像ですしね。それだけ「本文」を愛しながらも、同時に「本文中に描かれていないこと」の余白をも、無意識で愛しているのかもしれません。
あまり描きすぎては……いけない。のかも。
この表現論/圧縮論は、まだ続くと想うけど、でもまずは実作していかないと……

 

既存の詩作メソッドを参考に

 

で、詩をどのように「詩小説」としてコンバートしていくか、ということ。

まず自分はレイモンド・カーヴァーの、村上春樹が表したように「あなたの詩は拡大してけば小説のようになって、小説を縮小していけば詩のようになる」……小説を圧縮した形めいた、リアリズム詩」の「形式だけ」を用いて、物語を展開してこうとしてます。

でも、これがなかなかできない。
それも、自分はどうも長年の習性で、「散文的に語る」のを、物語においてはしてしまっている。そのやり方は、自分がやったら魅力ないのに……

詩というのは、基本単発で、「わかりにくい」もんだから、詩です。
……あ、この前提がいけないのかな。詩においても、詩というフォーマット上でのわかりやすさ、ってのあるし。
それに、twitterの1ツイートは、単発であるから、詩の単発性=一個の詩の強度、と同じでもあるな。

こーやっていつもグダグダ悩んでます。だからなかなか、最近はtwitter詩小説がすすまなかった。でも……いま、「説明」を脱することを考えてます。そして省略。それが、詩/小説作家としてのぼくの道なのかもしれません。

それに、このような詩的メソッド、詩作メソッドをつきつめるのって、自分にとって「ラク」なんですね。
無理して向いてないものを努力するより、「ラク」なほうを、それも……好き、であって、ラク、なもの、を努力するほうが、明らかにイイですからね。

というわけで、きょうはまずここまで思考したところで、あけましておめでとうございます。この文章自体が、散文的(しかも説明努力を放棄してる思考のダダ漏れ文)というひどいオチですが。

新年の抱負、死、禅寺、垂直尾翼

こんなことをいうのも愚かしいとわかっているのだけど。それでもここをチラ裏と称して書く。文法なんて知らない。ただ書く。浄化を求めて書く。

 

人生あと5年説

 
あけましておめでたくない話をする。そんな心持ちではない。
やっぱりあと五年くらいでぼくは死ぬだろうと思う。人生から、世間からさよならだ。
そのこと自体は別に前から覚悟を決めてたこと……だと思っていたが、覚悟の決め、なんていうのは、フェーズを追って更新されていくものらしい。完全無欠の「天からの召命」めいた誓いなんて、そもそもあんまり凡人の生には起こらん。パスカルの「火」や、マザーテレサの「コーリング」というのが特別なのだ。あるいは、そのような宗教的感激を受けた者(英語でいうとこの「ギフテッド」にこれも相当するのだろうか)が、すなわち天才なのだろう。それは、透明な鎖に縛られた人生かもしれない。ただ、鎖に縛られること自体一点を論ずるならば、ぼくもそれにいよいよ同じになってきていると思う。
 
鎖に縛られることは、唯一の慰めとして、その鎖がどれほど透明で、どれほど美しいか、というのがある。ぼくのイメージとしては、キリスト教の鎖は、蔓草の巻き付いた透明なクリスタルの鎖で、、そんなファンタジーあり得ないとしりながらも、でも所詮妄想ってのは、宗教的妄想ってのはファンタジーの幻想を求めるのであって。超越とは人間(じんかん)のアレコレをアウフヘーベンしつつも、ファンタジーの要素を絶えず求める。
 
鎖が「役にたつか」の次元では、鎖はすぐに糞尿がこびりついた腐り鎖になるだろう(このダジャレがいいたかっただけか)。功利主義はひとをむしばむ。もっとも功利主義にクリスタルの蔓草を見つけたひとは幸せだろう。が、ぼくはそこにクリスタルの蔓草を不幸にも見つけることができなかった
 
ぼくが求めるのは、どうしても創作でしかありえないと知った。人間世間での栄達も、適応も、どうも自分には「そんなにいらんもの」だとやっと悟ることができたかもしれない。それを考えるならば、やはり自意識ゲーム/承認欲求ゲームは、やはり「自分にとっては」、おろかしいものだろう。
 

適応

 
さっき禅寺に行った。ハツモウデというジャパニーズ儀式だそうだ。その是非はおく。ただ自分としては、キリスト教と、仏教(禅宗)というものに、自分でも意外なほど親しみを抱いているのだとわかった。
その儀式やアイテムのデザインとか。あるいは雰囲気とか。それは、自分のなかに取り入れても悪くない。自分というものと、コンフリクトを起こすものではない。
 
そこで、禅寺の和尚の子供たちがいた。三人の娘だった。まだ幼い。笑っていた。ガキが笑っていた……というと、まさにZazen Boysの「自問自答」の世界なのだけど。
 
 
ガキが……あ、いや子供が笑うこと自体、やはりぜんぜん悪いことではなく、これを悪いことだと断じたら、やはりこの世は冷凍地獄であって。
どうしてもガキに好かれる自分ではないが、そりゃ自分からして好かれる努力をしていないし、好かれたところでねぇ。じゃあリスペクトを求める? それもいらんと思う。自分という人間は……そっち方面の努力が、すなわち「世間で生きる」「人間として生きる」ことならば……
 
ただ子供はすくすく育っているらしい。そしてはしゃいでいる。それは釈尊の教えと合致するのだろう。「」をどーにかしよう、と釈尊はいう。それが、どうも個人的により最近は……この一年あまり、「もっともすぎるくらいもっともだ」と思うようになった。
人生なんて苦界の苦しみである。所詮は苦しみのバリエーションにすぎない。ならば苦しみを減じるほかはない。
子供は子供であるだけで苦しみから逃れているのならば、子供に返るべきか?そうであるような気がして、この数年「オトナオトナしてはあかん」と思って、でもこの一年、「やっぱりオトナオトナしよう」として人間(じんかん)適応しようとして。
 
でもまあ、それも無理だったのかな。無理というか、ふたつの概念。
 
・適応は、創作のための、自分の身の回りの便宜である
・適応で自分が高まっても、それは自分の求める自分としての高まりではない。
 
やはりこう割り切るほうが自分らしい。それはエゴイストだ。だがどう考えても、どう感じ入っても、このエゴイストの考えこそが、自分なのだ。血液型をかえることはできないように。
 
誰かに自分というモノの価値を認めてもらおうと思ったら、やはり「適応してる自分」の価値よりは、「ひとり考え、創作してる自分」のほうの価値を認めてもらったほうがいい。
媚びるこびらないの話でなく。評価軸が人間世間には複数あるのだとしたら、ある一方の評価軸を選んだら、もう一方の評価軸は地に打ち捨てたほうがまだいいのかもしれない話。ラディカルなことをいってるけど、八方美人こそが人間として醜い所作である
 
ただまあ。釈尊は世間での栄達をこそ説いてはいないが、自分をどうにかする、のことはエラク説く。そりゃそうだ。以上の自分の創作さえよければいい話は、自分の「苦」を昇華させ、自分の「くるしみ」を減じることが「できて」はじめて意味があることであって。その生き方が結果的に苦しみを抱くことだったら(そして苦しみの付加が義務だと結論することだったら)やはり違う、と断じなければならないのが釈尊の立場だろう
 
じゃあ自分はどうすればいいのか。たいして世間適応は求めない。じゃあ創作をバリっとやるか。ここで、自分というものを「どれだけ見つめ、どれだけ忘れるか」ということになる。
 
あんまりジブンジブンしてるのも、それはそれで違うだろう。ただ他人他人してるのは論外であるが。
自分というものを、ひとつのモノとしてとらえることができたら、そのとき創作は完成するのか? きっとすると思う。創作とは、自分と他人のバリエーションであって。そして自分のなかの「なにか」と他人のなかの「なにか」の相互スペクトラムのバリエーションであって。
ただそのためには、自分、も、他人、も、ぜんぶ「対象」としてみることができて初めて創作できる。
そのためには、我慢する、適応のため我慢する、というのとは別のベクトルの「我慢2.0」が必要なのだろう。
 
その「我慢2.0」とは、たとえば禅寺の集まりで、世間の皆々様と話があわなくてウズウズしてる自分、というものにふれたとき、「ああイヤだなぁ」と「自分」で思うより、もっと別の形で「生きる」ことなのだと思う。
 
それがなんなのかはよくわからない。イメージとしては、超然としてればいい、というのがあるけど、それが具体的にどんな行動をしてればいいのかというのはわかんない。ただ、迷惑をかける行動というのは違うとおもう。また、年不相応の行動というのも違うと思う。それは適応の問題ではなくて、自分が「どうも理想とする自分とちがうよな」であり、「これは創作に結びつく自分でもないよな」の観点である。
 

垂直尾翼

 
でもイヤは消えないけど、適当にすることはできなくもない。まえはこの適当にする、のこともできなかったけど。
バランス感覚。垂直尾翼。たぶんそこだ。そこを鍛えればいいのだ。
体幹(たいかん)を鍛える、というトレーニングメソッドがある。インナーマッスルを、というやつ。たぶんこれだ。適応は技法
あるが、同時に精神と肉体の垂直尾翼が保たれていれば、、それでいいのだ。あとはそれがどうにかしてくれる。
 
ただそれが一番ムズい、というのも事実。それよりは適応の技術でもってどーにかゴマカシをしてればいい、というのが楽ではある。
だって、それができないから精神病になり、精神病が垂直尾翼を失わせていった、という経歴がある俺。
 
でも、自分自分してるのは、もういいだろう。あんまり、これ、成果がなかった。
じぶんじぶん、というふうに追いつめて考えていって、結果なんか益があったかというと、たいして作品ひとつできなかった。
 
それよりは、精神と肉体のバランス/垂直尾翼を、なんかして整えることが、一番の近道なんだろう。
ひとを見て、自分をみて。で、自分を見続けないで、ひとも見続けないで。ただ、自分の垂直尾翼の感覚を信じる。そのうえで……というか、垂直尾翼のことを、書けばいいのか。作曲すればいいのか。
そうか、創作のバランスとは、そこか。
そうか……


死ぬ話、アゲイン。

 
たぶん、どうにかして、死ぬだろうな、とやはり思う。そのサインも、やはり肉体のバランスが崩れている今だからこそ思う。それをまともにする、とする意義は「生き続けること」の意志の前提なのだけど、そこに見切りを奇妙につけてしまった自分がいる。
その自分を、忘れろ! が、禅宗的考えなのかもしれない。釈尊のいうこともそこらへんなのかもしれない。
 
死ぬことを前提にした勢い、っていうのはある。ただしそれは、前提にしている以上、すり減っていう課程でもあるだろう
すり減っていく課程ならば、「いまある自分」を放出していくことで、創作が苦しいのはそこだ。
 
じゃあ、死ぬまでの5年間で、自分の垂直尾翼を今一度、「ありもの」だけでも思い返して、そこから創作をはじめていく、という考えこそが、自分にとってもっとも手頃かなぁと。
それには、、まず書くべきは、この「5年説」だろう。これがあって、逆説的にいま生きれてる自分だけど、この感覚をまだ創作にまでしきれてない。それもそれでどうか。
 
ちょい疲れたので、きょうはここまで。垂直尾翼の考えが得られた時点で、よかった。これ書いて。

今年一年をマッシヴ振り返る

●このブログの記事更新

 

あんまりしなかったな……2015年はじめは主に音楽記事を更新してましたが、春M3を境に更新が途絶え(ちょっと理由はないわけでもないが、まだ語れない)。

代わりに、イベントレポートが増えましたね。

というか残響さんがアクティヴになったというか。春・秋のM3と、北海道旅行。なるほど……今年は計三回、大外出をしたというのか……この出不精のぼくが……!

2015春M3チェックリスト&ライヴ予定でごぜいやす - 機械と百合とスピッツがぁっ

2015秋M3レポート(前編) - 機械と百合とスピッツがぁっ

北海道旅行記(1日め、北海道到着編) - 機械と百合とスピッツがぁっ

 

毎度のことながら、長文癖は……多少はKAIZENのきざしが……ないか? ないのか。でも、内容のある長文にしたいとこですね。具体的には、論理構成をしっかりした形に。まあ、放言という形でガガガーと書くのも、ストレス解消にはいいのですが。

 

エロゲーマー諸子百家(あとがき)

 

ぼく個人からの観測範囲をもとにした、エロゲーマーの方々をばったばったと書きまくるこの企画。途中間隔は開きましたが、およそ半年かけて、当初の予定通り、20記事アップしました。20人以上書いた、ということは事実なんですが、ほんとうはもっと書きたいひとはいます。また、これ書いてる間でも、「あ、このひとも書きたい!」と思ったひとが増えたり、新たな関係性ができたりしたのも事実。

でも、あんまり続けるような企画じゃないしなぁ、と。どの道ひとに迷惑かける企画なんだし。

あと今だから打ち明けるけど、これ書いてるとき、ぼくが一番文章スランプで、同時に自分の命のはかなさというか、余命というか、この先の人生に一番悲観していたときでした。だからこそ、書き残しておきたかった。

しかし書いてて、そして書き終わって感じたけど、自分っていうのは結構孤独にtwitter言説空間なり、エロゲ言説空間にいると思ってたけど、それは大いに誤りで、相当のひとにお世話になってたな……と改めて。いまさらですが。最後のほう、なんか今の日本の「……絆っ!」ブームっぽい「ありがとう」文が多くなってますが、そこんとこは、自分の素直な感謝の気持ちがあったりします。

なにはともあれ、これを書かせていただいた方々に対して、万雷の感謝を。

 

エロゲー批評空間でのレビュー

 

自分のメインフィールドのひとつだと思ってますが、どうも今年は更新の数が少ない。

残響さんの「その花びらにくちづけを わたしの王子さま」の感想

残響さんの「きみはね 彼女と彼女の恋する1ヶ月」の感想

残響さんの「ユリキラー 淫欲に堕ちる百合たち」の感想

残響さんの「トラベリングスターズ -Traveling Stars-」の感想

 

(全部、エロゲー批評空間の当該記事にリンクがとびます)

 

……ていうか百合ゲー(アンチ百合ゲーも含めば)おおいな!

たしかに今年は、なんかエロゲ言説空間でぼくが、百合ゲ警察、ユリキラー芸人として認知度が高まった感があるけど、たしかにこのえろすけ更新の百合率のたかさ、エロスヶでの百合言説ブチマケ度、twitterでの百合言説を踏まえていえば、サモアリナン。

……このなかで一番力いれたのは、やっぱりトラベル(略)のやつかなぁ。33000字。なんか一日で書けてしまったけど。なぜだ。……まあ、それだけイチャラブとぼく、という観点でいえば、反面教師にバリなってくれた、ということなんでしょうね。

 

●突発的対談企画「庭が出るまで」(仮永遠)

 

発作的対談企画「庭が出るまで(仮永遠)」

twitterのほうでは告知していましたが、エロスケのマルセルさんtwitterアカウント、偽トノイケダイスケさん)と、幾たびも対談さしていただく機会を設けさしていただきました。

半年まえから、折にふれてさせていただいているこの企画、主に「エロゲにまつわる思い出」とか、「エロゲ業界論」とか、「エロゲーマー言説・生態論」とか、「トラベリングスターズに見る、イチャラブエロゲの失敗例」とかを、延々と二人で語っていました。

自分は諸子百家でも書いたように、マルセルさんの論理力、分析力には敵うべくもないのですが、これだけ続いてる、ということは、マルセルさんにとっても、なにかしら益のある形でお話が出来てるぼく、と自惚れていいのかしら。ただ、ぼくの受け答えが、時折ピントをはずしてしまうこともあり……が、そこからまた議論を発展させてしまうマルセルさんなので、敵わねえなぁ、と。ともあれ、今年一年、お世話になりました。コンゴトモヨロシク……。次の課題作品は「吸血姫のリブラ」と「イブニクル」あたりでしょうかね……。

 

●百合論

 

どうも今年は、自分にとって、「百合者」としての考えを煮詰め、土台を築いていく年であったようで。というのも、なんか自分が百合発言、百合論をいったら、なんか引かれるパターンが多くて……。

自分では、普通だと思っていたんですけどね。ただまあ、そのナチュラルに百合を愛好してきたこれまでが、自分の個性になっていた、というのは驚くことでした。

ともあれ、百合姫を読んだり、りりくるを聞いたりする日々であります。

 

●自作CD製作

 

最新情報 - レッズ・エララ神話体系;8TR戦線行進曲

(このリンクが、ぼくの同人サークルの公式hpです)

あ、すいません、これのメイキング記事まだ書いてなかった……。

今年10月になって、突如として1ヵ月で「自作CD、つくろう!」「作曲しよう!」と思い立ったのですが、まあそこからの濃密な1ヵ月といったら。

そんで、無事完成しまして、秋M3で委託配布(無料)させていただくことになりました。ぼくもじかにM3会場で行って、いろんなひとに手渡さしていただいたぜ。

まさか自分が作曲できるとは思っていませんでした。いまでもふしぎです。

でも、次回はもっとちゃんとしたものを作ろう。というわけで、来年4月の春M3にむけて、現在フルアルバム作成中です。

 

●自作小説

 

うえの自作CDの元ネタとなった、自分の小説。今年は大して進んでいませんでした。

 

ncode.syosetu.com

 

togetter.com

 

VRMMO旅小説に関しては、どうもなんか今までの作品よりは人気を博したらしいんですが、どうも失敗だったかなこの小説……と今は思っているところで。更新はどうなるかはわかりません。

twitter小説/Togetterまとめ、に関しては、おおよそ15くらいのまとめをアップしてますが、このほとんどが今年更新のですんで、まあそれなりにやったほうではあるのかな……と。

でも、twitter小説に関しては、来年以降、もっとバリバリにやってく所存です。

 

●地下室TIMESさま寄稿

 

音楽webマガジン「地下室TIMES」さまに、音楽記事を寄稿させていただきました。今年はおおよそ8~9記事くらい。ありがとうございます。

残田 響一 | BASEMENT-TIMES

(ぼくの書かせて頂いた記事一覧です)

自分としては、ここに寄稿させていただくようになって、およそはじめて「ひとに読まれる文章」というものを自覚したような気がします(いまさらかいっ!)。ひとに読まれて、ひとにとって価値あるコンテンツ。

今まで、そういう視点がなくて……自分の吐き出しを、文章にもとめていたんだなぁ、と自分のエゴイスティックぶりにびっくりですよ。でも、地下室TIMESの担当さんと一緒になって文章をエディットしていって、自分の文章のよさと悪さが一目瞭然になって、感謝しております。

ここ半年ばかりは、寄稿させていただいてないのですが(エロゲ批評と創作で手一杯だった)、またよろしくお願いします。

 

●このブログ改名

 

「機械と百合とスピッツがぁっ」ていうタイトルに変えました。

のわりには、模型記事も、スピッツ歌詞で百合妄想!記事も、更新していません。すいません。狼少年で。ネタだけは……ネタだけはある……!

あとは書いて更新するだけですね。それをしろ。それをしろ。

とくに「スピッツ歌詞で百合妄想!」は、自分でやっててたのしくて仕方がないので。

 

●Pretty×Cation2地政学

 

地政学の視点から見る咲宮市地方都市論、序説ーーPretty×Cation2レビューメモ(1) - 機械と百合とスピッツがぁっ

年末から唐突にはじめた、プリティケ2レビューのための資料。こんなことやって誰得だろう……。

ともあれ、プリティケ2の舞台を自分で妄想して分析してみる、という企画。そういうことをすることによって、このゲームの「箱庭」感、そして俺と穂波とのダイアリーを、俺なりにつむぐのだ……(キモい

 

 

●来年もよろしくお願いします

 

……以上、つらつらと今年を振り返ってみました。なお、インターネット上での活動を主に書きましたが、実生活では……仕事が増えたり、仕事のやり方をかえていったり、と、結構大変でした。なんとか適応するのに頑張っています。昨日も日付変更直前までやってたし、仕事……。

まあそれはともかく。

来年は、ブログをもっと更新していきたいですねぇ(ほとんどのブロガーが書いていそうな言葉)。

ビジョンは見えていて。

「自分なりの思考を、文体も、文章のまとまりも、思考の論理性もかなぐり捨てて、書きまくる」、ほとんど思考物置のように書く、というものです。

そうしていかなきゃ、より「価値のあるキチっとしたテキスト」や「自分らしい創作物」もかけないだろうなぁ、と思って。

せっかく、数年続いた場所があるのですからね。使っていかねば。ということで、来年からのこのブログは、今まで以上に訳のわからない文章が増えると思いますので、立ち去るなら今だっ!

今年一年、ありがとうございました。では、ぼくはとりあえず年越しエロゲをすることにします……(オチはこれ)