残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

遅ればせながら、Art-Schoolの2ndアルバムと自分の迷いon 2017-2018のおはなしを書いてみる。

ピクシーズは「Trompe le monde(世界を騙せ!)」と放ちました。
だがアートスクール=木下理樹は、どうもその方法論を採らなかった/取れなかったようで。
頭が悪いわけはない。
でもここで、雨が降っている。
刃のように


そんな訳でART-SCHOOL※の2ndアルバム「Love/Hate」の話をします。 

 

mywaymylove00.hatenablog.com

 

※……以下アート、Art-School、≒木下。表記揺れを推敲するのが正直めんどかった


●聞くに至った経緯

 

なんでか自分は、主に90s~ゼロ年代初頭の、日米のオルタナティヴ・ロックを愛好しながらも、アートスクールを経由していなかったのですね。多分、発表当時なんとなく聞いた「ILLUMATIC BABY」がよくなかった。

 

リフの強靭さはよーわかったが、「うーむ、キャッチーが過ぎる」という、何だかトンチキなアート体験から入ったもので、「アートはちょっと違うのかなぁ」と思ったものでした。

しかし月日は経って、自分はTwitterで、自分と同じオルタナ音楽愛好者である「カナリヤ」さんという方とお知り合いになりました。

modernclothes24music.hatenablog.com

カナリヤさんにとって、アートはとても特別なバンド。もう一回張りますが、本当のバンド愛に基づく記事が書かれています。

mywaymylove00.hatenablog.com

「この時代に今更これを語る?!」とご本人は韜晦されていますが、読み手からしたら「このタイミングで語るからこその、オルタナ屈託と愛よ!」と思ってしまいます。その通りでして、この記事があって、改めてアートスクールというバンドに興味がわき、その場でネット通販で注文して、聞きました。良い。非常に良い。カナリヤさんにも感想を書かなくては……

 

と、思ってはいました。
そこで、自分の真のトンチキが起こってしまいました。

2017年11月。およそ10年ぶりに、再びの入院。まあ、10年前は半年間強制入院でしたが、今回は5日くらいの短期入院。まあ、どちらにせよ「やらかした」は間違いないです。

そこんとこは、退院後に、この記事で書きましたが(あまり見んくていいです)。
まあ、病気の具体的かつ病理的な詳細はここで書かんでもいいのです。問題は……心象風景、っていうか。


●アートは自分を加速的に追い詰めた

 

「死ねよ」
と。

 

当時のあのうっすら感じていた孤独感っていうのがマズかったか。病院に入院して、まずはスマホを取り上げられて。
当然ですね。重度コミュニケーション依存症とでも呼ぶべきノイローゼだったのですから。入院前、「あれをしなくちゃ」「あれをやらなくちゃダメ」「あれをしなければクズ」そんな強迫妄想ばっかり。

それってよぅ、誰かの奴隷になってってるというのと同じじゃありませんか。誰かに好かれたい、というよりは、誰かに嫌われたくない、っていうニュアンスの違い。それでも、自分の「奴隷化」は止まらない。そして頭の良い自分は「奴隷化」してってる自分自身を見下し、恥じ、そしてやらかし、入院した、ってわけです。

奴隷を解除するには、まずは鎖を解かねばならない。だからスマホ没収です。
「いや? スマホなくても大丈夫だし?」と没収された当時思っていました。1日目。ほーら楽だ楽だ。自分は奴隷なんかじゃないゾ!と。しかし1.5日目(早!)。「誰かが自分を噂している!」という妄想が沸いてきて、スマホ取り上げられるより前と同じくらいの精神の揺れ!

音楽を聴かねばならない。文字が読めないのだから。
というわけで、Nine Inch Nailsはさすがにマズいなー、人間椅子もどうよ、かといって同人音楽もなー(当時、同人音楽界隈の過去の悪しき記憶もフラッシュバックが酷かった)。じゃあ、アートスクールだ、こないだ買ったばかりだし……

考えたらこのチョイスもちょっとおかしいですね。NINがダメならアートも、って思いそうなものを。でも、何か「きれいなもの」に触れていたかった、というのがありました。逃げで。
そして、聞きました。

……あのね、弱った人間が、ごうごうと流れる滝で荒行してはいかんのですよ。あのとき感じたのは、「瀑布」とでも呼ぶべき、大轟流でした。水のような音が勢いよく降り注ぐ。折しも1曲目は「水の中のナイフ」。ぎゃーなんというシンクロ!

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心象風景の受信機能までは死んでいなかったというか。あるいは本物の「表現」は、なんなく自分をブチ抜いていく、というか。
でも、キツいっすよ。その「音の滝」は。轟音も確かに弱った耳にはキツかったけど、もっとキツかったのは、木下理樹の「孤独な心象風景」そのものでした。

 

「こんな世界でこいつ(木下)は生きてんのか……」と。


●世界を騙せ

 

木下は1曲目「水の中のナイフ」で、「ああ、俺って【欺ける】ようになっちまったんだな」という心情を歌っています。そんな自己嫌悪からこの盤ははじまります。
いわゆる「世間ズレ」って言葉がありますが、その通りに世間に上手く適応できてったら、痛くなくて済みます。ただ、何かと代償に。

わたくし自分自身もね、主にTwitterランドSNSで、それなりに上手く立ち回ったんだと思うんですよ。目に見えるアンチもいなかった。うまくは立ち回った。そしてとくに欺いてはいない。ただ、この「上手くやってる」自分に、ときたま猛烈に吐き気がしました。もちろんこの吐き気が、入院にまで至る布石になってたわけです。

欺いてはいないさ。ただ、物凄くそれ以上に欺いてる気がする。何を? おそらく、過去の自分を。あるいは、過去の自分との神聖な約束を。貫くべきことをどっかでナアナアにし、適応し、納め……。上手くやった。うまくやったよ。それは「定量的な事実」だ……

 

……だから何だ。薄汚ぇ。
少なくとも、アートスクール木下理樹は、そんなことはせずに、この名盤を生んだ。

「そんな上手い立ち回りをしなかった」からこういう美が生まれたのだろうし、それゆえに木下はこうも傷ついている。こいつがこう傷ついてるのは自業自得だ。
……そんな論法を使っている自分自身に、さらに吐き気がした。ああ自分も大人大衆になったよな、と。

自分は、自分が世界で「わりに孤独」っぽい立場でいることを、誇りに思っていた……のが、(明らかに)数年前。少なくとも、大学院のときは、孤独という状況に心底誇りと居心地の良さを思っていた。
確かに、正直言えばどこかで「繋がり」には飢えていた。だけど、やはり根底では、ピッと澄み渡った冬空のような清廉な孤独を選んだ自分を誇りにも思っていた。

そんな日々を遠くして年月は経り。さーてそれが、今やTwitterフォロー数300以上、フォロワー数450以上になってる自分だぞコノヤロウおおぉぉうぅぅぅぅ。巨大なツイッタラーの人からみたら、大したことない数字なんでしょうが、自分にとっては……「過去の自分」にとっては大きな数字だ。その中で「上手く立ち回った」。「繋がり」も得た。なるほどねー。

そういう八方美人の姿は、自分自身にはイマイチ確認できず。他人には明瞭に見えるものであって。あるいはここで「他人」ってものを持ち出すのも、すでに囚われてる証拠で。

別に他人に対して、わざとイキってヘイトをぶつけるという欲求はないです。それはない。しかし、「自分のアバターキャラ」をうっすら認識してる自分自身、にも気が付いた。そうかい、これがパブリックイメージ・リミテッドって意味かい。百合警察、めんどくさい模型オタ、Twitter某氏某さんの取り巻き、うまく立ち回ってるやつ……。

 

アートスクールが自分に見せたものは、いくつかある。

  • 1)圧倒的な孤独な木下理樹心象風景の美
  • 2)骨太なオルタナバンドサウンドの美
  • 3)そして骨太な孤独(の美)になんてなりきれてねぇおれ自身!!!

 

 今の自分って、
 なんなんだ。病院の中かよ。

 

 そして、アルバム後半までナントカ聞きましたが、もうダメだ。アートスクールをこれ以上聞いていられない。
 自分は、ウォークマンを手放しました。
 もうこれ以上、何も騙せない……したくない。


●静かな日々

 

とにかく、一応の生存報告だけTLに書いて、あとはただ静かな入院生活。
時計の針が刻む音というか、風がびゅーと吹いていく冷たい秋の音というか。

退院してから、それでも現実は動く。
時間は経つ。時折、ダメになって咆哮しながらも、時間は経ち、事態は流れる。数年間ネットでお付き合いさせて頂いてた、自分が敬意を持ってた人に「病気治るまで話したくない」と言われ。いくつかの、うまく立ち回っていたが故の縁が、潮が引くように断ち切れて。

 

あくまで心象風景なんですけど、以下のは。


ーーーまるで月夜だ。
おぉーっきな満月が大洋の上に浮かんでいる。
黒い海のたもと、
渚に自分は立っている夜。
あっちはあんなに輝いてるな……

っていう、心象風景(幻視です)
ざざーん、ざざーん。

 

心象風景おわり

……ああ、いろんな人に嫌われたな。正確に言えば、多くのひとにとっては、自分っちゅうのは、斬っても別に支障ない存在だったから、ひょいと切られた。まぁ当然である。
そして、自分自身が、「大事に思っていた人を、こうして傷つけている、典型的な善意ヅラの悪人」だと自然と理解が出来た。こりゃ腐ってる、腐臭が出てる。気づかずは己ばかりなり。

そんなブツ斬れ感のある、生々しい「孤独」さが、再びやってきました。酔いようのない孤独です。冷えた頭にはそれが理解できる。


氷を砕いて歩こう
何も話さなくていい
何より澄んでいるから
冷たく乾いた朝に

ーーー「Butterfly kiss」

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静かに、静かに。
今にして思えば、入院の時の「静けさ」っていうのは大事でした。そしてそれからも続く静かな日々、孤独の、この冷えた静かな感覚があって、以降の「迷わない」にもつながるんですが。


それでもねー、なんだか……。この冬の朝みたいな(実際冬でしたが)、澄み切った朝の孤独感。実際に放り出されたという。

自分が悪いのはわかっている。
その一方で、自分の立ち回りには根源的に意味がなかったのだとも知る。

でも、そんな中、自分に声をかけてくださった方々、今も見捨てずお付き合いいただいた方々には、ほんと感謝しています。

 

●迷わない

 

ーーー以下の「(もう)迷わない(だろう、たぶん)」の今でも続く心境は、当時から「おいおい、それかよ」って気もしてますけどね。今もしてる。ただまあ、そんなに悪い感じでもない。

 

年が明けて、2018年正月。


光の中へ君は
触ろうと手をのばしたのさ

ーーー「Butterfly kiss」


思えばずーっと、何かを求めていました。自分には適した「表現手段」があるんじゃないか。生活を一変させるライフハックがあるんじゃないか、とか。
自分が、自分であるだけで肯定をしてみたかった。
ずっと、そんなものをもがいて。

「そんなものはない」と割り切れなかったのは、この世にはそんな「ある時、【気づき】から、絶望からの飛翔が成った人々」がいるから。NINのトレント・レズナーだって。人間椅子の和嶋だって、そうだ。


この曲に限らず「光」は木下理樹の書く詩によく出てくる言葉ですが、もっぱらネガティブな結果をもたらす象徴として描かれているように思います。【暗闇の中でもがき続ける人がいるという事実こそが、絶望した人間にはある種の救いになるんだ】という思いがソングライター木下理樹の信念であるとすれば、希望を想起させるような明確な善のイメージ、手を伸ばせば届くかもしれないと思わせるものこそが絶望に他ならない、ということかもしれません。
ーー6. アパシーズ・ラスト・ナイト(上記カナリヤさんのアート2ndのブログ記事から)

 

光の存在さえ、知らされてなかったならば。きっと無感覚に日常をこなしていって、りっぱなおとなになって、きっと誰をも傷つけずに生きられたのだろうな、とか。そうなればきっといろんな人から認められて、すげーとか言われちやほやされて、結婚して子供が出来て、ああ畳の上でやすらかに……

でもまぁ、自分の居る場所は、ここです。暗い。

木下理樹の「光=ネガティヴ結果=絶望」というのは、以上の文脈から、なんとなく、自分なりに、わかるような気がするのです。
白い光のなか、奔流がそこにあって、それに「乗れ」れば、きっと消えるように幸せになれる。暗闇はつらい。少なくとも自分は、もういい。

だからといって、あの白い光にすうっと消えてしまうことで「良いのか?」とも思う。


光を浴びて君は ずっと子供みたいさ

ーーー「Butterfly kiss」


自分は、子供になりたかった。子供のままで居たかった。でも、うまく立ち回ってる自分が子供でないのは、やっぱりどっかで承知している。
アートの1stの「Requiem for innocence」とは、ほんと凄いタイトルですよ。

自分、自分、とね。自分にこだわりすぎだ。


いよいよ病んでるなーと当時思ったのは、何回も引用してる4曲目「Butterfly kiss」の終わりでの「tonight」がカナリヤさんには「ツレイ」と木下の拙い英語に聞こえたそうですが、自分にはこれ木下の「辛い……つらい……」という嗚咽としかマジで聞こえなかたのですね。ああアート木下よお前もつらいんだなぁ、と。これもこれで病んだ聞き方ですね……w(天然

そんな「光の希求」の日々(迷い)でした。2017年まで。文章(小説、レビュー)でもうまくいかず、音楽(同人音楽CD作成)には希望が見えてきたけど、まだ自分のスタイルを確立しきれていず。いつまでこの「光」を求めるのを続けるのか。もうやめちまったほうがいいのか。それでも、「光」を求めている。こんなの求めるから絶望の切り刻みだっていう話なんですが。「光」を求めるからこんな人生で、この歳(32歳)までロクなもんにもならず、疲れてばっかりで。混乱はいつまで続く、迷いはいつまで続く?

つらい。
つらい。
何度、「love/hate」の歌詞のように「もういい……」と思ったことやら。

 

それでも、幻視は止まらない。生まれてこのかた、この幻視が止まったことはない。孤独さを冬の朝の風景に思ったり、孤独さを月の夜に幻視したり。そんなのが続いてるから、やっぱり自分自身の「表現手段」っていうのがほしい。

今となっては、TwitterのRTもfavもいらない。ブログ/HPアクセス数もいらない。追い求めて心動かされて、結局「ここ」に辿り着いちまったのだから、同じことをやってもね。とにかく「他人」は、もういい。いまは、とにかく「自分がこころから確信できる表現手段」がほしい。
でも、見つからない。ライフハックブログを何回読んだだろうか。こんなの徒労だよなと思いながら本を読んだ。

 

……

…………

………………

 

ところが、あるとき。ふっと。いくつかの事が連続して起こりました。

……はじまりは、なんとなく、コラージュアートをはじめたあたりでしょうか。あろんさんのSSの3次創作や、M.MさんのHPのファンアート、feeさんとの対談のシメとしてのコラージュを作ったときあたりから。

 

 


編集」芸術、というスタイルを通して。そのあたりから、何かが結びついていく感じがしました。

・「完全壮大なるオリジナル」は作れないかも……けど、こうして、これまでの人生でこころ動かされた各種創作物を自分のなかでこねくり回して、編集(コラージュ)して、何かに出来るかもしれない
・まだ自分には、文も音もあるじゃないか。足りない「絵」は、必要な分だけ技術を学んでいけばいい。コラージュに必要なぶんだけ。細密画は出来なくてもいいや
・間違いなく楽器の「プレイヤー(演奏家)」ですごいことになることは、ない。でも、自作曲の最低限の演奏が出来て、音源に出来れば、それでいい(全く同じ理屈が、文章や絵にも言える)
・お前は結局10年間、なんだかんだで自分の創作世界「レッズ・エララ神話体系」を作り続け、捨ててないってことは、誇っていい
・お前はあほだ。「実際に手を動かして」ようやっと必要なものがわかる……

……そこが、スタートなんだ、と。


●今

 

2018年、春のM3出てきたんですよ。こういうの作って。

2018年春M3新譜 – 8TR戦線行進曲

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いや、今度こそダメだと思いましたね、制作修羅場でw でも作れた。
その間、やっぱり音楽は聴いていました。主に人間椅子なんですが(影響モロわかり)、その他にも、アートスクールの、この2ndを、制作中、よく聞いていたんですよ。

なんというか、木下理樹の見たこの世界。これって、どう足掻いても揺るがすことのできない、木下の幻視なんですよ。
迷う余地がない。いや、木下自身の人生には迷う余地ばっかだと思うんですけど、結果幻視(み)ることの出来たこの心象風景は、ゆるぎない。
あるいは、彼がこれだけ迷ってきたから生まれた世界「だからこそ」、その強度はあまりに強い。そんな世界を、表現せずに死ねるか、っていうね。

で。
カナリヤさんに、まずこの盤の感想をちょっとだけ、アートのライヴ数分前に贈りつけるっていう鬼畜をした残響なんですがw

 

 

 

 

 

 

 

 
今になって思えば、この仮説の立て方も愚に近いかな、と。木下の幻視(み)る世界は美しく、木下を取り巻く世界は痛く切り刻む。そして木下が伝えたいモノはこの世界の奥底に巧妙に隠され(しかしパッと分かるときはあまりにアホなほどわかりやすい)、木下が繋がりたいと希求するこの世界は美しい。矛盾はしていない(していないのですよ!)

そういう木下の「希求」は、彼の「ソロ形態」では、十全に描き切れない。木下は自分のバンドメンバー(のサウンド)を「使って」、自分の幻視を表現する。なるほど、そう考えればアートのメンバーが変わりがち、であるというのも、納得かもしれない。「自分は表現装置じゃねえんだぞ」というアーティストシップを、他のメンバーが抱いても。それでもアートスクールのメンバーたるを選んだのは、木下という「青年」の「幻視」にとことん惹かれたから、なんだろうな、と(それでもいずれ袂は分かつ)。

あるいは。木下にとってそういう「類まれなる表現装置」である他のメンバーも、ある意味所詮は「自分が嫌った世界の一部」という風に見えるのかもしれない。メンバー……つまり、「これ」も、やがては世界の一部として自分自身を切り刻んでしまうのかな、と。
もしそういうエゴイズムが成り立っていたら、っていう完全なる仮説に基づいて話をしてるんですが、そう考えたら、少なくとも自分のなかでは話は成り立つ。

 

ただ。
それでも、それでも。
バンドサウンドを木下理樹が求めるのは、自分以外のバンド/メンバーが、嫌う世界の一部であっても。それでも……例えばライヴ。例えばレコーディングのバンドマジック。そこでさらに生まれる幻視以上の表現世界っていうのは、木下にとって本当にうれしく、喜ばしいものなんだろうな、と。だって、自分の幻視世界をも、塗り替えてくれるバンド表現世界なんですよ! おそらく、そこにおいて、木下は、他のバンドメンバーが表現してくれる、ってことを愛する。彼らの表現を愛する。あるいは彼らの人間性も……

なんだよ、木下理樹は一番のツンデレかよ! 
って話なんですがw(オチがひどすぎる

 

そこで、カナリヤさんの今回のアートワンマンライヴツアーのレポなんですが。

mywaymylove00.hatenablog.com

いろいろこのレポで紹介された曲を聴いて


木下理樹の幻視世界っていうのはこんなに多彩なのか」
木下理樹を傷つける世界っていうのはこんなに多彩なのか」
「バンドArt-Schoolの表現世界っていうのはこんなに多彩なのか」
「それと袂を分かつかもしれない木下(のアーティストシップ)っていうのも、お互いにとって大変だよな」
「でも木下はそんなバンドメンバーが好きで、ファンもバンドメンバーもそんなリッキーが好きなんだろ! こらっ!ツンデレ!」

 

というある種の確信が持てる、バンド愛のライブレポです。この記事読んだ方は絶対読んでください。

こないだ、この雑誌買ったんですが。自分のM3新譜のMIXの参考になるかと思って。

 

で、アートのインタビューがあって、戸高(トディ)の「女房役」っていうのももう堂に入ってますね。トディもトディで非常にマニアックですから(Phantom FXももうエフェクター界のトップブランドですよ)。でも、そういう人が木下の近くにいてよかったなぁ、と。「俺は俺でやるよ?」ってタイプじゃないとキツいと思います木下の女房役っていうのは……。エロゲヒロインで例えると……(やめなさい)


にもかかわらず、カナリヤさんがラストで言うように、アート木下も、アートのファンも、「んでいるはず(少なくともポジティヴではない)」と確固たる自信で言うのも、非常に納得ですね。これをさらに言い換えると、「木下も、ファンも、わたくしのような新参リスナーも、何かしらの心象風景と屈託を抱え、迷ってきている」と言いましょうか。

それで許される問題でもない」っていうのは重々承知で。
でも、こういう音楽/表現と、木下という青年(いつまでも「青年」でしょう)が居ること、っていうのは……本当「絶望の救い」という。カナリヤさんが表現なさったあの「感じ(ニュアンス)」が、オルタナ者として非常にわかる。

安易に「おれたちの代弁者!」っていうロキノン文体するの、大嫌いなんですが。別に、木下は誰をも代弁はしていないでしょう。自分たちリスナーは、勝手に木下(アートの表現)に、自分たちのいろんな心象風景を見る。それでいい。それで、勝手に救われたり救われなかったり、でも長い目で見ればやっぱり救われて少しゃ歩いている。いつか迷いも抜けるかもしれない。このクソ残響でさえ迷いをある程度抜けられたんですぞ。2017年の残響を見てみなさい。そんなの信じられるはずがなかった。信じようと一番もがいてたのが自分なのだから。

しかし、しんじなさい。いつか、やってくるから。
そんで、この文章もやっぱり、「いつか再びもがくであろう」自分に向けて書いています。多分、もがきます。またトンネルに入るんじゃないか、って思います。その恐れは重々わかる。

でも、そしたら、
「また手を動かしてなんかを作る」=
「創る手そのものにしか、自分という存在は居ない」=
「幻視が止むことない限り」

こういう結論に至ったのは、確実にArt-Schoolの「love/hate」の精神性と幻視に触れたからだし、それを紹介してくださったカナリヤさん(いや、「託してくださった」と表現した方がより適切か)には、こちらも勝手に感謝して、この文を閉じます。
なんだかんだで、自分も一周しました。
これからもどうかひとつよろしくお願いいたします。