残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

過去日記抜粋2007年分

070411
わたしは絵が描けない。だから文章で絵を描くのだ。散文・詩・物語、そう、わたしが最重要視するのは「絵画的コンポジション」。そのために今必要なのは、情景のデッサン力と、比喩の鮮やかさ。

070505

だれがだれを腹のなかで軽蔑しているかわからん。サブカル先端競争において、すでに知っておかねばならない「知識」の量とやらで、人はどんどん馬鹿にされる。ああくだらない。そんな日本の文化状況にはたはたうんざりしたのももう一年前。事態は(わたしにとって)良い方向には進展していない。ただ、「自分で取捨選択できる」ようになったことがうれしい。こんなほんの少しの人格的成長が嬉しい。
だれがだれを腹のなかで軽蔑しているかわからん。そんな時代においても、多少の信義というものはあるはずだろう。きっとメールもチャットもそれの手助けをしていることだろう。しかし、人間関係というもの、所詮は泥人形とおなじよ、泥水をあて、こねくりまわす平たい造形物にすぎないよ。まして村社会。わたしは二重にバリケードを張らねばならない。わたしは誰をも傷つけてはいけない。そしてわたしの空間の中に他の空気を入れてはいけない。
だれがだれを腹の中で軽蔑しているかわからん。それでも友と呼べる人がいることは幸いだ。プラスチックの柿のように壊れやすいものだが、大切なものだ。しかしわたしの錯乱状態になってしまえば、そういう存在をも忘れてしまう。自分の錯乱状態……それは激烈であるときもあれば、石版のようにのっぺりとしているときもある……水をうったような静けさのなかにとろりとながれる悪気もあれば、論理が完全に崩壊したときもある。
わたしにはわたしがわからない。この四年間を振り返る(BGM・ネクロファンタジア)……わたしが得たもの。芸術の高み、ジャズ、孤独、内省
わたしが失ったもの。メッキの明るさ、メッキの道化、フットワーク
結局いまのわたしという実像はどうだ?どうだろう?
……この問いは答えのない問いだ。だから堂々巡りだ。
……わたしが得たもの。芸術・娯楽における取捨選択、精神安定剤、詩人の孤独
……わたしが失ったもの。かつての虚妄の情熱、精神文化の小さい枠、狂気への幻想。
そうだ、わたしが知ったのは狂気への嫌悪だ。あの「気持ち悪いもの」への嫌悪だ。
……どうしようもない文章。これがメソポタミア文明の粘土板に記録されなかったことは幸せなことだ。これがデータというものだ。

070811
今のわたしにとって文章を書くことは確かに精神的リハビリテーションであるな、と時々思う。そしてそのリハビリに、なんだか妙に固執している自分がいる。もっと書けもっと書け、という風にわたしを急かす。なぜだろう?
文章を書くことによって気持ちが整理される。うん、確かにそうだ。けれど、それ以外に何かがあるように思える。上のテーゼにはもっと深い意味があるように思える。そうだ、「気持ちを整理する」ということの奥深さだ。われわれの心は実に、論理的な入れ替え、並び替えというのを好まない。不可思議な方法をもってしか、実際には心というものは整理されないのである。実にユング的に。

070816
小説を書くことは夢を日記にしたためることと似ている。違いは、自ら意識的に作り出したものであるか否か、という点だ。しかし、小説を作る際において、全て作家が意識的に作り出す、ということが可能か否か。これは芸術における無意識の問題である。
ただ、夢日記の場合、往々にして自分のトラウマだか封印した何かだかに突き当たるのに対し、小説の場合、自らが好きに作り出した物を相手にするのだから、やりやすいと言えばやりやすい。
作家はどこまで意識的な創作というものが可能か。自らが作り出した森の中に彼らは入っていくのだが、その森に何があるかは彼ら自身良く分かっていない。自らが作り出した物は森の断片だけである。その断片から森の奥深くを探求していくのである。
何のために? 自己探求ならば他の方法があるだろう? それはそうだ。
きっと、宿命的にそれをせねばならない人種が小説家なのだろう。