残響の足りない部屋

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Krik/Krak試論(1)

●フォロワー


Krik/Krak(以下、ときにくりくら)を知ったのは、例によって悶絶メタルのページさんで。というか同人シンフォとか同人ゴシックとか同人幻想とか同人メタルとか、ここあたりからしか情報得てないような……(賛辞です)。
で、このページで非常にプッシュされていたのが、このユニット「Krik/Krak」。
その音世界、豊潤にして、幻想。……「だが」、と留保がつく……ファンにしても、演っている本人たちにしても。
本人たち、こう語っている。

「初期Sound Horizonがすべてのはじまり。しかし第二期以降のサンホラを認めることが出来ず、自分たちで理想の音世界を作っていこう」

というのが、結成の動機である、と。そして追及する世界も、音像も(about欄参照)。

無論「作者、自作を語る」の信憑性がどこまで正しいかは議論の余地がある――実際、この試論ではその逸脱性(=「そこまでガチガチにモロ初期サンホラフォロワーだろうか?」)をある程度検討する――のだが、まあ、確かに、「ここがサンホラ!」「ここなんかモロに引用してる!」の数々がある。

パクリ?
……例えば、パクることによって、名声を得たいとか、手っ取り早くシーンでの地位を確立したい、とかだったら、それはヘイトの対象だろう。

だがこの場合、「そもそも自分たちは亜流である」と明言して、ファン/リスナーに対しても、それ(自分たちの音楽、Krik/Krakというユニット)を織り込み済みで展開していくことを、最初からやっていっているのだし……そもそもここは同人である。そう、そもそもここは同人である。

それは開き直りというよりも、わたしが思うのはむしろ、彼女らが誠実にこのスタンスを表したこと。それに対して、こちらも誠実に向き合おう、そして評価しよう、と思わせる。

なぜなら、それは、試聴音源を聞けばわかるのだ。模倣からはじまり、追及し設定する最終地点も「限定された高み」かもしれないが、そこに本気が見えるから。手づくりの音楽のあたたかみがあるから。


もうちょっとこの「フォロワー」を巡るいくつかの諸相について検討してみよう。

例えば、ロキノン系(ゼロ年代からこの10年代に至るまで)の多くのバンドが、「結局は初期ナンバーガールのフォロワーでしかないではないか」的な音をして、次から次へと雨後のタケノコ・ライジングのように出てきて、潰えていく場面を、この十年来の国産ロック(オルタナ)を知る者なら、よく知っていることだろう。

で、さらにこの現象の問題なのは、「いわゆる」ナンバーガールのサウンド、しか追及していない、ということなのだ。

ギター2本で、ささくれだった歪みサウンドを、軽めでありながら激しいビートで歌う。どこか東洋的(しかし歌謡曲まではいかない、詩吟に近いもの)な歌心を、ときに叫び、ときに嘆くように。

いや、それが悪いわけでは全然ない。
それはナンバーガール向井秀徳がこの音楽シーンにもたらした音楽的遺産である。
例えばそれはチャーリー・パーカーがその後のジャズ・シーンに残したイディオムであり、ジェイムズ・ブラウンがその後のブラック・ミュージックに残したイディオムであり、YMOがその後のテクノシーンに残したイディオムであり……そういったものと、同一の「シグネチャー」である。

如何にその後亜流が増えようとも、セザンヌマティスの絵画の価値が減じることはないように。もっと簡単に例えれば、その後如何にトンコツだの味噌だののラーメンスタイルが増えようと、ラーメンというスタイル/味/食感……「存在」が生まれたことを、誰が責めようというのか。

問題なのは、「最終目的地点」を「ある一点」に定めてしまうことだと言える。

よく考えてみよう。初期ナンバーガール、彼らの年齢は、20代そこそこの若者である(詳しくは各作品でのベーシスト・中尾憲太郎○○歳的クレジットを参照のこと)。
その若者が作った歌詞であり、歌唱であり、音であり……ようするに「若い激情が作った音」の青臭さを、干支が一回りしたようなアラサーどもが絶対神聖視して、「俺らの音の最終目的地点」を、「向井の20歳付近」に固定してしまうこと。
なにかいびつなものを感じてしまうのは、わたしが変だからだろうか。そうでないことを祈る。

前にわたしは、現在の岸田教団をめぐる、いくつかの疑義について書いた
だが、この記事のこんな迂遠な書き方をせずとも、ただ単に「岸田教団は初期のナンバガの世界を神聖視しすぎのままでいいのか」的な書き方でよかったのかもしれない。
そして、さまざまなフォロワーが潰えていったり、あるいはそのパクリッシュ体質が、冷めざめとした様を呈するのは、「フォロワーである」という事実もそうだが、より突っ込んで言うなら、「フォローするミュージシャンを固定化してしまっていること」にありはしないか。

つまりそれは二重の意味で裏切っているのだ。フォロワーバンドの発展性を望むファンと、フォロー元のバンド/ミュージシャンの可能性を掘り下げ切っていない、という二点で。

ではKrik/Krakはどうなのか。

おそらく、本人たちが、フォロワーである「やましさ」を感じているのは、自分たちがRevoのその後の可能性である第二期~リンホラ(Linked Horizon)の可能性を否定している(わたしは彼女らが、未だにサンホラを、落胆しながらも聞き続けていることを信じている)ことからきているのだろう、というのが、まずひとつ。

そして、先に述べた「最終目的地点」を、ある一点で固定してしまっていることへのやましさ。
すべての芸術が、アメーバ状に広がっていくことが、善であるとは言い切れない。が、固定することは、自然と「閉じた芸術」になることを意味する。ひとはそれを言うかもしれない、マスターベーション、と。

それを踏まえて、Krik/Krakをわたしが語ろうとするのは、彼女らのフォロワーたることを断罪する……わけがない。だったら、先に彼女らの音楽を「あたたかい」「手造り」と書かない。(わたしはこれらの言葉を、矜持にかけて悪い意味では絶対に使わない)

ああ、書き方が乱雑になってしまった。まだ最初のほうだというのに。
では以下では、ある程度ポイントを絞ってKrik/Krakを賛辞しよう。

・傑作「オフィーリアの涙」
と、
「Akt.2 黒い森 (連動のSchalter《Α》、彼方にて幕は閉じ)」 full ver.
の分析から、彼女らがサンホラフォロワーに留まらない才能


・初期サンホラのイディオムとは?
1.音像・音形における独自性
2.密室的音響=箱庭世界


では、分析に移るとしよう。なお、すべて理詰めで語るが、これらは所詮、Krik/KrakとSound Horizonに対する、わたしのファンレターにすぎないので、客観性とか期待しないように。以下の文章は、結局は「Krik/Krakサイコー!」「サンホラサイコー!」に過ぎないのだから。


●Krik/Krak分析


オフィーリアの涙Akt.2 黒い森 (連動のSchalter《Α》、彼方にて幕は閉じ)(以下、黒い森)と、「恋人を射ち落とした日」「澪音の世界」の比較楽曲論
音源、公式HPにあります。リンク参照

初期サンホラの代表曲「恋人を射ち落とした日」を聞けば……というか、初期サンホラに思い入れがあれば、「オフィーリアの涙」のメロの類似性が、すぐに見当がつくと思う。

二音の上昇のあと、すぐにストンと三音で落ち、そこから飛翔するかのように歌いあげる、独特の音形。そしてそれをより衝撃的かつ鮮烈に印象付けるため、最小限のアトモスフェリックなバックだけ(デジタルとオーガニックの中間的)な「歌いあげ」から入るアレンジメント。

もちろんそれをカラオケのごとくコピっているわけではない。サンホラのそれが、基本的にマイナーキーに支配されているのに対し、Krik/Krakのそれは、物語のはじまりを予感させるキラキラしたメジャーキーだ。(そう考えれば、恋人を撃ち落とした日は「物語の終わり(の決意)」を予感させるものと言えなくもない)

まあこう書いても、やはり「それでは転調なだけではないか」と言われるのがオチなので、もっと突っ込んでくりくらを言祝ごう。

音形……音符の流れだけを言ったら、イントロ、並びに基本メロはそうである。が、そこからKrik/Krakのコンポーザーは非凡なメロディーセンスをみせる。メロ四小節目の終わりから、メロは後半にうつるのだが、そこからサンホラとは違った「何か」を感じさせる。
五小説めで、どこか民謡ライクな……それこそ、わたしはNHKの童謡番組「みんなのうた」の中でも、地味でどこか狂気を含んだ童話曲、それを連想した。

そして、Krik/Krakのメロディーには、初期サンホラのRevoのメロ(シグネチャー)が色濃くありながらも、キャリアを追ってみていってみると、段々と民謡/童謡センス……「みんなのうた」的センス、が垣間見えると思うのだ。

みんなのうた」と聞いて笑うのは、「メトロポリタン美術館」「まっくら森」「月のワルツ」の世界を知らない人間だということで、逆に損である。快楽音楽堂が「みんなのめたる」を発表したのはネタだけではない。


話を一気に進めてしまえば、Krik/Krakは、サンホラフォロワーに殉じるには、才能がありすぎたのである。

そもそも、サンホラのコピーにせよ、一聴して「ああ!」とわかる……それも、相当にマニアックな度合い/深度でわかる。アレンジや音形をつぶさに追っていけば、それがわかる。

かつ、歌詞にせよ(いわゆる「サンホラっぽい幻想歌詞」)、アートワークの繊細かつ流麗さにせよ(これは最初からサンホラとは別方向を行っている。わたしは少女漫画が大好きであるので全肯定)、ここまで高い次元で「ひとつのもの」に仕立て上げるのならば、それはそもそも「パクり」レベルの技量ではない。「パクリ」レベルの技量というのは、完コピがせいぜいで、一介のネタ音源に留まる。ここまで作品世界を続けて展開することが、ネタ音源にはあり得ないのだ(世界の構築って、根性と持続力がいります)。

そこにさらに独自のイディオムを入れていき、「Krik/Krakならでは!」の音世界を構築した。彼女たちふたりは。その独自性はこれからウザいほどに語っていくが、少なくとも彼女らは達成したのである。



さらに言うなら、彼女らが「サンホラが変わってしまった」と嘆いたのは、我ら常人のそれよりも、余程深い悲しみだったのだろう、と今更ながら思う。

センスとは、ただ喜び/快楽ばかりをキャッチするからセンスなのではない。それと同値の悲しみまでもキャッチするから、センスなのだ。
もちろん、だからこそ彼女らが苦しめばいい、悲しめばいい、などということではない。しかも現在、
Krik/Krakは活動休止中であり、彼女たちは病臥であるらしい。……その病臥たるや、やはり「センス=感覚」の卓越さにより、常人よりも、より深く厳しい痛み・辛さであると思うのだ。
それを、かつてのわたしは、才能ある者ならば耐えられるだろう、みたいに甘く考えていた。どこかに「それだけのものを作ったのだから……」みたいに考えていたことがあった。そのわたしよ死ねといいたい、いまとなっては。

そうではないのだ。才能あるから(=感覚が卓越しているから)こそ、辛いのだ。
愛したものがなくなったのは、だからこそ辛いのだ。
現在進行形で傷ついていっているのは、だからこそ痛いのだ。

それがセンスなのだ、と、いつの間にか、どういうわけかわたしが「事実」として知ったとき……やはり天才たちは、別の意味で「ひと」なのだ、と悟った。

Krik/Krakは、第一の絶望から、浮上した。そして「Krik/Krak」を結成した。わたしはそれを、彼女らの才能……というよりは、「ひと」としての素晴らしさだと思う。その結果が、数々の音源である(「手造りのあたたかさ」はここからくるだろう)

そして彼女らは、現在病臥であるが、これは「才能あるからあたりまえ」ではない。そんなわけがない。……が、わたしは理由づけなんかしたかないし、詮索なんかしたかない。
ただわたしは、ファンとして、「力強く、しっかりと大地に根を下ろした」復活を、待つばかり。具体的にはM3で。

しかし……ここで告白するが、そんな彼女たちに、どうしてわたしは通販再会を迫ったのか。ああ。これは、本当にごめんさい、としか言いようがありません。

さて、話は別方向にいったが、上の話はどうしても言いたかった。
長くなりすぎたので、一回切る。次回、分析後半に行く。それから「初期サンホラ」の具体的検討と。

(続く)