残響の足りない部屋

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日記0716 多忙感、少し痩せた、「腹を空かせた勇者ども」

多忙感続き

今も、毎日の雑事で忙しく感じています。前の日記で書いた「多忙感」状況はなんだかんだ未だに続いてしまっている。

日記06/18 多忙感と体力不足 - 残響の足りない部屋

だんだんこの多忙感に慣れていってるけれど、これ慣れちゃいけない類なんじゃないか?と思うようにもなってきました。ていうかそうだよ…忙しさに慣れちゃいけないよ…

パッと思いつく解決法が以下の3つ。( )内が具体的なアクション。

・身体ポテンシャルを上げる(痩せる)
・必須タスクを決断的に減らす(割り込み仕事を拒否る)
・精神的リラックス(頑張って自分を癒やす)

このどれか、あるいは3つともを頑張っていく、っていうのが解決法だとは思うんですけれど。その中で一番今力を注いでいるのが「痩せる」ですわ。こないだ、体重を測ったら少し痩せていました。をを、頑張って日々運動と食事調整に励んだ甲斐がありました! …っていうか、こないだの血圧や脈拍の数値でいよいよダメだ、と思ったんでしょうな。ともかく、少しでも痩せた、ということは良いことです。

 

ところで、精神的リラックスを放り投げても痩せようと?それってダメでは? いや、はい、仰る通りです。

まぁ、ちょっと精神的リラックスの方面では「詰まり」傾向にあるのも事実かも。いろいろ本(ほとんど物語以外)を買い込んで、読んではいますが、スキマ時間の合間合間でチマチマ読むのが関の山で。なかなか新しいコンテンツまで手を伸ばせない。とくに「物語(小説)」といわれるもの。文芸ジャンル。あー、こういうところからオタクの死って始まっていくのだなぁ、とちょっと他人事のように思ってしまっている時点でだいぶ壊死してないか?

まぁ、「詰まり」とはいうものの、そんなに閉塞感を覚えてはいません。「何を読んでもつまらない」ってのでは全然ないですし、買い込んでいる本だけでも充分に面白さ、ワクワクを感じています。じゃあそれでよくないか?

ーーうーん、こと新しい「物語」に関していえば、新規開拓(dig)っていうのをバリバリ!っていうのは全然無くなってしまいましたね。上記のように「オタクの死」を思ってしまうくらいであります。

私はオタク(物語エリート)じゃなかった - 残響の足りない部屋

(参考記事 今年の2月に書いたの)

 

もちろんこれは自分の「物語を読むのがしんどい」という個人的傾向にもあります。物語を自分の中に抱えておけない、というか。文章を読んで情景を立ち上げるのがとてもめんどくさい。いろんな人間ドラマを見てしんどくなるのがメチャクチャ嫌。それを「リスク予備軍」とすら感じてしまっている。

でも!そういう自分につまらなさを感じてしまってもいるわけです。たかが小説(物語)でしょうに。もっとざーーーっくり読みなさいよ。小説の読み方の中でも、限りなく「薄い」とされる読み方でも、「読まない」よりは確実にマシでしょうよ。

金原ひとみ「腹を空かせた勇者ども」

そんな最近、畏友・まるまるさんからこの小説を勧められました。私が上記のような「物語」に対する「詰まり」傾向にあるということは、氏には最近話していなかったです。そもそもまるまるさんは残響が「物語(小説)を読むのを苦手としている」事をご存知の方です。その配慮は頂きました。しかしそれでも!とお勧めくださった小説。残響がどう読むかというのに興味を持ってくださったということで。

これは「機会(チャンス)」かな、と思いました。かようにグーダグーダと「物語苦手」意識を心の中で飼っていて、良いこたぁ一つもありません。自分なりの読み方を今一度再構築するためにも、ここはひとつ良い機会ということで小説を読んでみよう、と。

 

で、感想です。

「令和の少年少女たちの様子」を描いた小説で、怒涛のように令和アイテムが列挙されます。そこの風俗描写には手抜かりがなく、読んでいて「大人(金原氏)が無理して書いている」感はなかったです。多分。これくらい風俗事物の描写を書きまくることが、むしろ令和の少年少女としてリアリティがあります。

貧しさと諦念と、それでも豊かさと、清潔さ潔癖さと、SNSインターネットがある、猥雑なこの令和リアリティ。

令和、コロナ禍のリアリティ。あるいは価値観多様化の時代のリアリティ。国際化というのは当たり前で。ルーツを外国に持つ同年代の知人がいるのは特別じゃない。むしろそういう人たちに対するベーシックな配慮があって当然、という。

配慮。この小説を読んでいて主人公の少女や、友人の少年少女たちは、令和時代の「配慮」を幾重にも行っているな、と思いました。とても自然に。どこまで踏み込んで、どこまでSNSを用いてメタ・メッセージを放つか。どこまで踏み込まないで、どこで一気にリアルに踏み込むか。そのあたりの駆け引きの令和リアリティがとても自然だなぁ、と。

 

基本的にどの少年少女も「いい子」たちなんですよね。もちろん彼女らが住まう令和リアリティの延長線には、悪意と貧困の存在するストリートもある。「いい子」たちだけれども、この先親の仕事が経済的に回らなくなったり、親に思春期的な反抗をしたりとかで、彼女たちのこれからが光に満ちているか、というと、手放しでyesとは言えない。

主人公の少女からして「いい子」ではあるけれど「軽薄」な人間である、という描かれ方は一貫しています。私はこの小説を電子書籍で読んだのですが、その紹介ページに「陽キャ小説」と書かれていました。なるほど紹介としてうまい書き方をするなー、と思いました。もちろん主人公の陽キャなるパワー、軽薄な語り口…物語は「思慮の足りなさ」でもって、物語的にも文体的にも進んでいきます。この小説は主人公が軽薄でなければ成り立たなかった。

で、著者金原氏がこの軽薄さ・思慮の足りなさを全肯定しているか、といったらさにあらずで。「文系エリート」たる主人公の母親の存在でもってカウンターバランスをとっています。理屈と正論を駆使し、超然とした態度で娘(主人公)に接します。

ただ思うに、この母親が絶対正義として描かれてもいないのがこの小説面白いところで。母親がデウス・エクス・マキナとして配置されていない。母親も母親で、主人公が各章で置かれた苦境にチート解決を差し伸べる、といったら、あんまりそういうことにもなっていない。つまり、母親の文系的知性も絶対ではない。

しかし絶対ではないけれども、娘に対して何かを授けていきたい、と思うひねくれ親心があって、そこがめんどくせーけれども、主人公も母親を頼りにしているとこでもありまして。主人公は軽薄ですが、母親の知性がまるっきりわからないほどのあほでもないわけです。

この主人公を眺めていて、まずこの話を思い出しちゃったわけなんです

togetter.com

なんというか主人公の少女、おまえ知的な語彙力や論理的説明力がないだけで、基本的な知性はむしろある方だよね?っていうところがあります。むしろ母親が文系エリートで正論ニスト(セイロニスト)なのでそれに参ってしまって、逆に語彙力・論理性ってものを放り投げた感すらあるような。

そういう意味では、この小説に登場してくるどの少年少女にも、大人(親)にも、金原氏はフェアだよな、って思いました。彼ら彼女らの世代的特性や、置かれた状況に対してとてもフェア。同時に、彼ら彼女らの欠点や限界に対してもフェアで、一応の肯定はするけれども、賛辞までは絶対していない。

彼ら彼女らが居て、どうにか少しでもマシにしようともがいている。この令和リアリティ社会のなかで、いろいろなこと(ポリコレとかSNSとか恋愛とかもろもろ)をすこぶるめんどくせーと思いながらも、彼ら彼女らは手持ちの語彙と、これまでの一応の人生経験と、いささかの行動力でもって、なんとか頑張ろうとする小説です。

 

それにしたって君たち、友人間でも親子間でももうちょっとマシなコミュニケーションとれんもんかいなー!?って思いますけどね。でもそれを言ったら同じ令和リアリティに生きる現実の私たちだって、上手くやれてるか、っていったらさにあらずじゃないですか。

っていうかこの小説、語彙力や論理的説明力があればそれで物事うまくいく、っていくわけじゃない、ってことをなんべんも何編も繰り返して語っていますね。だいたいの助言は上手く伝わらないし、どんなに文系エリートが知性を駆使してもタイミングと相手の意志を無視ったら、余計に悪手になっちまうぜ現象!ですし。

主人公の母親、「おれの考えたさいきょうの解決法」が脳内にたっぷり詰まってるんだろうなー、けれど娘を育てていく中でそれらが現実に上手くいかなかった、って経験がかなりあったんだろうなー、っていうのがすごくよくわかります。それでも文系エリートたる自分の生き方を放り投げることは出来ないし…ってあたりがまさしくボンクラインテリですね。
けなしているようですが、いやけしてそうではないんです。この母親が完全無敵なデウス・エクス・マキナだったら、私この小説に対してむしろ冷ややかな目を注いでいたかもしれません。ていうかそうだったらむしろ文芸として格が低い、とすら思ったかも。この母親の限界性を言外にきちんと示していたから、この小説は良いと思います。この母親、娘(主人公)と「あんま反りが合わないなー」と思いながらも、ちゃんと親を一応やってるじゃないですか。ていうか、

「私は玲奈の中に、概念として存在し続けたいと願ってるからだよ。あなたの世界から私の死をなくすためにね」

最近流行りの言葉でいえば、巨大感情じゃないですかっ!いや、この母親、自分なりに素直に娘への思いを言っているんですが、娘との反りというかチューニングが合っていないんですよ。まぁそりゃあコミュニケーションが上手くいかないのもむべなるかな、っていうところはある。それでも、そのように母と娘が「違っている」ことはこの小説良しとしているわけで…ああ、それが「多様性」ってことなのかな。多様性の肯定。それも、仰々しい言い方で理屈っぽく言うのでなく、この主人公の軽薄さや、風俗事物の描写の列挙のように、ごく自然な形で多様性の肯定を描いているのが、この小説の徳といえるところかもしれませんね。え、良い話っぽくまとめていますが、巨大感情からどうしてこんな話になった?