残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

第2回ごうつホビー祭りイベントレポート(1)今年も開催されました

このイベントレポート連載は、全部で7~8回くらいを予定しています。

 

 ●目次

 

(1) 
いまここ

(2) 

第2回ごうつホビー祭りイベントレポート(2)島根県江津市、イベント内容 - 残響の足りない部屋

●hobby is 何


「なるほど社会の為に働き、社会を護るのが人間の存在価値という貴様の主張は解った。そして質問させて欲しいが、では、社会の……我々の【何】を護るために働くのかね?」


「人は、パンのみにて生くるにあらず」

そんなことはある種の人々にとっては、考える間もなく当然なことなんですけどね。娯楽が、遊びが、「ホビー」がこそが、人間の生きる意味を、日々の仕事にいそしむ意味を形作る。マァそんな哲学は追々語るとして……。

●第2回ごうつホビー祭り

52sat.cloud-line.com

去る2018年8月末に、「東京から最も単純移動時間がかかる町(教科書認定」こと島根県江津市の駅前「パレットごうつ」にて、二日間の「ホビー」の祭典、ごうつホビー祭りが今年も開催されました。
この催しは、地元の有志団体「江津理工クラブ」さんが、地元の商店や、各地の企業と連携をとって、去年2017年から行われているものです。不詳わたくし残響も、去年の第1回ごうつホビー祭りのイベントレポートを書きました

 

あれから1年。理工クラブの方々から「今年(第2回)もやります!」とオフレコで情報を頂いてから、わたくしもとてもたのしみにしていました。
第1回はとても手作り感と「自由の気風」溢れる、風通しの良いイベントでした。何もかもが手探りでしたが、予想を越える反響を得て(主催側が「ここまでとは!」と思うほど)、各々が手応えを感じていたと思われます。

わたし(筆者)にしたって、ずいぶん久しぶりに模型展示会に参加しました。しかも出展側で(同人CDは同人即売会で頒布の経験がありますが、模型の出展はなかったのです)。しかし、そんな「お初」であっても、とても良い経験・思い出を作らせていただいた、と思っております。

そんな自由の気風溢れるごうつホビー祭り。今回は規模を拡大しての催しです。去年の段階で、都市の企業がわざわざ江津まで来てくれました。また、工作スペースを会場に設けたり、ゲーム対戦を実際に会場で出来たり、と様々な企画がありました。


しかし今回はその規模をさらに拡大
「二日間開催」ということもそうですが、
ホビー関連参加/協賛企業の数の多さ(20企業はある)、
物販ブースの設置、ラジコン体験コーナー、プロゲーマーのさらなる招聘(この1年でどれだけeスポーツ関連の隆盛があったか)、
エアガン試射や、プラバン工作、プログラミングロボット工作、ネイルアートなどの企画。
ブラスバンドによる生演奏、地元バンドによるライヴ、
ココイチカレーやアイスクリーム屋、タコス屋といった屋台の常設……

などなど、「祭り」の規模をさらに拡大しての催しなのです、今回は。
実際、今回の集客は、前回よりも「さらに」よかったそうです。

 

前回は会場がパレットごうつの1階スペースに集中していたので、結構手狭な感じはありましたが(すし詰めほどではないものの)、今回は「熱気のある会場をゆったり回れる」くらいでありました(体感として)
どのブースも人が途切れることはなく、展示された力作の作品に多くの人が見入り、そして作品の作者、参加企業、スタッフ、来客の皆が「良かった」と充実した二日間を過ごせた催しだったと断言出来ます。
それは自分の古くからのネット友人である義実たかさんが、わざわざ遠方からこのホビー祭りに二日間来てくれて、以下のレポートを即座に書いてくれたことからもわかることです(まずはリンク先のこのレポートもお読みいただけたらと思います)

yoshimitaka.hatenablog.com


今回から連載するこの「第2回ごうつホビー祭りレポート」では、作品紹介や企画紹介をするとともに、その場に居合わせた「わたしたち」がどのように楽しんで、ホビー文化について考えていたか、を紹介していけたら、と思います。
というのも、参加した自分にしても、義実さんにしても。理工クラブの方々にしても、模型関連を取り仕切っていた地球堂模型さんや地球堂さん旧知のスタッフにしても。そして参加者からお聞きした言葉にしても……
たのしくお話している間で、時たま「自省的(省察的)」な言葉や「思想」を伺うことが出来たからです。

それは激しいものでも、反逆的なものでもない。もっと静かなもので……

「自分(たち)にとって、趣味(ホビー)とは何か」
「子供たち(後世)に対して、何を伝えていったらいいか」

という無言の省察をどこかで雰囲気感じていたのです。自分は。
そういう意味で、ずいぶん考えさせられることの多いイベントでありました。

今回のこの第二回ホビー祭りのオフレポがこんなに遅れたのは、そのいろんな考え・省察の整理に時間がかかってしまったから、というのがあります(すいません)。
ただ、もうそろそろ纏まった、というのがあり。また、いくつかのカテゴリにバラけさせて語ることにより、このホビー祭りがいかに「いろんな輝き」に溢れていたか、の総体的なレポになるかな、と考えて、今回こうして連載形式で書くことにしました。
とりあえずは、まずは写真をいくつか掲載しますね。(撮影許可は理工クラブさんに取ってあります)

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次回に続く……

暁け暮れ明星日記「本CDを売った」(第2回/全20回 9/24分)

●本やレコードを売った。

 一般人がびっくりするほど売った。オタクでさえも「え、それって残響さんという人間存在において、象徴的な作品だったじゃん」って証言するだろうものまで売った。

 なぜなら、その作品の数々に関しては、もう魂と血と肉に染みわたっている確信があるから。「血肉になった」という慣用表現は、正しい。自分の肉体を行き渡る血の水分のなかに、その作品は偏在している。脳内のシナプスに、その作品は宿っている。構成物質。

 管理が出来なくなった、という情けない理由もある。こうして本棚や倉庫から引っ張り出してみると、まあ出るわ出るわ(本とレコード)。「さっと耳クソを取るくらい」と思っていたのが、あれやこれやで、ちょっととんでもない量になった。これは耳クソの量ではない。

 そんだけのものを「死蔵」していたのだ、と考えると、ちょっと愕然とするものがある。自分は「大切」という感情に、かなりの「惰性」を交じりこませていた。

 別にミニマリストになるのではない。しかしミニマリストとやってることは変わらないか?でもいまだにある程度の本とレコードがある。これらは「血肉レベルで大切にしてはいるが、まだ現在進行形で養分を吸収する余地があり、自分をすぐに奮い立たせ勇気づけてくれるもの」である。ややこしい書き方をしているが、まだこれは、自分のなかで「伝説」になってはいないモノだ。。神格化ではない。今、自分と共に歩いている物だ。そういう物まで売ることはないだろう。

 

●かといって「創る」という義務は採用しない

 

 ときに、一部の人間はこういう風に、思い定まったら断捨離をする時があるらしい。少なくとも人間椅子・和嶋の自伝本でそういうエピソードを読んだ。

 あるいは、いつかこういう日が来るということも、自分は予想はしていた。自分を託していたものに、いつか別れを告げて、どこかへ旅立つ日だ。

 どこへ行く? 数日後に実はリアル旅行を控えているけど、それが「どこかへ旅立つ」という意味ではない。まだ少々は、このガランとしつつある部屋で、事を為すつもりだ。それは大いに作り「かけ」たり、大いに遊びまくるのだ。

「売った(別れを告げた)からには、創作せねば」の悲愴ではない。そんな、人質にナイフを突きつけるかのような「取り引きの創作」なんて、ロクなもんじゃない。人生は義務ではない。創作は義務ではない(もちろんこのブログ日記も義務ではない)

 そうじゃなくて、作り「かける」のだ。作品にせねば!と思って作品に取り掛かるのではない。遊びの延長線上として、「まあ作品として形作ってもいいかな」程度のものだ。

 「遊び」こそが、(あくまで)自分にとっては、根幹なのだ。

 

●遊び

 

 「自分の限界がどこまでかを知るために僕は生きてるわけじゃない」という歌があったり、「俺は俺を証明する必要なんてない!」という歌があったり。

 昔はその意味がわからなかった。

 今は分かる。

 限界を証明して、だから何なんだ。世界に自分を刻み込まなければ自分の価値はないってか? いいや、その類のマインドゲームには乗らない。わたしの価値にして神は、ダイヤブロックガンプラジャンクをガチャガチャいじって遊んでるこの(たなごころ=手のひら)の中にあるのだ。あるいは、掌動くときがまさに神の実在を感じるのだ。これはおれの神だ。あなたがたの神ではない。おれだけの神だ。わたしは、こいつ(掌の神)なら信じても良いと思う。ずいぶんこの神に、自分は冷や飯を食わせてきたけど、いまだにこいつは自分を見守っていてくれてるのだ。

 その掌の神が告げる。「世界ニンゲンいいね!レース」に不参加表明でもいいんじゃないか?と。少なくともこの両の手(掌)は、ブロックやジャンク、あるいは画材や楽器を使って、ひとつの「自分にとっては悪くないバイブスの、なんか楽し気なもの」を作ることが出来る。例えば、ガンプラジャンクとダイヤブロックを組み合わせたオブジェをつくる。それは、精密さでは遥かに有名モデラに及ばない。それでマネタイズが出来るわけでもない。

 しかし自分は、まずこの世にこういうオブジェを、ガチャガチャといじって遊んで、作ることが出来るのだった。そんで、気が向いたらそれを画材でイラスト、あるいはコラージュアートにしてみる。写真を撮ってさらにサンプリングコラージュしてみるのも良い。また、そのオブジェの「なんとなくこんな感じ」のイメージに合いそうなコードを、サンプラーで録音して、切り刻んでビートにして、MTRで曲を作ってみたりする。

 そうして、自分の「神話」が、少しだけ豊かになる。それで、良いのだと、思う。作品にせねばならない義務はない。自分がネットを介してその「神話」をひょいと置いてみるのは、ただ単純に自分が楽しいからであって、バズなんてどうでもよろしい。というか、ぶっちゃけるとこのオブジェを中心にした「神話」に関しては、どう考えても自分は他人に「見せてやってる」上から目線が凄い。他者には「見せてやってる」のだ。例外的に、うちの同人活動でイラスト描いてもらってる小西さんだけは、「これどうでしょう?」と意見を求める。もちろん、これは「創作者と創作者の神聖でたのしい意見交換」である。バズなんぞといっしょくたにしないでくれ。

 

●血肉の本、CD

随分、助かった。これらの血肉の作品のことを、忘れない。というか、このまま死蔵していたら、なんか惰性のままに「忘れて」しまいそうな気が物凄い。それは、違うだろう。だから、自分は手放すことに決めた。

あるいは、そういう手放しを、「いつかそれらの作品のレビュー書くときに困るよ」という向きもあるかもしれない。それは前は思っていた。だからため込んでいた。でも、もうそういう「資料を駆使して、誰かにツッコまれないような、技術と理屈のレビュー」はやめたんだ。自分が、その作品の「凄い読者/リスナー」であることも、手放したんだ。

 ただ自然に遊べばいい。あの時あの作品たちからもらった感情が今も自分の中に息づいていて(まちがいなく、いる)、それが何かこれからの「遊び」「創るかもしれない作品」に、形を変えて芽吹いていればいいな、と思う。誰かに知識量でマウント取るのが趣味の本質じゃないことは明らかだ。すげえ!と言われることでこの世に証をたてることは、すごーく歯ぎしりして疲れるっていうことに気が付いた。

暁け暮れ明星日記(全20回 第1回9/16分)

今日もPCやって目が痛い。ということで生存報告的な記事を書きますが、この「ということで」っていう接続語いるか?って話ですね。ああこうして余計な文章が出来ていく。
現時点でPCを40分くらいやってるので、あと活動限界5分くらいなので、がががーっと書きます。
 
Twitterをやっていないこと
 
主に最新のツイで書きましたが、まあSNS中毒ですね。これはいけない。このまま死んでしまってはいけない、そんな風な自分という人間はいけない。そんな風に死んでしまう自分が許せない。許せないっちゅーかなんかな。自分は猛烈に後悔&イヤな気分になるだろうな、って話。臨終のとき
 
また最近臨終のことばっかり考えていますが、もともと自分は35歳で死ぬと考えていました。自殺か衰弱かはともかく(比率としては自:弱=3:7かなぁと)、まぁ自分に与えられた所与の魂継続時間は35年くらいだろうな、と
それは自分の投薬とこれまでの病気によるダメージ蓄積がかなりスゴイので、肉体が虚弱になってってるということ。
それと、2008年から2012末冬-13年新年あたりまで、ほぼ1/2日の確率でずーっと「宇宙曼荼羅直結幻覚」を就寝時に見ていた、というのがあったからですね。あの宇宙曼荼羅はいかんよ。あれを受け続けたら、見続けたら、人生観変わるよ。死生観か。「もう【死の苦しみ】より強大な苦痛を、こんだけの期間受け続けた(しかも発生条件はダイス振る感じ)」というのが、自分の死生観を決定してしまって、そこから逆算して「自分の死の価値」「現世に存在している自分の価値」「現世でやりたいこと」を決定してって、その決定が「今何をすべきか」「今なにをして、後悔せん人生になりうるか」っていうことを考え続けてるのだと思う。実際に行動をやりまくってるのだと思う。だから、これもこれで、一応自分の人生を「ちゃんとたのしもう、やりたいことはやろう」っていう表れのポジなんだろうなと思う。
それが、こんだけ虚弱体質でも、一応「リアル行動」「創作活動」をやってってる理由ですね
 
で、まあSNS中毒なわけです。これはいけない。自分の人生で「猛烈にやりたいたのしみ」のなかに、Twitterというのはちょっと違うわけです。
だのに、ついやってしまう。これを中毒と言わずして。
ついツイをやると、ちょっとだけ何かを忘れることが出来るんですね。ちょっとだけ呟いて、それで何かをしたような気になる。
自分のやりたいことは、創作HP運営、オリジナル創作神話の構築だったろう……という
 
●文章下手だね
 
これはまた記事を改めて、日を改めて書きますが、自分えろすけ(批評空間)に投稿しといた「駄作」の感想を読み返したんですよ(そういうタイトルのグロゲーがあるのです)
ところどころで、「へー、おもろいことを書いてるな、あくまでfor me(おれにとって)な感じではあるが」とポジなことを想えて、あー「おれはへただへただ」の悔恨ばっかりでもないんだな、と思えたのは良いのですが、しかしあれだ。それとは別に、文章の構造力というか、論理的メッセジ伝達力が、あまりに希薄で。怪文書を並べ立てて口上カマしてるよなもんですから、あの文章。だから自分にとって意味はあるが、他の人にとってはなぁ
 
●しかしヘンリーダーガー
 
でもこの「他人を意識する」っていうのを、今排除したいがゆえに、SNSを遮断したのも事実。よってヘンリーダーガー的な創作ライフスタイルをどこかでロールモデル理想としてる自分もいる
 
※ヘンリーダーガー:ものすっごい量の妄想小説とその挿絵コラージュアートを描きまくったけど、どこにも誰にも発表せんだったから世間的には無名だった「非現実の王国で」という長大な妄想の作者。前世紀のアメリカのひと。
 
結局「オリジナル神話の構築」であって、それは他者が褒める認証する、っていうのが前提ではなく、それによって価値が決められるもんでもない。自分が構築する、自分が手で作るいままさにこの瞬間(と、構築物)こそが、自分にとっての価値なんだと。その価値だけでいいのだと。
というか価値っていう概念自体が、「他者」という存在をそもそも前提にしている。「うわおれ、いまめっちゃ気分ええわぁ、たのしいわぁ」だけで十分ではないかと。そこにおいて「他者」は前提的必要必須ではないのだし。
 
●PCやって目が痛い
 
そんなわけで5分。今日はTwitter小説の更新をやって、しかしTwitter小説を投げるだけで、纏めてはいません。
あ、この「Twitter小説更新」はSNSではないです。あのSNSっていうのは、「残響さん」としてなんか「わかってくれよぅ、自分の日常をよぅ」という感じで流すようなのです。この「Twitter小説更新」はどう考えても「路上ライヴパフォーマンス」です。「口上(ことばあそび)の文芸」を自分の創作の母胎のひとつとしているからには、このライヴパフォーマンスはやはり定期的にやっていきたい。そこに本質は、確実にあるし、Twitter小説をやってるってことは、ライヴで創作をしてることだから
(オフラインで創作をする価値はいささかも減じていない)
 
ただ、虚弱になったから、目は痛い。電磁波はくる。pcから。これがとてもつらい。だからPCは45分ワンセット、で休憩、っていうのが一連の流れ。
ここまで一気に書きました。
 
この日記は、生存報告と、自分(残響)がやってることの更新としてやっています

第2回ごうつホビー祭りに参加してきました


8/25(土曜)、 8/26(日曜)に、島根県西武で行われた「ごうつホビー祭り」に参加しました。

前回オフレポ

ジオラマを3作品制作し、出展しました


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大変に楽しかったです! くわしいオフレポは、後日書きます。たぶんscrapbox.ioのほうで

 

同人で相方やって頂いてる義実さんが、遠方から来てくださり、2日間多いにたのしみました


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(共同で、祭り2日間のうちに作りました)

写真もいっぱい取りましたので、書きますよー、オフレポ

【外部での活動報告】『つよきす3学期』対談も開始しております。

 梅雨ですね。じめっとしてますね。じゃあエロゲだ! 
ということで、当ブログ管理人(残響)が他のところでやっとる企画のご紹介です。
 書評/エロゲ感想/サッカー観戦ブログの止まり木に羽根を休めて管理人・feeさんとやらせて頂いている対談ブログ「止まり木の足りない部屋」、こちら、新フェーズというか、続編企画に入りました。

 

●feeさんのブログでのご紹介

止まり木に羽根を休めて : つよきす3部作をやりました

 

●対談ブログ

zankyofee.jugem.jp

 

●「つよきす(無印)」対談全体

zankyofee.jugem.jp

●「つよきす3学期」対談全体

zankyofee.jugem.jp

つよきす対談→つよきす「3学期」対談

 

きゃんでぃそふとつよきす」シリーズについて。

www.candysoft.jp

 2005年に、タカヒロというライタが中心になって発表された、のんきなコメディ学園ものエロゲ「つよきす」。テーマは「ヒロイン全員、強気っ娘!」
 オタク界隈では、当時勃興していた「ツンデレブーム」と相まって「これぞツンデレゲーの傑作よ!」という評価がされました。今考えれば、かなり安易だなこの流れ……。

 そして、2011年に、「3学期」という続編……が発表されました。ただし、これはタカヒロらオリジナルスタッフによる作品ではございません。きゃんでぃそふとが、さかき傘という実力派ライターを招聘して書いたものです。

 タカヒロはその数年前に、きゃんでぃそふとを離れ、自らのブランド「みなとそふと」を作っております。2009年には「真剣(マジ)で私に恋しなさい!」という大作ゲームをものしております(後述)

 さて、みなさん。そういう経緯で発表されたゲームなので、「駄作なのでは? 三学期」という憶測を立てられて当然です。

 ところが、この「三学期」。予想を裏切って、「悪くない、むしろ良作」という。feeさんもそうおっしゃっていて、残響に「つよきす(無印)の後に三学期をやるのは、全然アリ」という風なご紹介をしてくださいました。

 実際プレイしてみて、その通りでした。どう「その通り」なのか、は対談をご覧になっていただきたいですが(この記事、誘導記事だもんねぇ)、少なくとも「消化試合」的な、ナアナア感は、ないです、この作品。何より「」がある。もとの「つよきす(無印)」への、つよきすワールドへの、愛が。
 なので、焦点となるのは、さかき傘というライタの愛、及び手腕になってきます。

●正直(あるいはこれからの展望)

 

 こういう機会がなかったら、つよきすや、三学期、というのをプレイすることはなかったと思い、feeさんには感謝です。また、feeさんとは、読書傾向、ゲームプレイ傾向、あるいは趣味嗜好について、「重なってる部分がありつつも、やっぱりどうも見てる世界が違うっぽい」というので、対談するにおいて「良きズレ」がありますし、また刺激にもなり、凝り固まったアンテナを拡げてくれます。

どうも最近自分自身、こういう「拡げ」って方向が、暗黙のうちにムズくなってきますね。それは認める。方向性の決定と表現すれば言葉は心地よいですが、それでもその実は感性アンテナの硬直化であります。

なにより、世の中は広いっていうことは、いつでも自分に叩き込んでおかねばならないことで。それ言い過ぎだとしたら、「可能性がここにもあるよ?」っていう実感はもっておきたいところ。

それから、自分自身、どこかでエロゲーマーとしての現役度合いが減少してってるのは、自覚していて。でも、ヴィヴィッドなエロゲ語りを実際にしていくと、やはり楽しくて。そういう機会を与えてくださったfeeさんには改めて感謝ですね。

 

 結構手間がかかっている企画で、全部通して読むと文字数が多いですが、読み応えはある記事だと思います。基本「たのしい」ムードの対談ですから、如何でしょうか。すでに三学期は両者全プレイ、対談全部取り終えてあります。今ブログ編集中です。

 

 また、上述の「真剣で私に恋しなさい!(まじこい)」ですが、この「タカヒロゲー」の流れで、プレイしており、こちらも対談を収録しております。現在、作品全体(ルート)の半分を確実に超えております。

こちらも対談記事をUPしていきますので、ご期待ください。

 

遅ればせながら、Art-Schoolの2ndアルバムと自分の迷いon 2017-2018のおはなしを書いてみる。

ピクシーズは「Trompe le monde(世界を騙せ!)」と放ちました。
だがアートスクール=木下理樹は、どうもその方法論を採らなかった/取れなかったようで。
頭が悪いわけはない。
でもここで、雨が降っている。
刃のように


そんな訳でART-SCHOOL※の2ndアルバム「Love/Hate」の話をします。 

 

mywaymylove00.hatenablog.com

 

※……以下アート、Art-School、≒木下。表記揺れを推敲するのが正直めんどかった


●聞くに至った経緯

 

なんでか自分は、主に90s~ゼロ年代初頭の、日米のオルタナティヴ・ロックを愛好しながらも、アートスクールを経由していなかったのですね。多分、発表当時なんとなく聞いた「ILLUMATIC BABY」がよくなかった。

 

リフの強靭さはよーわかったが、「うーむ、キャッチーが過ぎる」という、何だかトンチキなアート体験から入ったもので、「アートはちょっと違うのかなぁ」と思ったものでした。

しかし月日は経って、自分はTwitterで、自分と同じオルタナ音楽愛好者である「カナリヤ」さんという方とお知り合いになりました。

modernclothes24music.hatenablog.com

カナリヤさんにとって、アートはとても特別なバンド。もう一回張りますが、本当のバンド愛に基づく記事が書かれています。

mywaymylove00.hatenablog.com

「この時代に今更これを語る?!」とご本人は韜晦されていますが、読み手からしたら「このタイミングで語るからこその、オルタナ屈託と愛よ!」と思ってしまいます。その通りでして、この記事があって、改めてアートスクールというバンドに興味がわき、その場でネット通販で注文して、聞きました。良い。非常に良い。カナリヤさんにも感想を書かなくては……

 

と、思ってはいました。
そこで、自分の真のトンチキが起こってしまいました。

2017年11月。およそ10年ぶりに、再びの入院。まあ、10年前は半年間強制入院でしたが、今回は5日くらいの短期入院。まあ、どちらにせよ「やらかした」は間違いないです。

そこんとこは、退院後に、この記事で書きましたが(あまり見んくていいです)。
まあ、病気の具体的かつ病理的な詳細はここで書かんでもいいのです。問題は……心象風景、っていうか。


●アートは自分を加速的に追い詰めた

 

「死ねよ」
と。

 

当時のあのうっすら感じていた孤独感っていうのがマズかったか。病院に入院して、まずはスマホを取り上げられて。
当然ですね。重度コミュニケーション依存症とでも呼ぶべきノイローゼだったのですから。入院前、「あれをしなくちゃ」「あれをやらなくちゃダメ」「あれをしなければクズ」そんな強迫妄想ばっかり。

それってよぅ、誰かの奴隷になってってるというのと同じじゃありませんか。誰かに好かれたい、というよりは、誰かに嫌われたくない、っていうニュアンスの違い。それでも、自分の「奴隷化」は止まらない。そして頭の良い自分は「奴隷化」してってる自分自身を見下し、恥じ、そしてやらかし、入院した、ってわけです。

奴隷を解除するには、まずは鎖を解かねばならない。だからスマホ没収です。
「いや? スマホなくても大丈夫だし?」と没収された当時思っていました。1日目。ほーら楽だ楽だ。自分は奴隷なんかじゃないゾ!と。しかし1.5日目(早!)。「誰かが自分を噂している!」という妄想が沸いてきて、スマホ取り上げられるより前と同じくらいの精神の揺れ!

音楽を聴かねばならない。文字が読めないのだから。
というわけで、Nine Inch Nailsはさすがにマズいなー、人間椅子もどうよ、かといって同人音楽もなー(当時、同人音楽界隈の過去の悪しき記憶もフラッシュバックが酷かった)。じゃあ、アートスクールだ、こないだ買ったばかりだし……

考えたらこのチョイスもちょっとおかしいですね。NINがダメならアートも、って思いそうなものを。でも、何か「きれいなもの」に触れていたかった、というのがありました。逃げで。
そして、聞きました。

……あのね、弱った人間が、ごうごうと流れる滝で荒行してはいかんのですよ。あのとき感じたのは、「瀑布」とでも呼ぶべき、大轟流でした。水のような音が勢いよく降り注ぐ。折しも1曲目は「水の中のナイフ」。ぎゃーなんというシンクロ!

www.youtube.com

 

心象風景の受信機能までは死んでいなかったというか。あるいは本物の「表現」は、なんなく自分をブチ抜いていく、というか。
でも、キツいっすよ。その「音の滝」は。轟音も確かに弱った耳にはキツかったけど、もっとキツかったのは、木下理樹の「孤独な心象風景」そのものでした。

 

「こんな世界でこいつ(木下)は生きてんのか……」と。


●世界を騙せ

 

木下は1曲目「水の中のナイフ」で、「ああ、俺って【欺ける】ようになっちまったんだな」という心情を歌っています。そんな自己嫌悪からこの盤ははじまります。
いわゆる「世間ズレ」って言葉がありますが、その通りに世間に上手く適応できてったら、痛くなくて済みます。ただ、何かと代償に。

わたくし自分自身もね、主にTwitterランドSNSで、それなりに上手く立ち回ったんだと思うんですよ。目に見えるアンチもいなかった。うまくは立ち回った。そしてとくに欺いてはいない。ただ、この「上手くやってる」自分に、ときたま猛烈に吐き気がしました。もちろんこの吐き気が、入院にまで至る布石になってたわけです。

欺いてはいないさ。ただ、物凄くそれ以上に欺いてる気がする。何を? おそらく、過去の自分を。あるいは、過去の自分との神聖な約束を。貫くべきことをどっかでナアナアにし、適応し、納め……。上手くやった。うまくやったよ。それは「定量的な事実」だ……

 

……だから何だ。薄汚ぇ。
少なくとも、アートスクール木下理樹は、そんなことはせずに、この名盤を生んだ。

「そんな上手い立ち回りをしなかった」からこういう美が生まれたのだろうし、それゆえに木下はこうも傷ついている。こいつがこう傷ついてるのは自業自得だ。
……そんな論法を使っている自分自身に、さらに吐き気がした。ああ自分も大人大衆になったよな、と。

自分は、自分が世界で「わりに孤独」っぽい立場でいることを、誇りに思っていた……のが、(明らかに)数年前。少なくとも、大学院のときは、孤独という状況に心底誇りと居心地の良さを思っていた。
確かに、正直言えばどこかで「繋がり」には飢えていた。だけど、やはり根底では、ピッと澄み渡った冬空のような清廉な孤独を選んだ自分を誇りにも思っていた。

そんな日々を遠くして年月は経り。さーてそれが、今やTwitterフォロー数300以上、フォロワー数450以上になってる自分だぞコノヤロウおおぉぉうぅぅぅぅ。巨大なツイッタラーの人からみたら、大したことない数字なんでしょうが、自分にとっては……「過去の自分」にとっては大きな数字だ。その中で「上手く立ち回った」。「繋がり」も得た。なるほどねー。

そういう八方美人の姿は、自分自身にはイマイチ確認できず。他人には明瞭に見えるものであって。あるいはここで「他人」ってものを持ち出すのも、すでに囚われてる証拠で。

別に他人に対して、わざとイキってヘイトをぶつけるという欲求はないです。それはない。しかし、「自分のアバターキャラ」をうっすら認識してる自分自身、にも気が付いた。そうかい、これがパブリックイメージ・リミテッドって意味かい。百合警察、めんどくさい模型オタ、Twitter某氏某さんの取り巻き、うまく立ち回ってるやつ……。

 

アートスクールが自分に見せたものは、いくつかある。

  • 1)圧倒的な孤独な木下理樹心象風景の美
  • 2)骨太なオルタナバンドサウンドの美
  • 3)そして骨太な孤独(の美)になんてなりきれてねぇおれ自身!!!

 

 今の自分って、
 なんなんだ。病院の中かよ。

 

 そして、アルバム後半までナントカ聞きましたが、もうダメだ。アートスクールをこれ以上聞いていられない。
 自分は、ウォークマンを手放しました。
 もうこれ以上、何も騙せない……したくない。


●静かな日々

 

とにかく、一応の生存報告だけTLに書いて、あとはただ静かな入院生活。
時計の針が刻む音というか、風がびゅーと吹いていく冷たい秋の音というか。

退院してから、それでも現実は動く。
時間は経つ。時折、ダメになって咆哮しながらも、時間は経ち、事態は流れる。数年間ネットでお付き合いさせて頂いてた、自分が敬意を持ってた人に「病気治るまで話したくない」と言われ。いくつかの、うまく立ち回っていたが故の縁が、潮が引くように断ち切れて。

 

あくまで心象風景なんですけど、以下のは。


ーーーまるで月夜だ。
おぉーっきな満月が大洋の上に浮かんでいる。
黒い海のたもと、
渚に自分は立っている夜。
あっちはあんなに輝いてるな……

っていう、心象風景(幻視です)
ざざーん、ざざーん。

 

心象風景おわり

……ああ、いろんな人に嫌われたな。正確に言えば、多くのひとにとっては、自分っちゅうのは、斬っても別に支障ない存在だったから、ひょいと切られた。まぁ当然である。
そして、自分自身が、「大事に思っていた人を、こうして傷つけている、典型的な善意ヅラの悪人」だと自然と理解が出来た。こりゃ腐ってる、腐臭が出てる。気づかずは己ばかりなり。

そんなブツ斬れ感のある、生々しい「孤独」さが、再びやってきました。酔いようのない孤独です。冷えた頭にはそれが理解できる。


氷を砕いて歩こう
何も話さなくていい
何より澄んでいるから
冷たく乾いた朝に

ーーー「Butterfly kiss」

www.youtube.com

 

静かに、静かに。
今にして思えば、入院の時の「静けさ」っていうのは大事でした。そしてそれからも続く静かな日々、孤独の、この冷えた静かな感覚があって、以降の「迷わない」にもつながるんですが。


それでもねー、なんだか……。この冬の朝みたいな(実際冬でしたが)、澄み切った朝の孤独感。実際に放り出されたという。

自分が悪いのはわかっている。
その一方で、自分の立ち回りには根源的に意味がなかったのだとも知る。

でも、そんな中、自分に声をかけてくださった方々、今も見捨てずお付き合いいただいた方々には、ほんと感謝しています。

 

●迷わない

 

ーーー以下の「(もう)迷わない(だろう、たぶん)」の今でも続く心境は、当時から「おいおい、それかよ」って気もしてますけどね。今もしてる。ただまあ、そんなに悪い感じでもない。

 

年が明けて、2018年正月。


光の中へ君は
触ろうと手をのばしたのさ

ーーー「Butterfly kiss」


思えばずーっと、何かを求めていました。自分には適した「表現手段」があるんじゃないか。生活を一変させるライフハックがあるんじゃないか、とか。
自分が、自分であるだけで肯定をしてみたかった。
ずっと、そんなものをもがいて。

「そんなものはない」と割り切れなかったのは、この世にはそんな「ある時、【気づき】から、絶望からの飛翔が成った人々」がいるから。NINのトレント・レズナーだって。人間椅子の和嶋だって、そうだ。


この曲に限らず「光」は木下理樹の書く詩によく出てくる言葉ですが、もっぱらネガティブな結果をもたらす象徴として描かれているように思います。【暗闇の中でもがき続ける人がいるという事実こそが、絶望した人間にはある種の救いになるんだ】という思いがソングライター木下理樹の信念であるとすれば、希望を想起させるような明確な善のイメージ、手を伸ばせば届くかもしれないと思わせるものこそが絶望に他ならない、ということかもしれません。
ーー6. アパシーズ・ラスト・ナイト(上記カナリヤさんのアート2ndのブログ記事から)

 

光の存在さえ、知らされてなかったならば。きっと無感覚に日常をこなしていって、りっぱなおとなになって、きっと誰をも傷つけずに生きられたのだろうな、とか。そうなればきっといろんな人から認められて、すげーとか言われちやほやされて、結婚して子供が出来て、ああ畳の上でやすらかに……

でもまぁ、自分の居る場所は、ここです。暗い。

木下理樹の「光=ネガティヴ結果=絶望」というのは、以上の文脈から、なんとなく、自分なりに、わかるような気がするのです。
白い光のなか、奔流がそこにあって、それに「乗れ」れば、きっと消えるように幸せになれる。暗闇はつらい。少なくとも自分は、もういい。

だからといって、あの白い光にすうっと消えてしまうことで「良いのか?」とも思う。


光を浴びて君は ずっと子供みたいさ

ーーー「Butterfly kiss」


自分は、子供になりたかった。子供のままで居たかった。でも、うまく立ち回ってる自分が子供でないのは、やっぱりどっかで承知している。
アートの1stの「Requiem for innocence」とは、ほんと凄いタイトルですよ。

自分、自分、とね。自分にこだわりすぎだ。


いよいよ病んでるなーと当時思ったのは、何回も引用してる4曲目「Butterfly kiss」の終わりでの「tonight」がカナリヤさんには「ツレイ」と木下の拙い英語に聞こえたそうですが、自分にはこれ木下の「辛い……つらい……」という嗚咽としかマジで聞こえなかたのですね。ああアート木下よお前もつらいんだなぁ、と。これもこれで病んだ聞き方ですね……w(天然

そんな「光の希求」の日々(迷い)でした。2017年まで。文章(小説、レビュー)でもうまくいかず、音楽(同人音楽CD作成)には希望が見えてきたけど、まだ自分のスタイルを確立しきれていず。いつまでこの「光」を求めるのを続けるのか。もうやめちまったほうがいいのか。それでも、「光」を求めている。こんなの求めるから絶望の切り刻みだっていう話なんですが。「光」を求めるからこんな人生で、この歳(32歳)までロクなもんにもならず、疲れてばっかりで。混乱はいつまで続く、迷いはいつまで続く?

つらい。
つらい。
何度、「love/hate」の歌詞のように「もういい……」と思ったことやら。

 

それでも、幻視は止まらない。生まれてこのかた、この幻視が止まったことはない。孤独さを冬の朝の風景に思ったり、孤独さを月の夜に幻視したり。そんなのが続いてるから、やっぱり自分自身の「表現手段」っていうのがほしい。

今となっては、TwitterのRTもfavもいらない。ブログ/HPアクセス数もいらない。追い求めて心動かされて、結局「ここ」に辿り着いちまったのだから、同じことをやってもね。とにかく「他人」は、もういい。いまは、とにかく「自分がこころから確信できる表現手段」がほしい。
でも、見つからない。ライフハックブログを何回読んだだろうか。こんなの徒労だよなと思いながら本を読んだ。

 

……

…………

………………

 

ところが、あるとき。ふっと。いくつかの事が連続して起こりました。

……はじまりは、なんとなく、コラージュアートをはじめたあたりでしょうか。あろんさんのSSの3次創作や、M.MさんのHPのファンアート、feeさんとの対談のシメとしてのコラージュを作ったときあたりから。

 

 


編集」芸術、というスタイルを通して。そのあたりから、何かが結びついていく感じがしました。

・「完全壮大なるオリジナル」は作れないかも……けど、こうして、これまでの人生でこころ動かされた各種創作物を自分のなかでこねくり回して、編集(コラージュ)して、何かに出来るかもしれない
・まだ自分には、文も音もあるじゃないか。足りない「絵」は、必要な分だけ技術を学んでいけばいい。コラージュに必要なぶんだけ。細密画は出来なくてもいいや
・間違いなく楽器の「プレイヤー(演奏家)」ですごいことになることは、ない。でも、自作曲の最低限の演奏が出来て、音源に出来れば、それでいい(全く同じ理屈が、文章や絵にも言える)
・お前は結局10年間、なんだかんだで自分の創作世界「レッズ・エララ神話体系」を作り続け、捨ててないってことは、誇っていい
・お前はあほだ。「実際に手を動かして」ようやっと必要なものがわかる……

……そこが、スタートなんだ、と。


●今

 

2018年、春のM3出てきたんですよ。こういうの作って。

2018年春M3新譜 – 8TR戦線行進曲

www.youtube.com

いや、今度こそダメだと思いましたね、制作修羅場でw でも作れた。
その間、やっぱり音楽は聴いていました。主に人間椅子なんですが(影響モロわかり)、その他にも、アートスクールの、この2ndを、制作中、よく聞いていたんですよ。

なんというか、木下理樹の見たこの世界。これって、どう足掻いても揺るがすことのできない、木下の幻視なんですよ。
迷う余地がない。いや、木下自身の人生には迷う余地ばっかだと思うんですけど、結果幻視(み)ることの出来たこの心象風景は、ゆるぎない。
あるいは、彼がこれだけ迷ってきたから生まれた世界「だからこそ」、その強度はあまりに強い。そんな世界を、表現せずに死ねるか、っていうね。

で。
カナリヤさんに、まずこの盤の感想をちょっとだけ、アートのライヴ数分前に贈りつけるっていう鬼畜をした残響なんですがw

 

 

 

 

 

 

 

 
今になって思えば、この仮説の立て方も愚に近いかな、と。木下の幻視(み)る世界は美しく、木下を取り巻く世界は痛く切り刻む。そして木下が伝えたいモノはこの世界の奥底に巧妙に隠され(しかしパッと分かるときはあまりにアホなほどわかりやすい)、木下が繋がりたいと希求するこの世界は美しい。矛盾はしていない(していないのですよ!)

そういう木下の「希求」は、彼の「ソロ形態」では、十全に描き切れない。木下は自分のバンドメンバー(のサウンド)を「使って」、自分の幻視を表現する。なるほど、そう考えればアートのメンバーが変わりがち、であるというのも、納得かもしれない。「自分は表現装置じゃねえんだぞ」というアーティストシップを、他のメンバーが抱いても。それでもアートスクールのメンバーたるを選んだのは、木下という「青年」の「幻視」にとことん惹かれたから、なんだろうな、と(それでもいずれ袂は分かつ)。

あるいは。木下にとってそういう「類まれなる表現装置」である他のメンバーも、ある意味所詮は「自分が嫌った世界の一部」という風に見えるのかもしれない。メンバー……つまり、「これ」も、やがては世界の一部として自分自身を切り刻んでしまうのかな、と。
もしそういうエゴイズムが成り立っていたら、っていう完全なる仮説に基づいて話をしてるんですが、そう考えたら、少なくとも自分のなかでは話は成り立つ。

 

ただ。
それでも、それでも。
バンドサウンドを木下理樹が求めるのは、自分以外のバンド/メンバーが、嫌う世界の一部であっても。それでも……例えばライヴ。例えばレコーディングのバンドマジック。そこでさらに生まれる幻視以上の表現世界っていうのは、木下にとって本当にうれしく、喜ばしいものなんだろうな、と。だって、自分の幻視世界をも、塗り替えてくれるバンド表現世界なんですよ! おそらく、そこにおいて、木下は、他のバンドメンバーが表現してくれる、ってことを愛する。彼らの表現を愛する。あるいは彼らの人間性も……

なんだよ、木下理樹は一番のツンデレかよ! 
って話なんですがw(オチがひどすぎる

 

そこで、カナリヤさんの今回のアートワンマンライヴツアーのレポなんですが。

mywaymylove00.hatenablog.com

いろいろこのレポで紹介された曲を聴いて


木下理樹の幻視世界っていうのはこんなに多彩なのか」
木下理樹を傷つける世界っていうのはこんなに多彩なのか」
「バンドArt-Schoolの表現世界っていうのはこんなに多彩なのか」
「それと袂を分かつかもしれない木下(のアーティストシップ)っていうのも、お互いにとって大変だよな」
「でも木下はそんなバンドメンバーが好きで、ファンもバンドメンバーもそんなリッキーが好きなんだろ! こらっ!ツンデレ!」

 

というある種の確信が持てる、バンド愛のライブレポです。この記事読んだ方は絶対読んでください。

こないだ、この雑誌買ったんですが。自分のM3新譜のMIXの参考になるかと思って。

 

で、アートのインタビューがあって、戸高(トディ)の「女房役」っていうのももう堂に入ってますね。トディもトディで非常にマニアックですから(Phantom FXももうエフェクター界のトップブランドですよ)。でも、そういう人が木下の近くにいてよかったなぁ、と。「俺は俺でやるよ?」ってタイプじゃないとキツいと思います木下の女房役っていうのは……。エロゲヒロインで例えると……(やめなさい)


にもかかわらず、カナリヤさんがラストで言うように、アート木下も、アートのファンも、「んでいるはず(少なくともポジティヴではない)」と確固たる自信で言うのも、非常に納得ですね。これをさらに言い換えると、「木下も、ファンも、わたくしのような新参リスナーも、何かしらの心象風景と屈託を抱え、迷ってきている」と言いましょうか。

それで許される問題でもない」っていうのは重々承知で。
でも、こういう音楽/表現と、木下という青年(いつまでも「青年」でしょう)が居ること、っていうのは……本当「絶望の救い」という。カナリヤさんが表現なさったあの「感じ(ニュアンス)」が、オルタナ者として非常にわかる。

安易に「おれたちの代弁者!」っていうロキノン文体するの、大嫌いなんですが。別に、木下は誰をも代弁はしていないでしょう。自分たちリスナーは、勝手に木下(アートの表現)に、自分たちのいろんな心象風景を見る。それでいい。それで、勝手に救われたり救われなかったり、でも長い目で見ればやっぱり救われて少しゃ歩いている。いつか迷いも抜けるかもしれない。このクソ残響でさえ迷いをある程度抜けられたんですぞ。2017年の残響を見てみなさい。そんなの信じられるはずがなかった。信じようと一番もがいてたのが自分なのだから。

しかし、しんじなさい。いつか、やってくるから。
そんで、この文章もやっぱり、「いつか再びもがくであろう」自分に向けて書いています。多分、もがきます。またトンネルに入るんじゃないか、って思います。その恐れは重々わかる。

でも、そしたら、
「また手を動かしてなんかを作る」=
「創る手そのものにしか、自分という存在は居ない」=
「幻視が止むことない限り」

こういう結論に至ったのは、確実にArt-Schoolの「love/hate」の精神性と幻視に触れたからだし、それを紹介してくださったカナリヤさん(いや、「託してくださった」と表現した方がより適切か)には、こちらも勝手に感謝して、この文を閉じます。
なんだかんだで、自分も一周しました。
これからもどうかひとつよろしくお願いいたします。