残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

The Times They are A-changin’--仰木日向「作曲少女2」

(なるべくネタバレなしの感想)

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「作曲少女」「作詞少女」(作曲少女シリーズ)は「作曲入門ラノベ」と銘打ってるだけあって、「実際に作曲をしてみて初めて珠美の言ってる意味が肉体でわかる」という書物です。今ここまで打鍵してみたけど、なんかいやらしい響きがないですか。肉体でわかるって書いてるからあかんのですか。いけませんね。

そう、実際に「手を動かして、耳を澄ませて、実際に作曲」してみて初めてこの本は意味を為す類の本です。読んで「あーわかるわかる」とだけ言ってたら定価1600円プラス増税10%を自らの懐から出した意味はないのです。そればかりかいろはと珠美の会話の真摯さに対してゴロ寝屁するようなものです。だからわたしはやはりこの本を一度通読して、即座にギターを持ってスケール運指を今一度はじめましたさ、このクソ忙しい師走だというに!(とりあえずリフ(小さなメロディ反復)は2個くらい出来た)
なので今回は百合カプ観測の話はやめましょう。コンプレックスを抱える先輩後輩百合の話もやめましょう(したいんか……)。とにかく作曲少女2の話です。


しかし我ながらAmazon着弾と同時に昼休みに読んで、仕事終わって即座にこの文書を打鍵しているのもどうかと思う。が、それだけの熱のある物語で、それはひとえにうぐいす(新キャラ後輩)のコンプレックス……

創作において、人生において、自分の好きなものが無いという人はどうすればいいんですか

というものです。これが強烈です。え、うぐいすたんアナタ楽器吹けるやん、というツッコミには、万葉集1837読み人知らず「山の際にうぐいす鳴きてうち靡く春と思へど雪降りしきぬ」と返しましょう。(意:うぐいす鳴いちょるから春? まさか!あの子の心は降りしきる雪なのよっ!)(誤訳系超意訳)


うぐいすちゃんは相当音楽の知識と技能を持っているけど、オリジナルの発想と、創作物がない、ということがコンプレックスで、さらに「自分の好きなものは何なんだ……ひょっとしたら皆目無いのではないか!?そんな自分は世界に存在価値が……ッ!」と堂々巡りで思い悩んで、このままだと演ってるクラリネットもgo to hellな勢いになりかねない少女でありました。
そこで「その気持ちわかる」「ていうか自分もそうだった」という共感でもってのいろは先輩。しかし直接的に導くことも「嘘だっ!」とわかるだけのコンプレックスを今まで地味に抱えてきたいろはさん。音楽オリジナリティコンプレックスには作曲するしかない、とわかっていながらも、それは水嫌いチャイルドを海に叩き込んで浮かんでこい系のスパルタDVです。「効果がないとはいわんけどさ超リスキー、っていうか自分のメサイアコンプレックス(救ってあげたい症候群)のマスタベイションに近いぜ」ですね。
そこのところで、実際いろは先輩がうぐいす後輩にそっと寄り添ってあげた話は、ネタバレなしのこの感想なので、伏せます。でもこのくだりは、自分は「納得」しましたね。そして自分がこういう「寄り添い」のこころに非常に欠けている人間なのに今こうして打鍵していてほとほとうんざりしますね。人の心(後述)。

サブタイ「転調を知って世界が変わる私たちの話」ですが、本作のモチーフはそのままズバリ「転調による楽曲の色彩感覚の変化」ですし、「あの創作できずに息苦しかった私たちの世界が、作曲によって確かに変わったんだ」という話です。
作曲少女シリーズ……というか仰木日向という文章家は、どうにもこの「コンプレックスによる息苦しさ」というものから目をそむけません。それは仰木氏自身がまさに体験してきた負の経験があってからこそ言える説得力の血です。このあたり、「作詞少女」が作品全体でもって斬りつけてくるリアルさがあります。屈折していなければ書けない内容です。本作「2」にしても同じで、うぐいすちゃんの屈託、屈折は、「自分には何もないのではないか?」という痛切な疑念を抱いた人間にしか描けない感情があります。
超単細胞バカは、「その屈折、屈託があるから、素晴らしい芸術が描けるんだヨ!」とノータイムで放言しますが、一発My bloddy Valentineのユーメイドミーリアライズのライヴ轟音パートを耳栓せずに聞いてしんどけ。この虚無感、形がないのにこの「息苦しさ」。これが延々続くのか自分の人生。コンプレックスを抱え続けて苦しいというコンプレックスがずっと続くのか。報わることない労苦背負い日陰に佇むこの私が、天駆ける日は来るだろうか!しくじりばかりのこの私に、満ち足りる日は来るだろか!私の命に光を、私の明日に光を!シャバダバディア!シャバダバディア!シャバダバディア!ババッブッブー!

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中野サンプラザでのyoutubeライヴ配信全部リアタイ見ましたよ。めちゃくちゃよかった……)

 

 

自由になりたい。
このコンプレックスから。手足塞がれたよなこの芋虫みたいな無創作のこの生から。違った世界を見たいのだ、命に灯りをともしたいのだ。自由に表現活動をしたいのだ。
それは「楽に」表現したい、というのではない。
この自分の屈託、屈折、欠落、欠損から目を離さず、あの日の自分を見捨てず裏切らず、その上で自分という人間存在を救ってやりたいのだ。
その答えは自分の中にしかない。人間椅子の和嶋も「深淵」で言っているではないか--「私の喜びがあるのは苦しみのゆえ」と。そしてその意味は自分で苦しんで自分で喜びを掴んで初めて意味がある幸せなんだと。

珠美「あたしの言うことをすべては真に受けるなよ、いろは。あたしの言ってることは、あたしにしか意味がなかったりするんだ。あたしにとってあたしの言葉は全部真に迫るものだけど、実はこれはいろはにとってもそうというわけではない。(中略)それはね、『体験』の有無なんだ。あたしは全部のことを体験してきて、ひしひしと思い知ってきたから、今までみたいなことを頭の中でまとめてきたし、いろはにも言ってきた。けど、体験がない人にとってそれは単なる「よく出来た理屈」であって、自分で使える哲学ではないんだ」(※作曲少女「1」より)

だから珠美は「自ら手を動かして作曲した」いろはに言い、読者にも「自ら手を動かして作曲する」ことを迫る。そうでない読者にとっては、このラノベは「ナイスな楽理×ラノベフュージョンだね」って話です。そんなものが何になる。地上波バラエティ番組のあとの22:55天気予報BGM商業フュージョンか。そうじゃない。「自分の息苦しい世界を変えたい」んだ。他人の世界を変えうるかどうかなんて考えちゃいない。まず自分を救いたいんだ。

必要なのは変えたいという意志、そして「音楽にとって本質でない義務じみた小手先の努力」を回避し、「自分が作曲出来るにあたって必要なちょっとした技術」を最低限学ぶ。その上で、何か表現したいものがあったらラッキーだし、なくてもその「ちょっとした技術」をいじくったり。そしたら何かメロディが生まれるかもしれない。自分がメロディを生むという作業に拒否感がなかったら。(そう、「小手先の義務」を排すのはこのためである。自分もMIDIを書くのを作曲入門初期段階から今まで拒否ったのは……まぁそれで同人CD5枚作れたけど、やっぱMIDI完全なしはキツいかなぁ(汗))
実際、うぐいすは吹奏楽で学んだ知識を、見事に援用してみせた。でもそれも、自分がメロディを作れたんだ!という心からの喜び、心からの自分だけのメロディあってのことです。こうなるとあとは早い。世界にはいろんな「素材」が転がっている。
「お勉強(の強制)」では見えてこなかった、いろんな音の素材……世界は素材だらけだ……
自然の音(アンビエント・フィールドレコーディング)、
工場の音(インダストリアル・メタル)。
肉体の音(声、ダンス、ハンドクラップ)、
楽器の音(あらゆるクラシック楽器、民族楽器、エレキ楽器……)、
パソコンから出る音(MIDIDAWプラグイン)、
生活の音(目覚ましアラームのサンプリング、電子レンジの以下略)、
そして魂そのものが放っている意志……(屈託、屈折、欠落、欠損の叫び……スクリーム、轟音ノイズ、シャウト!)

 

詩文「……本当は、お前と話したいことはまだまだいっぱいあるんだけどな。星の話、海の話、貝殻の話、音楽の話、絵の話。歴史の話。踊りの話、人間の話。神様の話。自然の話。宇宙の話。……けど、ここが潮時だ」

悠「もっと聞かせてよ、そういう話」

詩文「ん?……あはは、それはさ、いつかお前がアタシに聞かせてくれよ。どんな話でもいいからさ」
(作詞少女より)

 


ああ……そうだよなぁ。聞いてくれる人がいるっていうのは奇跡でありありがたいことだよなぁ。この文章は、自分に作曲少女を勧めてくれた人に書いてるものだし、そんな人に対し、ちょっと前に自分は冷めた態度をとってしまったと思っている。そして、その人の友達にもこないだ、自分はバツの悪いタイミングでメサイアコンプレックスのひどいメールを書いているのだ。
時たま、自分が「創作する価値なんてない創作者」だと思うときがある。ふいに差し込んでくる冷や水はまるで冬の空気のように。
自分がやるべきは、まず謝ることなのだ。創作することではない……だから珠美も、最初にまず「自分の制作机を自分の好きなもので埋めるんだ」という極めて「人間として正しい」……「楽しさ」の話をしていたではないか。
そこに天才も凡人もない。少女たちは喫茶店「バードランド」で楽しき作曲を語る。「バード」ことチャーリー・パーカーは天才的に吹きまくって、自分のあだ名がジャズの聖地的なライヴハウスになってしまった(N.Yマンハッタンの「バードランド」)。バードの人生が美しすぎる……なんてこたぁないのは、奴が静脈にテメェで打った麻薬劇薬鎮痛剤覚醒剤の量を勘定するだけでたくさんだ。でも、奴が即興--アドリブ--で刹那に作曲しまくったあまりの輝きは、バード自身をも救っていた。でなければ、チャーリー・パーカーのダイヤル盤の、あの自然で闊達で天を地を高速で飛天滑空する「アレ」はなんだというのだ。


そう、作曲そのものに、天才も凡人もない。「良い作曲で、良い人生を」。アンタの作曲は誰かの人生に奉仕するためにあるんじゃない。思い上がるな。でも、自分が作曲して自分を楽しませることには意味がある。わたしが意味があるっていったらわたしには意味があるんだったら。

そうしてこの小説の中で、少女たちの世界は確かに変わったわけです。よかったね、と言うのだったら、次は自分を良くしてみよう。彼女たちが望むことがあるとしたら、多分そういうことだから、と思うのでありました。さぁ、Reason立ち上げてギター弾いてみよう。Reasonに課金バージョンアップするのはもっと後あと……(ぉぃ)。

 

いろは「こんな風に、気持ちをかたちにして、それを伝える方法がわかった今、もう足りないものなんて何もないから。(中略)今この瞬間だけでも、もう私には出来すぎだって思うから。」(作曲少女2より)

 

2019/12/15あたりの日記

redselrla.hatenadiary.jp

こつこつと、箱庭ホムペや、設定タグ整理ブログを更新していきたいですね。いきがいを大事に

 

ツイッターのアカウントを消すまで、あと8日ですね。DM確認のためにちょろっと見ることはあります。でも、12/23の消去日以降は、ツイッターもDMも使えなくなります。

 

仕事は相変わらず忙しいです。最近は機械の不調でキーッ

生活スタイルの変更が必須になりました。

夜はほとんどなんもせず、ほんとにさっさと寝て体力を回復し、朝、出勤前に「趣味をしっかりやる!」という生活スタイルでないと、「趣味、創作を行うことすら」出来ない、というありさまです。情けない。こりゃSNSをやる暇はどこにもありませんわ

それでも、10年ツイッターをやって、自分も言の葉を重ねてきたわけです。アカウントを消すまでに、ログをローカルに保存しておいて(エクスポート)、今一度この10年の言の葉を読み返して、再び思考し、ヒントを得る、というのは、とても意味のある行為だと思うのです。惰性でSNSをやることよりも、もっとずっと。

(解決済みです)自室のPCのネットが使えません

12/5(木)、ネット回線復活しました!

原因は、モデム固定接続部のケーブルが、経年劣化(10年)で、断線していた事によりました。工事業者さんがチェック&修理して頂き、無事ネット復旧しました。

関係各位にはご面倒&ご心配おかけしました。ありがとうございます。ハードウェアのメンテナンスに精進する心構えで向かいます。

 

(2019/12/2 過去ログ)

どうやら昨日の暴風雷雨により(結構強かったです)、自室のネット回線が繋がらなくなりました。

wi-fiルータは繋がるので、原因は大元のモデムの故障か、ケーブルの断線か。

スマホの回線は大丈夫ですので、しばらくはスマホ回線オンリィになります。PCでのネットですが、スマホ回線テザリングを使えば、接続できます。あるいは、家業仕事場の仕事用PCの回線をちょろまかすなど(笑)

ただ、やはりテザリング接続料金の問題など、「やりにくい」ことは確かなので、自室ネット回線復活まで、ネット使用&更新が、かなり控えめになります。

最近のネタ(11/20/2019)

2019/11/20(水曜)

・リアル仕事が忙しすぎて、趣味活動、創作活動が全く行えていません。なんとか寝る前の刹那なる10分を使って、このブログ記事を書いています。あずましくないですね。(北海道方言:意味・せわしない系のバッドバイブス)

過去類を見ない時間のなさです。自分の人生は趣味に生きる!と4、5歳の時にほんとに誓った自分が、一日「仕事しかしていない」という有様です。びっくりして笑ってしまいますね

仕事のスキルは上がるし、上司の評価も上々だし、とても良いように見えますが、「趣味、創作をしていない」ということが、これほどまでに、こういうことか……!と、実感していますね(無限の含み)

 

・創作では、以下のブログをはじめました。

redselrla.hatenadiary.jp

情報量で殴っていく、がスタンスです。情報量の拡充が、目的です。まずは小西さんが出してくださった妄想をUPしていくことと、小西さん筆頭に頂いているQにAすることが(Q&A)、さしあたっての更新予定です。

 

・外国語勉強が趣味になりました。興味の赴くまま、同時に手を出している語をカウントしたら、そろそろ10か国語になりそうです。野放図。

・英語

ポルトガル語

エスペラント語

・ドイツ語

・フランス語

スペイン語

・中国語

・ロシア語

・フィリピノ語(フィリピン語)

手を出し過ぎ、というのは、どちらかといえば、正直恥ずかしいです。言語学者黒田龍之助先生は、「一度に複数言語をやるのはやめなさい。とくに、系統の同じ言語を一緒にやるのはやめなさい(ロマンス語系:スペイン語ポルトガル語とイタリア語とフランス語、みたいに)、といろんな著書で何度も口を酸っぱくして仰っているのです。師(?)の教えに反しているようなものです。

しかし、そもそも自分が多言語学習をしようとしたのも、黒田先生の導きなのですよね。

 

・あー、この「残響の足りない部屋」ですが、少し時間が取れたら、過去記事に思いっきり手を入れていきたいと思っています。今となっては恥ずかしい赤面ものの記事が、事実として多い。それもまた微笑ましいものよ、と思われる方もいるかもしれませんが、その血潮流るる恥ずかしさは、自分(ブログ筆者)からすると、このブログを軽く雑に更新していくにあたっての「筆者的居心地」に、かなりの悪影響を及ぼしているみたいなので。その際、当然、カテゴリも思いっきり手を入れます。自分が、自分が読み返したい文集としてのブログにしたいのです。

 

・10月末に、キャンプをしてきました。このキャンプ日記もすごく書きたいのですよ。旅行記も、書きたいのがいっぱいあります。2018年の山梨とか、2回行った岡山の大原美術館とか。

 

7年間毎晩脳内イチャラブ妄想していた萌えカプに飽きた

かれこれ7年になります。7年前から、自分の眠りは安らかでした。彼と彼女のカップル(カプ)が居たからです。

2012年あたりから、毎晩寝る前に「イチャラブカップル妄想」の幸せを脳内で展開して、安らかに入眠していました。
そのカップルは、とある線の細い(少女漫画系)すけべ漫画の高校生カップルで、男性の方はマニア趣味のやさしげな優男。少女の方は白髪/銀髪ロングの儚げなメイド風優等生であります。
そのカップルを、原典すけべ漫画の記述をもとに、いろんな角度のシチュエーションから、脳内でアフターエピソードを勝手に拵えて、毎晩毎晩妄想していたのです。
そうすることにより、まぁまぁあらあら、入眠の安らかなこと。
布団に入って、もはや自分(筆者)を脅かすものは何もなく、安心に包まれて、優しさに心身の内外から包まれて、気持ちよく眠ることが出来ていました。

そんなのをかれこれ7年は続けてまいりました。毎晩欠かさずです。ほんとにです。この手のイチャラブ妄想になったら自分はしつこいのです。
ずーっと同じカップルを脳内展開、観測。もう原典のネタなど消費し尽くし、オリジナルエピソードを盛りに盛って、脳内妄想を続けていました。原典すけべ漫画は連作短編漫画で、単行本1巻にも満たないのですが、自分(筆者)が拵えた妄想は、多分単行本5,6巻くらいはあるんじゃないかと。

しかし最近……といってもこの1週間くらいのことですが、ひょっとしたらようやく飽きてきたのかもしれません。
この数日、これまでジューシーだった妄想の明確なネタ切れを、突如として感じ、寝る前の脳内妄想があまり展開していかない。ここにきて、妄想なしのパサパサとした無機質な入眠をすることを、余儀なくされています。

「さすがに7,8年同じカプで妄想するのは限度か」!
という気持ちと、「よく7年も同じカプで妄想できたな」という感慨と。
あるいは「これまで幸せな時間をありがとう」という気持ちと、
そして何より「次はどうしよう……」という若干の不安さと。

原典はすけべ漫画ですが、重要なのは「少女漫画的な線の細い繊細な描写」と「お互いらぶらぶなイチャラブすけべ描写」が見事に相まって、ハーモニー(調和)を醸し出していたところですね。

さてどうしよう。

いつも心に推しカプを。
あるいは、いつも心に嫁とのイチャラブを。

それが人の生活を安らかにしてくれる、入眠を。
まさしく必需なる概念存在であります。

いつも心に推しカプを。あるいは心に嫁ラブを。
しかし……「そのひと(たち=カプ)」は、どこに居るんだ。

萌えとは、最終的には、自ら見つけ出すところのものであります。
こっちが、勝手に陥落するところのものです。
相手がどんなにあざとく誘惑してこようが、自ら堕ちて(萌えて)しまったキャラの前では、やはり「あざといアナタも悪くはないけど、ちょっとこっちの嫁の特典イラストをおれはころしてでもうばいとる」
という無様になってしまうわけです。

もちろん、7年続くくらいの妄想を出来るカプに、7年前に出会ったんだから、どうせ今度もコロっと転ぶ萌えカプに出会うだろう、という楽観はあります。
それはいつになるのかしら。

次なるカプが、「前と同じ造形・同じシチュ」ではない、だろうという予測は立つのです。
一方で、何かしらの雰囲気だったり、持っているオーラみたいなものは通底しているだろうとも予測します。
しかし、その通底しているものを抽象化&メソッド化して、「おれは●●なカプを求めるのだ」と決めつけ、さかしらに最短距離で次なる萌えカプにたどり着こう、とするのは、なんだか違うような気がするのです。
どうせオタクですから、過去に自分もその手の「属性論」めいたことをしましたよ。でも、「かなり同じっぽい属性ヒロイン、カプ」に行っても、結局は「前の方がドンズバだったな」的なところに落ち着いてしまったのも事実。

「なんか前とは違うかもだけど、よくよく掘ってみれば、何かしらが通底していた」というのこそが、求めているものかもしれません。贅沢な。

そして、前のカプに与えていた数々のシチュ……寂しげな海にふたりでバスに乗って遠出デートしに行くとか、狭い部屋でラブラブ同棲するとか、突然の雨に降られて自宅に急いで帰ってお風呂にふたりで入って雨の冷たさとお風呂の暖かさで楽しさと切なさが爆発してふたりでいちゃいちゃ濡れまくりせっくすするとか。

次なるカプを見つけても、どうせ自分は同じこと(シチュ)をさせるのですよ。進歩がない。
しかし萌え……とりわけ毎晩の入眠におけるイチャラブ妄想における「進歩」「生産性」「革新」など、心からクソ喰らえだと思っている自分がいる。

カプを観測する。
そのカプがどこの誰になるかはわからないですが……。次もすけべ漫画とか、ラブコメエロゲである、というのは限りません。こればっかりは何になるか、わからない。

そういうわけなので、どうせ次のカプにさせる妄想シチュは、いつもと変わらない……つまりはシチュ上の保守であります。
で、あるにも関わらず、別のカプに対して妙に飢えている。

そういう飢えた心(ハングリー・ハート)である限り、案外自分はまだまだ現役オタクであるのかもしれませんね。
最近、そこのところが自分でも「落ち着いたおっさんオタク」になってきちゃったのかなー、と思っていたところなので。

とりあえずは、まずは、最近の潮流からごぶさただった、エロゲ(ノベルゲーム)から調べてみましょうか。

最近じっくり読んだ好ましいブログ記事という物語(9月中旬)

皆さん、インターネットをしていますか?(この文章を読んでる時点で意味の無い質問)
ええと、皆さん、健やかにインターネットをしていますか? ほほぅふむふむ。それは何よりです。
ついついSNS経由で回って来がちな、社会的不安や、個人のコンプレックスを煽るような言説を、夜更けにぢっと読みふけるのはよろしくないですよ。

文学が、こころに滋養ある善き文章が必要なのです。ということで、最近読んでる(読み返してる)ネット記事を挙げてみることにします

 

steampunkn.blog.fc2.com


こういう風に「ネット記事を挙げる」記事を書いてみようと思わせてくれた発端。
ここでは「ゲームメディア」ですが、何にせよ、お気に入りのメディアを通じて、そのシーンの今と昔と現在に触れ続けることが出来るのは、善いことです。そうしてシーンを知り、己(の興味)を知っていくのです。メディアを通して、シーンを「気に入ってる」ということ。この「気に入ってる」感っていうのは、大事だと思うのですよ。

 

feekoduki.blog.jp

 

書評・ノベルゲームレビューブログの管理人同士による、「物語」対談ブログです。

自分(残響)の、良くも悪くもな性質なんですが、グッドバイブスでもって「物語が紹介されている」と、そこから勝手に自分は脳内で「こういう物語なんだろうな」と空想を働かせて、紹介されている物語(原作)を読まなくても、架空の物語を想定してしまって、それはそれで満足してしまう性質があります。

そしてこの、物語と人間をめぐる対談ブログですが、対談者二人とも、「引かない」ですね。

話題はしばしば、物語人物のモラル的な側面に話がいくのですが、「こういう人間のあり方ってどうなのだろう?」と、ふたりで語り合っておられます。

まさに文学です。簡単に引くモラルは、それだけでモラルに反しているのです。もちろん、お互いが宗教戦争じみたことをしてるわけではありません。そこが、対談者ふたりの、物語への信頼・信義を感じさせるところです。

正直、自分は、そういうピュアな「物語への信頼・信義」を持てているか、といったら、怪しいところがありますので。

 

anond.hatelabo.jp

……というタイトルの自伝を書いてるわりに、物凄い「物語るに足る人生」を生きてらっしゃるのですね、この筆者のひとは。

snowlong.hatenablog.com

筆者は、今は東京でITエンジニアをしながら、VR文化に触れ、その一方で大学進学のための準備をしている方です。
「大学をやり直す」のではなく、「世界の広さと深さを知るために、今まで縁遠かった大学に行く」という、明確な目標を持っています。

この人は、バックれ傾向(失踪傾向)がある人で、電子書籍の自伝にも書かれているのですが、とにかく「状況が安定してきたら、バックれ」て、どこかへ行ってしまう。行ってどうするか? ホームレスになる。そしてしばらくしたら、また何かを目指し始める。


もともと頭脳も、プログラミングのセンスもずば抜けている人なのですが、しかしどうしてもアウトサイダー寄りになりがち。そういう「まともな世界」と「アウトサイダー」を、ちょくちょく行き来している人。

この人は、「世界は広いんだなぁ、と泣きそうになる」と物語っているけれど、それを読んでる自分も「世界は広いんだなぁ」と思っている。

例えば、大学受験のため、数学をやるも、理解出来なかったが、あるとき「数学の数は、【かず】じゃない、【すう】という抽象概念なんだ」と気づき、バーン!と「数学の世界の扉が開く」こととか。


世界はそんな風に謎で複雑で、面白くて、人生という青春が一生出来る世界なんだ、ということを、物語っている。

 

yoshimitaka.hatenablog.com

今夏の、島根県江津市の「第3回ごうつホビー祭り」に来て下さり、現地でオフ会をやると同時に、義実さんは、この祭りのすべてを、くまなく楽しんでいただけました。

熱気。
今ここで、確かに何かが生まれ、それを全身で楽しんだ人が居たんだ、という記録。
文章から、何かエネルギーがうごめくものを感じます。それが「熱」です。
もちろん、イベントの改善点はあれど、それは前に向いて、これからもより良いイベントにしていくための、建設的な意見。

「観客、お客様」じゃないんだ、と。みんなが「参加者」であり、欠くことの出来ない存在であり、みんなで作っていくイベントなんだ、熱なんだ、と。

かつて、自分はそういう言葉を、お題目としてしか受け取っていませんでした。
まさしくそれこそ、世界を知らなかった愚かさです。

どうでしょう、これが物語です。

 

(過去に書いた似たコンセプトの記事)

modernclothes24music.hatenablog.com