残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

本館「Analog Homepage」更新 ジュースレビュー「コカ・コーラ」

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12/23に、しれっとひっそり更新しておりました。

カテゴリ「路上観察」の新コンテンツとして、「ジュースレビュー」というミニサイトを立ち上げております。

第1回目の更新は「コカ・コーラ」です。コーラの素敵な飲み方についての怪文書が長いです。折にふれて、このジュースレビューは同一ページで更新されていきます。

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本館サイト更新(2020/12/14 ミレービスケットの謎UP)

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「ミレービスケットの謎」をUPしました。カテゴリ「路上観察」です。また、サイトデザインを更新しました。

コメントに関しましては、以下の記事ページか、

modernclothes24music.hatenablog.com

もしくは、この更新報告記事のコメント欄のどちらでも大丈夫です。

 

ギターを10年間弾きながら

先日から、電気ギターの音が出なくなった。ボリュームノブを回した時違和感があり、とりまジャックやピックアップガードを外してみたら、内部配線が腐っていた。配線はジャングルのようにこんがらがっていて、かろうじて繋がっているリード線はソーメンのように頼りない。部品にはところどころ腐食、錆、焦げが見える。

このエレクトリック・ギターは、数年前に中古で購入した電気ギターであって、このギターでここ数作の同人音楽アルバムを制作してきた。今後ともよろしく付き合っていきたい愛器でありますから、物凄い久しぶりに電気工作で修理をすることにした。

とりあえず腐ったハンダを除去すればどうにかなるか、と思ってはいた。ところがソーメンのようなリード線が、翌日の夕食に出た延びきったソーメンのように、簡単にちぎれてしまうではないですか。そしてジャック部品は腐食で錆び腐っている。ボリュームポッドやピックアップをきちんと確認したら、Oh Goddess!どう見ても断線している。

これではダメだ、ということで、amazon通販で適当なジャックを購入して、ハンダ付けで交換しようとする。
ところが腐っていたのは自分のハンダ付けの腕でもあるようです。ハンダゴテを握ってレッツ接着……まぁハンダがダマになること。次々と銀色のクソ玉が出来てしまう。クソ玉がコロコロと机に床に転がる。そもそも久々のハンダ付けが、初手から空中配線というのも如何かと思わなくもない。机の上での、部品のしっかとした固定の仕方に難がある。挙句の果てにはリード線のホット線とアースを間違って付けてしまう始末。

そんな修理をどことなく楽しんでいるのは否定しないが、でも、修理のための下準備が足りていない。ということで、初歩の基礎から改めて電子工作の勘を取り戻そうとしている今日この頃です。


そして思いましたね。もうとっくに「けいおん!」から10周年以上は経っているというわけです。

TBSアニメーション・けいおん!公式ホームページ

けいおん以前からギターをやっていた自分であるわけですから、10数年ですか。ギターをやっているのは。
ずいぶん遠くまで来たのかもしれない、と思いましたね。ギターを手にしてジャーンと鳴らしてみた日から。

そこから随分、エフェクターをはじめとした機材を買ったものです。一度はギターを止めようとして、売ったり知人にあげたりして。でもまたギターを手にして、今度は同人音楽アルバムを、シングル4枚、アルバム2枚は作ってしまって、現在新譜シングル(5枚目)に突入しております。
ギターを弾くことによって、かなり音楽の聴き方が変わりました。音の響きの深さや広がりが、確かに分かるようになった。それは作曲をするようになって、より一層加速していきました。リズム、ハーモニーの意味など。

遠くまで来たの「かもしれない」と、断言していないのは、実感があまりないからです。
確かに「けいおん!」からもう10年ということで、単純に確実に自分は、ギターを10年以上弾いていた計算になります。
でも、それが誇らしかったり、自慢したいのかい?というと、そういう気持ちが全然ないのです。何しろ、10年という実感が、あまりないので。

もちろん、ギターを弾いてきたこと、作曲をするようになったこと、これは本当に自分の人生にとって良かったことでした。
多分、その「良いこと」が自分の人生にこうして有った、っていうことを、たまには噛みしめてみるのも、悪いことじゃないんでしょう。
旅人が、日記や写真を読み返して、これまでの道程を振り返ってみるかのように。

そのように思うってことは、次に自分がどこに行くか、ってことに悩んでいることなのかい。いや、そこまでがっつり悩みまくっているってわけではないです。次にやりたいことっていうのは、幸いにして見えている(5作目のシングル盤とか、3作目のアルバム盤の構想など)。

ただ、これまで経験値を重ねてきたから、……惰性とは呼びたくないけれど……、妙に技術的に、いろいろちょこちょこした事が出来るようになってきたということはあって……。
作品を作ることが普通になってきた分だけ、ちょっとヌルい意味で、いろんなことに「ま、出来るでしょう」という考えが頭をもたげているというか……(歯切れが悪い)。

もちろんこれらは、技術的な経験値、場数を踏んできたから、いろんなことに「対応できるでしょう」というメタ知識の話なんですよね。
それはまっこと、よいことなんですよ。もう初心者じゃない、っていう。
だのに、どうして。なんか違う、と思ってしまうのは。もっと言えば、この、いつしか「守りに入っている」感はなんだ。

 

安定していることは良いことなんですけどね。
ただ、「1音と1音を重ねるだけで震えるほどの感動」っていうのを、感じていたいからこその、ギターであり、作曲だったはずではないのか?っていう思いがあるんですよ。

 

「なんでもあり」なのだ、と自分に言い聞かせたい。
理想を形にするために、いろんな技術や機材を使うのも、なんでもあり。
その一方で、理想なんていーや!今鳴っている音が楽しいんだからっ!っていう、どことなく放課後ティータイム的な哲学で音で遊ぶのも、あり。
そして、そんな放課後の音をさりげなく録音しておいて、後で使えそうな断片を編曲MIXしまくって、曲としてでっちあげて、「これで理想を描くんでございっ」とするのも、完全にありですよ。

おそらく、経験値を得た上で重要なのは、音楽の「なんでもあり」のための、ささやかな(やる気を地味に失わせる)面倒事を、テクニカルに排除しておく、っていうことなんだろうと思った。録音機材とマイクをつないでおくとか、録った音を簡単に編集できるよにPC(DAW)の設定を済ませておくとか。
そして面倒事が排除されたら、あとは音楽を楽しむだけなのであることです。

音楽の経験(技術的経験値、場数)は、それに尽きる…って言ったら暴論だけど、しかしこういうテクの上に、初心者のごとき震える情熱があったら、それ以上何を求めるものがあるんだ?っていう話です。
そういう風に理屈を作ることが出来るくらいには、音楽やギターの旅路も、距離を重ねてきました。

そういえば、かつての自分はどこかのタイミングで、「もう自分は作曲なんて出来ないんだ、フレーズを作ることが出来ないのに、どうして1曲なんて出来ようものか……」って思っていたこともありました。
そういえばそうだった。

諦めるタイミングは山ほどあったのですけどね。それが今、ギターを前に半田ゴテを握って修理しようとしていますよ。

なんだこれ、って思います。寄り道・道草だらけだ、っていう音楽人生です。変なの。音楽のある人生というのは変なものです。きっとこれからの道のりも、変な道のりなんでしょう。

今、ギターを修理しながら、「もし直って、これで音が良くなってしまったら笑っちゃうなぁ」と思いながらハンダ付けです。
ていうかシングル盤やアルバムを作ってしまっているってだけで、10年以上前の自分に告げたら、爆笑失笑苦笑もいいとこだろうと思います。くだらない冗談はやめろ、と。

ところが今の人生はくだらない冗談を実地で生きております。ということは、これから先の5年、10年先の人生がもしあるとして、非常にくだらない事を真剣にやっている可能性がある。

 

ふーむ。なるほど。
そういえば、自分は、自分が作った同人音楽シングル盤・アルバム盤を聞き返すのが、凄く好きなんですよ。あまり自分の文章を読み返すことはしないのに、自作の音楽はよく聞く。いつも、技術的に改善点はあるけど、良い曲やないか、っていつも思っている。


自分の書く文章においても、そうありたいものだなー、と思う。この先の自分の人生を、文章が彩るんだとしたら、「くだらないことを真剣にやってる10年後の自分」に贈り物を投げつけるような文章でありたいと願う。

こんな音楽を聞いてきました その1:アメリカ大陸、ヨーロッパ大陸(世界音楽履歴書2020年現在)

この記事は、いわば備忘録ですね。現在、このブログの管理人は35歳なのですが、「全世界全時代全ジャンルの音楽を聞こう」と、学生時代に心に決め、以来いろんなレコードや生演奏を聴いてまいりました。
なぜそんなことを決心したか、実は今となってはよく覚えておりませんが、ともあれその全世界音楽旅行を始めてから15年は経っていました。

今回はそんなわけで、これまで「耳で訪ねた」音楽地域をざっと駆け足で記してみます。

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世界地図です

●北米:アメリカ、カナダ

主に「ジャズ」と「ロック」の2つの軸で。

ジャズは戦前からのジャズを中心にしたビ・バップ~ハードバップを中心に、モードジャズも聞いております。いわゆる「モダン・ジャズ」。フリー・ジャズも一応聞いてはおりますが、ここまでくると、オルタナ系の連中が「ノイズ/即興」系譜で聞く文脈の方が近しいかも。トラディショナルジャズ~中間派に至る系譜も、もちろん愛好しております。半面、そういう古典に親しみまくっていたので、クラブ・ジャズ以降の現代的な展開に慣れるまで時間がかかりました。

ロックは70年代ニューヨーク・パンクと90年代オルタナティヴロックを中心に。
ジャズとロックを聞くということで、戦前ミシシッピからデルタなど、ブルース~ブルース・ロックを、遡る形で聞くことにもなりました。

フォーク、カントリーの方は、この7、8年でようやく少しずつ遡っていっている状態です。何しろそこらへんのアメリカフォーク音楽のガイドにしているのがジャック・ホワイトやデレク・トラックス、そして近年のエリック・クラプトンだというのだから始末に負えない。

むしろブルーグラスヒルビリーみたいな、ケルト要素のある民謡めいたカントリー音楽は大好物でした。

 

ロック中心だったので、ヒップホップを聞くのはかなり出遅れましたが、最近Lo-Fiヒップホップに大変お熱です。このあたりの音像と現代のジャズも合わせて聞いております。

ブライアン・ウィルソンライ・クーダーのような、アメリカ音楽を総合的に、比較音楽(学際)的に捉えるアプローチにやがて辿り着くんだろうな、って思ってはいます。

 

中南米:メキシコ、キューバ、ジャマイカ

お察しのようにライ・クーダーの「ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ」がキューバ音楽の入り口でした。後述しますが、ぶっちゃけ自分のワールド・ミュージックのネタもとはライ・クーダージョー・ストラマーの影響が強いです。

メキシコに関してはこちらもやっぱりサンタナから入りましたね。あと地理的に近いテキサス・エルパソ出身のマーズ・ヴォルタを聞くと、なんかこのあたりの音楽文化の匂いってものに想いを馳せてしまいます。そういう意味だと、マリアッチを多少聞いてはいたものの、やっぱりアメリカのチカーノ・コミュニティの文脈からメキシコ音楽は聴いていたかもしれません。これ書いていて気づきましたが。

ジャマイカはこれはもう、70年代ロンドンパンク~ニューウェイブから入りましたね。ようはレゲエやダブを、パンク勢とくにクラッシュが導入しまくったので、その文脈で聞きました。そうですサンディニスタですよ。


The Clash ~ One More Time / One More Dub


ただ、結構レゲエから、スカに遡って聞いていくうちに、自分はカリプソのビートがやたら好きだってことに気づきました。結構カリプソは好んで聞きましたね。カリプソを演っているだけで自然と点が甘くなる傾向にあります。あと、ダブに関しては近年再入門しております。何しろ深い世界なので……

 

●南米:ブラジル、アルゼンチン

深いといったら南米も大層深いです。まず、戦前のサンバから戦後のMPBやブラジル風のEDMを概観する形でブラジル音楽史を総合的に聞いていってるのが、軸としてひとつめ。こちらを現在頑張っております。

もうひとつは、ボサノヴァですね。これはジャズにおける「オルタナ」というか、やっぱりジャズ史観から見ると、相当このボサノヴァってやつは発見が多いのですよ。で、そのうち、ジャズのサブジャンルとして聞くだけではなく、ボサノヴァを水のようにごくごく摂取するようにもなりました。ある種の人々は恋するかのようにボサノヴァを聞き込みますが、気持ちわかりますね。

www.youtube.com

アルゼンチンですが、カルロス・アギーレの音楽や、「Bar Buenos Aires」コンピレーションを軸に、この地のフォークを聞いております。また、フアナ・モリーナなどのいわゆるアルゼンチン音響派と呼ばれた音楽家も同じく。そういう意味では「静」のアルゼンチン音楽はよく聞いておりますが、反面「動」の方はまだまだともいえるかも。

うむ、やはり中南米、南米はわたくしまだまだ浅いところにとどまっておりますな……!

●西欧:フランス

フレンチ・ポップから入りました。それこそフランス・ギャルとか。ブリジット・フォンテーヌまで聞いてた。これは90年代渋谷系……ネオアコやジャズやR&Bや映画音楽の再発掘ムーヴメントの文脈で聞きました。ようするに小西康陽の美学は相当大きい。学生時代、この分野に強いジャンゴレコードという奈良のレコ屋に通い詰めていましたからね。

その一方で、ダフト・パンクが大好きだったりします。おーい70年代フレンチプログレすっ飛ばしていないか?と思いますが、うん、はい、申し訳ない。今後の宿題です。ともかく、ダフト・パンクが大好きです。こいつらはフランス文脈で語っていいのか?と思いますが、しかしUSやUKのクラブシーンの史観からしたら、やっぱりこいつらは傍流というか。王道になり切れない(いつもそのオルタナでいたい)というそのアティチュードに妙にフランスを見出していたりします。屈折やなぁ!

あと、ドビュッシーの音楽はどこまでいってもフランスです。初めて聞いた時からその洗練された和音のファンタジーに魅了されています。そこからフランスのクラシックを遡った……というよりも、もうちょっと後年のエリック・サティとかフランシス・プーランクを聞いていました。

そんで、自分がヨーロッパ・ジャズを聴くとなったら、まずフランスに目を向けているかなぁ、と。どことなくユーロっぽいフレージングを耳にすると「ああ、やっぱりヨーロッパ・ジャズだなぁ」と思います。ジャンゴ・ラインハルトステファン・グラッペリの昔から……というかあの連中がそもそも輝きすぎてるんだな、うん。

 

●西欧:ドイツ、ベルギー

ジャーマンプログレクラウトロック)と、ジャーマンメタルと、アヴァンギャルド。それからテクノと、やっぱりドイツ系クラシック音楽を遡りました。ジャズは手をつけられず……。

ジャーマンプログレはCANを聞いて、「そうか、ループ的にトランス音楽をカマしていけばいいのか!」と変な悟りを開きました。だからやっぱりタンジェリン・ドリームには親近性をすぐに抱きました。その後のテクノ・ハウスへの影響という意味でも。
あと、管理人の自作の曲の感想を頂くとき、実は結構多いのが、「ジャーマンプログレっぽい」って言われることがあるのです。名指しでアモン・デュールって言われたことがあった。実はそこまでジャーマンプログレ聞きこんでいるわけでないので恐縮でしたが正直w

結局メタルはアメリカのよりも、ヨーロッパのいわゆる美メロというかクサメロみたいなのが好みなんだな、と。聞こえてくるじゃありませんかハロウィンのイーグルフライフリーが……。

クラシックに関しては、いわゆるドイツ系……バッハ、モーツァルトベートーヴェンから、ロマン派、そしてワーグナーとかシェーンベルクに至るまで、一応聞いております。ドイツ系クラシックで一番自分が好きだって思えたのがハイドンだった、というのは未だに「うーん、そうなのか……」っていう感じ。むしろ最近はシュトックハウゼン電子音楽を、ニカ(エレクトロニカ)やアンビエント、ノイズの文脈で聞くことが多いかも。

ベルギーのシンク・オブ・ワンに関してはアフリカ:モロッコ音楽のところで……

 

南欧イベリア半島

ケルト文脈でスパニッシュ音楽を聞いてるっていうのが変な入り口というか。MIDIバグパイプのエヴィアとか、カルロス・ヌニェスとか。そんなにケルト音楽・ユーロ民謡好きか。大好きです!

フラメンコを少々聞いたくらいで、やはりスペインやポルトガルの方面は「入って」いっていません。むしろロドリーゴやファリャのようなクラシックと民族音楽の融合アプローチの方をよく聞いているかも。あ、国籍フランスですが、南フランス郊外でスパニッシュの影響色濃いっていう意味で、マノ・ネグラ好きです!あ、しまったマヌー・チャオのこと南米のとこでいうの忘れてた! ライ・クーダーとストラマーの次くらいに、国際ミクスチャーロック文脈ではマヌー・チャオ意識してはいますハイ。


Manu Chao - Me Gustas Tu

 

●西欧:イギリス

UKロックはそりゃあ遡りました。キンクスビートルズに始まり、ツェッペリン、クリーム、パープル、ユーライア・ヒープ、ブラックサバス……。でもやっぱりメタルはあんまり行かなかったです自分。2012年くらいになってようやく各地のメタルを聞き始めたくらいですから。そのタイミングでアイアン・メイデン聞いてるくらいですしね。

UKはパンク、ニューウェイブを中心に、そこからマイブラに至るシューゲイザーにまで連なる感じで。でもオアシスをまず聞いていないという変な人です。

前述したように、クラッシュ、とくにジョー・ストラマーの世界音楽探訪精神に極めて感化されているもので、クラッシュと言うパンクから、ダブ、レゲエ、初期ヒップホップ、トラッド、初期ロックンロール、ワールド……とやたらめったら手を出すようになってしまいました。ようはクラッシュのせいで、今この文章を書いているようなもんです。責任をとってもらいたい。

ネオアコザ・スミスといった80年代の展開もそれなりに聞きつつ(80年代に関してえば、アメリカよりもイギリスをよく聞いてるかも)、でも心は常に70年代というか、ツェッペリンだのクラッシュだの。古いですね。大好きです。

音楽を聞き始めた一番最初、自分はトランスやユーロビートを聞いていましたが、やはりUKダンスヒットチャートは意識していました。今では全然見ていませんが……。

あと、イギリス民謡とか、オルタナティヴフォークとか、フェアポートコンベンションみたいな電化トラッド、めちゃくちゃ好きです。それからepic45みたいな郷愁ポストロックも大好きですし、まだまだ掘りが足りていないですねイギリス。

 

●西欧:アイルランドアイスランド

U2を愛好してるんですが、それ以上にとにかくこのアイルランドの地のトラッド(トラディショナル・ミュージック、要するにケルト系)を愛してやまない。その現代的展開のポーグスも好きです。アイルランドに行ったらアルタンの切手を買うんだ……。アイルランドの民謡はもう全部好きです。古典も現代も。

それからアイスランドは、個人的にはエレクトロニカ/フォークトロニカの国です。シガー・ロスムームはもちろんのこと、Lo-Fiおばあちゃんことシグリズル・ニールスドッティルのようなインディー魂が脈々と受け継がれている素晴らしい音楽文化というか。


Múm - Green Grass Of Tunnel

 

南欧:イタリア、ギリシャ

カンツォーネを聞きこんでいました(どちらかというとユーロジャズや映画音楽の文脈)が、その一方でラプソディ・オブ・ファイアのようなシンフォニックメタルの国っていう聞き方もしています。とくに自分の聞いていた(クサ)メタルのバンドは、こぞってラプソディを愛好していましたからな……。ぶっちゃけそれはSound Horizonにまで至る。

ギリシャは民謡くらいしか聞いてはいませんが、その変拍子っぷりに度肝を抜かれたものでした。なんだこの変拍子の嵐は、と。まだまだ聞き込みが足りません。

 

●北欧:ノルウェースウェーデンフィンランド

ユーロ民謡・トラッドの流れで、この地の民謡も聞きまくりました。とくにヴェーセンは大変すばらしく、今もニッケルハルパ(楽器)の音色が耳に響いています。ラップランドサーミの民族歌唱ヨイクの大地的な響きもまた。

そして(クサ)メタルではアーク・エネミーやチルドレン・オブ・ボドムというデスメタルを聞いたり。目下の宿題は、アーク・エネミーの中心人物・マイケル・アモットの別動隊である70年代ハードロックバンドのスピリチュアル・ベガーズを聞きこまないといかんな、というのがあります。人間椅子文脈で。


Väsen: IPA-Gubben (Official Video)


Solveig Andersson Jojk "Bjiejjie"

●東欧:ハンガリーブルガリアルーマニア

こちらもユーロ民謡・トラッドの流れで、ムジカーシュやその流れの民族音楽を。大学に居る時に民族音楽ライブラリーを使ったりもしましたな。乾いたような湿っているような、泣いているような静かに恨んでいるような、独特の哀愁が非常によろしく。
ギリシャ変拍子もすごかったですが、ブルガリアのジプシー系クラリネット奏者イヴォ・パバゾフのもすごかった。なんだ7/8拍子って。それからファンファーレ・チォカーリァやタラフ・ドゥ・ハイドゥークスなど、「バルカン・ビート」文脈でも紹介された音楽はもちろん押さえております。


Ivo Papasov on Nightmusic


Fanfare Ciocarlia - Manea Cu Voca

それからユーゴスラヴィア圏の民謡やフォークも聞きましたが、ここまでくるとむしろロシア的なフレージングというか、スラヴ的とでもいうんでしょうか。そういう影響を感じることが多くなりましたね。

 

なんかやたらと長くなってきたので(5500字)、今日はここまで!ヨーロッパが一区切りついたのでキリがいいですし。次回は下記について書きます。

 

次回の分 
その2:アフリカ大陸、ユーラシア大陸、アジア

北アフリカ:モロッコ、マリ

南アフリカ

●中東:トルコ、サウジアラビアアラブ諸国

●インド、バングラデシュ

●東アジア:中国、朝鮮半島

●東アジア:日本、アイヌ、沖縄

●東南アジア(ASEAN諸国):シンガポールインドネシア

芸術と他者と幸福について

●しあわせもの

「うわ……そうか……なるほど、こりゃないわ」
と、己の才能の無さを骨身に染みて納得してしまった一人の作り手が居たとします。

ところがそいつは、才能が無いのを主観的にも客観的にも痛感、そしてしかと認定してしまったのも関わらず、それでも未だに作品を続けてしまっているのです。その作品を、ただ作るのが好きだ、っていう純粋な精神だけがそこにある。

わたくし(この文章の筆者)は今になって、このような作り手が、(いわゆる)才能を超えた、本物の才能(?)を持っているのだと思うような芸術観を持つようになりました。これで良いのだと。芸術活動っていうのは、本質的にこれで良いのだ。

それでは価値なんてないし社会的意味もない、っていう指摘があるのももちろん存じています。そしてその価値観を否定もしません。ただ、わたくしにおいてのみ、「他者価値が幸福なのだ」価値観は、「not for me」な価値観である、とだけ言います。そこで話はおしまい。お互い頑張っていきましょう。

 

●才能と自然さと他者

上記で述べた「(いわゆる)才能」、っていうのは、他人に認められる、社会的・商業的価値のある「才能」です。
上記の作り手が「ないわ……おれ」と痛感した才能っていうのは、つまり「社会的にはレベルの低い作品しか作れない才能」っていうことです。

そして作り手が「それでも」と思うにいたった、あまりにも不屈すぎる精神、作品への動機。これが上では「本物の才能」と表現しましたが、これは、見方によっては単に「諦めない精神、豊富すぎるモチベーション」と言えるものかもしれません。

その見方に立てば、「才能」ってやつは、天与のセンスの部分に属するものである。モチベーションの多い少ない、持続力の長短は、所詮個人のエネルギーに属するものだろう、ってされます。そう、1年くらい前まで、自分もそう思っていました。

でも、今はこういう、あまりにも諦めない作り手の、他者の目線を排除した、己のうちをどこまでも追及していって、己が作り続けることが最大の報酬となっている自己完結型の作り手の在り方そのものを、自分は「真の才能」って呼びたいんです。あくまでfor meな定義であって、他のひとに強制するつもりもないです。説教だってしないです。

 

そういう在り方は、どうしたら至ることが出来るのだろうか? 自分のこの数年間は、「そういう在り方」をずっと追い求めての旅でした。いろんなものに手を出して、いろんな考え方に頭を染めて。続いたものもあり、三日坊主に終わったものもあり。これはつまり、幸福を求めての思索と試作の旅です。

なんとなく分かってきたというか……長い間棚上げにしてたものをもう一回掃除し直したというか。あるいは長い間放っておいたものだったのにも関わらず、まだ君は待っていてくれたのかい、っていう涙の抱きしめだったりして。そんな感覚を35歳の今味わっています。

 

誰にとってもそのまんま当てはまるわけではないですが、試してみる価値のあることとして、

・昔から何だかんだずーっとやってきている事。これを、一度落ち着き、整理し、精度を高めて丁寧にじっくりやってみる

・他人の評判はどうあれ、自分にとってすごく使いやすくて、今なお触っていて楽しい機材。これの使い方を完全にマスターしてみる。

 

つまり、自分にとっての自然さを大事にする。「無理をしない」ってことです。自分にとっては、模型やブロックで箱庭遊びをすることと、MTR(マルチ・トラック・レコーダー)で作曲をすることでした。

 

作曲の方を話してみますか。

自分は、ミックス(ミキシング)はともかく、ゼロから自作曲を作曲するとき、MTRを使います。パソコンとDAWソフト(音楽制作ソフト)を使っての作曲(MIDI作曲法)が今は一般的なのは重々承知です。自分のスタイルは15年ほど遅れていると思う。ただ、自分にはあまりにMTRが肌に合うのです。

MTRの良い所といったら、まず録音の音質が一気にダイレクトに上がるところ、フェーダーを使ってのマルチトラックの音量調整がとてもやりやすく、「音の重なり」としての曲構成が把握しやすい所、PC特有のデジタルノイズやデジタルシンセのレイテンシ(遅延)とは無縁のところ、あとスタンドアロンで動作するから安定していること、とかいろいろありますが。

zoomcorp.com

とくに自分はZOOMのR8という機種を愛用していまして。これは本当最高の機材なんですね、自分にとって。録音や内蔵エフェクトの操作はほとんど把握しているので、手足のように使えます。目を閉じても使えるかどうかはわからないけど、目を閉じて録音するシチュエーションには現在なっていないので、リアルにまじめに考えて、とにかく自分はこの機材の使い方に「fitしている」。機材が自分に合わせてくれてるのでなくて、自分が機材にfitしているw

ところで最近、自分の曲のドラムがイマイチだと自分で思っていたんですね。これまで、ほとんどドラム音源のPAD手打ちと、バケツをバスドラに見立ててボスボス原始人のように叩くやり方でドラムワークを録音していました。

しかし最近、ドラムマシンを使ってドラムを打ち込もうとしたのですね。このあたり、ここ15年くらいのトリックフィンガー名義のジョン・フルシアンテのエレクトロ音楽の作曲法を参考にしてるんですが。あまりドラムをナマっぽくバシバシやるよりも、もっとドラムマシンやシンセでビートを定型的に刻んで、グルーヴを「揺らす」のはベースやギター、キーボードでやっていこう、っていうアプローチ。ということで改めてドラムマシンのハードウェアでドラム打ち込みをやっていこうとしまして。

そこで気づいたのが、このZOOM R8には、ドラムマシンとPADサンプラーが内蔵されていて、自由にシーケンスを組んでドラム打ち込みが出来るのですね。これまで、この機能をまるで使ってこなかったのですが、いざそれを試してみたら、極めて自分のとってやりやすい!ああやっぱりR8最高や!って話なんですが、かなり機材オタトークになってきて、「才能」話からズレてきてるのでここで戻りますw

 

●「幸福に生きよ!」と言う以外どう言えばいいんでしょうね

つまり、すべからく芸術というものは、まずはじめに・かつ最終的に、作り手の幸福のためにあるべきものなんだ、っていうのが「自分の」考えです。

じゃあ受け手たる他者はどうすれば良いのか、っていうと、良いじゃんかあなた、作品に触れて良い気分になれたんだから、って話です。

イマイチな作品が自分を崇高な高みに昇らせてくれんかったからって、それはそのときあなたにとって「not for me」が発生しただけであるというか。

でも作り手の幸福のお裾分けをもらって、まずそこで良い感情が生まれたんなら、それなら「ありがとう」ですよ。その「ありがとう」を世間に表明するのも全然悪いことではないですが、それより前に、まず自分の生活を、その作品をずーっと思い返して、気分良くするってことが、「惚れたファン」のやるべきことなんですよ。そしてそれは、まっとうに人生を生きてる人たちは誰もがやっています。

わかりますよ。「救い」を求めたがるっていうのは。作品の崇高性とか絶対性ってやつ。そういう芸術上の神秘体験があったからこそ、今の自分自身がある。でもそれなら、やっぱり自分の生活の機嫌をとっていきたい。

少し話はズレるんですが、芸術作品を他人とのコミュニケーションのネタとして使うっていう考え方、これもわたくしにとって「not for me」なんですよね。まっこと嫌いといっても良い。最近、「鬼滅の刃」あるじゃないですか。あれが異様なヒットになっていて、鬼滅を見なければ(読まなければ)ダメだ、世間に取り残される、っていう風潮が一部であるらしいんです。極めてくだらないし、作品と作者にとって失礼すぎる話であります。「社交ネタ」として芸術を使うっていうの、わたくしまっこと嫌悪しているんです。「みんな見ているんだから君も見なくちゃダメだよ~」式の言葉って、最高にわったくし嫌いなんですよ。

受け手にとっての、「おれの芸術はおれのタイミングで読ませろ」、っていうのは正しい感情であると思います。おれの楽しみはおれの楽しみなんだ!!っていう。本当にその通りです。「おれの楽しみ」の中に、いくらか「社会の楽しみ」が数パーセント混じるのはやむを得ないとして、しかしおれの楽しみが「社会の楽しみ」に塗りつぶされることがあってたまるものか!断固としてわたくしはそれに抗っていたい所存です。なぜならば、自分は鬼滅の刃の原作を3巻まで読んで、「良い漫画だ」と思えたからです。自分は、社会の力なんぞで、自分にとっての「鬼滅の刃」を、嫌いになりたくない。鬼滅をめぐるこのうんざりする同一化風潮なんぞで、鬼滅の刃という優れた漫画を嫌いになりたくない。

 

そして話は一気に戻りますが、この受け手の「おれの楽しみはおれの楽しみなんだ!」っていうのが、作り手にとっても全部言えるんですよ。作り手は自分にとっての「価値」ってものの為に創作しています。その価値って何よ?っていうと、まぎれもなく「作っている時の楽しさ」と「作り終えた自分への拍手」ですよ。特に前者の「作っている時の楽しさ」っていうのは本当に楽しい。それも、自分にとってとても自然なテーマを、自然な手段で作っている時。わたくしは例えばブロックで箱庭を作ったり、MTRで音を重ねたりしている時です。これは自分にとって自然。

でも、ここで例えば「ブロックよりももっと精密なものを工作せねば社会から評価されないぞ!」とか「MIDIを使って完成度を高めなければ笑われるぞ!」みたいな他者妄想が入ってきたとします。もう基本的にはこういうの排除したいですね。自分ひとりでもこういった妄想のささやきが聞こえてくるのですから、他人が言うのはもっともっと排除に越したことはない、っていうね。

つまり、それくらい、わたくしも作り手として、ずいぶん劣化してしまったものです。子供のころから、あるいは作曲をはじめた頃から。つい他者というものを考えてしまう。そしていつしか他者の評価とか「いいね!」みたいな不純物を創作活動の中に入れてしまう。情けないですね。心が弱っているのでしょう。

だからやっぱり、日ごろの創作は何をさしおいても、「自分の機嫌をとる」ってことを第一にしたいんですよ。何かのハードルを設定するもの良いですが、それはあくまで、挑戦(と書いてチャレンジと読む)という清々しさを味わって機嫌をとる、ちょっとしたイベントのようなものですし。そしてその挑戦でも、やっぱり挑んで機嫌がよくなり、成功して機嫌がよくなり、失敗しても機嫌がよくなる、ってものじゃなくちゃダメです。

つまり創作、芸術を創作する、っていうのは、自分の機嫌をとるって行動なんです。それをずーっと続けられるシステムを、生活上でも、精神上でも、築き上げることが出来たしあわせもののことを、「才能」って呼ぶ。今の自分は、そう考えています。

じゃあ「社会的価値」に基づかざるを得ない作品の価値(勝ち)……芸術界におけるランク、商業における金銭価値、承認欲求と多くのファン、みたいな様々なファクターはどうなのよ、って話が当然出てくると思うんですが、「皆さんその話をしすぎだから今こんなことになってるんじゃないですか?」っていう話です。まず落ち着いて、自分の趣味の創作を存分にしてから、時間と精神の余裕があったらそういう話しませんかほんと(この文章は昼間、MTRでベースギター中心のリフを1個作って、部屋を掃除してから書いています)

 

だいたいこういうあたりで、自分は芸術とか、他者と承認欲求とか評価とか、っていう話題について、落ち着くことが出来たんです。考えて考えてやっとこれでした。長い助走・準備期間だったナーとは思います。もうちょっと短縮も出来たんじゃないか、って言われたら、ウーンごもっとも、もっと創作そのものをバッシバッシすべきだったー、っていうのはあります。じゃあそれはこれからバッシバッシやっていきますから、とお答えもします。

あ、芸術上は他者を無視れ、っていう自分の考えですが、これを実生活においても他者を無視りまくれ、っていう風に誤解されても困ります。はい。むしろ創作をしまくって、機嫌悪くなって、実生活でイヤな人間になって人を傷つけていたら、やっぱりその創作はなんか間違ってるんじゃないの?って思いはします。

機嫌良く生きて何が悪い?って話です。それが芸術上のヒリヒリさを減じさせているのだ!っていう批評家の言葉ですが、「あ、なんか猿が日本語らしき声を出してるね」と思っておけば良いんじゃないかと。ただ、「自分の機嫌の良さが、世界にあまねく通じていくのだ!」っていうのも頭がお花畑でありまして、こちらもこちらでやはり猿であります。自分は自分。他人は他人。そして自然は自然。花も木も自分のためには生きていません。そんな自分・他人・自然の相互孤絶状態という世界の真理を、寂しくてつらいと思うか、「へー、君も生きているんだ、なかなかおもろいやんけ」と思うかどうかは個人個人次第ですが。ただ、「面白み」を見出せて退屈しないのは、後者ですよね、って話です。多分話していないことあると思いますが、まあだいたいこの路線上の話です。また思いついたときに書きます。

Feedback Guitar Noise Symphony is writting Daydream World Diary

この記事は、オルタナ音楽・ノベルゲーム感想ブログ「Nothing is difficult to those who have the will」管理人・カナリヤさんへの、以下の記事への返歌です。

 

mywaymylove00.hatenablog.com

 

●ノイズ音楽と筆者の履歴

わたくし(筆者)がノイズに意味を見出すようになったのはいつからだっただろう。ソニック・ユースのアルバム「デイドリーム・ネイション」を聞いた時か。ナイン・インチ・ネイルズの「ダウンワード・スパイラル」を聞いた時? それともピクシーズの「Vamos」のジョーイ・サンチャゴのチェーンソーギターノイズインプロを聞いた時か。
それらは自分が学生時代だったころ、音楽を聞き始めて半年で立て続けに起こったことなので、どのエピが最初かもう覚えていない。言えるのは、この時期に立て続けに「ノイズ音楽」を聴きまくったということ。
そのうちのひとつに、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインシューゲイザー・ノイズ音楽があった。

ところで、はじめ、自分にとってノイズを聞くことは、「先進的」な意味合いを持っていた。
なにせ、それまで聞いていたのが、ポップスやダンスミュージック(ユーロビートからトランスにシーンが移行しようとしている時分)ばかりを聞いていて、カナリヤさん曰くの「強度」の高い音楽ばかりを聴いていたのだ。この場合、強度とは、美メロとキャッチーなリフ、そして定型のリズムセクションだと、自分は解釈している。変拍子とかはないって話。

それらの音楽を、半ば決別(黒歴史)するような形で、ノイズ音楽表現を聞く事に行った。背伸びをしたかったのかもしれない。そういうお年頃であった。
しかし、背伸びだけで音楽趣味ってものは続くものでもない。自分が今に至るまでノイズ音楽を聞き続けているのは、この半年のうちに、ノイズの聞き方を会得したからだ。

ノイズは、ただのノイズではない。
そこには音楽的志向性の違いというものが歴然としてある。

疾走するノイズに、不思議な爽やかさを感じたり。切り裂くようなチェーンソーギターの唸りに、どんな流麗なギターソロよりも「英雄性」を感じたり。
やがてノイズに、世界そのものを見出すようになったり。

 

(完全な余談)

自分の家業は、職業柄、非常にノイズ(騒音)と共にある仕事であります。日がな、そのノイズがキツいなー、と思っていました。
たまたま、自分がソニック・ユースのアルバム「ソニック・ナース」のノイズ部を聞いていた時に、自分のマーマン(母君)が自室に入ってきて、

母「なにこれ」
残「音楽ですが」
母「どう聞いてもノイズなんですが」
残「音楽です」
母「これが大丈夫なら、仕事のノイズも音楽に聞こえるのでは?」

という問答がありました。
しかし違うのですよ。騒音のノイズと音楽のノイズは……w
閑話休題

 

●デイドリーム・ビリーバー

マイ・ブラッディ・ヴァレンタインをはじめとする「シューゲイザー」系のノイズ・ロック音楽。
シューゲイザーの沼に浸かった人間は、このノイズに美と意味を見出す。
しかしそれは言葉にし難い。あまりにもし難い。むしろ絵やCGにしてしまった方が、ノイズの意味を表現できるような気がする。

思うに、シューゲイザーはノイズで「世界」を表現しようとしている。それも、現実のリアルの引き写しでなく、現実から離陸する白昼夢の世界を。流行りの言葉でいう、異世界と言っても良い。
シューゲイザーの世界。それを現実逃避と言う向きもあるかもしれない。だがそれにしては、彼らがギターとエフェクターを使って極めて意識的に音を構築している様は、ほんとに「逃避」という言葉が似つかわしいのだろうか。
むしろ、彼らは現実から決断的に「離陸」しているのだ。リアりティでもってビートとリフを鳴らす音楽世界とは別のものを求めて。
そういう意味においていえば、カナリヤさんの友人氏の「BGM」というマイブラ評価は、ポジティヴに牽強付会すれば「この音楽は何かの世界を描いているようだ」という感想にもとれなくはないだろうか。

アンビエントというジャンルがある。静謐の中に世界を作る音楽。BGMという標語はこちらのジャンルに近い。
で、シューゲイザーアンビエントは非常に親近性のあるジャンルで、ほとんどノイズがやかましいか、やかましくないか、だけの違いかもしれない。
音楽要素の強度……メロディ、リフ、リズム。それの強度のみを追求する音楽とは、別の音がここにあることがわかる。
響き。揺れ。音のサラウンド。ざ……ざん……残響って言葉がありますけど、響きの残りし空間に、意味と美の存在を信じる音楽ジャンル(筆者は言ってて面はゆい)

つまり、シューゲイザーを聞くことは、音(響き)のただ中に居て、即ちその音の「世界」のただ中に居ることになる。
別に他の音楽でもそういう白昼夢トリップはしばしば起こることではあるけれど。とくにこの文章の筆者は、どんな音楽でもそのトリップを求めてるのだけど。しかしとりわけ、シューゲイザーアンビエントというジャンルは、そのトリップを意識的に行おうと企て、実行に移そうと強く考えている。

シューゲイザーは甘美なノイズで白昼夢トリップを。アンビエントは静謐の響きで異世界トリップを。
そしてここから、ドリームポップの話をする。

 

スピッツ、ドリームポップ、日記音楽

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シューゲイザーの祖先というか、どうしようもなく遺伝子要素として持っているのが、「ドリームポップ」である。ぶっちゃけ、シューゲイザーからノイズを抜かしたら、だいたいドリームポップになるんだと思う。

ドリームポップは音楽史のどの瞬間にも居た。ビートルズの昔から。あるいは一部のジャズもそう捉えることは可能だし、それより古い懐メロスタンダードナンバーだって。さらに遡って、クロード・ドビュッシーのように、西洋クラシック音楽の中にもドリーム・ポップ性を見出せる音楽はある。

白昼夢トリップを誘発するような音楽。甘いメロディ、揺れ揺れな音。しかしノイズや強靭なビートではない。ここではドリーム・ポップを簡単にそう定義する。

スピッツ
彼らは初期において「和製シューゲイザー」と呼ばれたことがあった。ネットでもそういう評価は見ることが出来る。
だが、マイブラほどの轟音ノイズの壁はない。「ライド歌謡」というスタンスを自覚的にとったこともある彼らだが、ライドほどもないのではないか。しかし以下の音源の「揺れ」っぷり、シューゲイザーを通過した耳で聞くと、結構また違って聞こえるものであって。

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それでも彼らの一部の曲(とくに初期。1st~3rd)に、シューゲイザー要素はやはり、ある。彼らの音楽がドリームポップであることは今さら言うまでもない。そしてもう一つ、シューゲイザーを使った「日記文学」的な音楽アプローチを彼らはたびたび見せる。


今世紀になって、DTM技術の進歩により、パソコンひとつあれば、個人が自室で多重録音をすることが可能になった。いわゆるベッドルーム・ミュージック、宅録だ。
そして全世界の一部の者たちが、ベッドルームの自室でシューゲイザーをやりはじめた。
自分のこころが見た心象風景を、ノイズに託して表現する、孤独なシューゲイザー。生活の中の色彩、大切なもの、光と影、屈託。そういったものを、ノイズで表現しようとしてみる。同時に(いわゆる)美しい音でも表現する。
その日記文学としての音楽といおうか。かつてのロック音楽のような、大きなスケールで世界に鳴り響け、じゃなく。自分の生活にそっと寄り添うような日記としてのシューゲイザー。そういうことをする音楽家たちがどんどん出てきた。「彼らのような日記音楽家」が紡ぐようなシューゲイザー、それはスピッツの音楽のようなものだ、と、強力な例示として、自分には思える。

シューゲイザーファンが全員ドリームポップファンになるとも限らないけれど、ことここに至ったら、ノイズすらまた絶対ではないのだ、とすら思ってしまう。ちょうどロック愛好家が、フォーク音楽に、何かを見出してしまったかのように。
……と、それはシューゲ話からズレてしまうからここで止めておきたい……けど……ごめんもうひとつ。
ノイズ沼は、ひょっとしたら「ノイズの強度」競争に行ってしまいがちである。でも、やっぱり自分はノイズを使った白昼夢トリップこそに意味があると、(自分にとって)思っています。

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●「さぁ、やっていこう」と思えた君の行く世界には、何一つ苦悩なんてありはしないだろう?(Nothing is difficult to those who have the will)

シューゲイザー
自分は、「時間性のない音楽」だと思う。世のトレンドとは全く無縁。白昼夢が世の流行とは全く無縁なのと同じ意味あいで。
自己の精神の深淵に入っていく日記文学が、本質的には世の流れといささか異なった所にあるのと同じように。

時間性がないだけに、誰もが通過する音楽でもない。だから、ある意味奇跡的なのだと思う。シューゲイザーとの出会いっていうのは。
……そう、誰もがノイズに意味を見出せるだけの耳を持ってはいない。偉そうな書き方になるが、仕方ない、しょうがない事実であり。


ところでこう思うのです。ノイズに意味を見出した者は、ノイズと仲良くなるべきなんだと。ノイズ強度競争でもなく。シューゲイザー古参ファン競争でもなく。
で、この文章の論理でいくと、ノイズと仲良くなるってことは、白昼夢世界と仲良くなるということで。そこは、我々もう出来てるからええねん。

 

要するに自分はカナリヤさんがまぶしいんだな。かつてTHE NOVEMBERSを上手く消化できなかったけれど、様々なものを通過され、こうして今再びTHE NOVEMBERSを聞いて、彼らや、シューゲイザーの豊穣なる世界に今まさにドップリ浸かってる、氏のこの瞬間が。だってそれこそが音楽の愉悦そのものじゃないですか。氏の前にはシューゲイザーが広がりすぎてる。

 

ノイズ(白昼夢世界)と仲良くなるってことで……日記文学としてのシューゲイザーやドリームポップを通過するってことを踏まえると、どこかで今の自分自身の生活を愛しく思えたら良いですよね、って思う。この世界にはいろんなノイズが満ちていて、それが世界の響きであるとも言える(全部じゃないけど)。
美や意味を見出すのは自分自身だって話です。萌えと同じように(強制される萌えは苦痛であります)。我々はシューゲイザーを奇跡的に見出したのだから、できない話じゃない。
色眼鏡、そうか、色眼鏡か、シューゲイザーの白昼夢は?
けれど、世界が色眼鏡で違った風に見えたら、それはとても良いことではないでしょうか。世界に意味を見出すっていうのはそういうことなんだと強く考える。