残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

わたしはこんなうたがすき(私的五七五韻律詩選)

ゲームや音楽等、趣味人として執筆されるブログ「SIGHtseeing」のSIGHさんとお話をしていたら、短歌の話題が出て、大学(院)で日本古典文学を専攻していた筆者の身としては、嬉しくなった次第なのでした。

sigh-xyz.hatenablog.com

SIGHさんは現代短歌だけでなく、万葉や平安の歌も良し……と、短歌(和歌)の沼にどんどん入っていらしている姿が見えます。良いですね。一度歌集を「読む」ようになると、いつまでもヒマが潰せるんだ……。

それじゃ、自分の好きな歌も少々ご紹介してみましょう……という話の流れで、この記事を書いています。以下思いついたままに書きます。

 

壬生忠岑「夢よりもはかなきものは夏の夜の 暁方の別れなりけり」

前の句の、一気加勢に美を歌いあげるのが良いですね。「ゆめよりも はかなきものは」とみずから吟ずれば、溢れ出るポエティック・ドヤ顔が抑えきれません。「暁」っていうのも中2心をくすぐられますね。しかも「あかつきがた」ですよ。この言葉のカタカタカタッとしたトレモロたるや。業平の「からくれないに水くくるとは」がこのトレモロの至上ですが、この句だって良いですよ。そりゃあ下の句を吟ずる時も妙に芝居かかってしまいそうなポエティック・ドヤが出てしまいますが(苦笑

 

中務「秋風の吹くにつけても訪はぬかな 萩の葉ならば音はしてまし」

Sound of Silenseって感じですね。京都の乾燥した晩秋の情景です。東方project博麗霊夢が林の中で箒を持って掃除しながら、霧雨魔理沙ガチ恋)をツンデレ気味に待っている情景の解釈でも良いです。いわゆるレイマリ(百合)ってやつです。なに?古典解釈に現代サブカルを出すなと仰る? 今を生きる古典こそ血の通った威力のクラシックって言葉を知らないのかよ……(わたしの言葉です)。

 

中務「忘られてしばしまどろむほどもがな いつかは君を夢ならで見む」

ナユタン星人曰くのドリームドリーム夢ドリームってやつですよ。

www.youtube.com

初手から一気に茫漠な夢の中のエモーション(虚無な白背景)で「夢攻撃」をしてきます。現実逃避!現実逃避です!これぞ文学ってやつです! 外貨獲得や緊縮財政とかとは遥か離れたところにあります!しかしアナタ中務好きねぇ。

 

柿本人麻呂竜田川もみぢ葉流る神奈備の 御室の山に時雨降るらし」

これが古典和歌の堂々たる格好良さって奴ですよ!(俺意見)

バシバシ格好良い(中2寄り)名詞を繰り出して、しかもそのどれもが音としても良いというのだから、吟じたくなる韻律トップですよ。さらにその情景がたおやかな自然美でな。

「威力が強すぎる」以外あんま欠点ないなこの歌。まあ、その「威力が強すぎる」から、「弱さの美」には届かない、って欠点があるんですが。でも人麻呂はこういうキラーチューンを出すから歌聖なんだよなぁ。

 

柿本人麻呂「少女子が袖ふる山の瑞垣の 久しき世より思ひ初めてき」

ほーらそんな人麻呂のこんなリリカルな側面ですよ。しかし詩歌を評するにリリカルって何よ。自分の語彙力の阿呆さに言葉も出ませんが、それでも「リリカル」という言葉の可愛らしさが、とくに上の句にぎゅっと凝縮されてるじゃないですか。下の句でそれに「時間性」を付与することにより、さらにエモみが展開されていくって寸法ですよ。カレーには福神漬、ってレベルですね(クソ批評)

 

藤原実方朝臣「墨染の衣憂き夜の花盛り 折り忘れても折りてけるかな」

下の句がちょっとパワー弱いですが、やっぱ上の五七五の威力ですね。吟じたい「やってやったぜこれが和歌だ!」感とはまさにこのことです。これまた東方で西行寺幽々子が出てきそうじゃないですか。BGMはもちろんコレ。

www.youtube.com

……って、幽々子なのに妖々夢なのに西行じゃないのかよ!ってツッコミをしたアナタはエラい。

 

和泉式部「暗きより暗き道にぞ入りぬべき はるかに照らせ山の端の月」

和泉式部ってひとの人生を思うと味わいが深いですね。そうでなくても、普遍的な情念と修羅道と諦観、そして美のある歌です。中2度も良い。まぁ、絶望のただ中って、こういう「速度」ってあるじゃないですか。

 

斎藤茂吉「一本道」連作

あかあかと一本の道とほりたり たまきはる我が命なりけり

かがやけるひとすぢの道遥けくて かうかうと風は吹きゆきにけり

野の中にかがやきて一本の道は見ゆ ここに命をおとしかねつも

芥川龍之介が「東洋と西洋の融合」と評した斎藤茂吉です。ゴッホを愛した芥川が「ゴッホの絵よりも強く、沈鬱なる光を照らした」と評した茂吉です。処女歌集「赤光」という名からして格好良い茂吉です。そして「東洋と西洋の融合」というあたりで東方projectを想起したアナタに「同志!」と花束をささげたい。

 

岩倉文也「雨の降りはじめた音が耳をうつ 末路といえばすべて末路だ」

新しい歌人から。現代詩歌のホープたる岩倉氏の代表作です。一見技巧的な下の句は、しかし技巧を越えた何かがある。吟じたくなる何かがある。そして自分の心が何かに響いている音がする。そんな情景はやっぱり雨だ。曇り空の沈鬱な曇天だ。未来なんてあるのかわからないけど、この歌人の言葉に耳を澄ませたくなる。

 

思いついた先からガーっと書き綴っていきました。紹介したいうたはまだまだたくさんあって、俳句にも連歌にも漢詩にもいろいろありますが、まずはこれくらいで。

 

日常ゲーム2.0 --エクストリーム・生活メンテナンス趣味

一昨年あたりから、「生活メンテナンス」という考えが、30代後半の自分の人生にセットされることとなりました。(改めて考えたら、遅い方かしらん)
常備菜を作ろうとしたり、風呂の水アカ掃除をこまめにしたり、ペットボトルのゴミ回収シークエンスをより簡略化したり、など。
日常の生活のさまざまな雑用や補修に、もっと目を配ること。雑用や補修でまめに動いたりすることを、ひとつの趣味のようにしてみよう、という考えです。

(2020年に書いた記事)

闇の色は脂肪の白さ --仕事に忙殺される日常、スマホ電子書籍依存、生活メンテナンス - 残響の足りない部屋

 

趣味としての」メンテナンス、というのが大事な観点です。
自分の生活をより便利にしよう、効率性を高めよう、という思想で動くと……結局生活メンテナンスは現代社会における「生産性」に寄与するもんだッ、っていう論理になっていきます。
そうじゃない。「趣味としての」メンテナンスをしたいのです。

●アンチ功利主義・効率主義、あるいは猿

自分は、この現代社会の「功利主義」ってやつを、かなりバカに、コケにしたいと思っています。功利主義・効率主義に価値を認めたくない。すこぶる距離をとりたい。

なんでかっていうと、功利主義・効率を思うと、「結局それかよ浅ましい…」と、思ってしまうのです。功利・効率の根幹たる「猿発想」に対し、趣味人としての哲学が激しく「NO」を叫ぶからです。
カネ儲けも、いいね!獲得合戦も、承認欲求も、結局「モテたい、ちやほやされたい」っていう、とても原始的な猿発想ではなかろうか、と。
よく言われますね、現代は変化の激しい時代だ、って。あれも自分、ちょっと疑問に思っています。「変化の激しい時代」? 本質的にやってることは「モテたい」「ラクしたい」ではないですか。結局猿発想をテクノロジーで加速させただけじゃないか、と。

それに対し、わたしはイヤだぞ、と思ったのです。自分の趣味に必要な分だけのおゼゼ(銭)を稼いだら、あとは遊びます。

 

●やらなければならない、という楽しくなさ(仕事)

しかし一方で、生活メンテナンスについて考えたのです。
従来、趣味に対して、「日常生活」は「やらなくてはならないこと」でした。そりゃあその認識では、楽しくない。

生活……例えば、生ゴミを放置しておいたらヤバイとか。水アカを放置していたら不潔だとか。そういう、後々のめんどくささを、早く解決しておけば、確かにもっと趣味に没頭出来ます。その理屈は正しい。


でも、楽しくはない。生活メンテナンスを「趣味」扱いにしたいのは、このあたりもあります。
結局、日常生活を「やらなければならないこと」としてしまったら、それは「仕事」なんですよね。そして仕事である以上、すぐに功利主義・効率主義が入ってくる。なんだ、仕事が増えただけじゃん、というギャフン感です。

 

「生活」や「メンテナンス」という持続的観点を、30代後半にしてセット出来るようになった、というのは、良いことだとは思います、よ。

(余談)
SDGsという環境目標の社会活動に関して、思うところはあるのですが、しかし「持続性・継続性(サステナブル)」という概念が現代社会に(ようやく)セットされたことは、良いことだと思います。SDGsはともかくとして、最終的に、「持続」という方向を、文明はきちっと保っていく他はない。現代社会で、もう物質的な発展は、しばらくないのですから……(他の星に植民するとかでもない限り。余談終わり)


●趣味人価値観と非=社会性(社会オンチ)

自分はとにかく、趣味の愉悦を味得するのが、子供のころからの第一価値観なのです。社会で偉くなるとか、安定した立場を得るとか、人脈を広げてちやほやされるとかは、相当興味がない。
あるいは、安定した趣味活動が出来る分だけは、社会的なあれこれは欲しいけど、その分が得られたら、それからあとは社会はどうでも良い、と考えます。
というか、社会に向いていない人間なんです。社会オンチに関わられても面倒だろう社会の方が。非=社会的な人間は、さっさと引っ込んでいた方が社会のためだと思います。

そんなわけで、生活メンテナンスの結果は、あくまで趣味的愉悦でありたい。自分にカネが最終的にもたらされるから、っていう理由では、生活メンテナンスを頑張れない(ほら、社会に向いていない)。

 

生活メンテナンスを、もっと加速させなくてはならない。メンテナンスとしてやるからには、より過激でエクストリームで愉悦的な「趣味」の方向へ。
ということで、生活メンテナンス2.0というか、エクストリーム生活メンテナンスです。地球上の60億人同接の一大オンラインゲームです。生きていれば皆やってる「日常」というゲームです。

●日常ゲーム2.0

「日常」をゲーム化しよう、と考えました。日常ゲーム2.0です。エクストリーム・ホビーとしての日常生活メンテナンスです。正月なので、いよいよ頭が狂ったようですね。


年が明けてから、この「日常ゲーム2.0(エクストリーム生活メンテナンス)」を自分がどう遊んでいるかを、ちょっとご説明したいと思います。

 

そもそもこう考える(ゲーム化)に到ったのは、自分がTRPGゲームブックといった「作り手・GMゲームマスター)」と「プレイヤー」の距離が近いアナログゲームのソロプレイを愛好している、という点があります。

TRPG(ソロプレイ)のある生活 - 残響の足りない部屋


また同時に、模型工作を好んでいるということもあります。「モノ(物」を加工する趣味。日常生活におけるメンテナンスの多くは、モノのメンテナンスです。なので、よりモノを愛したい気持ちがあります。

模型工作生活(モデルライフ)、腕の鈍り、安全第一 - 残響の足りない部屋

●スーサイドの敗北設定

日常ゲームの大前提がまずひとつ。
「自殺・自傷行為をしない」というルールを、絶対に遵守しなくてはなりません。
だって「日常を送るゲーム」なのだから、どう考えても自殺や自傷はアウトです。
この前提を設けるということは、自分にとって結構衝撃でしたね。自分は、自己否定のプロなので、すぐ自殺や自傷という考えが頭によぎります。とても魅力(ミリキ)的です。
でも、日常ゲーム2.0を行うのだったら、そっち方面(ネガティヴ路線)は、ゲームデザインとして明らかに問題なので、自殺を「ゲームクリア」として設定するわけにはいかんのです。

それはプレイヤーとしてよりも、ゲームデザイナーとしての敗北です。それは許せない。それはかっこ悪い。なんということでしょう、これまでしょっちゅうネガ思考にあった自分が、こういう前向きなことを考えるようになったとは。

 

●行動のダイスロール判定

で、生活ゲーム2.0ですが、基本的にゲーミフィケーション(ゲーム化)というのを軸に据える以上、ある程度はエクストリーム要素を入れたいところです。
そこで設定したのが、かねてより懸案だった「ぐずぐず先送り思考」の強制シャットダウンとして、ダイスロールを持ち込みました。

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いつも机の上には骰子(サイコロ)



日々「あーめんどくせー(だらだら」「そろそろアレやっとかないとなー(だらだら」ってすること多いじゃないですか。こうやってぐずぐずと、やることを「先送り」してしまって、結局何も出来ない、ってアレです。怖いですね。
あまりにこれが怖いのですが、ちょっとした意志では、この泥沼から出られない。
意志が弱い、というのもそうなんですが、だらだらしているのは「微弱な快楽」に常に刺激されている状態なので、その麻薬性から逃げ出せない、というのもあるのです。

「微弱な快楽」という、なるほど感の高い概念 - Togetter

それに対抗するには何か。
理不尽とランダム性ですよ。


ということで、いつもアナログゲームで使っているサイコロを持ち出します。12面ダイスだぜ!
「めんどくせー(ダラダラ」状態が始まったら、あらかじめ作っておいたゲームシート(予定表)とダイスを持ち出します。

ダイスロール!奇数が出たら、君はまあ、もうちょっとはダラダラしていていいでしょう。

しかし偶数が出たら。ゲームシートに従って、ダラダラをやめて、別行動に移ります。

行動に移らなければならない理由は、はっきり言ってとくにないのです。
自分の本能はささやきます。「もっとダラダラしてようぜ……きもっちえぇだろう……?」と。
しかし、既に骰子の神々は告げました。神の名は「理不尽」と「ランダム性」です。骰子は偶数を出してしまったのです。しょうがないじゃないですか、そういうゲームを作ったのは自分なんですから。
こういう手間をかけて、自分はダラダラ状態から抜け出るようになりました。場合によっては、早く寝るときや、朝起きる時(地獄)もこれを使っている。

これは改善、と言えるのだろうか。改善にしてはインチキゲームっぽい気がします。まぁ、でも、このダイスロールでの決定ゲーム、異様な勢いのある理不尽さが気に入っています。それに、実際行動に移せますからね。さかしらな理由付けだと、またダラダラに戻ってしまうのですが、理不尽な理由だと案外動けて(行動に移せて)しまうものです。この思考行動モデルこそが理不尽ですが……(苦笑

「メイドさんのいる暮らし」と小宮裕太「沢渡さん」シリーズについての気持ち悪い比較考察文

●この文章について

ざらしそふと「メイドさんのいる暮らし」というエロゲについて、自分(残響)がエロゲー批評空間で2019年5月に書いた長文感想です。

・作品公式HP 

azarashi-soft.nexton-net.jp

 

・エロゲー批評空間長文感想当該ページへのリンク

 

この長文感想は、とても気持ちの悪い内容の文章(本文中の表現でいうところのゲロ以下)で、「メイドさんのいる暮らし」ファン、及び小宮裕太ファンの同志の皆さんには、本当に申し訳なく思っています。

この文章を再掲したのは、ちょっと思うところあって、昨日、過去の文章を読み返してみて、エロゲー批評空間で書いたこの文章が、ゲロみたいな内容ながら、自分で面白く読めた……という理由です。

また、この文章、批評空間投稿時から、意外にも「面白い」と仰ってくださった方が多かった文章でした。ある時アクセス数を見たら異様な伸びをしていた。

とはいっても、再掲するのは自分が自分の文章を見つめなおして読むためです。小宮裕太ファンにとってはある種の参考資料・データまとめにもなるかなぁ……とちょっとだけ思いますが、でもキモさの方が先に来るかな。ごめんなさい。

同じような内容で、このブログでは次のような文章も書きました。こみっくパーティーの長谷部彩についての文章です。彩は、長文感想本文にも繋がっています。若干沢渡さんについて書いています。

modernclothes24music.hatenablog.com

まぁこれは、本文をお読みになって、バックボーンをちょっと読んでやってもいいかな、って思った方だけどうぞ。

……小宮氏の沢渡さんシリーズをネット検索していて、自分のブログがヒットしたりするの、なんかちょっともう嫌だなぁ……って正直思うわけなんですが……。

 

というわけで、以下本文です。最低限の致命的な誤字だけ直してあります。また、文章の改行は、読みやすい調整をしていません。これは当時からの仕様です。

 

 

●本文

※(作品評価として、プレイヤーの皆さんの役に立ちそうな部分だけ先に抜き出して書いておきます)

低価格ゲーということで、さっくりセックス三昧な日々になるかと思ったら、結構日常パート、告白パート、デートパートから、「ようやく」という感じでセックス連発パートに移る構成。これは賛否が分かれるでしょうが、もともと「完璧クーデレメイドとの日常イチャラブ」を求めていた自分にとっては、特に問題ではありませんでした。ただ、そのあたりの日常シーンが、抜き目的の人にとっては「長い」という気持ちもわかる。

作品全体を流れる雰囲気……穏やかで、お互いが「どこまでがOKなのか?」探り合いの暖かさというのを何度も描いてくれたのもよかったです。

イヴのおっぱいなんですが、非常に豊満ですが、その他の体のラインがしゅっとした感じの長身で、「巨乳でありながらスレンダー」というのが自分にとっては大変ありがたかったです。
なにせ、あまりに全身豊満すぎると、「完璧クーデレメイド」の「折れそうな儚さ」が減じることになり、ひいては銀髪、白髪の「折れそうな儚さ」も減じる、と自分は思っているからです。
その点、イヴの豊満おっぱいと、全体のスレンダーさが相まっている長身のキャラデザは、非常によかった。線がシャープな原画というのも。ツリ目も完璧ですね。ツリ目でありながら癒しの包容力、というのも「完璧メイドクーデレ」ヒロインの魅力であります。そして変形メイド服ですが、「ロングスカートであって良かった!」と15年来のロングスカート党としてはありがたやー、ありがたやー、です。

 

※(これ以降の文章は、作品評価という面から見たらゲロ以下としか言いようがない、個人エゴ丸出しの、独善的な文章です)


このエロゲをプレイした理由はひどく単純で、ゲロみたいな理由です。小宮裕太の「沢渡さん」みたいなヒロインと主人公のイチャコラセックス生活を読みたかった、っていう理由だけです。


小宮裕太という漫画家の「沢渡さん」シリーズというエロ漫画連作があります。ざっくり連作の内容を説明すれば、

「銀髪クール優等生のクラスメイトが、ある日主人公の家に家政婦としてやってきた。その後イチャコラ恋愛しながらどんどんクーデレがデレデレになっていって、最後に婚約を交わす」

非常につまんない説明に自分自身ががっかりしております。話の流れはこんなにもシンプルなのにも関わらず、沢渡さんの染み渡るような静けき魅力は小川のようにさらさらと、しかし悠久の水の流れのごとく留まるところを知らないのです。
沢渡さんは、主人公のもともとの家政婦だった壮年女性の娘なので、その特権をフルに活用して、自分を主人公のもと(家)へと臨時家政婦としてネジ込むのです。クールな顔しておいて何気に超インチキ技で主人公に近づきます。
しかし「母を排除して自分が家政婦に!あわよくば主人公の嫁に!」という下劣さは沢渡さんは持ち合わせていません。あくまで「臨時」家政婦。主人公の役に立ちたい、主人公に近づきたい。主人公に対するリスペクトを持ちながらも、しかし奥ゆかしく上品に、完璧に家事をこなします。プロ家政婦と同じレベルで。そう、沢渡さんは完璧少女なのです。優等生。頭が良い、と最初から明記されるほどです。
そんな完璧少女がクーデレ→デレデレなイチャラブを、シチュエーションを変え、これでもか!これでもか!とわたしを殴り続けるシリーズ。時に互いの思いが溢れるばかりにちょっとしたすれ違いがあり、しかしそれも「実は主人公とのセックスがだいすき!」というキリングカウンターパンチ100満天でもって返す学校セックスシチュや、学園祭メイドコスが「家政婦→メイド」という文脈を意識させつつも、沢渡さんの従順で清楚で人形のような美が余すところなく表れているメイドコスセックスシチュ。夏祭りをあえて描かず、家に帰ってきてお祭り楽しかったね→主人公が祭り中「浴衣って自分で着付けできる?=着直せる?=セックス出来る?」と放ったワードに反応して実は最初から濡れていたという浴衣セックスシチュ(ここから「正月の着物の着付けも覚えます」→「漫画ばんがいち」表紙の正月着物絵に繋がることは何年越しの伏線回収なのだろう?)。クリーム塗りたくりプレイから、当時最新のエロトレンドだった授乳手コキを導入しつつも、安易な母性バブみの方向に行かず、しかし従順な嫁として主人公を優しく愛撫しつつ、最後は「婚約」を改めて約束する尊みが深すぎるシチュ。どのシチュにも超新星爆発の物語があり、自分は沢渡さんの載っている「漫画ばんがいち」を買い求め、中古でも買い求め、電子書籍でも買い求め。数年に一回だけ訪れる小宮の単行本を「神が降臨せし!」と法悦でもって迎える生活を、この7年くらい送ってまいりました。そう、自分は沢渡さん初登場の2004年の時期には、まだ沢渡さんを知っていなかったのです……自分のゴミ度合いに吐き気がしますね!ただ、そのときはこの沢渡さんの同系統たる、こみっくパーティーの「長谷部彩」に完全にズブズブに萌えていたので、その時は満たされていました……むしろ、数年間毎日毎晩彩妄想をして、ええかげんネタ切れになっていたので、沢渡さんにシフトした、っていう具合です。

さて、エロゲの話に戻りますが、本作の「イヴ」というヒロインは、沢渡さんと類似しているからこそ、自分は手にとりました。エロゲ離れをしている自分でしたが、「沢渡さんの代替ヒロインが欲しい」という非常にゲロですね。理由が。

まず、あざらしそふと=ライターさんが、イヴでもって、沢渡さんコピーを目論んでいるか? 
「それはない」。
いや、これは仮説にすらならず、「たまたま似ている、と自分が勝手に判断しただけ」です。パクリではない。そんな証拠はどこにもない。自分自身が「パクリ説」なんてこれっぽっちも表明していません。

自分は、イヴでもって沢渡さんの代替萌えをしたかっただけです。

なにせ小宮の沢渡さんシリーズは、小宮自身が寡作であり、しかも寡作な作家のお気に入りヒロインである栄光ではあるものの、当然「数年に一回、話がようやっと追加される」というものです。飢えて、乾いて仕方がない!自分は!
そんなヒロインと主人公のカプを、自分は冗談抜きに数年間毎日毎晩妄想しています。ここまで続くとちょっと病的だな、と思っているものの、実際、沢渡さんカプ妄想で、自分の寝つきは非常に穏やかで、入眠がソフトになりまして……。
いわば沢渡さんは自分の必須栄養素、必須サプリ、萌えは実際にこのようにして人生に具体的効果を表す証拠であります。沢渡さんがいない自分のこの数年、ってものを想像しただけで、「うわキッツいなぁ」とビビるほどです。
それほどに飢えているんですよ。必須栄養素、必須サプリ、癒しの萌え薬を!超具体的に!TwitterのTLで白髪のクール系少女の画像が流れてきたら「とりあえずfavしなくても保存」!TwitterのTLで銀髪のクーデレ系のえっち画像が流れてきたら「とりあえずfavしなくても保存!」。それもこれも全て沢渡さん妄想の日々のネタにするためです。良さを見つけた白髪少女の服を脳内沢渡さんに着せ、援用できそうと思ったえっちシチュを脳内沢渡さんカプセックス/沢渡さん個人おなぬープレイのシチュとして採用し。白髪/銀髪でツリ目っぽい清楚少女を見たらとりあえず保存して沢渡さんに着せ替えするという生活です。おかげで自分のPCの白髪/銀髪フォルダはもう壊滅的です。整理ができねえ。

おわかりでしょうか。こういう奴が本作「メイドさんのいる暮らし」をプレイするとなったら、「沢渡さんの代替え」を自然にしてしまう、という。
だから自分は本作をまともに評価できませんし、するつもりもない。「こんな奴がいる」とだけ文章を書き残せたらいいし、むしろ「ばかじゃないの」と軽く叩いてもらっても構わないのです。なにせ本作の「作品」としての自立性・個性を半ば無視している。難しい言葉を。やさしく言うと、「本作の個性や魅力や欠点をきちんと評価せず、自分の沢渡さんイチャコラ妄想のフィット度合いだけで語っている」、レビューとしてゲロみたいなものです。誰かのこの作品の参考になどなりゃしないし、むしろ参考情報を求めてる人に対して申し訳なさすら覚えます。
再三言いますが、イヴは沢渡さんのコピーではない。しかし自分は、イヴで萌える場合、沢渡さんを抜きにして萌えることは不可能。
それはイヴというヒロインに対して非常に失礼な行為です。どう見たってこの文章の筆者と言うプレイヤーは、この作品の善き読み手ではない、ゲロです。「イヴを見なさいよ!沢渡さんの幻影を追い求めるんじゃないよ!」まことにその通りです。正論で、まったく正しい。間違ってるのは自分です。

さて、自分は、沢渡さんの幻影を追いながら……沢渡さんの代替えとしてこのゲームをプレイしてどう思ったか。


「やっぱりこういう完璧クーデレ従順メイドさん風味なヒロインが、主人公にかしずいて日常のイチャコラを送るっていうの、気持っちええわぁ……」


と非常に幸せでありました。
何度も言いますが、この幸せになりかたは、作品に対して失礼で、作品評価を求めるプレイヤーにとって無意味で、世界で自分だけの孤独な自己発電です。そこだけは何度も強調したい。でも、きもっちええわぁ……完璧なハイスペックヒロインが主人公に従順になるっていうこのシチュが非常にたまらんというか、もうこの時点でなんかジェンダーとかフェミニズム的にくっそ批判殴られそうなワードを連発してるわけなんですが、もうジャンクフードをほおばる幸せというか、正義なんて知ったこっちゃないというか、自分の脳内のクーデレヒロインがデレデレになればもう自分の寝床睡眠は安らかになって、自分が幸せになれるんだからええじゃないか、というね。

ところで、ネタバレですが、イヴの人工生命設定ですが、「こういう完璧クーデレヒロイン」に対する説明としては、非常に上手くやったな、って自分は思いましたね。沢渡さんにしたって、「なんでここまで完璧なの?」っていう疑問は、「最初から沢渡さんは完璧だからいいじゃん」という力業で封殺してる側面があり。沢渡さん連作世界では、沢渡さんが美と知性の絶対ヒエラルキーの頂点である、という風に最初から設定されている世界なので、その世界をOKとするなら、ヒエラルキーに疑問を抱いてもしょうがなく、もう「そういうものだ」として楽しむしかないんです。そしてそうした時に得られる圧倒的安心感。沢渡さんは完璧であり、完璧な少女が家政婦、メイドとなってイチャコラ甘い生活をする。そこにはどこか「この知性を社会貢献させず、主人公との生活のために捨てさせてるじゃないか」っていう批判も想定は出来るんですが、どうしようもないことに「そこの捨てさせ具合がまたちょっとだけカタルシスだったりするんだよなぁ」っていうゲロみたいな本音をここで暴露しますね。気持ち悪い……。
で、イヴの人工生命設定。これひとつで、イヴの「完璧」も「世間知らず」も全部説明できてしまうのだから、上手い。

しかし、「上手すぎる」と思うことすらもちょっと。
「完璧なメイドさん」でブン殴るだけじゃあかんかったの?という風にもちょっと思ってしまったんですね。この人工生命設定は、「完璧クーデレなヒロインがこの世に存在している理由」として大変上手いですが、反面「つじつまを合わせる」という風にちょっと自分には見えてしまったんです。「そこまで完璧な存在はエロゲ世界であろうとも居るのか?そして主人公のところに来る、っていうのは都合が良すぎないか?」というあたりへの、作品からの回答ですね。
「いや、別に都合のよさで完璧にOKじゃないか!」っていうのが自分の立場です。理屈なんてもういいよ!と蛮族みたいな発言をしたくなります。
ただ、沢渡さんの場合でも、「沢渡さんの母親がもともと家政婦だったから……」という設定でもって、沢渡さんの従順さ、メイドさ、ハイスペックさ、家庭的なスペックの高さ、の「魅力の幅を広げる」、という小宮は神か?神だよ!なやり方なんですよね。で、イヴの人工生命、という設定が、実にこのクーデレ完璧属性のキャラの「無機質さ」にフィットしてるんですね。これは非常に上手い!設定そのものの「質感」と言いましょうか。それが、キャラ属性、性格、雰囲気の「質感」と同期一致している。なんの破綻も矛盾もない。相互に高め合っている。
でも、やっぱり、「上手すぎる」……。ひどく贅沢な注文なんですが、この「SF設定をアリとした」がゆえの、「この世界の技術レベル、世界観の全体像が見えにくい」というささやかな欠点がある。もちろん主人公を末端プログラマとすることにより、「この作品世界には最先端技術とのリンクがあるんだよ」とさらにつじつまを付けている、と思えなくもないんですが、そこを踏まえても「上手すぎる」。
なにせ、イヴの母親というか天才工学者少女の登場とともにイヴの人工生命設定が語られるのですが、そこからのシーン展開、説明の始まり方、つじつまの付け方が、イチャコラ告白のあとに唐突に入ってくるものだから、祖語感があったと自分は感じました。でも、あそこ以外にこの設定解説を入れるところがあったか?っていうと微妙ですし。ていうかどこで説明セクションを入れても、唐突感はぬぐい切れないかなぁ。
以上を踏まえて「だとしたら」って話です。だとしたら人工生命体のつじつまを頑張ってつける努力は非常に素晴らしいですが、「別に完璧クーデレメイドさんで殴るだけでもよかったでは?」と思うのは。
もちろん、こうやって丁寧につじつまをつけてくれる……キャラ属性にフィットする形で設定をつけてくれるっていうことは、大変にありがたい話なんです。問題は、自分がこの完璧クーデレヒロインの重度病人だっていうだけで……。

属性ってなんでしょうね。前世紀に芥川龍之介ってやつが、ここ最近この作品をプレイしていた自分を正確に表してる表現をしてるんですが、

 

「身代り」

 我我は彼女を愛する為に往々彼女の外の女人を彼女の身代りにするものである。こう言う羽目に陥るのは必ずしも彼女の我我を却けた場合に限る訣ではない。我我は時には怯懦の為に、時には又美的要求の為にこの残酷な慰安の相手に一人の女人を使い兼ねぬのである。
―――芥川龍之介侏儒の言葉

 


これ15年前くらいに読んだとき、「そんなゲロみたいなことするか?」って思っていたもんですが、大正時代のこの文が、令和の自分を貫いてやみませんね。わたくしは15年をかけて立派なゲロになりました。

それを踏まえても。属性論の身代わり代替え的な残酷さを考えても、イヴがかしずいてイチャコラするっていうのは大変甘美なものでありました。
考えたら、こういう属性を思いついても、「実際にプレイヤーをきもっちよくさせる」くらいにまで高めて表現するのは、なかなか出来ることではないです。だから、この短編作品は、属性外の人にとってまではどうかはわかりませんが、「基本的にクーデレメイド属性を持っている人」にとっては、悪くない出来なんでしょう。客観的に。
問題は、沢渡さんの幻影を追い求めている自分ですね。もう自分は沢渡さんを読んでるのか、「メイドさんのいる暮らし」を読んでるのかわからない。阿片窟で夢を視ているジャンキーかって具合です。しかし「きもっちよさ」それだけの点でいえば、このゲームをプレイしていて、大変きもっちよかったわけです。以上です。

自分の文章が反吐が出るほど嫌いだから、自分を変えていく

●自分の文章が嫌いだ

いつしか、自分の文章が好きになれなくなっていました。

それは何故か?と考えて、即座に理由として思いつくのが自身の「薄っぺらさ」でした。どうにも自分の書く文章に重みがないように思える。そして言葉を紡ぎ終わって感じるのが、自分の吐いた吐息の臭さ、自分の文章の醜悪さ、というのだから、なかなかこじれております。

当然、ここしばらく、文章を「書くこと」自体も好きになれなくなっていきました。それでもこの20年近くずっと文章を書いてきたのですから、それ相応に言葉を扱える……扱えて「しまう」のです。下手に口が回る。舌が回る。美辞麗句を自由に扱える。雅語もスラングも思いのまま。語彙だけはある。その果てにあるのが、自身の文章に対する嫌悪、っていうのだから救われません。

●考えてない

年末、以前より尊敬している、ある方とお話をしました。

その方を前にして改めて自分自身で感じたのが、わたしはその方に比べ、物事をきちんと考えてない、ということ。当然、たいして考えきってないまま文章を出力するから、文章が醜悪になるのだ、ということ。
思考の強度。その方が良い文章を書かれるのは、文章に対する誠実な思いあってのことですが、それ以前に「しっかり考えておられる」から、という当然の事実を、改めて思い知りました。


※上記のことは、その方に言われたことでは全くありません。
お話や、これまでの氏の文章や自分の文章を踏まえ、わたし自身が勝手に「自分で考え、納得し、結論した」ことです。

 

だいたい自分の文章は、仮説であったり、何かに対する賛歌であったり、自身を鼓舞するものが多いのです。
自身でしっかり考えて、実践で試し、その結果を報告する、という「ちゃんと思考したよ(過去形)」の過程を踏んでいない……あるいは、思考→実践の現実実際での過程をサボっている、というパターンが多い。空理空論とはこのことか。

どうすれば良いのか、っていうのも、もう上記で書いているようなもので。「ちゃんと考えて、丁寧に文章を書きなさい」ということです。あんまり思いつきとか、仮説とか、世間の話題に対するいっちょ噛みとか、絢爛豪華な言葉を用いた戯言とか……を、よしときなさい、という話で。

単純な話ですね。そして人間性の「重み」っていうのも、こういう「余計なことを言わない」「ちゃんと考え、丁寧に文章を書く」ってことから生まれるのも明白です。そしてそれは、ほとんど「生き方」と同じことなのです……。

自分は口、舌、言葉が、わりと良く回る人間です。軽薄ですね。軽薄だからこそ行くことの出来た場所、というのも確かにありました(経験)。でもそこでしっかりと留まって思考し続けなかったから、結局見えなかった地平、というのがあるのです!(真理)

●変えていくこと

この数年、自分の吐く言葉に嫌気がさして、いつしか「言葉は現実世界の全てではないッ」と、言語中心主義に対する嫌悪にまで行きついてしまいました。
何のことはない、自分が言葉でしっかり思考をしていなく、言葉を丁寧に紡いでいない、というだけの話でした。
別に自分の戯言が、至高の妙なる文章だ、ってわけじゃあるまいに……(当然

しかし、何かのヒント(ひとこと)があれば、自分は自分を愛せる人生になるはずだ……!っていう考えに憑りつかれていました。何かの一言があれば、そこから人生が良い方向に変わっていけるんだ……!と。

違う。自分自身で「変える」と努力することの方が大事で、言葉はたまたまそこにあるだけなんだ、と今はうっすら思っています。こんな自分じゃだめだ、と心を入れ替え、実際の世界で少しずつ手を動かし、少しずつ形にしていくことでしか、自分は変われない。

そうして努力していく過程において、初めて光を放つだろう言葉がある。そういう言葉を既に自分は蒐集しているのだけど、きっと「これから」光を放つ言葉が沢山あるはずなんだと。言語中心主義がダメとか言う前に、自分はまず努力をして、変えていって、そしてこれまでの言葉が放つ光をもう一度受け取る必要があるのだと思うのです。

 

とにかく今年は変えていきたいと思います。醜悪で軽薄な自分を変えていかねばならない。このまま死んでいっても別に良いのだけど、ここから生きていくのだったら、やっぱり変えていかないともったいないような気がする。

最近のLo-Fi HipHopのMIX動画の現代エロゲ風サムネ画像におもふ

※この記事はLo-Fi HIpHopのサムネ画像の話と、最近の美少女絵のぼんやりした印象論概観しか書いていません。Lo-Fi HIpHopを日常的にyoutubeで視聴していないと意味不明になると思います。

 

 

記事掲題ですが、最近のLo-Fi HIpHopのサムネ画像に「ワーオ、最低でもゼロ年代後期タッチ、あるいは現代に確実に接続するタッチの二次元美少女絵~っ」って思える絵が増えてきました。簡単に言えば「比較的最近のエロゲ絵」っていうタッチの。

www.youtube.com

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(いつまでこのMIXがUPされているかしらない)

まぁこの界隈が、MIXのテーマに沿うであろう絵を、どこぞより拝借してきてサムネにしているのは周知の事実で。これまでLo-Fi HipHopっていったら、

  • 「あのジブリっぽい古アニメ調の勉強中ヘッドホン少女絵」
  • アメリカ・カートゥーン・アニメーションタッチのゆるい絵」
  • 「ドット絵風景画」

のいずれかがこの一年あまりの様式美だったじゃないですか。

ところが最近「おっ、エロゲマだったら見慣れた絵」っていうタッチのが増えてきた。

 

もっと言えば、完全にバリ最近のエロゲ絵っていうのは、まだ無いっていうのがミソでしょうか。

純愛系のでも、バリバリに鋭角な光を当ててくる2015年くらい(サクラノ詩あたり)のを通り越して、ミリ単位でのサラっとした髪の毛一本一本に光線当てたり、逆光を全体の塗りに当然のように入れて虚空感を出したり、あるいは線の流麗の追及をひと休めして、それ以上に現代的「ちょっとカクカクっぽさ」を入れたりする、2019~20年以降の、虚無感をも内包した「超繊細な哲学的空気感」を表現しているようなタッチ……そういうのは、サムネ絵として拝借されていないんですね、今はまだ。

そりゃそういう絵、ピクシブで上位ランクの方が画法として行っている絵でもあるので、そんな絵を拝借していたら即座に通報されるだろうっていう予測は立つ……っていうのがちょっとしょっぱい話ですな。

ただ、それが闇の理由だとしたら、光(って何?)の理由としては、そんな超高解像度な美少女絵は、「あまりに同時代すぎる」っていうところもあるかも。生き生きしすぎているヴィヴィッドな美少女絵はLo-Fiの美学とは「今は」まだ合わない、っていう見方も出来るかもです。

しかしそうなると、2000年代後半~テン年代中期あたりのエロゲ絵にふと感じる、直感的「ちょい古い?」のオタクセンサーっていうのは確かなんだなぁと、呆れてしまうところでありました。こんなオタクセンサー持っていたって、正直目が肥えるばっかりで、自らの首を絞めるばっかりだぞ、って思うフシもあります。良い絵をバリバリ見すぎることで自分の画力は……って、いつの間にか音楽じゃなくて絵の話になってるっ!(苦笑

 

Lo-Fiの美学が「ちょっと昔のレトロ感」あるいは「過ぎ去りしものへの愛着(ノスタルジー)」に片足ぶっこみまくっておへそまで行っちゃってるよぅ!っていうのは確かです。

そして同時に「ダル感(ダル~い感じ)」も必要としているんですよね。「あの時の(あるいは今の)おれらってこうだったよね」という感覚。高解像度の世界線にはいけていない、日常の今。そういう現在の日常でも、ちょっと愛してあげたい、っていう気持ちがLo-Fiの美学でもあると思うのです。そしてそれは間違った人生観ではないはずです。

 

しかしまぁ、最新のエロゲを発売日にプレイせずに、ただ流行っている絵だけをチラ見する。そしてこれまでLo-Fi HipHopばかりぼーっと視聴している。ヌルくなったなぁ、と自分を思うのです。疲れている、っていうのは当たっています。オタとしての熱量も少なくなったのでしょう。まぁそれはそれとして人生はやっぱり進む。ヌルくなったバツの悪さは、のどに小骨ってる。そうだね、今はエロゲをプレイしていない。ヌルい音に浸っているだけ。

思い出語りに終始するオタクは恥ずかしいけれど、バリバリに危険ではないはずかな……人畜無害ってやつ。別に最新のエロゲや二次元美少女文化にジェラシーを抱いているわけではない……あっ、でもV(tuber)には完全に乗れないでいます。ごめん完全に興味が持てない。そしてこの興味が持てなさは、ほぼ自分が悪いってこともわかっています。「創作物・創作世界」には興味があっても、「芸能人」に興味が無いって論理なんです。そんで基本「動画が苦手」。テキストと静止画でないと情報を上手く受取れない人間な自分です。ごめんなさい!

逃げ恥を晒すオタク(未満)がLo-Fi HipHopで癒されているっていう構図、ダサいなぁ~って思うのですが、まぁ……一応安全な人畜無害だから良いじゃないですか(二回目)。そんでもってこういうダルいのも含めてLo-Fiなんだ、っていうふうに話をまとめてしまうと、Lo-Fiがクズ文化みたいになってしまってイヤだなぁ……(ダル感発言)

日記12/09 年の瀬新刊ラッシュにおもふ

怖ぇ~ッ。ミリキ(魅力)的な新刊ラッシュが怖ぇ~ッ。きみは識っているか、年の瀬は年末なので(当たり前)、出版業界では新刊をガガッと出すことを。山名沢湖レモネードBOOKS」で書いてあった。これを見越して、多少は本代を貯金してはあるけど、怖ぇ~ッ。

それでも、年明けの毎年恒例、一年に一回のお楽しみ「ハクメイとミコチ」単行本コミック新刊(10巻)まではしねんのだ。そう、しねんのだ。わかってくれるかこの心意気、道程(みちのり)を。

わたくし(この記事の筆者)は計算が凄い苦手なので、今年買った本(電書含)の総数はわかりません。こないだ某所で、「数か月の間に買った本がどうやら70冊くらいいったらしい」と記しましたが、まぁ1年で100冊いっていないこたァないよなぁ、という感じです。こっちもこっちで合計金額が怖ぇ~ッ(汗)。

さらには最近は、地元に新しい良い古本屋を見つけたもんだからさぁ大変。この古本屋、中古も新刊も取り扱っていて、新刊はいわゆるインディペンデント(インディー)系の品ぞろえや、個人製本のZINEもあります。自分でも今年は漫画の小雑誌を作りましたからね。こっちの方面も大変興味深いです。アーッ(お金が消えていく叫び)

本は「情報源として必要だから買う」っていうスタンスなのですが。ただ、ちょっと今年は買いすぎた感が否めない。とくにもう絵の資料(描き方本、デッサン本、ドット絵本、筆ペン画本、デジ絵本……)はこれ以上買わなくても良いんじゃマイカ。外国語の本や教科書も、本を買うより、語を「覚えた」ほうが良いんジャマイカ(道理)。

アーッ、それなのにそれなのに。お前はどうしてヤフオクでカセットテープの出物を探しているんだ。70's、80's洋楽テープなんて買ってどうするんだ。癒されるのか。癒されるんだよなぁ……。

 

鬱ですが、まぁ最近は仕事がデスマーチですね。自分がくたばったら死因は過労死になるレベル。なので逆に、ネットでのトラブルやプレッシャーは皆無ですのでご安心ください。

第一、ネットを見ないようにしていますし……。このリアル・デスマでネットを見る時間の余裕がない、っていうのもありますし、最近の殺伐&嫉妬に満ち満ちたネットを見て、精神の余裕をおのずから削ってもしょうがないっていう話でもあります。

それでも、鬱の底に一度辿りついて、なんとかそこから今浮上していってるかなーという感じではあります。ゆっくりですが、ぷか~っ、とね。

これで漫画を描ければ最高なんですが、今はまだ、一日一枚、新作漫画のイメージイラストを描くくらいです。ネーム作成まではまだたどり着けなくて。ネーム切るのって体力要るんですよ。その余力を、漫画のために取っておけないくらいの忙しさですネー。

それでも、ちょっと絵が上手くなったような錯覚をおぼゆのは、良い感じです。精神安定によい。

 

先日のミュートピアvol.5にいらしてくださった方々、ありがとうございました。

 

・追記1

鬱が入ってから今日でちょうど1ヵ月じゃないですか~ッ

・追記2

やったぞ、こないだ同人誌web即売会で買った旅行記漫画が発送されたぞ~っ。……あれっ?(買ってるやん)