残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

音楽体験の言語化を通し音楽思想を練り上げることについて

音楽を聞いて、思ったことを言葉にするのは、だいたい良いことだと思う。だいたいね。

最後の方に「音楽を言語化することの欠点」としてチロっと釘刺すことにして、この文章では、音楽体験の言語化について書きます。

●音楽と言葉、思想、串刺し

はじめに。自分は音楽を聴いて、良かった場合「グッドバイブスやぁ~!!」と燃え上がります。で、だいたい自分はあほなので「グッドバイブスやぁ~!!」でコトを終えてしまいがちです。あほなので。

それで終えるのを続けるばっかりなのは、音楽の体験や、音楽にまつわる自分の思想を、より解像度高い&深いものにはしないのですね。それがもったいないなぁ、というのが、あほなりに音楽をことばにする理由でしょうか。

確かに「グッドバイブスやぁ~!!」を言語化せずに何回も積み重ねていくことは、それはそれで音楽功夫(オンガクンフー)のひとつとはいえます。ただ無心に積み重ねていくことは、案外ひとは出来んもんです。続けていくことは、一にして全、しかし全にして一です。

それでも、それらの体験を「言語化せずに」というのは、チリ紙をいちま~い、にま~い、と虚空に重ねていくようなものです。個々のチリ紙(体験)を貫き通すものが無ければ、チリ紙(体験)の束はプッと吹き飛んでしまいます。その貫き通すものこそが、言葉であり、音楽の思想なわけです。

……そういえば、音楽にまつわる言説で、空理空論ってあるじゃないですか。所詮それは戯言めいた屁理屈だよ、っていう。アイデアだけで実践が伴っていないやつ。一例:「ギターとベースとヴォーカルがなくてもロック音楽は出来るッ!」「やってみいや」っていう感じの。これは、今の例えで言うと、個々の「体験」の存在をまるっきり無視して、虚空に言葉を貫きとおそうとしているからの空理空論だ、っていう話ですね。常に言葉は……それが音楽の「思想」を練り上げるものである限り、やはり個々の「体験」から紡がれる言葉でなくてはなりません。そうでないと血が滴らない。血が滴っていない言葉に誰がこころ動かされるものか。自分でさえも「手前自身のことばに血が滴っていない」ことの虚しさを感じ取るはずだ。

閑話休題。つまり、音楽を言葉にする、とは、様々な音楽体験を、言葉で串刺しにする、ということであり、その串刺しにされた様々な言葉を、さらに練り上げて思想にする、ということよ。

●実例のようなもの:Lo-Fi HipHop

またLo-Fi HipHopやそれに連なる音楽で話をするけれど。

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自分のLo-Fi思想のはじめにあるのは、自分が夜中にやたらLo-Fi HipHopや、それに連なる音楽を延々と聞いて、時間を溶かしていた、っていう「体験」があります。妙に癒されるな……、と。

この「妙に癒されるな……」という、「時間を溶かしている」無駄さ(無駄な時間)、というものこそが、自分のLo-Fi思想において、一番大事なものです。

あんな無駄な時間がッ……!?と、自分自身で意外に思っています。この文章の読者さんが思っている以上に、残響(筆者)はあのLo-Fi体験を「しょうもない時間溶かし」と思っていました。それでも、確かにあの深夜のLo-Fiの日々があったからこそ、今自分はこの文章を書いているし、Lo-Fi思想は確固として練られたわけです。

Lo-Fi HipHop。タルいビートとチルい音像。ノスタルジック。拙速に歩みを明日へ進めるのではなく、過去のダルさに慰撫を求める。テンションをブチ上げていくのでなく、チルに「落とす」。……こういうLo-Fiの「美学」を自分の中で一度「良し」とする……それは自分がLo-Fiの「思想」で串刺しにされる、ということでもある。

こうやって、自分の音楽思想がひとつ刷新されていったわけです。Lo-Fi HipHopフィルター、チルフィルターを通して、いよいよ、これまで見過ごしてきた過去の音源が、どれほどのチルい光を放っていたか、の再検証が始まります。そして、自分がこれまでしこたま買い集めてきたレコードやCDが、どれほど「名盤」再認定したか。映画音楽とかすごかったですよ。

かくして、自分の日常が、別方向から光が照らされて、「こんなワンダーが在ったんだ」という静かな驚きに包まれるわけです。音楽の思想を練り上げ、思想を刷新していくことの意味は、ここにある、と思います。キリキリに思考のネジを締め上げて、自分という人間を無理にシメあげることをしても、別に自分のレベルは高まりもしません。それよりは、視点をちょこっと変えてあげることなんです。

 

●おれの思想を練り上げる

そのようにして、己の内奥のセルフスタジオで、おのれの言葉、あるいは人様の言葉を取り入れ、咀嚼し、練り上げるおれの音楽思想。This is……って、いつの間にか話が向井秀徳になっていますが。それはさておき、しかし、結局「音楽を言葉にする」とは「自問自答」に他ならないわけです。

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絶対に無駄だッ!と思っていたLo-Fi体験が、どんなもんだい、今の自分を作っている。そりゃそうです。自分を保とうと、癒そうと思って行っていた行為です。あの時は実に焦燥していて、それを癒すためのLo-Fi HipHop体験でした。そういう行為は、当時は無駄に思えていたけど、今紡ぐこのことば(文章)、今ひねり出すこの思想は、「あれは無駄じゃなかった」っていうこの文章がここに在るッ!!なのです。そういう風に自分は着地するのか!って自分で驚いています。

自分の人生は、そのようにして妙な「意外性」に救われています。

思想を練り上げる意味は、たぶんここにある。空理空論で救われない理由も実はここにあると思う。つまり、自分が音楽を聴き、言語化することで、まず自分の体験を肯定する。しようと試みる。その結果、いくつか音楽にまつわる言葉が生まれる。そしてそこから、思想が練り上げられていく。その思想は、意外な角度から照らす光で、自分を救うのだ。意外性に驚き、笑いすらして。

自問自答の果てに救いはある、とは、確かに大雑把に言えばその通りなのだろう。しかし、今の文脈に即して言うなら、「自問自答」と「果て」の間にある、セルフスタジオでの「ことばのセッション」や「こころのアドリブ」に、もっと重点を置いた方が良い。セルフスタジオでセルフセッションを「ひねり上げる・練り上げる」ことが大事なのだ。それを手前ェの人生の中でたまにある音源めいた創作物や、ライヴめいたイベントでね、こう、ぶちかましてしまえや。

●音楽をことばにすること、それから

上記のようなことが出来れば、それだけでもう良いのでは……と思えるのです。音楽の言語化。それは誰かのためになっているかどうかはわかりません。が、自分をちょっと救えた。それで良いんですよ。

自分を救うのは自分自身だ、っていうことを、36年生きてきて、ようやくわかりました。もうちょっと前までは、誰かや、誰かの言葉でバキっと人生変われるのかな、って憧れもあったんですが、それもそれで他人本願でした。

前にも書きましたが、大事なのは「個々の音楽体験」もですし、その先の練り上げられた「思想」もですが、その中間の、自分の中のセルフスタジオ・セッションこそが、たぶん一番大事なのです。そのセッションで繰り出される音符こそ、我々の言葉に他なりません。そこで他人が繰り出してきた音符(エッセイ、ブログ記事、音楽評論etc)に自分が影響を受け、化学反応するのも良し。大事なのはセルフセッションを練り上げることです。SNSより楽しいぜ。

音楽を言葉にする意味は、自分はそう思っています。ただ、セッションを練り上げて、「それで良し」としてしまい、「もうこれ以上考える必要はないや」と思いきってしまうと、その時から言葉は死んでいくのでしょう。これがすなわち音楽の言語化……というか、すべての「言語化」に纏わるヤバさなんですけど。言語にすると、ついつい「もうこれで大丈夫」と安心してしまいます。そりゃ、それまでフワフワしていた心を、ようやっと落ち着けることが出来たから、安心するのもむべなるかな、ではありますが。

それでも、おまいの言葉は、おまいの音源であり、おまいのライヴなんだ、という気概は持っていたいものです。

だから、音楽を言語化して、それで終い(しまい)、っていうのは、ちょっともったいない。音楽を言語化して、自分の生活の彩りが花開き、さぁそこからだろう、っていうことです。

まぁ、音楽の言語化なんて、音源にタグ(#)付けるようなものではあります。そう書くとしょうもないですし、音楽評論批判っていうのも成り立ってしまいますが。でも、そのタグを練り上げることで、人生の光、彩りが変わっていったら、それは笑えるようなものでは、けしてない。

もひとつ言えば、言語化してみてはじめて思想が練られる、自分が何を考えているか自分で知る……っていうのもあって。一度言葉にしてみないと、練られるものも練られない。自分が何を考えているかを発見すること。これは案外重要で、「自分の中に大層な思想があるから、それをアウトプット」という図式ではなく、「試しにちょっと言葉にしてみて、そこからいろいろ考えてみる」っていうのの方が、「思想を練る」道程にぐっと近いと思う。自分がどう考えていたか、っていうのは、案外言葉にしてみないとわからない。あ、別に言葉じゃなくても、絵や3Dで表現してもいいんだけど。とにかく形にして出してみる、ってことが大事で。実はこの文章だってそうなのでした。どっとはらい

 

●参考記事

中年音楽マニアとLo-Fi HipHop - 残響の足りない部屋

(Lo-Fi HipHopについて)

Illusion Is Mine 2022.2 - Nothing is difficult to those who have the will.

(THE SPELLBOUND体験、そして下記は記事より引用)

音楽について「自分だけの引き出し」によって音楽に深みを持たせ、音楽世界を広げていけたら、それは果たしてどんなに素晴らしいだろう。そしてそれは僕がずっと求めていたもののはずだ。僕の、僕だけの体験によって、僕の音楽性に価値を持たせる。

このブログ名について - 発声練習

(「頭の中にある自分の考えを文章にして書く事が出来るようになりたい」ということ)

屋根裏部屋のある生活--At the Garret全作品感想

※11/01:秋M3新譜「The Guest of Honor」ネタバレ感想追記

 

同人音楽サークル・At the Garretは、

作詞・作曲・編曲 霧夜 純 氏(サークル・三ツ星☆リストランテでも作曲)

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歌唱 鹿伽 あかり 氏(サークル・Ideadollでも活躍)

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歌唱 桃羽 こと 氏(サークル・Ideadollでも活躍)

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の3人で、「物語音楽」を展開しているグループです。

公式サイト ↓

atthegarret.web.fc2.com

M3秋2021 おしながき ↓

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物語音楽とは、複数の楽曲を用いてストーリーを展開する連作作品です。ひとつの盤の中で、「語り(ナレーション)」も有りの楽曲、考察を誘発する歌詞といったように、「物語」をリスナーに強く訴えかける音楽性です。Sound Horizon的、とも言えますし、ミュージカル的、とも言えます。事実、サークルの御三方はサンホラにもミュージカルにも強い影響を受け、愛好しています。

同人音楽シーンでは、サンホラ以降のこの10年あまり、ひとつの潮流となっているジャンル・スタイルです。At the Garretはこの形式に拘る……というより、「物語音楽をやることが自分たちにとっての当たり前だし、やりたいこと」という、音楽サークルとしての自然な確信を感じさせます。

ミュージカル的、と先ほど申しました。では華麗で絢爛豪華な音楽性……?とこの文章だけだと、そう解釈できます。しかし、「屋根裏部屋(the Garret)」は暗いのです。あるいは、灯りがともったとして、そこには何らかの意図があり、童話的狂気の香りがうっすら漂ってくるのです。

そう、At the Garretの世界は、屋根裏の密室感をどこまでも想起させる「閉じた世界」。自分は過去の感想でそれを「霧夜純の密室芸」と何度も書いてきました。そういう感じが凄いするのです。自分には。

そんな屋根裏部屋が、わたし(筆者)の生活に有るようになって、数年経ちました。これまでの作品全部聞いてきたっていうだけのことですが。……で、その屋根裏のある生活が、自分のここ数年の音楽生活で、ひとつの大事な音楽体験となっているので、ここで改めて纏めてみることにします。

なお、この記事は前々から書き溜めていたものでありますが、発表がM3秋2021の前日っていう、あとぎゃれ(愛称)賑やかしにしてはギリギリもいいところなので、同人でよくある極道入稿とはこのことですね(違)

 

1stアルバム「Assemblage」

2012年作品

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屋根裏にあるガラクタたちの音(SE)から始まるこの盤は、ユーロ歌謡あり、バラードあり、ピアノ曲ありと、ジャンル的には「いろいろ」。
しかし共通しているムードは、新鮮なヨーロッパの息吹、というよりも、屋根裏の埃っぽさというか、光のあまり当たらない密室感。
そのくせ、夢は空想の中をどこまでも駆けていく、という趣の密室さ。狭い空間から彼方を見続けるという夢想。

サウンド的に爆裂もしていなければ、後年のように音が磨き上げられてもいない。
だのに、屋根裏部屋の孤独さが、サウンドの行間から満ち満ちている、滴り落ちている。
そのかすれたセピア色の色彩、過去を常に追憶する姿勢。
静かに燃えているこころの炎。この場合、初期衝動という言葉が似つかわしいかよくわかりませんが……(そういうパンク性の音楽ではない)、この盤には独特の魅力があるのです。
それはジャケットからして。このジャケット、凄く内容と合っていると思うのです。


メロディの哀感は「Eternite」で極点に至り、霧夜氏の曲を鹿伽あかり氏(当時はAkari名義)が痛切に歌いあげます。トラック「屋根裏にて」でとつとつと語られる内容とサウンドは、At the Garretの「決意表明」というか。

屋根裏部屋が変わらない以上、音楽性も変わらない……ということを考えてしまいます。実際、後年あとぎゃれは、この処女作をリアレンジする形で「パピエ・コレ」を発表しています。それだけ、この盤で「屋根裏部屋の世界」はすでにしっかりと提示されているのです。

霧夜氏が特設ページで「中の人の趣味全開です!」と書いているように、密室の趣味性で展開される世界は、最初からブレがないのです。というかブレようがないとすら言えるのかもしれません。

 

1stシングル「記憶のレーア」

2012年作品

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あくまでこのシングルは、次のアルバム「白鳥の城」に至る前日譚なわけでありますが、しかし非常に魅力的な小品となっている盤です。ジャケットからして、トータルで好きな盤です。


基本的にこの盤、暗いのです。
何か「城」感のあるユーロ歌謡から始まります。曲調に、世界観に、常に影があります。何かよろしくないことが起こっているのだろうという不穏さが常にあります。ほら、愉快なミュージカルな感じじゃないでしょう……。

霧夜氏のピアノ曲は、鋭く刺す情感があります。雨のSEと相まって、罪や後悔から逃げないピアニズムのシリアスさ。悲痛な心情を美しく刺していくタッチです。

なのに、聞き終わって、次が楽しみになると同時に、なんか「聞いてよかった」と思わせる盤であります。
At the Garretのシングルは、そんな味わいがあります。次につなげながらも、その盤でひとつの世界観情景スケッチをバシッと叩きつけていく感じ。


2ndアルバム「白鳥の城」

2013年作品

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美しいオルゴールの旋律にのせて語りが入ります。もうこの時点で勝利への予感がしますが、次のオルゴール&ピアノ、ギターとストリングスの疾走曲「白鳥の城の物語」でぐっと掴みにかかります。勝ったな。


バンドサウンドはヘヴィではないですが、ここまでの勇壮で誇り高いメロディを、乱舞するピアノとコーラスを入れながら、女性voで疾走してシンフォニックロックとしては勝利ですよ。というか2番にあるバンドサウンドをガガッとキメるアレンジは燃えます。さらに小刻みに切りつけまくるストリングスとチェンバロとピアノが、若干バロックさも演出しながらもうシンフォニックロック、そしてコーラスと絡み合いながらのvoですよ。勝ちまくり。

物語の「語り」にも実に説得力が出てきています。そこから展開する歌メロの美しさ。At the Garretはメロディが初期から完成された完成度なのです。
ストリングスの美しさもですが、先にも述べたようなピアノの「刺す」感じが、楽曲のアクセントになっています。

「煌めく舞台を蝶は舞う」のユーロスウィング歌謡、もうこの時点で歌謡美メロとスウィングアレンジ、完成されていますね。アコーディオンを前面に出しながらリズムをぐっと後ろの方で打つ感じ、良いと思います。近年流行のエレクトロスウィングなるジャンルがありますが、彼女らのアプローチはその潮流とは全く別のところで、ユーロ歌謡ジャズテイストを確固と追求しております。

 

シンフォ曲は「白鳥の城の物語」と「飛翔」の二つだけで、実は曲の量だけで言うとロックチューンは2つだけなのですが、
しかしこの盤がシンフォロックの感があるのは、この2曲が特に強い!というのが理由でしょう。
複雑な乱舞をするサビのメロディ、壮麗なストリングスのコード感、東方project並みに連打するピアノ、そして打ち込みギターソロをダメ押しのようにぶち込んで、曲は疾走、否「飛翔」! まいりました。 物語のラストへ向けて盛り上がりまくって、そしてラストの語りと曲でしっかり締めます。そんな、ノイシュバンシュタイン城をモデルにしての、ヨーロッパ感溢れる城の物語です。

 

3rdアルバム「屋根裏美術館 -East Wing-」
4thアルバム「屋根裏美術館 -West Wing-」

東翼……2015年作品

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西翼……2016年作品

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なんとアルバムを2作続けてのコンセプトアルバム作品とは恐れ入ります。
イラストを公募し、その絵とのコラボ曲を作りまくる霧夜氏です。凄まじい。作風は、童話・民話感のあるというか、曲調も様々で、まるでビートルズのホワイト・アルバムのようなバラエティの豊かさを感じさせます。ただし、ホワイト・アルバムのような散漫さはないです。むしろ、このバラエティは「美術館の展覧会」の感が圧倒的に強い。そりゃそうです。各イラストに合わせている曲なんですから。

 

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思うに霧夜氏は、三ツ星☆リストランテでの活動で、野宮塔子氏の原作テキスト・詩を常に求めているように感じます。
このAt the Garretの活動でもその「テキストを求める」スタイルは変わっていないように思えます。屋根裏の美術館に持ち込むイラストという「原作」を公募したように。
後に言及するサークル・欠陥オルゴールとのコラボ作品でも、欠陥オルゴール・兎角Arle氏の物語と絵……「世界観」を霧夜氏は求めています。

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以前、村上春樹が音楽エッセイ「意味がなければスイングはない」で、フランスの音楽家フランシス・プーランクの音楽を語ったとき、プーランクが詩……テキストを常に欲し、そのテキストを活かす曲を作っていたことに触れていました。

ですがもちろん霧夜氏は「原作テキストをただ音楽に移し替える」だけの音楽作業をしているわけではないと思います。
霧夜氏=At the Garretの音楽性はユーロ歌謡、シンフォニックロック、バラード、というようにヨーロピアンなミュージカル調のものです。原作や音楽シーンの流行に合わせて音楽性を次々変える、というものではありません。EDMテクノやデスメタルが入る隙間はないのです(当たり前だ)。
重要なのはテキストを霧夜氏が「私はこう解釈しました」というスタンスが、常に見えることです。その視点から、メロディや和音が生まれてくる。
原作をもちろん霧夜氏は大切にしています。しかし同じくらい大事なのは、彼女の解釈(そして楽曲としての再構成作業)にもあるのです。
別に原作テキストを魔改造している、というわけではありません。
原典テキストを「霧夜純はこう解釈したのだな」という知性のきらめきが、リスナーのこちらにも判る。

たびたび、野宮塔子氏や兎角Arle氏が「霧夜さんは凄い」と仰るのは、原作者のテキストを深く愛し、その上で「そう見るか!」という解釈をし、さらに楽曲として再構成してしまう。その現場を間近で見続けられることにもあるのかなぁ、と勝手に思うわけでした。

 

3rdシングル「石の花」

2017年作品

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イントロの語りから、剛速球のトラック2で幕を開ける本シングル。鉱山と森での、石工の少年と幼馴染の少女が繰り広げる、ロシア民話に影響を受けた作品。

ただ、もとの民話「石の花」をそのままなぞるのではなく、物語の一部がどんどん原作から「ズレ」ていく……って言い方は適当ではないですね。
--原作の再解釈。イマジネーションがどんどん飛翔していく。それだけの物語の読み込み。その読み込みが、曲の世界を複雑で味わいの豊かなものにしていきます。

この盤もまた、シリアス度の高いものです。ある意味、北国的なハードで沈鬱なところがあります。しかしそれだけに、その世界の静謐な硬質さが印象に残ります。なお、音(ミックス)も実に磨かれています。世界観に繋がっている音の磨かれ具合です。

At the Garretのシングルは、こうして世界観をバシっと叩きつけてきます。記憶のレーアのとこでも書いたなこれ。いや、大事なことだから2回言うのです。


5thアルバム「Papier collé」

2019年作品

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1st「Assemblage」のリアレンジ……というかAssemblageの再解釈、とでも言う作品でしょうか。また、現在のAt the Garretのサークル活動の活発さが、この作品から始まっているようにも思っております。作品の内容がどんどん良くなるまま、サークル活動が旺盛になるって、最高じゃないすか。

 

2019年当時、自分はこの作品をtwitter個人アカウント(現在、そのアカウントは削除しております)で感想をつぶやきました。連ツイで。こんな感じです。

 

M3リスニンタイム、1枚目、At the Garret 「Papier colle」、Go! #パピエコレ 

2(歌曲)「パピエ・コレ」、
この言葉は「紙素材、印刷物コラージュ」の芸術スタイルだが、楽曲自体がヨーロッパ歌謡ジャズをベースに、弦やツイン女性vo、小刻みなクラップリズムを重ね合わせてる。しかも齟齬はなく「ひとかたまりのユーロ歌謡の妖しき緊張感」としてぶつける! #パピエコレ

トラック2→3、
ジャズ者としては常々「スウィング感(横揺れリズム、グルーヴ)」に耳と体がいってしまうのですが、旋律もバッキングも、果てはオルゴールとベースだけになっても、屋根裏密室の中で緊張感高くグルングルン歌謡スウィングしてるな…… #パピエコレ

トラック4(インスト) 
電子音+ピアノ、弦楽のインスト。どこかポストロックを思わせる(それこそ例えばtoeとか65daysofstaticから歪んだギターを抜かした感じ)、機械的で流れるアルペジオ、しかし緊張感は途切れることはない。ポスロク勢としては極めて好みであるし過去曲「夜汽車」の系譜 #パピエコレ
あと、凄い音が良いですね。その良い音で「古い手触り」を表現している、ブレのなさね #パピエコレ

トラック5「死の島」、
この曲が極点であるが、この作品、全曲通して「届かなかった手紙」感が強い。アートワークに乱舞する切手からも、それは的外れな印象ではないと思うのですがいかがでしょう #パピエコレ

At the Garret 「Papier colle」
vo二人が正式メンバーとなって新作の気合いが凄い。従来の「屋根裏甘美な密室芸」はそのままに、ツインvoや全体のサウンドプロダクションをぐいぐい上げた挙句、妖しく流麗な歌謡ジャズ曲とバラードの良さで正面から霧夜純が貴様を殴り付ける!(すいません #パピエコレ 

たまらん!リピートだ!(※CD再生) #パピエコレ

細かくいうと「パピエ・コレ」のサビ前、桃羽こと氏がスタッカート的に切る感じでメインメロディーを歌い、間髪いれず鹿伽紅梨氏がコーラスを入れ、そこからガツンとツインvoとアコギ刻みとホーンでサビが展開するアレンジ。しかも2番ではvoの配置が逆転する仕掛け、吐く程良いな…! #パピエコレ

この金管ホーンの歌謡的な、「かわいさ」と「路上で妖しく舞う扇状性」の、やらしさ一歩前でどこか哀愁を感じさせるとこ、まさに歌謡ジャズだなあ!!戦前、魔都上海では、ヨーロッパジャズと東洋キャバレー歌謡曲が混ざり、ジャズが妖しく煌めいておったのじゃ!(年寄りの戯言) #パピエコレ

結局聞き始めて3回リピートしてしまった #パピエコレ #あとぎゃれ

 

それから後日、「屋根裏への道」と題して、以下のように連ツイしておりました。

(あとぎゃれツイキャス放送まで)あと40分なので仕事を超スピードで片付けて全裸待機也。待ってる間、At the Garretについてつらつら連載ツイートします。

 「屋根裏への道」 At the Garretを聞き始めたのは2016年で、先に三ツ星☆リストランテを聞いていて、その作曲者がソロプロジェクトをやってる、と知って。 #パピエコレ

「屋根裏への道(2」 #パピエコレ
また、今もお世話になってる同人音楽ファンの相互フォロワーさんから「At the Garretいいよいいよ。ていうか残響さんまだ聞いてなかったんですか逆にびっくりだ」とお勧めくださっていて。いざ実際に試聴音源聞いて、当時から「メロディで殴っている」感が凄かった

「屋根裏への道(3」#パピエコレ
その後実際にM3でスペース言って三ツ星の作品と共に「あとぎゃれ全部下さい」作戦を実行し、全作品を聞く。1stから全く一貫しているのが、霧夜純(エッセイ形式なので呼び捨て失礼)による「密室芸」なのだな、と強く思った。なるほどソロプロジェクトだ、と

「屋根裏への道(4」#パピエコレ
三ツ星も三ツ星で大変「閉じた」表現なのだけど、三ツ星が野宮塔子(作詞)の文学哲学精神の「圧」によってパワーがどんどん深くなっていく閉じ方だとしたら、あとぎゃれは霧夜純の箱庭世界として、屋根裏(Garret)内で閉じ切ったちいさな密室芸、という違いがある

「屋根裏への道(5」#パピエコレ
そういうわけなので、あとぎゃれ最初期からvoとして参加している鹿伽紅梨と桃羽ことが正式メンバーとして、あとぎゃれを「プロジェクト」として活動形式を定め、「外に開く」形で同人的プロモーションをしていくことになったのに驚いた。自分はこれに好感を持ってて→

「屋根裏への道(6」#パピエコレ
別にどこまでも「霧夜の屋根裏密室芸」で完結したって良いあとぎゃれなのだけど、嫌味なくまっすぐに「屋根裏を聞いておくれ!」のプロモーションには「気合を感じる」としか言いようがない。その心意気に打たれている。このあたりで結構霧夜としては意識の変化が→

「屋根裏への道(7」#パピエコレ
→あったのかと思われる。自分も同人サークルしてて、今回自分以外のvoを迎えるという作品を作ったから、そのあたりは僭越ながら気持ちはわかる。「裏切れない」って感。でも背中を正しくキックされる感。 何よりあとぎゃれの場合やっぱり新作でも「屋根裏密室」なのだ

「屋根裏への道(8」#パピエコレ
新作パピエコレは、音のレベルを上げながらもやっぱりやってることは「屋根裏密室芸」なのである。今日一番最初に出した「Assemblage」を、パピエコレが非常に意識しまくっている時点で、ブレも迷走もなく、高まったのは本気度だけなのだ。主題回帰は後ろ向きでない

「屋根裏への道(9」#パピエコレ
何より、プロモーションにしても、楽曲にしても、「たのしげ」なのだ。無理なく同人サークルをたのしんでいる。そこの好印象と、楽曲が殴ってくることで、15時からのラジオを楽しみにしているわけですね。以上です(終

 

6thアルバム「子供部屋の共犯者」

2020年作品

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コクトォの「恐るべき子供たち」を原作テキストとして、作中人物たちの心情をイマジネーション豊かに歌いあげる作品。凄く暗い作品です。だがそれが良いッ!

以前書いた感想です。↓

modernclothes24music.hatenablog.com

 

サークル「欠陥オルゴール」とのコラボシングル
「Invitations to Black Theater」

2020年作品

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物理媒体だと「封筒」が手元に届く作品。内容をこれ以上ないほどに表している装丁にも感服ですが、楽曲も次作「劇場の化物」に続く期待大のいざない。

以前書いた感想 ↓

modernclothes24music.hatenablog.com

 

欠陥オルゴールとのコラボアルバム「劇場の化物」

2021年作品

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欠陥オルゴール・兎角Arle氏の物語世界を舞台に、2020年からのコラボ活動の集大成として、満を持してのアルバムを出しました。さあ、劇場に来たぜ……!(アアッ、コロナウィルスでM3サークルブースリアル会場に行けなかったよ畜生ッ!)

何しろ音楽性と世界観の充実が凄い。まさにミュージカル的めくるめく世界の展開、劇場の進行。

欠陥オルゴールが紡いだ世界・キャラ・言葉の上で、At the Garretが劇を回す回す! どちらがリードしているということもなく、欠陥オルゴールの原作ありてあとぎゃれの音楽が飛翔する、あとぎゃれの音楽がますます兎角Arle氏の筆を飛翔させる!これが同人コラボと言わずして何という、と言いたいね!

舞台からして、人物からして、狂気が隠されてない世界。ダーク。シリアス。それなのに「少女が自然に舞い踊っている」感がどこか幻視されるほど、時折凄く微笑ましいのは、欠陥オルゴールの原作の品というか魅力というか。シリアスな世界なのに、キャラに愛情を抱けるという。

そう、これだけ練られた物語ですが、聞いた後の感覚は「良かった」なんです。劇と言う文芸を観た。終劇まで手に汗を握る、作品の表現。ある意味でのカーテンコールまで、緊張感の途切れることなく、この「劇場の化物」世界は幕を下ろします。

音、心情、ナレーション、終劇。これを席で「観劇」した後にぐっと手の汗の感触が、「これぞ文芸よ、劇よ」と、「良かった」と納得します。

しかし、この「劇場」展開感。ミュージカルに影響を受けているってレベルじゃない。盤……音源とイラスト、ブックレットデザイン全て使って「劇場」を表現したその姿は、この作品こそがミュージカル体験、ってくらいのものでした。拍手! 

 

4thシングル「The Guest of Honor」

2021年作品(秋M3新譜)

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昨日の記事(日記)で、この新譜を応援していることを書きました。記事のラストにあります。

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※11/01追記 web通販で盤が筆者自宅に届いて、さっそく聞いての感想。ネタバレ注意!

 

 

なるほど。ハロウィン合わせの新作、今回は実に「館もの」という設定。……設定? ていうかもはや主題でありキャラクターではないですか。キャラソン

そもそも館の「増築に次ぐ増築」……完全に無茶苦茶な建築様式の積み重ね。この時点で「建築様式のパピエ・コレ」的な様相とも言えます。言い過ぎじゃない。事実、歌詞カードにしっかり外装&内装の図面が記されております。

で……困ったな。前の応援記事(日記)で語ったように、トラック3「Identity」に思いっきり言及しようとしたら、桃羽氏の歌唱と鹿伽氏の歌唱がスイッチする所、これ、アレンジの構成を語っただけでネタバレじゃないですか! 

 

まぁ、書かないと話が進まない……あくまで筆者の解釈として聞いてください。自分は「館(の精)の成長」を、歌手のスイッチ(交代)で表現していると思いました。つまり、増築に次ぐ増築。それだけどんどん変わっていく「館(の精)」の姿を、声自体のフィジカルな変化(ソプラノ→アルト)で表している。

そして、どちらの歌唱も同じメロディを強調するように唄っている。即ち、昔の館も今の館も、本質は変わっていないんだよ、今も同じ本質でここで待ち続けているんだよ……と必死に言おうとしているように聞こえてくる(深読みでしょうか)。

しかしトラック2「The Guest of Honor」の壮麗なストリングスの音の磨きが凄い。何気にプログレ的な組曲とも言えて、ミュージカル的とも言える。音が実にダークで流麗で、「ドン!」というオーケストラ衝撃音が印象的。ハロウィン曲としての堂々たる迫力。

 

さて、この物語のハロウィン性……ということで考えると、ハロウィンの「お盆」性によるのかなぁ、と考えてみます。一気にガクッとヨーロピアン緊張が消えたな!w

ハロウィンはキリスト教由来の「聖なる祭」ではなく、祖霊信仰の土着的な祭を起源とします。逝ってしまった者に「おかえり」と迎える心情の祭りなのです。つまりお盆。

そう踏まえて考えると、この物語で「館(の精)」は常に待ち続けています。「The Guest of Honor」の歌詞とアレンジで、館の外装・内装を描写。次に「Identity」で館の心情を描写。全て「待ち続ける」心情の精。

---この盤は全部で館の精のキャラソンなんだよ!(な、なんだってー!)

やばい、この路線で書くとシリアス物語音楽ファンにころされそうだ。ちょっとモードを真面目に戻して……。

 

英語で「The Guest of Honor」とは「主賓」のことです。この盤において、ジャケットの少女も、館にとっては「主賓」でしょう。館はずっと主賓を待ち続けています。共に楽しく過ごすために。ここで「私(館)は変わっていない!」と弁明したい気持ちのいじましさが何とも悲痛。

そうなのです。この盤の奥底にあるのは「待っている」「いつか来訪を迎えたい」という暖かな心情なのです。「ようこそ」であり「おかえり」であります。

シリアスな館の物語で、結局救いがあるようで、具体的救済があんまり無いような話ですが、しかし楽曲「Identity」の誇り高く暖かな音楽性が、「ようこそ」と「おかえり」を希求する暖かな心情の存在を何よりも照明しています。

やはりこの曲のメロディは良い……というかやや意地悪な言い方をすれば、「暖かな名曲でなければ成立しないストーリーになっている」という、この物語企画の難易度の高さ……!

しかし何よりも、聞き終わって実に暖かな心地がする盤でした。ハロウィンのあとぎゃれ解釈……確かに受け取りました。それは、この館の精のいじましい心情を受け取ったようなものです。ダークだけで終わらない。追憶もありながら、しかし暖かさもある。曲と、二人の歌唱の説得力です。……ということで、ますます昨日書いた、以下の末尾文章が、いや増してその通りになってくるわけで……

 

(げすとな感想おわり)

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↓ 以下の文章が、10/31時点で書いた記事末尾の文です。↓

 

 

At the Garretの世界……盤作品をこの数年聞いてきて、良かったな、と今しっかり思います。

文芸と絵と音楽の劇場的世界。独特の「屋根裏の暗闇」感、童話・民話的タッチ。あとぎゃれの世界はいろいろな文化を内包していて、作品を聞いた後、いろいろな本を読み返したくなる気持ちが湧いてきます。

ひとえにそれは、彼女たちAt the Garret三人が、屋根裏部屋で、毎回の企画を練り、「この作品世界は良い」「屋根裏美術館に展覧すべきだ」と、彼女たち自身が物語の楽しさを確信しているところから来るのでしょう。時流に惑わされることなく、安易なショートカットもせず、ひたすらに物語音楽を紡ぐ。あの密室で。

そう、彼女たちはいつも居るのです、屋根裏部屋に(At the Garret)。

こんな音楽を聞いてきました その1:アメリカ大陸、ヨーロッパ大陸(世界音楽履歴書2020年現在)

この記事は、いわば備忘録ですね。現在、このブログの管理人は35歳なのですが、「全世界全時代全ジャンルの音楽を聞こう」と、学生時代に心に決め、以来いろんなレコードや生演奏を聴いてまいりました。
なぜそんなことを決心したか、実は今となってはよく覚えておりませんが、ともあれその全世界音楽旅行を始めてから15年は経っていました。

今回はそんなわけで、これまで「耳で訪ねた」音楽地域をざっと駆け足で記してみます。

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世界地図です

●北米:アメリカ、カナダ

主に「ジャズ」と「ロック」の2つの軸で。

ジャズは戦前からのジャズを中心にしたビ・バップ~ハードバップを中心に、モードジャズも聞いております。いわゆる「モダン・ジャズ」。フリー・ジャズも一応聞いてはおりますが、ここまでくると、オルタナ系の連中が「ノイズ/即興」系譜で聞く文脈の方が近しいかも。トラディショナルジャズ~中間派に至る系譜も、もちろん愛好しております。半面、そういう古典に親しみまくっていたので、クラブ・ジャズ以降の現代的な展開に慣れるまで時間がかかりました。

ロックは70年代ニューヨーク・パンクと90年代オルタナティヴロックを中心に。
ジャズとロックを聞くということで、戦前ミシシッピからデルタなど、ブルース~ブルース・ロックを、遡る形で聞くことにもなりました。

フォーク、カントリーの方は、この7、8年でようやく少しずつ遡っていっている状態です。何しろそこらへんのアメリカフォーク音楽のガイドにしているのがジャック・ホワイトやデレク・トラックス、そして近年のエリック・クラプトンだというのだから始末に負えない。

むしろブルーグラスヒルビリーみたいな、ケルト要素のある民謡めいたカントリー音楽は大好物でした。

 

ロック中心だったので、ヒップホップを聞くのはかなり出遅れましたが、最近Lo-Fiヒップホップに大変お熱です。このあたりの音像と現代のジャズも合わせて聞いております。

ブライアン・ウィルソンライ・クーダーのような、アメリカ音楽を総合的に、比較音楽(学際)的に捉えるアプローチにやがて辿り着くんだろうな、って思ってはいます。

 

中南米:メキシコ、キューバ、ジャマイカ

お察しのようにライ・クーダーの「ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ」がキューバ音楽の入り口でした。後述しますが、ぶっちゃけ自分のワールド・ミュージックのネタもとはライ・クーダージョー・ストラマーの影響が強いです。

メキシコに関してはこちらもやっぱりサンタナから入りましたね。あと地理的に近いテキサス・エルパソ出身のマーズ・ヴォルタを聞くと、なんかこのあたりの音楽文化の匂いってものに想いを馳せてしまいます。そういう意味だと、マリアッチを多少聞いてはいたものの、やっぱりアメリカのチカーノ・コミュニティの文脈からメキシコ音楽は聴いていたかもしれません。これ書いていて気づきましたが。

ジャマイカはこれはもう、70年代ロンドンパンク~ニューウェイブから入りましたね。ようはレゲエやダブを、パンク勢とくにクラッシュが導入しまくったので、その文脈で聞きました。そうですサンディニスタですよ。


The Clash ~ One More Time / One More Dub


ただ、結構レゲエから、スカに遡って聞いていくうちに、自分はカリプソのビートがやたら好きだってことに気づきました。結構カリプソは好んで聞きましたね。カリプソを演っているだけで自然と点が甘くなる傾向にあります。あと、ダブに関しては近年再入門しております。何しろ深い世界なので……

 

●南米:ブラジル、アルゼンチン

深いといったら南米も大層深いです。まず、戦前のサンバから戦後のMPBやブラジル風のEDMを概観する形でブラジル音楽史を総合的に聞いていってるのが、軸としてひとつめ。こちらを現在頑張っております。

もうひとつは、ボサノヴァですね。これはジャズにおける「オルタナ」というか、やっぱりジャズ史観から見ると、相当このボサノヴァってやつは発見が多いのですよ。で、そのうち、ジャズのサブジャンルとして聞くだけではなく、ボサノヴァを水のようにごくごく摂取するようにもなりました。ある種の人々は恋するかのようにボサノヴァを聞き込みますが、気持ちわかりますね。

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アルゼンチンですが、カルロス・アギーレの音楽や、「Bar Buenos Aires」コンピレーションを軸に、この地のフォークを聞いております。また、フアナ・モリーナなどのいわゆるアルゼンチン音響派と呼ばれた音楽家も同じく。そういう意味では「静」のアルゼンチン音楽はよく聞いておりますが、反面「動」の方はまだまだともいえるかも。

うむ、やはり中南米、南米はわたくしまだまだ浅いところにとどまっておりますな……!

●西欧:フランス

フレンチ・ポップから入りました。それこそフランス・ギャルとか。ブリジット・フォンテーヌまで聞いてた。これは90年代渋谷系……ネオアコやジャズやR&Bや映画音楽の再発掘ムーヴメントの文脈で聞きました。ようするに小西康陽の美学は相当大きい。学生時代、この分野に強いジャンゴレコードという奈良のレコ屋に通い詰めていましたからね。

その一方で、ダフト・パンクが大好きだったりします。おーい70年代フレンチプログレすっ飛ばしていないか?と思いますが、うん、はい、申し訳ない。今後の宿題です。ともかく、ダフト・パンクが大好きです。こいつらはフランス文脈で語っていいのか?と思いますが、しかしUSやUKのクラブシーンの史観からしたら、やっぱりこいつらは傍流というか。王道になり切れない(いつもそのオルタナでいたい)というそのアティチュードに妙にフランスを見出していたりします。屈折やなぁ!

あと、ドビュッシーの音楽はどこまでいってもフランスです。初めて聞いた時からその洗練された和音のファンタジーに魅了されています。そこからフランスのクラシックを遡った……というよりも、もうちょっと後年のエリック・サティとかフランシス・プーランクを聞いていました。

そんで、自分がヨーロッパ・ジャズを聴くとなったら、まずフランスに目を向けているかなぁ、と。どことなくユーロっぽいフレージングを耳にすると「ああ、やっぱりヨーロッパ・ジャズだなぁ」と思います。ジャンゴ・ラインハルトステファン・グラッペリの昔から……というかあの連中がそもそも輝きすぎてるんだな、うん。

 

●西欧:ドイツ、ベルギー

ジャーマンプログレクラウトロック)と、ジャーマンメタルと、アヴァンギャルド。それからテクノと、やっぱりドイツ系クラシック音楽を遡りました。ジャズは手をつけられず……。

ジャーマンプログレはCANを聞いて、「そうか、ループ的にトランス音楽をカマしていけばいいのか!」と変な悟りを開きました。だからやっぱりタンジェリン・ドリームには親近性をすぐに抱きました。その後のテクノ・ハウスへの影響という意味でも。
あと、管理人の自作の曲の感想を頂くとき、実は結構多いのが、「ジャーマンプログレっぽい」って言われることがあるのです。名指しでアモン・デュールって言われたことがあった。実はそこまでジャーマンプログレ聞きこんでいるわけでないので恐縮でしたが正直w

結局メタルはアメリカのよりも、ヨーロッパのいわゆる美メロというかクサメロみたいなのが好みなんだな、と。聞こえてくるじゃありませんかハロウィンのイーグルフライフリーが……。

クラシックに関しては、いわゆるドイツ系……バッハ、モーツァルトベートーヴェンから、ロマン派、そしてワーグナーとかシェーンベルクに至るまで、一応聞いております。ドイツ系クラシックで一番自分が好きだって思えたのがハイドンだった、というのは未だに「うーん、そうなのか……」っていう感じ。むしろ最近はシュトックハウゼン電子音楽を、ニカ(エレクトロニカ)やアンビエント、ノイズの文脈で聞くことが多いかも。

ベルギーのシンク・オブ・ワンに関してはアフリカ:モロッコ音楽のところで……

 

南欧イベリア半島

ケルト文脈でスパニッシュ音楽を聞いてるっていうのが変な入り口というか。MIDIバグパイプのエヴィアとか、カルロス・ヌニェスとか。そんなにケルト音楽・ユーロ民謡好きか。大好きです!

フラメンコを少々聞いたくらいで、やはりスペインやポルトガルの方面は「入って」いっていません。むしろロドリーゴやファリャのようなクラシックと民族音楽の融合アプローチの方をよく聞いているかも。あ、国籍フランスですが、南フランス郊外でスパニッシュの影響色濃いっていう意味で、マノ・ネグラ好きです!あ、しまったマヌー・チャオのこと南米のとこでいうの忘れてた! ライ・クーダーとストラマーの次くらいに、国際ミクスチャーロック文脈ではマヌー・チャオ意識してはいますハイ。


Manu Chao - Me Gustas Tu

 

●西欧:イギリス

UKロックはそりゃあ遡りました。キンクスビートルズに始まり、ツェッペリン、クリーム、パープル、ユーライア・ヒープ、ブラックサバス……。でもやっぱりメタルはあんまり行かなかったです自分。2012年くらいになってようやく各地のメタルを聞き始めたくらいですから。そのタイミングでアイアン・メイデン聞いてるくらいですしね。

UKはパンク、ニューウェイブを中心に、そこからマイブラに至るシューゲイザーにまで連なる感じで。でもオアシスをまず聞いていないという変な人です。

前述したように、クラッシュ、とくにジョー・ストラマーの世界音楽探訪精神に極めて感化されているもので、クラッシュと言うパンクから、ダブ、レゲエ、初期ヒップホップ、トラッド、初期ロックンロール、ワールド……とやたらめったら手を出すようになってしまいました。ようはクラッシュのせいで、今この文章を書いているようなもんです。責任をとってもらいたい。

ネオアコザ・スミスといった80年代の展開もそれなりに聞きつつ(80年代に関してえば、アメリカよりもイギリスをよく聞いてるかも)、でも心は常に70年代というか、ツェッペリンだのクラッシュだの。古いですね。大好きです。

音楽を聞き始めた一番最初、自分はトランスやユーロビートを聞いていましたが、やはりUKダンスヒットチャートは意識していました。今では全然見ていませんが……。

あと、イギリス民謡とか、オルタナティヴフォークとか、フェアポートコンベンションみたいな電化トラッド、めちゃくちゃ好きです。それからepic45みたいな郷愁ポストロックも大好きですし、まだまだ掘りが足りていないですねイギリス。

 

●西欧:アイルランドアイスランド

U2を愛好してるんですが、それ以上にとにかくこのアイルランドの地のトラッド(トラディショナル・ミュージック、要するにケルト系)を愛してやまない。その現代的展開のポーグスも好きです。アイルランドに行ったらアルタンの切手を買うんだ……。アイルランドの民謡はもう全部好きです。古典も現代も。

それからアイスランドは、個人的にはエレクトロニカ/フォークトロニカの国です。シガー・ロスムームはもちろんのこと、Lo-Fiおばあちゃんことシグリズル・ニールスドッティルのようなインディー魂が脈々と受け継がれている素晴らしい音楽文化というか。


Múm - Green Grass Of Tunnel

 

南欧:イタリア、ギリシャ

カンツォーネを聞きこんでいました(どちらかというとユーロジャズや映画音楽の文脈)が、その一方でラプソディ・オブ・ファイアのようなシンフォニックメタルの国っていう聞き方もしています。とくに自分の聞いていた(クサ)メタルのバンドは、こぞってラプソディを愛好していましたからな……。ぶっちゃけそれはSound Horizonにまで至る。

ギリシャは民謡くらいしか聞いてはいませんが、その変拍子っぷりに度肝を抜かれたものでした。なんだこの変拍子の嵐は、と。まだまだ聞き込みが足りません。

 

●北欧:ノルウェースウェーデンフィンランド

ユーロ民謡・トラッドの流れで、この地の民謡も聞きまくりました。とくにヴェーセンは大変すばらしく、今もニッケルハルパ(楽器)の音色が耳に響いています。ラップランドサーミの民族歌唱ヨイクの大地的な響きもまた。

そして(クサ)メタルではアーク・エネミーやチルドレン・オブ・ボドムというデスメタルを聞いたり。目下の宿題は、アーク・エネミーの中心人物・マイケル・アモットの別動隊である70年代ハードロックバンドのスピリチュアル・ベガーズを聞きこまないといかんな、というのがあります。人間椅子文脈で。


Väsen: IPA-Gubben (Official Video)


Solveig Andersson Jojk "Bjiejjie"

●東欧:ハンガリーブルガリアルーマニア

こちらもユーロ民謡・トラッドの流れで、ムジカーシュやその流れの民族音楽を。大学に居る時に民族音楽ライブラリーを使ったりもしましたな。乾いたような湿っているような、泣いているような静かに恨んでいるような、独特の哀愁が非常によろしく。
ギリシャ変拍子もすごかったですが、ブルガリアのジプシー系クラリネット奏者イヴォ・パバゾフのもすごかった。なんだ7/8拍子って。それからファンファーレ・チォカーリァやタラフ・ドゥ・ハイドゥークスなど、「バルカン・ビート」文脈でも紹介された音楽はもちろん押さえております。


Ivo Papasov on Nightmusic


Fanfare Ciocarlia - Manea Cu Voca

それからユーゴスラヴィア圏の民謡やフォークも聞きましたが、ここまでくるとむしろロシア的なフレージングというか、スラヴ的とでもいうんでしょうか。そういう影響を感じることが多くなりましたね。

 

なんかやたらと長くなってきたので(5500字)、今日はここまで!ヨーロッパが一区切りついたのでキリがいいですし。次回は下記について書きます。

 

次回の分 
その2:アフリカ大陸、ユーラシア大陸、アジア

北アフリカ:モロッコ、マリ

南アフリカ

●中東:トルコ、サウジアラビアアラブ諸国

●インド、バングラデシュ

●東アジア:中国、朝鮮半島

●東アジア:日本、アイヌ、沖縄

●東南アジア(ASEAN諸国):シンガポールインドネシア

かくして招待状を受け取ったからには劇場に行かねばならねぇな!--At the Garret×欠陥オルゴール「Invitations to Black Theater」

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atthegarret.web.fc2.com

原作・イラスト:兎角Arle(欠陥オルゴール
作詞・作曲:霧夜純(At the Garret
歌唱:鹿伽あかり・桃羽こと(At the Garret)

●今回の先行シングルの仕様

漆黒の招待状が届きました。

 

物語音楽同人サークル・At the Garretの2020年秋M3新作は、同人サークル・欠陥オルゴールとのコラボレーション作品です。
今作は、次(2021年春開催予定)の同人イベントで頒布予定のアルバムの先行シングルという位置づけです。

さて今回、自分はAt the Garret公式通販(Booth)で、ダウンロード(DL)配信ではなく、限定生産の現物媒体を予約購入しました。
「盤(CD)」ではありません。DLコードのついたカードです。

同人即売会において、CDを頒布せず、DLコード&パスワードが記されたカードを頒布する形態も、今は普通になりました。
しかし今作、こだわりが凄い。「粋(イキ)すぎる!」カードの装丁なのです。

どういうものかというと、上記写真のように、黒い封筒に今作シングルのタイトルが金色文字で記され、封はによって閉じられているという凝りっぷり。
もちろん封筒の中には、DLコードが記されているカードが入っていて、これが歌詞カードを兼ね、イラストが描かれています。

この粋で上品な装丁の設(しつら)えは、まさに「好きな事を好きなように表現する」同人創作そのものです。
しかし今作、真に素晴らしいのは、この装丁が伊達ではなく、作品内容と密接に同期リンクしていることで……

●#1「Invitations to Black Theater」

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壮麗なストリングスのリフをバンドサウンドが支え、ピアノの旋律が緊張度高く疾走しながら始まる疾走曲です。

ザクザクとギターが刻まれ、ヴォーカルがストレートに流麗に歌い上げます。楽曲アレンジの展開で、バンドサウンドが一時的に「止め」を使ったりしますが、しかし緊張度が途切れることなく一気に聞きとおせるのは、練り上げられたメロディの歌唱が殴りつけてくるからですね。ストレートに美メロシンフォニックロックのパンチを放たれたらノックアウトされる他あるとでもいうのですかあなた。

特筆したいのはコーラス! サビの裏を支えるコーラスワークももちろんですが、楽曲中間部でヴォーカルを交代しての高音多重ヴォーカルで妙なる旋律の声が、世界を切り裂くように入り込んでくる所の格好良さといったらどうだ! そこからまたピアノを挟み、メインヴォーカルに再び移るのが良い。

そして、装丁が作品内容と密接にリンクしている事の「その1」ですが、歌詞内、しかもサビで「招待状の封を切ること」に言及しています。
リスナーがDLカードの封を実際に開けることから作品の全てが始まる……!リアルの音楽聞き体験と作品世界が完全に同期しています。装丁も作品の一部どころか、装丁からすでに作品世界は始まっているんですよ!
DLコードのカード1枚の封筒という物質的形式をここまで「活かしている」。ここまでくると、もはやDLコードカードはこの場合、CD(盤)の代用でなく、「これでしか味わえない」形式なのです。深読み? 否、だったら歌詞中でここまで言及するかって話です。

思えばAt the Garret音楽は、初期から今に至るまで霧夜氏の密室芸ですが、同時に屋根裏の劇場へ「ようこそ」と、客人(リスナー)をしっかり迎え入れている芸術であります。「美しければいいんだろ」の塩対応ではないわけです。
ならばこうして迎えられたリスナーは、装丁を含めた音楽作品を味わうのが本懐です。

王道の、女性voシンフォロックでございます。名刺代わりの招待状リードトラックとしての魅力たっぷりの風格です。壮麗で戦慄する疾走、美しくないパートがマジでひとつもない。バンドサウンドもビシビシ効いています。本作シングル、トラック2でもそうなのですが、ドラムワークが激しいです。

●#2「A rumor of Black Theater」

パレード感のある、騒がしくも妖しい曲です。
どことなくSound Horizonを想起しますが、じまんぐ的なる者はここにはいない。いや、屋根裏密室芸で鹿伽氏や桃羽氏にアレをやってもらっても大層困るので、そっち方面のアクターを充実しなくてもいいですあとぎゃれは。屋根裏でじまんぐがどったんばったん胡散臭く楽園パレード大暴れされてどうするっていう。

ドラムワーク、とくにシンバルがバシャンと鳴るおかげで、祝祭感があるパレード曲ですが、「なんかヤバい事が起こっていることは間違いない」という妖しみが常に漂っています。ワー楽しかった終わりっ!……ってことには絶対ならない曲です。そんな幻惑なるユーロ歌謡色もある曲。ホーンやストリングスのシンフォなリフの壮麗な鳴りっぷりも、mix担当の方すげぇ良い仕事していますね。

さて、この曲の中にも「招待状」への言及があります(その2)。曲の登場人物もまたこの招待状を受け取っているのです。
こうなってくると、先ほど「リアルとの同期」と書きましたが、それは単純に幸せすぎる話なのか?という疑念が出てくるのが、At the Garretと欠陥オルゴールの繰り出す「毒」ですねぇ。リスナーもまた、この楽曲の登場人物のようになるのではないか?招待状を受け取ったということは、おれらの中にもまた「そういう要素」があるのではないか? 毒ですね~怖いですね~。おなじ招待状を受け取ったのだから……という、登場人物との同期。屋根裏で鳴るオルゴールにはまさに気が抜けない……!

●かくして

前に、自分は自作の同人音楽CD(サークル・8TR戦線行進曲の作品)をありがたくも買ってもらった方に、

「作品っていうのは、自分がたのしく作ったものではありますが、こうして手に取って聞いてもらって、改めてこの世に産まれなおすのだから、あなたのようなリスナーは命の恩人のようなものです」

……と話させてもらったことがあります。


リスナーが聞いて、改めて完成する「作品」という劇場。そういう意味において、作者とリスナーは、きわめて良い意味での「共犯関係」にあるとも言えます。少なくとも自分は、良い意味でそう思っています。
そして今作のような「招待状」作品は、「こういう形式(DLカード媒体)」で受け取ったら、もうただの「あー聞いた」に終わるものでなく、ひとつの濃密な共犯の「実体験」になります。
いや、本作は「絶対に招待状DLカードで聞くべし」って言おうとしているわけではなく。誤解のないように付記します。あくまで自分は「贅沢な経験をさせてもらいました」っていうおはなしを、こうして日記として書いているわけです。自慢ではない。ただ、公式通販で予約していてよかったなぁ、と思い、改めてAt the Garretと欠陥オルゴールの両サークルにありがとうございました、と告げます。これが同人、これこそ同人創作活動です。

そういうわけで、招待状をこうして受け取って、楽しんでしまったわけです。ならば、次に見事に控えている、アルバムに期待するなっていうのが無理な話ですよ。まんまと両サークルの思惑にひっかかっているリスナーでございます。しかし、こうして濃密な体験をしてしまった以上、作品世界に対する「愛着」が確かに生まれてしまいました。なので、かくして招待状を受け取ったからには、劇場に行かねばならねぇな!

 

・過去の、At the Garret作品の感想

2020春M3作品感想(1)退廃耽美デカダンスの悲劇なる物語音楽はバチクソ充実しているーーAt the Garret「子供部屋の共犯者」 - 残響の足りない部屋

あなたのオルタナはなに

オルタナオルタナティヴ・ロック)って何ですか?

そこ行くあなたですよ。あなたのオルタナを聞きたいんですよ。わかっているんですか。

もう今おれはオルタナじゃないし、とか聞きたくないんですよ。あの日のオルタナが消え失せてしまいそうで、って話即ちオルタナなんですよ。

わかっているんでしょう。内心思っているんでしょう。だから話してくださいよ。あなたの心象風景を。

 

自分のオルタナの定義の話をします。

初めに、オルタナってのはノイズギターなんですよ。でもノイズをギャギャンンと余裕をもって鳴らしてさぁこれがオルタナで御座い、っていう安易さがオルタナなわけはないんですよ。商業オルタナなんつう悪名はここにかかるんですが。ええい、そんなものにこれ以上文字数を費やす暇はない。
で、その追い詰められた人間が放つ特有のノイズギターは、ある風景を絶対に伴うわけです。それ即ち心象風景の具音化であります。
ギターやアンプやエフェクターのブランド。それがあるからオルタナなわけじゃないんです。その愛器と幾多のライヴの死線を潜り抜けてきたからこそ愛器を愛器と為す「マイ楽器ラブソウル」の信頼。それは風景をこじあける鍵。あの日の心象風景を具音化させる鍵。だからファズを愛で思いっきり踏み込んでギターソロを奏でフィードバックノイズが走り電気音が感電する。どうだこれだ。


つまるところ、オルタナっていうのはギターノイズを使った音を介して、奴ら(音楽家)とおれら(聞き手)が対峙する。まずこのピリっとした対峙感があって、そこで奴らとおれらが音の中で無言の会話をするわけです。奴らの独特の意味わからん言語を、おれらは何とか聞き取ろうとする。そして時折垣間見える奴らの心象風景に、おれらがどこかで忘れ去ろうとしてきた感情を見出し、託し、同化させ、そしてまた音を聞く。

このギターノイズを介した心象風景の対話がオルタナティヴロックミュージック現象であります。

 

メジャーシーンからどんだけ離れているか、独自のキワキワバンド生活を送っているか、っていうのがオルタナの定義じゃないんですよ。メジャーから離れているっていうのは、ソニーミュージック本社東京都千代田区からどれだけ地理的に離れているか、っていう話じゃないことは明白ですが、しかし「独自のキワキワバンド生活」云々、っていうのにオルタナの本質を見出そう、っていうのは、ソニーミュージック本社東京都千代田区六番町から沖縄県波照間島(はてるまじま)まで離れる、っていうのとそんな違いはないと思います。
そのあたりの「アンチメジャー距離競争」っていうのは、さすがに今はないとは思います。あってもらっても困る。
自分はオルタナの定義を心象風景に置きたい。

 

心象風景の起こるノイズギターミュージックがオルタナ、っていうのが自分の荒い定義ですが、自分はこれでいいや。少なくともその定義で聞くオルタナに自分は用があるし、今も自分はその心象風景を大事にしている。

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例えばの話、bloodthirsty butchersの「デストロイヤー」を聞いていて、「うあぁあ」と思うわけです。気分がアゲアゲになるのでもなく、リズムで踊りだすんでもない。

いつかの自分はどっかに向かって走っていたらしきことを思い出す。

なんで走っていたのかはよくわかんないけど、人生がハピハピHappy楽しすぎてそんな走り方をするとはちょっと思えないって感じではある。
そんときにセイタカアワダチソウが空に向かって伸びていたことを思い出す。

空の雲と夕暮れの赤が混ざって、少しずつ蒼の空が黒がりに混ざっていく。

薄い川の水の流れがやけに透明だったていうこととか。

どっかの工場の煙突だったか、どっかの団地の日常の灯りだったか、ともかくどっかの誰かの日常の静けさを感じながら。

自分は町の郊外を走っていたことを思い出している。35歳に無事になることなんて皆目信じていなかった歳若い頃があったんだよ。


それから年月が過ぎ、性欲と酒精と承認欲求で人間は腐っていくんだよ。そんな風景をどんどん見てきた。

でも性欲と酒精に逃げる前に確かに人々は頑張っていたっていうのもしっかり見てきたんだよ。どっちを許せばいいんだかよくわかんないよ。


そんな日々がどんどん重なっていく。一個一個のエピソードの鮮烈さが失われていく。熱い水に刃を入れるかのようなヴィキッとした鮮烈な印象が遠くなっていく。


やがてこんな自分でもどんどん日常がうまく回るようになっていく。仕事だって出来ちゃったりする。過去の自分からの進歩に笑ってしまう。だが心のナイーブさが磨滅していってるのにも気づいている。ナイーブさが無くなったから仕事も生活も無事に進められるって話だ。大人になったなぁ。


でも、いつかの自分がどっかに向かって走っていたあの時の鮮烈な悲しさと、赤い空に高速で際限なしに飛んで行ってしまいそうな感情ってやつ。そんな少年の自分に、どっかで嘘をつき続けているような気がする。

 

そんな一切合切を、オルタナティヴ・ギターノイズロック音楽が、スカーンとあの頃に蹴落として、スカーンとあの頃に非常に共振する風景を見せてくれる。「これだった、よな?」っていう感じで。

それが自分にとってのオルタナなわけです。そんなに簡単に忘れていい心象風景じゃないだろう?っていう。

 

以上の話を一言で纏めると「10代リマインダー」っていう空恐ろしいドライな表現ありがとう嬢ちゃんウヘヘ、っていう事になっちゃいますが、そんな事言ってくる奴はワンパンするにも値しないよ。


あなたにとってのオルタナとは何ですか?よろしかったら聞かせてやってくれたらうれしいです(コメント欄にでも)

アメリカ民謡研究会の研究

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(聞いて考えたことをそのまま打鍵しています)

mywaymylove00.hatenablog.com

上記音楽ブログ管理人・カナリヤさんからのお勧めで聞いた。そんではじめてきいたこの人(Haniwa氏という個人。会ではない)の動画は、ファズをかませたベースをループさせた音源のオケに、ボイスロイド(音声朗読版ボーカロイド)のポエトリーリーディングを載せる、というものでした。

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あまりにガチガチに歪みきったサウンドに驚いた。この手の弦楽器の生演奏を、ループ・サンプラー(ルーパー)を使って重ねていくのは、マーク・マグワイアやダスティン・ウォンといった「エフェクター・マガジン」ループサンプラー特集号で出てきた面子だったりで存在は認識していました。インディーシーンで、機材オタ的な面子が、アンビエントだったりバキバキテクニカルフレーズ重ねを、ルーパーを使ってやる、っていうのは、2010年代以降の展開だなぁ、と、個人的には好感を持ってみていました。独りで演る、っていうのがよろしい。以前、この手の生演奏ループ音楽について語ったところ、「打ち込みでやったらええやん」と無情な批判コメントをもらったことがあった自分でして、その時、有用な反論をかませなかった情けなさです。

今、改めてこの手の生演奏ループを思うに、「独りで行う」ということが何より重要なのだと重いまする。確かに、演奏全体の総合構築性の整合性を目指すなら、打ち込みにしたほうがよいのは明白。でもこのループ系の場合、独りで演奏し、ジャズのようにアドリブを自由なタイミングでカマし。独りでその演奏レイヤー(重ね)を編集し、さながらクラシックのように指揮する。演奏レイヤーは重なっていく。その各レイヤーのテクスチャーやファサード(音の肌触り)を、重ねていく。独りで。たった独りで。それは要するに、自分の演奏を素材にした編集音楽である。何より、自分を分解してライヴで統合する、自分との対話に他ならない。

 

バキバキに乱打するドラムトラック、そのウワモノとして使うのはベースだけ。歪ませたベース。これについては、2000年代以降のフリクションDeath from above 1979、ロイヤルブラッド、などが、「歪ませたベースでのロックンロール、パンク」でもって追及してきました。スリーピースでの、ギター、ベース、ドラムという「いわゆる最小編成」での音像より、もっと少ない。ギターソロはない。ギターのコード感は、ベースで補う。ギターの「壁」的なコード・リフの音圧は、エフェクターでもって解決する。あるいはドラムのウワモノ(シンバル、スネア)とのコンビネーションでどうにかする。しかし問題は、ギターという「音階をメロディアスに奏でることができる音源」のなさで。上記バンドは、どれもそのあたりの流麗メロディアスさの歪みギターを、どこかで諦めることにより、リフ重視の、ループ系にも似たグルーヴ音楽を構築することとなった。ヴォーカルも、どちらかといえば「歌い上げる」よりも「グルーヴに沿う形」といったほうがいいだろうか。さらにいえば、ロック・デュオ最小編成はギター&ドラムの、ベースレスな、ホワイト・ストライプスがこの分野では一番成功を収めているが、やはりこちらもギターの流麗さよりも、もっと別のものを持ち込もうとしている音楽である。ジャック・ホワイトのシャウトとノイズギターは、何よりもブルースである。元来、電化ブルースの初期は、ベースがない場合がたびたびあった。マディ・ウォーターズのギター&ドラムの音源とか。


このアメリカ民謡研究会が、ループ&機材音楽や、ドラム&ベース音源のあたりの文脈を押さえてはいるだろうけど、サークル名の「アメリカ民謡」をちゃんと研究しようとしている、とは到底思えない。ライ・クーダーのようなアメリカ民謡・古楽・ワールド系復刻的な視点も、ボブ・ディランウディ・ガスリー以前をフォーク文脈からアメリカ民謡掘り起こしみたいな観点も、あるいはいわゆる「アメリカーナ」的なノスタルジア憧憬も、または南部ブルーグラス音楽をアイリッシュ移民ケルト音楽の文脈から、というような視点も…とにかく、ちゃんと「アメリカ民謡を研究しよう」という気構えが感じられないのは明白で。ようはVaparwave的というかパンク的な「さして意味のない、やる気のないタイトルの中の虚無性」でもって、逆説的にアティテュードを表明する、というものだと思う。


ただし、何かを「研究」しようとしている態度はとてもよくわかる。どの音源も、実験性にあふれている。音楽機材…ファズ系エフェクターとループ系エフェクター、ドラム音源のビート系PAD、パソコンによるDAW編集、そしてボイスロイド。機材の研究のなかにインスピレーションを求めている。アメリカの中には求めていない。もっとも、現在のアメリカが表明する「米国ファースト」に対するアンチ視線をナチュラルに持ち合わせているくらいの反骨的な魂は当然持ち合わせているだろうと思う。
そんな詩人だ。この詩人は反骨と屈折、屈託と、綺麗で透明な風景に対する憧憬と、穢れていく人間の精神へのまなざしと、それでいて「やっぱり何かを諦めきれない」詩を書く。それをメロディ(歌)にしようとしない。ポエトリーリーディングで行う。ベースとドラム音源の轟音リフにのせて。それが、非常に、クる。

 

以上のことを端的に述べれば、カナリヤさんのこのツイートになる。自分はこんなに文量を稼いで何をやってるというのか。コントラスト。それも、ぢゅくぢゅくしている傷口から放たれる、折れそうな精神の、それゆえの強靭なメッセージというか。何を自分は書いているのか。意味がわからない。でも、「もうぼくは…消えてしまいたい…」という方向性じゃないんですよ。しっかり考えているっていうことがわかる詩。こちらのリスナーをアジテート(煽り)しながらも、煽って終わり、という下衆な感じはぜんぜんない。いつもこの人の音源は、冷徹な語り口で、完結していて、ドライで、だからこそどうしようもなくエモーションなコントラストなんです。この人の語りには、襟を正して耳を傾けたくなる何かがある。ボイスロイドなんだけど。

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最近の音源では、お手の物だった轟音ベース&ドラムよりも、落ち着いたエレクトロニカ的なバック音源に乗せて、やはり冷徹で、完結していて、どうしようもなくエモーショナルなボイスロイドのポエトリーリーディングを載せている。だから、ベース歪みだけの実験音楽なだけではないのだ。この人の本質はこの報われないエモーションなのだ。誰かに自分の声を聞いてもらえる(そしてヤンヤと共感喝采される)ことをハナから期待してはいないけど、こっち(リスナー)はこっちで、この人の言葉に耳を傾けてしまう。向井だ、わたしたちが向井秀徳の「自問自答」を夜中延々歌詞カードを読みながら自分の人生を投影していたあの感覚だ。

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どうしてもベース歪みでないといけないのか? 
おれら機材マニアは、こだわりっていうものからインスピレーションを得る。そして楽曲を作る。その意気っていう。自分も、歪みベースについてはさんざんやりました。ベースから音をパラって片方をファズにつないで、片方のドライ音をベースアンプにつないで、ミキサーを使ってローカットして…。「そこまでして」っていわれようが、こうして機材をいじることがとにかく楽しいんだから仕方がない。ある程度それが逃避めいたことであるのも自覚はしているんだけど。

しかし、この人の動画(写真と文字を多用)を見るのは楽しいですね。機材トークももちろんですが、この人は音楽を作ることを、日常の中に取り入れている。地獄の日常から詩をひねり出す、っていうのよりも、冷凍都市であるけども、時たま透き通って見える風景であったりの日常ってものを、見捨てきれないというか、やっぱりこの日常だって美しく見えて、そして機材をいじってるのが楽しい、っていうのが伝わってしまう。機材をいじることは、やっぱり楽しいんですよ。そして、音楽を作るっていうことも、楽しいんですよ。研究するのが楽しいんですよ。この人の音世界の透明な殺伐なのに、現時点での結論それ?と思いますが、この人の作品、音源から見えてくるのが、そういった「音と共にある生活」のささやかな愛しさみたいなものなんですね。まるでルインズ(日本のプログレデュオ。変態変拍子ドラムと歪ベース。この人の音源に一番近い音像かもしれない)みたいな音ですが、どこかに生活日常への目線が紛れ込み、絶望をこの人は日常的に感じながらも、「孤独に音を楽しむ生活」っていうスタイルに、なんか良いなぁ、と勝手に感じているんです。だから「誰をも幸せにしない実験」な音だけをやってるわけでなく、この人はこの人で、音楽を楽しんでいるんだぁ、という風通しのよさがあるわけなんですね。そんなことをまず思っております(たぶん続く)