残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

ラジオヘッド日記2021年冬

零和2年 闇月ラストムーン日

ミュートピアvol.3の準備をしておいた方がいいのに腰が重い。つまり新曲の作曲なんて全然出来ていない状況。ネックウォーマーが欠かせない寒さである。

零和2年 猿月ワンラヴ日

あれ?と気づいた時にはもうすでに鬱に入っていた、というのがいつものパターンである。例によって今回も鬱に入っていた。この年、いつもよりは警戒をしていたが、ヌルっと滑り込むような形で、こころの隙間に鬱が入り込んでしまっていたようだ。

1日のなかで、フートン(布団)に潜る率が高くなる。仕事以外はだいたいフートンで過ごしているような気もする。もちろんミュートピアの準備は進んでいない。

猿月タクシー日

相変わらず鬱が消えない。今回の鬱は「疑心暗鬼」の妄想鬱だ。去年から他人の視線というのをモチーフにした妄想が多発している。あの人はああいう気持ちでいるんじゃないか、とか。あの人も自分を嫌っているんじゃないか、とか。全部妄想である。他人の言葉の欠片からそんな感情を読み取ってしまう(妄想です)

親戚の訃報があった。祖父の妹だ。90数歳で、最近は老人ホームに入っていた。祖父と母との付き合いが時たまあって、先日見舞いに行っていた。それが最後だった。

Radioheadを聞き始めることにした。前から、良さがよくわからなかったバンドである。ブログコメントをしてくださる常連読者さんのご意見を伺ってから、また聞こうと思い出したバンドだ。ちなみに、彼らのアルバムでは、

1st パブロ・ハニー……聞いた

2nd ザ・ベンズ(曲げる)……聞いた

3rd OKコンピュータ……聞いた

4th キッドA……聞いた

5th アムニージアック(記憶喪失者)……聞いた

6th ヘイル・トゥ・ザ・シーフ(ドロボウ万歳)……聞いた

7th イン・レインボウズ……まだ聞いていない

8th ザ・キング・オブ・リムズ(枝葉の王)……聞いた

9th ア・ムーン・シェイブト・プール(月はプールみたいな形してるね)……まだ聞いていない

という状況。和タイトルは自分が勝手につけた。

猿月グリーン日

このラジオヘッドというバンド、OKコンピュータ以降、「バンドサウンド」を念頭に置いて聞くのは、ほぼ間違いのような気がしてきた。むしろ「プロジェクト」として聞いたほうがいいのか?エレクトロニカみたいに。

自分はこの日記においてRadioheadをラジオヘッドと表記する。馬鹿にしているのではない。1997年にOKコンピュータが出たとき、リアルタイムで村上春樹はそれを聞いていて、自身のホームページに、1997年の新譜ベスト3の一角としてOKコンピュータを入れていた。その時にRadioheadを「ラジオヘッド」と表記していたのだ。それを受けてのことである。今となってはどうでもいい話であるし、その後のラジオヘッドと村上春樹の関係性では、もう村上春樹も「レディオヘッド」と呼ぶようになったのだから。

今となっては。
こういう風に、今となってはどうでもいい、という感慨を持てるようになるのは、歳をとっての役得と言えるかもしれない。老害かもしれない。それにもともと、大したことのない話なのでもある。村上春樹がラジオヘッドと呼んだことなんかね。世間の「レディオヘッドは世界でもっとも先進的なバンド!」っていうのにムムーンと思っていて、「自分のバンド」として聞きたいからラジオヘッドと呼ぶのである。こういう意地も、きっといつかはどうでもよくなるんだろうか。

猿月ヴァイオレット日

人のことを考えたくないーっ!と強く思ってフートンをかぶる。このように考えている時点で相当人のことを意識している。「興味ないね」と言いながら実は興味しんしん、っていう図式に似ている。目を手で多いながらも、他人の陰部をチラ見してしまうのにも似ている。そんなに自分は他人を意識する人間だったのか、という驚きがある。

ラジオヘッドのキッドAを聞く。前よりは悪くない、と思えるようになった。でもトム・ヨークのあの歌唱がどうにも頼りなく聞こえる。

猿月ゲルゲル

ミュートピアの手続き第一陣を終える。疲れた。鬱(他人妄想)を飼いながらの作業は疲れる。というか、後回し後回しにしすぎていた。……違う。後回しにすることにより、こころの中で手続きが「重く・大きく」なっていったことが原因である。つまり妄想か。

キッドAを聞く。中盤の、空間的でありながらザクンザクンしたギターが何とも落ち着く。というか、この盤の「どこでも聞いてもいいし、どこでも途中で聞かなくなってもいいし……」みたいな雰囲気が今となってはありがたい。

ラジオヘッドをそういう風(「通し」で聞かない適当な聞き方)にして聞いていいのか?とも思うが、今の自分にとってはそういう聞き方が有難いんだからしょうがない。だいたい、こういう自分を非難する奴らは、ラジオヘッド呼ばわりをする時点でキレてくるだろう……という妄想をする。だいたいこんなことばかり考えている。これが妄想だ。誰も言っていない非難を自分のなかで反復する、生産性のない行為だ。

猿月ニョッキ日

「アムニージアック」を聞く。眠い日。

猿月レベッカ

「アムニージアック」を聞く。そういえば猿月タクシー日の日記でちょっとだけ触れたが、その日、親戚が亡くなっている。自分はこの祖父の妹の老女氏のことを知らない。以前から家族での話には出ている。それくらいの話だ。だのに、妙にこの老女の死で、自分の感情がふわふわしているところがある。よろしくない、ネガな感じにふわふわしている。また他人の死に引きずられたのか? 自分は老女を悼むほどの付き合いをしてこなかったくせに。

猿月ドゥーム日

Adoの「うっせえわ」を聞いた旧ボカロ世代は共感性羞恥を抱いていたたまれなくなる、過去の黒歴史を思い出して恥ずかしくなる、という話を聞いて、ひそやかに腹が立つ。作品が悪い・恥ずかしいのではない。おまいさんの過去自体がよろしくないのではないか。いや、むしろそれを恥じるおまいさんの「今」が逆に卑屈に鬱屈しているのではないか?「こういうの若いころは聞いてたよね、あははw」というおまいさんの話をしている。おまいさんの過去を否定するのは、おまいさんの個人意志でもって否定するのが筋だろう。作品が悪い・恥ずかしいのではない。確かに作品が誘発する感情はあるだろう。しかし作品そのものが悪い・恥ずかしいのでは決してない。作品のせいにするな。自分のせいにしろ。それが自己否定者の筋ってもんだ。

同じようなことはネット(とくにSNS界隈)で良く見られる「例の漫画」っていう言い方にもある。これはnoteというサイトで投稿されていた、てつなつ氏の「3人でゲーム作るまんが」という作品に対する議論に基づく言い方だ。この言い方にも自分はひそやかに腹を立て続けている。

作品を語る際には、作者名とタイトルをきちんと言え。「例の漫画」と言うことによって、コメント者としての自分を「名無しさん」みたいな匿名化をするな。自分の傷は自分できちんと言い、表現しろ。作品に自分の傷を仮託するのが悪いってわけではない。それこそこの引用魔人たるわたしもよくすることだ。でも、だったら、作品への敬意として、ちゃんと言及をしろ。自分の名前を言え。そこで自分から引くな(匿名化するな)。つまり、傷つけてきたあいつらへの「当てこすり」をするな、という話である。おまいさんの敵はおまいさんが引き受け、対峙するものだ。敵が自分だったとしたら……しても、それでも、やっぱりおまいさんが引き受けるもんだ。殴るか引くかはおまいさんの自由だ。わたしの知ったこっちゃない。わたしはおまいさんの卑怯さを恥ずかしく思うだけだ。

……ということをSNSを用いて発言していたら、自分は長文ツイート連投して、これまた良くないことになっていただろうな、と思う。炎上云々よりも、鬱にまみれている自分の治癒が遅れるっていう意味で。

そもそもこういう風に腹を立てている時点で、妄想いまだ巣くい中、ってところである。なのでアムニージアックを聞く。フートン。

猿月セブンスヘブン日

いい加減手を動かせ……と自分でも思う。でもフートンからあまり出たくない(腰が痛い)。アムニージアックの音がとても納得がいく。落ち着く。体感として、最低限のところで、「安心」という糸で編まれた、なんかのスパイダーネットでキャッチされている感覚がある。どこまでも鋭く落ち続ける、っていうのではなく。だからこの数日これをずーっと聞いているのだと思う。これはLo-Fi HipHopの聞き方にちょっと似ている。

少しずつトム・ヨークの歌が「うん、これもこれで、有ってもよいものだな」と思えている自分がいることに気づく。前は妙に卑屈っぽくとろ~ん・にょろ~んとした歌い方する人だな、と思っていた。そんなに自己破壊と自己憐憫が好きか、みたいに。わたくし自身を棚に上げて。

詩人としての力量に疑問があるわけではない。あるいは、妙に自分の暗部に近しいものがあった同族嫌悪だったのかもしれない。なるほど、「うっせぇわ」に共感性羞恥をする若者たちも、それはそれでキツかったのかもしれない、と若干思った。(でもやっぱり彼らの態度はよろしくないと思うよ)

猿月ワイルダネス

なんとなく、ミュートピアの準備をしてみようと思った。少しでも気分が「落ちて」きたり、体調が悪くなったらやめようと思いながら。最初の一個、最初の一個だけでいいんだ。そう思いながらチップチューンやLo-Fi HipHopのMIXを垂れ流しながら作業、作業。

……そしたら、妙に作業が進んでいた。えーっ、意外なほどに進むな!と。結局、この日と次の日で、ミュートピアの用意の大体のところ、8割が終わった。最低限作るべきもの、用意するものは出来上がり、あとは最終チェック、ブラッシュアップ、データのアップロードだけ、という状況にまでなった。えーっ。今まで何をしてたんだ、っていうかあの「重い・大きい」と思っていた作業量は……アッハイ、それが妄想ですね。

猿月リバー日

昨日書いたように、このリバー日で大体の作業をし、作業量の終わりが見えてきた。通常だったら気分がアガりまくるところだが、意識してそういう風に躁っぽくならないようにする。

目の前のひとつの作業に集中する。「しっかり」やろう、とする。一歩一歩でいいんだ、とする。

今まで自分は、気分の波に乗る形で、「キターッ!」となった時の波の威力を用い、一気にこれまでの遅れ分をマクるやり方でやってきた。それで結局なんとかなってきた(ならなかったものもあった)。

今回は、そのやり方を根底から反省して、一歩一歩の地道な努力を続けることにした。この時、「努力」と書いたが、努力は「少しずつ積み上げていく」というニュアンスにするようにした。「義務」という観念を頭から排するようにした。

何も考えるな、目の前のものを一個やれ。今はそれだけを考えろ。

頭の中で、ラジオヘッドの「Let down」がずーっと、ずーっと響いていた。「OKコンピュータ」の中盤の曲だ。

www.youtube.com

自分の人生で、時たま、この曲がどうしようもなく頭の中で流れる時がある。それはだいたい、心が虚無的になってきたときだった。ラジオヘッドが凄い好きでもないのに、この曲が頭の中でリピートしてやまないときがあったんだよ。

でも、今回はちょっと違うかもしれない。

猿月レポート・オブ・リメンバー日

鬱が良くなっていっている。

「The king of limbs(枝葉の王)」を聞く。ちょっと前に自分は、「あまりラジオヘッドをバンドサウンドとして聞かなくても良いのではないか」と思っていた。でも今となっては、彼らの神経質な変拍子バンドサウンドが、妙に心地よい。彼らのバンドとしてのポリリズムが、何かを前に進めていきそうな心地になっている。

その時に唐突に思う。彼らはずーっと、創作の日々を続けていた、ということを。

ラジオヘッドはとくに、公式で長期活動休止期間というものを設けていなかったと思う(たぶん)。各バンドメンバーの個人活動はあっても(トム・ヨークのソロ、ジョニー・グリーンウッドの現代音楽作曲家活動など)、長期のバンド活動の休止はなかった。あっても1年くらい?これだけ実験的なことをしているバンドなのに。

つまり、彼らは自身の音楽性の実験性、探求性に飽きてはいないのだ。

コメントで、常連さん(カナリヤさん)が、ラジオヘッドの楽曲「Daydreaming」の感触について、仰ってくれた言葉を思い出す。

これは救いなのだろうか。救いとはこういう形をしているのだろうか。きっとそうなのだろうな。こう在りたいと願うんだろうな。こういった息苦しさ、焦燥感を具現化したような音像を彼らはずっとつくってきたのでしょう。こういう音像が彼らの軸なのだと思い至り、そしてそのことにとてつもない心地よさを抱いてしまう。そうなってしまうといよいよ僕はもう彼らを無視できません。

(中略)ただ僕が音楽に求めていたであろう意義をRadioheadは最初から携えて変わらず佇んでいてくれた。時に暴力的に。時にシニカルに。時に耽美に。そこがブレることがない限り、きっとこれからも彼らの足跡を追い続けて行くことでしょう。それが今から楽しみでなりません。

これは9th「ア・ムーン・シェイブト・プール」収録楽曲についてのお言葉だ。つまり、ラジオヘッドは昔からずっと、バンドを、創作をやり続け、それに飽き足らずにもっと、もっと、という日々を続けていた、ということになる。

彼らが「OKコンピュータ」を作り上げたとき、あるバンドメンバーはガールフレンドに「俺たち、凄いことをしちゃったんじゃないか」と電話した、というエピソードを前に読んだことがある。実際すごいことをしたわけなんだが。それは本当に「天啓」みたいなことだったんだろう。

でも、彼らはその後も作り続けた。一作ごとに違う音響実験、リズム実験を行っている。

今まで、自分はオルタナ者として、「レディオヘッドはいわゆる実験的、先進的バンドだから、その音楽的態度にリスペクトをする」という立ち位置だった。しかし愛好はせず。

今はむしろ、彼らの「毎日の音楽生活の営み」に興味がある。彼らは彼らで、一歩ずつ歩んでいった「音楽愛」のバンドなのだと思う。ラジオヘッドはいろんな音源をホームページにupしていることで知られる。バンドキャリアの早い段階からそうしてきた。今、わたしはそういう「音楽生活」をしているラジオヘッドのことが、とてもうれしく思う。

彼らの音の実験は、ただの実験で終わっていない。日々を良くするための、一歩一歩の毎日の楽しみとしての音の探求であるのだ、と思う。その音のアプローチから見えた、何らかの美というものを、楽曲として結実させているんだ、と。「トムヨークが曲を書いたからそれを実験的にアレンジして、はいレディオヘッドだよ世界の最先端!」という安易さではないのだ。彼らは毎日を、音楽で楽しみながら、楽曲を作り上げている。ああ、これがラジオヘッドというバンドだ、とそのとき、ようやくわたしは理解したのです。なんて理想的なバンドをやっているんだろう、と思ったものです。

ミュートピアの準備は順調に進んでいます。

猿月ポエティカル日(ミュートピア前日)

やれるだけのことは全てやった、と思う。少なくとも、準備のひとつひとつを丁寧にやった。各項目で、これ以上レベルを上げることはもちろん可能だけども、それをやるには実際にあと最低でも5日はかかる。これが現時点のベストな準備だ。

確かに、もっと前から準備していれば、そのベストには到達したかもしれない。けれども思う。この一週間ちょっとを、確実に一歩一歩進められた手ごたえというものが、何よりの報酬だ、と。その手ごたえがあるからこそ、今こうして、静かに喜びを感じられている。

これが同人活動の喜びだと思う。どれだけCDが売れたか、ではない。音楽生活を営み、その中でベストを尽くせたか、という話なんだと。そうか、自分は音楽のために努力をしてきたんだな、と今さらになって思い出す。それは誇ってもよいことなのではないか、と。

別に自分がラジオヘッド並みだ、って言いたいわけじゃない。そんなわけがない。でも、ラジオヘッドの音楽活動の日々というのが、今はとても尊敬できる。その結果として、ああいう音像がある。そのことが了解できた。

一歩一歩でいいし、不才の自分にとってはそれが限界でもある。でもその一歩一歩は確かにこうして自分を鬱から救ってくれたのだ、ということが、何より確かな事実である。今となっては、「一気にマクる」よりも、一歩一歩の価値・楽しさというものが、手作業を通じて、それこそ文字通り「手に取るようにわかる」ようになった。それで充分だ。

他人はどう思うだろうか……ってことをあまり考えなくなった。そういえばそうだ。

猿月、最近

ミュートピアは良いイベントだった。いろんな方が自分のサークルスペースにわざわざ足を運んでいただき、和やかにお話をすることができた。ありがとうございます。「他人はわたしを悪く思っている」という妄想はなんだったのか(明らかに妄想です)

 

ラジオヘッド、という名前について思う。ラジオは電波を受信する機械だ。受信する頭。

芦奈野ひとしヨコハマ買い出し紀行」に、「見て、歩き、よろこぶ者」という言葉(概念)がある。この物語の通奏低音になっている。

ラジオヘッドのメンバー、バンド活動の毎日も、それに近いものがあるんだろう。彼らはこの世界のいろんなもの……音、光、美、自然、人工、鬱、闇、そしてまた音、そういうものを、やたらめったら受信するんだろう。彼らの好奇心、実験精神っていうのはそういうことなんだと思う。

それは「センス」というものなのかどうか。彼らにしてみたら、「それは単なる頭なんだよ」と言いそうな気がする。5人の頭、がそれぞれ見て、聞いて、考え、歩き、よろこぶ。それはセンスというよくわからないものとは、別のものだと。どこまでも彼らの日常、音楽生活に根づいている、ただのラジオヘッド。

何回も書いたけれど、今は自分は、彼らのその自然さ、日常性、そしてそれが故の音楽生活の喜びというものに、とても尊敬を覚えている。自分もそうあれたら、と思う。時代の先端がーとか、音楽的実験性がー、とか、それよりも。もっとラジオヘッドのことを知りたく思う。彼らが受信した音のことも知りたい(どういう音に影響を受けたか、ということ)。彼らのラジオから発信される音を聞いていたい。

強く思う。音楽生活を営んでいたい。音を聞き、レコーダーでMIX、編集し、曲を作る。ホームページを整備し、世界観を説明し、たまにイベントに出る。CDやカセットがここにある。こういう音楽生活を、ずっと続けていきたい。

傍目からは何も変化がないように思えるわたくしのこの数週間であったと思うけれど、あるいは……。いや……まだわからない(と、思う)。とりあえずは、こういう風に自分はこの日々を過ごしたのですが。

ありがとう。