残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

芸術と他者と幸福について

●しあわせもの

「うわ……そうか……なるほど、こりゃないわ」
と、己の才能の無さを骨身に染みて納得してしまった一人の作り手が居たとします。

ところがそいつは、才能が無いのを主観的にも客観的にも痛感、そしてしかと認定してしまったのも関わらず、それでも未だに作品を続けてしまっているのです。その作品を、ただ作るのが好きだ、っていう純粋な精神だけがそこにある。

わたくし(この文章の筆者)は今になって、このような作り手が、(いわゆる)才能を超えた、本物の才能(?)を持っているのだと思うような芸術観を持つようになりました。これで良いのだと。芸術活動っていうのは、本質的にこれで良いのだ。

それでは価値なんてないし社会的意味もない、っていう指摘があるのももちろん存じています。そしてその価値観を否定もしません。ただ、わたくしにおいてのみ、「他者価値が幸福なのだ」価値観は、「not for me」な価値観である、とだけ言います。そこで話はおしまい。お互い頑張っていきましょう。

 

●才能と自然さと他者

上記で述べた「(いわゆる)才能」、っていうのは、他人に認められる、社会的・商業的価値のある「才能」です。
上記の作り手が「ないわ……おれ」と痛感した才能っていうのは、つまり「社会的にはレベルの低い作品しか作れない才能」っていうことです。

そして作り手が「それでも」と思うにいたった、あまりにも不屈すぎる精神、作品への動機。これが上では「本物の才能」と表現しましたが、これは、見方によっては単に「諦めない精神、豊富すぎるモチベーション」と言えるものかもしれません。

その見方に立てば、「才能」ってやつは、天与のセンスの部分に属するものである。モチベーションの多い少ない、持続力の長短は、所詮個人のエネルギーに属するものだろう、ってされます。そう、1年くらい前まで、自分もそう思っていました。

でも、今はこういう、あまりにも諦めない作り手の、他者の目線を排除した、己のうちをどこまでも追及していって、己が作り続けることが最大の報酬となっている自己完結型の作り手の在り方そのものを、自分は「真の才能」って呼びたいんです。あくまでfor meな定義であって、他のひとに強制するつもりもないです。説教だってしないです。

 

そういう在り方は、どうしたら至ることが出来るのだろうか? 自分のこの数年間は、「そういう在り方」をずっと追い求めての旅でした。いろんなものに手を出して、いろんな考え方に頭を染めて。続いたものもあり、三日坊主に終わったものもあり。これはつまり、幸福を求めての思索と試作の旅です。

なんとなく分かってきたというか……長い間棚上げにしてたものをもう一回掃除し直したというか。あるいは長い間放っておいたものだったのにも関わらず、まだ君は待っていてくれたのかい、っていう涙の抱きしめだったりして。そんな感覚を35歳の今味わっています。

 

誰にとってもそのまんま当てはまるわけではないですが、試してみる価値のあることとして、

・昔から何だかんだずーっとやってきている事。これを、一度落ち着き、整理し、精度を高めて丁寧にじっくりやってみる

・他人の評判はどうあれ、自分にとってすごく使いやすくて、今なお触っていて楽しい機材。これの使い方を完全にマスターしてみる。

 

つまり、自分にとっての自然さを大事にする。「無理をしない」ってことです。自分にとっては、模型やブロックで箱庭遊びをすることと、MTR(マルチ・トラック・レコーダー)で作曲をすることでした。

 

作曲の方を話してみますか。

自分は、ミックス(ミキシング)はともかく、ゼロから自作曲を作曲するとき、MTRを使います。パソコンとDAWソフト(音楽制作ソフト)を使っての作曲(MIDI作曲法)が今は一般的なのは重々承知です。自分のスタイルは15年ほど遅れていると思う。ただ、自分にはあまりにMTRが肌に合うのです。

MTRの良い所といったら、まず録音の音質が一気にダイレクトに上がるところ、フェーダーを使ってのマルチトラックの音量調整がとてもやりやすく、「音の重なり」としての曲構成が把握しやすい所、PC特有のデジタルノイズやデジタルシンセのレイテンシ(遅延)とは無縁のところ、あとスタンドアロンで動作するから安定していること、とかいろいろありますが。

zoomcorp.com

とくに自分はZOOMのR8という機種を愛用していまして。これは本当最高の機材なんですね、自分にとって。録音や内蔵エフェクトの操作はほとんど把握しているので、手足のように使えます。目を閉じても使えるかどうかはわからないけど、目を閉じて録音するシチュエーションには現在なっていないので、リアルにまじめに考えて、とにかく自分はこの機材の使い方に「fitしている」。機材が自分に合わせてくれてるのでなくて、自分が機材にfitしているw

ところで最近、自分の曲のドラムがイマイチだと自分で思っていたんですね。これまで、ほとんどドラム音源のPAD手打ちと、バケツをバスドラに見立ててボスボス原始人のように叩くやり方でドラムワークを録音していました。

しかし最近、ドラムマシンを使ってドラムを打ち込もうとしたのですね。このあたり、ここ15年くらいのトリックフィンガー名義のジョン・フルシアンテのエレクトロ音楽の作曲法を参考にしてるんですが。あまりドラムをナマっぽくバシバシやるよりも、もっとドラムマシンやシンセでビートを定型的に刻んで、グルーヴを「揺らす」のはベースやギター、キーボードでやっていこう、っていうアプローチ。ということで改めてドラムマシンのハードウェアでドラム打ち込みをやっていこうとしまして。

そこで気づいたのが、このZOOM R8には、ドラムマシンとPADサンプラーが内蔵されていて、自由にシーケンスを組んでドラム打ち込みが出来るのですね。これまで、この機能をまるで使ってこなかったのですが、いざそれを試してみたら、極めて自分のとってやりやすい!ああやっぱりR8最高や!って話なんですが、かなり機材オタトークになってきて、「才能」話からズレてきてるのでここで戻りますw

 

●「幸福に生きよ!」と言う以外どう言えばいいんでしょうね

つまり、すべからく芸術というものは、まずはじめに・かつ最終的に、作り手の幸福のためにあるべきものなんだ、っていうのが「自分の」考えです。

じゃあ受け手たる他者はどうすれば良いのか、っていうと、良いじゃんかあなた、作品に触れて良い気分になれたんだから、って話です。

イマイチな作品が自分を崇高な高みに昇らせてくれんかったからって、それはそのときあなたにとって「not for me」が発生しただけであるというか。

でも作り手の幸福のお裾分けをもらって、まずそこで良い感情が生まれたんなら、それなら「ありがとう」ですよ。その「ありがとう」を世間に表明するのも全然悪いことではないですが、それより前に、まず自分の生活を、その作品をずーっと思い返して、気分良くするってことが、「惚れたファン」のやるべきことなんですよ。そしてそれは、まっとうに人生を生きてる人たちは誰もがやっています。

わかりますよ。「救い」を求めたがるっていうのは。作品の崇高性とか絶対性ってやつ。そういう芸術上の神秘体験があったからこそ、今の自分自身がある。でもそれなら、やっぱり自分の生活の機嫌をとっていきたい。

少し話はズレるんですが、芸術作品を他人とのコミュニケーションのネタとして使うっていう考え方、これもわたくしにとって「not for me」なんですよね。まっこと嫌いといっても良い。最近、「鬼滅の刃」あるじゃないですか。あれが異様なヒットになっていて、鬼滅を見なければ(読まなければ)ダメだ、世間に取り残される、っていう風潮が一部であるらしいんです。極めてくだらないし、作品と作者にとって失礼すぎる話であります。「社交ネタ」として芸術を使うっていうの、わたくしまっこと嫌悪しているんです。「みんな見ているんだから君も見なくちゃダメだよ~」式の言葉って、最高にわったくし嫌いなんですよ。

受け手にとっての、「おれの芸術はおれのタイミングで読ませろ」、っていうのは正しい感情であると思います。おれの楽しみはおれの楽しみなんだ!!っていう。本当にその通りです。「おれの楽しみ」の中に、いくらか「社会の楽しみ」が数パーセント混じるのはやむを得ないとして、しかしおれの楽しみが「社会の楽しみ」に塗りつぶされることがあってたまるものか!断固としてわたくしはそれに抗っていたい所存です。なぜならば、自分は鬼滅の刃の原作を3巻まで読んで、「良い漫画だ」と思えたからです。自分は、社会の力なんぞで、自分にとっての「鬼滅の刃」を、嫌いになりたくない。鬼滅をめぐるこのうんざりする同一化風潮なんぞで、鬼滅の刃という優れた漫画を嫌いになりたくない。

 

そして話は一気に戻りますが、この受け手の「おれの楽しみはおれの楽しみなんだ!」っていうのが、作り手にとっても全部言えるんですよ。作り手は自分にとっての「価値」ってものの為に創作しています。その価値って何よ?っていうと、まぎれもなく「作っている時の楽しさ」と「作り終えた自分への拍手」ですよ。特に前者の「作っている時の楽しさ」っていうのは本当に楽しい。それも、自分にとってとても自然なテーマを、自然な手段で作っている時。わたくしは例えばブロックで箱庭を作ったり、MTRで音を重ねたりしている時です。これは自分にとって自然。

でも、ここで例えば「ブロックよりももっと精密なものを工作せねば社会から評価されないぞ!」とか「MIDIを使って完成度を高めなければ笑われるぞ!」みたいな他者妄想が入ってきたとします。もう基本的にはこういうの排除したいですね。自分ひとりでもこういった妄想のささやきが聞こえてくるのですから、他人が言うのはもっともっと排除に越したことはない、っていうね。

つまり、それくらい、わたくしも作り手として、ずいぶん劣化してしまったものです。子供のころから、あるいは作曲をはじめた頃から。つい他者というものを考えてしまう。そしていつしか他者の評価とか「いいね!」みたいな不純物を創作活動の中に入れてしまう。情けないですね。心が弱っているのでしょう。

だからやっぱり、日ごろの創作は何をさしおいても、「自分の機嫌をとる」ってことを第一にしたいんですよ。何かのハードルを設定するもの良いですが、それはあくまで、挑戦(と書いてチャレンジと読む)という清々しさを味わって機嫌をとる、ちょっとしたイベントのようなものですし。そしてその挑戦でも、やっぱり挑んで機嫌がよくなり、成功して機嫌がよくなり、失敗しても機嫌がよくなる、ってものじゃなくちゃダメです。

つまり創作、芸術を創作する、っていうのは、自分の機嫌をとるって行動なんです。それをずーっと続けられるシステムを、生活上でも、精神上でも、築き上げることが出来たしあわせもののことを、「才能」って呼ぶ。今の自分は、そう考えています。

じゃあ「社会的価値」に基づかざるを得ない作品の価値(勝ち)……芸術界におけるランク、商業における金銭価値、承認欲求と多くのファン、みたいな様々なファクターはどうなのよ、って話が当然出てくると思うんですが、「皆さんその話をしすぎだから今こんなことになってるんじゃないですか?」っていう話です。まず落ち着いて、自分の趣味の創作を存分にしてから、時間と精神の余裕があったらそういう話しませんかほんと(この文章は昼間、MTRでベースギター中心のリフを1個作って、部屋を掃除してから書いています)

 

だいたいこういうあたりで、自分は芸術とか、他者と承認欲求とか評価とか、っていう話題について、落ち着くことが出来たんです。考えて考えてやっとこれでした。長い助走・準備期間だったナーとは思います。もうちょっと短縮も出来たんじゃないか、って言われたら、ウーンごもっとも、もっと創作そのものをバッシバッシすべきだったー、っていうのはあります。じゃあそれはこれからバッシバッシやっていきますから、とお答えもします。

あ、芸術上は他者を無視れ、っていう自分の考えですが、これを実生活においても他者を無視りまくれ、っていう風に誤解されても困ります。はい。むしろ創作をしまくって、機嫌悪くなって、実生活でイヤな人間になって人を傷つけていたら、やっぱりその創作はなんか間違ってるんじゃないの?って思いはします。

機嫌良く生きて何が悪い?って話です。それが芸術上のヒリヒリさを減じさせているのだ!っていう批評家の言葉ですが、「あ、なんか猿が日本語らしき声を出してるね」と思っておけば良いんじゃないかと。ただ、「自分の機嫌の良さが、世界にあまねく通じていくのだ!」っていうのも頭がお花畑でありまして、こちらもこちらでやはり猿であります。自分は自分。他人は他人。そして自然は自然。花も木も自分のためには生きていません。そんな自分・他人・自然の相互孤絶状態という世界の真理を、寂しくてつらいと思うか、「へー、君も生きているんだ、なかなかおもろいやんけ」と思うかどうかは個人個人次第ですが。ただ、「面白み」を見出せて退屈しないのは、後者ですよね、って話です。多分話していないことあると思いますが、まあだいたいこの路線上の話です。また思いついたときに書きます。

Feedback Guitar Noise Symphony is writting Daydream World Diary

この記事は、オルタナ音楽・ノベルゲーム感想ブログ「Nothing is difficult to those who have the will」管理人・カナリヤさんへの、以下の記事への返歌です。

 

mywaymylove00.hatenablog.com

 

●ノイズ音楽と筆者の履歴

わたくし(筆者)がノイズに意味を見出すようになったのはいつからだっただろう。ソニック・ユースのアルバム「デイドリーム・ネイション」を聞いた時か。ナイン・インチ・ネイルズの「ダウンワード・スパイラル」を聞いた時? それともピクシーズの「Vamos」のジョーイ・サンチャゴのチェーンソーギターノイズインプロを聞いた時か。
それらは自分が学生時代だったころ、音楽を聞き始めて半年で立て続けに起こったことなので、どのエピが最初かもう覚えていない。言えるのは、この時期に立て続けに「ノイズ音楽」を聴きまくったということ。
そのうちのひとつに、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインシューゲイザー・ノイズ音楽があった。

ところで、はじめ、自分にとってノイズを聞くことは、「先進的」な意味合いを持っていた。
なにせ、それまで聞いていたのが、ポップスやダンスミュージック(ユーロビートからトランスにシーンが移行しようとしている時分)ばかりを聞いていて、カナリヤさん曰くの「強度」の高い音楽ばかりを聴いていたのだ。この場合、強度とは、美メロとキャッチーなリフ、そして定型のリズムセクションだと、自分は解釈している。変拍子とかはないって話。

それらの音楽を、半ば決別(黒歴史)するような形で、ノイズ音楽表現を聞く事に行った。背伸びをしたかったのかもしれない。そういうお年頃であった。
しかし、背伸びだけで音楽趣味ってものは続くものでもない。自分が今に至るまでノイズ音楽を聞き続けているのは、この半年のうちに、ノイズの聞き方を会得したからだ。

ノイズは、ただのノイズではない。
そこには音楽的志向性の違いというものが歴然としてある。

疾走するノイズに、不思議な爽やかさを感じたり。切り裂くようなチェーンソーギターの唸りに、どんな流麗なギターソロよりも「英雄性」を感じたり。
やがてノイズに、世界そのものを見出すようになったり。

 

(完全な余談)

自分の家業は、職業柄、非常にノイズ(騒音)と共にある仕事であります。日がな、そのノイズがキツいなー、と思っていました。
たまたま、自分がソニック・ユースのアルバム「ソニック・ナース」のノイズ部を聞いていた時に、自分のマーマン(母君)が自室に入ってきて、

母「なにこれ」
残「音楽ですが」
母「どう聞いてもノイズなんですが」
残「音楽です」
母「これが大丈夫なら、仕事のノイズも音楽に聞こえるのでは?」

という問答がありました。
しかし違うのですよ。騒音のノイズと音楽のノイズは……w
閑話休題

 

●デイドリーム・ビリーバー

マイ・ブラッディ・ヴァレンタインをはじめとする「シューゲイザー」系のノイズ・ロック音楽。
シューゲイザーの沼に浸かった人間は、このノイズに美と意味を見出す。
しかしそれは言葉にし難い。あまりにもし難い。むしろ絵やCGにしてしまった方が、ノイズの意味を表現できるような気がする。

思うに、シューゲイザーはノイズで「世界」を表現しようとしている。それも、現実のリアルの引き写しでなく、現実から離陸する白昼夢の世界を。流行りの言葉でいう、異世界と言っても良い。
シューゲイザーの世界。それを現実逃避と言う向きもあるかもしれない。だがそれにしては、彼らがギターとエフェクターを使って極めて意識的に音を構築している様は、ほんとに「逃避」という言葉が似つかわしいのだろうか。
むしろ、彼らは現実から決断的に「離陸」しているのだ。リアりティでもってビートとリフを鳴らす音楽世界とは別のものを求めて。
そういう意味においていえば、カナリヤさんの友人氏の「BGM」というマイブラ評価は、ポジティヴに牽強付会すれば「この音楽は何かの世界を描いているようだ」という感想にもとれなくはないだろうか。

アンビエントというジャンルがある。静謐の中に世界を作る音楽。BGMという標語はこちらのジャンルに近い。
で、シューゲイザーアンビエントは非常に親近性のあるジャンルで、ほとんどノイズがやかましいか、やかましくないか、だけの違いかもしれない。
音楽要素の強度……メロディ、リフ、リズム。それの強度のみを追求する音楽とは、別の音がここにあることがわかる。
響き。揺れ。音のサラウンド。ざ……ざん……残響って言葉がありますけど、響きの残りし空間に、意味と美の存在を信じる音楽ジャンル(筆者は言ってて面はゆい)

つまり、シューゲイザーを聞くことは、音(響き)のただ中に居て、即ちその音の「世界」のただ中に居ることになる。
別に他の音楽でもそういう白昼夢トリップはしばしば起こることではあるけれど。とくにこの文章の筆者は、どんな音楽でもそのトリップを求めてるのだけど。しかしとりわけ、シューゲイザーアンビエントというジャンルは、そのトリップを意識的に行おうと企て、実行に移そうと強く考えている。

シューゲイザーは甘美なノイズで白昼夢トリップを。アンビエントは静謐の響きで異世界トリップを。
そしてここから、ドリームポップの話をする。

 

スピッツ、ドリームポップ、日記音楽

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シューゲイザーの祖先というか、どうしようもなく遺伝子要素として持っているのが、「ドリームポップ」である。ぶっちゃけ、シューゲイザーからノイズを抜かしたら、だいたいドリームポップになるんだと思う。

ドリームポップは音楽史のどの瞬間にも居た。ビートルズの昔から。あるいは一部のジャズもそう捉えることは可能だし、それより古い懐メロスタンダードナンバーだって。さらに遡って、クロード・ドビュッシーのように、西洋クラシック音楽の中にもドリーム・ポップ性を見出せる音楽はある。

白昼夢トリップを誘発するような音楽。甘いメロディ、揺れ揺れな音。しかしノイズや強靭なビートではない。ここではドリーム・ポップを簡単にそう定義する。

スピッツ
彼らは初期において「和製シューゲイザー」と呼ばれたことがあった。ネットでもそういう評価は見ることが出来る。
だが、マイブラほどの轟音ノイズの壁はない。「ライド歌謡」というスタンスを自覚的にとったこともある彼らだが、ライドほどもないのではないか。しかし以下の音源の「揺れ」っぷり、シューゲイザーを通過した耳で聞くと、結構また違って聞こえるものであって。

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それでも彼らの一部の曲(とくに初期。1st~3rd)に、シューゲイザー要素はやはり、ある。彼らの音楽がドリームポップであることは今さら言うまでもない。そしてもう一つ、シューゲイザーを使った「日記文学」的な音楽アプローチを彼らはたびたび見せる。


今世紀になって、DTM技術の進歩により、パソコンひとつあれば、個人が自室で多重録音をすることが可能になった。いわゆるベッドルーム・ミュージック、宅録だ。
そして全世界の一部の者たちが、ベッドルームの自室でシューゲイザーをやりはじめた。
自分のこころが見た心象風景を、ノイズに託して表現する、孤独なシューゲイザー。生活の中の色彩、大切なもの、光と影、屈託。そういったものを、ノイズで表現しようとしてみる。同時に(いわゆる)美しい音でも表現する。
その日記文学としての音楽といおうか。かつてのロック音楽のような、大きなスケールで世界に鳴り響け、じゃなく。自分の生活にそっと寄り添うような日記としてのシューゲイザー。そういうことをする音楽家たちがどんどん出てきた。「彼らのような日記音楽家」が紡ぐようなシューゲイザー、それはスピッツの音楽のようなものだ、と、強力な例示として、自分には思える。

シューゲイザーファンが全員ドリームポップファンになるとも限らないけれど、ことここに至ったら、ノイズすらまた絶対ではないのだ、とすら思ってしまう。ちょうどロック愛好家が、フォーク音楽に、何かを見出してしまったかのように。
……と、それはシューゲ話からズレてしまうからここで止めておきたい……けど……ごめんもうひとつ。
ノイズ沼は、ひょっとしたら「ノイズの強度」競争に行ってしまいがちである。でも、やっぱり自分はノイズを使った白昼夢トリップこそに意味があると、(自分にとって)思っています。

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●「さぁ、やっていこう」と思えた君の行く世界には、何一つ苦悩なんてありはしないだろう?(Nothing is difficult to those who have the will)

シューゲイザー
自分は、「時間性のない音楽」だと思う。世のトレンドとは全く無縁。白昼夢が世の流行とは全く無縁なのと同じ意味あいで。
自己の精神の深淵に入っていく日記文学が、本質的には世の流れといささか異なった所にあるのと同じように。

時間性がないだけに、誰もが通過する音楽でもない。だから、ある意味奇跡的なのだと思う。シューゲイザーとの出会いっていうのは。
……そう、誰もがノイズに意味を見出せるだけの耳を持ってはいない。偉そうな書き方になるが、仕方ない、しょうがない事実であり。


ところでこう思うのです。ノイズに意味を見出した者は、ノイズと仲良くなるべきなんだと。ノイズ強度競争でもなく。シューゲイザー古参ファン競争でもなく。
で、この文章の論理でいくと、ノイズと仲良くなるってことは、白昼夢世界と仲良くなるということで。そこは、我々もう出来てるからええねん。

 

要するに自分はカナリヤさんがまぶしいんだな。かつてTHE NOVEMBERSを上手く消化できなかったけれど、様々なものを通過され、こうして今再びTHE NOVEMBERSを聞いて、彼らや、シューゲイザーの豊穣なる世界に今まさにドップリ浸かってる、氏のこの瞬間が。だってそれこそが音楽の愉悦そのものじゃないですか。氏の前にはシューゲイザーが広がりすぎてる。

 

ノイズ(白昼夢世界)と仲良くなるってことで……日記文学としてのシューゲイザーやドリームポップを通過するってことを踏まえると、どこかで今の自分自身の生活を愛しく思えたら良いですよね、って思う。この世界にはいろんなノイズが満ちていて、それが世界の響きであるとも言える(全部じゃないけど)。
美や意味を見出すのは自分自身だって話です。萌えと同じように(強制される萌えは苦痛であります)。我々はシューゲイザーを奇跡的に見出したのだから、できない話じゃない。
色眼鏡、そうか、色眼鏡か、シューゲイザーの白昼夢は?
けれど、世界が色眼鏡で違った風に見えたら、それはとても良いことではないでしょうか。世界に意味を見出すっていうのはそういうことなんだと強く考える。

かくして招待状を受け取ったからには劇場に行かねばならねぇな!--At the Garret×欠陥オルゴール「Invitations to Black Theater」

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atthegarret.web.fc2.com

原作・イラスト:兎角Arle(欠陥オルゴール
作詞・作曲:霧夜純(At the Garret
歌唱:鹿伽あかり・桃羽こと(At the Garret)

●今回の先行シングルの仕様

漆黒の招待状が届きました。

 

物語音楽同人サークル・At the Garretの2020年秋M3新作は、同人サークル・欠陥オルゴールとのコラボレーション作品です。
今作は、次(2021年春開催予定)の同人イベントで頒布予定のアルバムの先行シングルという位置づけです。

さて今回、自分はAt the Garret公式通販(Booth)で、ダウンロード(DL)配信ではなく、限定生産の現物媒体を予約購入しました。
「盤(CD)」ではありません。DLコードのついたカードです。

同人即売会において、CDを頒布せず、DLコード&パスワードが記されたカードを頒布する形態も、今は普通になりました。
しかし今作、こだわりが凄い。「粋(イキ)すぎる!」カードの装丁なのです。

どういうものかというと、上記写真のように、黒い封筒に今作シングルのタイトルが金色文字で記され、封はによって閉じられているという凝りっぷり。
もちろん封筒の中には、DLコードが記されているカードが入っていて、これが歌詞カードを兼ね、イラストが描かれています。

この粋で上品な装丁の設(しつら)えは、まさに「好きな事を好きなように表現する」同人創作そのものです。
しかし今作、真に素晴らしいのは、この装丁が伊達ではなく、作品内容と密接に同期リンクしていることで……

●#1「Invitations to Black Theater」

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壮麗なストリングスのリフをバンドサウンドが支え、ピアノの旋律が緊張度高く疾走しながら始まる疾走曲です。

ザクザクとギターが刻まれ、ヴォーカルがストレートに流麗に歌い上げます。楽曲アレンジの展開で、バンドサウンドが一時的に「止め」を使ったりしますが、しかし緊張度が途切れることなく一気に聞きとおせるのは、練り上げられたメロディの歌唱が殴りつけてくるからですね。ストレートに美メロシンフォニックロックのパンチを放たれたらノックアウトされる他あるとでもいうのですかあなた。

特筆したいのはコーラス! サビの裏を支えるコーラスワークももちろんですが、楽曲中間部でヴォーカルを交代しての高音多重ヴォーカルで妙なる旋律の声が、世界を切り裂くように入り込んでくる所の格好良さといったらどうだ! そこからまたピアノを挟み、メインヴォーカルに再び移るのが良い。

そして、装丁が作品内容と密接にリンクしている事の「その1」ですが、歌詞内、しかもサビで「招待状の封を切ること」に言及しています。
リスナーがDLカードの封を実際に開けることから作品の全てが始まる……!リアルの音楽聞き体験と作品世界が完全に同期しています。装丁も作品の一部どころか、装丁からすでに作品世界は始まっているんですよ!
DLコードのカード1枚の封筒という物質的形式をここまで「活かしている」。ここまでくると、もはやDLコードカードはこの場合、CD(盤)の代用でなく、「これでしか味わえない」形式なのです。深読み? 否、だったら歌詞中でここまで言及するかって話です。

思えばAt the Garret音楽は、初期から今に至るまで霧夜氏の密室芸ですが、同時に屋根裏の劇場へ「ようこそ」と、客人(リスナー)をしっかり迎え入れている芸術であります。「美しければいいんだろ」の塩対応ではないわけです。
ならばこうして迎えられたリスナーは、装丁を含めた音楽作品を味わうのが本懐です。

王道の、女性voシンフォロックでございます。名刺代わりの招待状リードトラックとしての魅力たっぷりの風格です。壮麗で戦慄する疾走、美しくないパートがマジでひとつもない。バンドサウンドもビシビシ効いています。本作シングル、トラック2でもそうなのですが、ドラムワークが激しいです。

●#2「A rumor of Black Theater」

パレード感のある、騒がしくも妖しい曲です。
どことなくSound Horizonを想起しますが、じまんぐ的なる者はここにはいない。いや、屋根裏密室芸で鹿伽氏や桃羽氏にアレをやってもらっても大層困るので、そっち方面のアクターを充実しなくてもいいですあとぎゃれは。屋根裏でじまんぐがどったんばったん胡散臭く楽園パレード大暴れされてどうするっていう。

ドラムワーク、とくにシンバルがバシャンと鳴るおかげで、祝祭感があるパレード曲ですが、「なんかヤバい事が起こっていることは間違いない」という妖しみが常に漂っています。ワー楽しかった終わりっ!……ってことには絶対ならない曲です。そんな幻惑なるユーロ歌謡色もある曲。ホーンやストリングスのシンフォなリフの壮麗な鳴りっぷりも、mix担当の方すげぇ良い仕事していますね。

さて、この曲の中にも「招待状」への言及があります(その2)。曲の登場人物もまたこの招待状を受け取っているのです。
こうなってくると、先ほど「リアルとの同期」と書きましたが、それは単純に幸せすぎる話なのか?という疑念が出てくるのが、At the Garretと欠陥オルゴールの繰り出す「毒」ですねぇ。リスナーもまた、この楽曲の登場人物のようになるのではないか?招待状を受け取ったということは、おれらの中にもまた「そういう要素」があるのではないか? 毒ですね~怖いですね~。おなじ招待状を受け取ったのだから……という、登場人物との同期。屋根裏で鳴るオルゴールにはまさに気が抜けない……!

●かくして

前に、自分は自作の同人音楽CD(サークル・8TR戦線行進曲の作品)をありがたくも買ってもらった方に、

「作品っていうのは、自分がたのしく作ったものではありますが、こうして手に取って聞いてもらって、改めてこの世に産まれなおすのだから、あなたのようなリスナーは命の恩人のようなものです」

……と話させてもらったことがあります。


リスナーが聞いて、改めて完成する「作品」という劇場。そういう意味において、作者とリスナーは、きわめて良い意味での「共犯関係」にあるとも言えます。少なくとも自分は、良い意味でそう思っています。
そして今作のような「招待状」作品は、「こういう形式(DLカード媒体)」で受け取ったら、もうただの「あー聞いた」に終わるものでなく、ひとつの濃密な共犯の「実体験」になります。
いや、本作は「絶対に招待状DLカードで聞くべし」って言おうとしているわけではなく。誤解のないように付記します。あくまで自分は「贅沢な経験をさせてもらいました」っていうおはなしを、こうして日記として書いているわけです。自慢ではない。ただ、公式通販で予約していてよかったなぁ、と思い、改めてAt the Garretと欠陥オルゴールの両サークルにありがとうございました、と告げます。これが同人、これこそ同人創作活動です。

そういうわけで、招待状をこうして受け取って、楽しんでしまったわけです。ならば、次に見事に控えている、アルバムに期待するなっていうのが無理な話ですよ。まんまと両サークルの思惑にひっかかっているリスナーでございます。しかし、こうして濃密な体験をしてしまった以上、作品世界に対する「愛着」が確かに生まれてしまいました。なので、かくして招待状を受け取ったからには、劇場に行かねばならねぇな!

 

・過去の、At the Garret作品の感想

2020春M3作品感想(1)退廃耽美デカダンスの悲劇なる物語音楽はバチクソ充実しているーーAt the Garret「子供部屋の共犯者」 - 残響の足りない部屋

週末は旅に出ます

旅に出ます。さがさないでく(ry

……といっても、10/17(土)~10/18(日)の、週末1泊2日の旅行ですが。

しかも県を跨がず、シマーネ農業王国東部(自宅)から、西部へ130km以上の旅です。まったく我が農業王国は、南米チリめいて横にやたら長い……。

お目当てのイベントはこちらです。

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当日飛び入りで、SD「金床さん」を展示させてもらう予定です。(展示会レギュレーションはリンク先フェイスブックの通り)

地球堂模型 - 10月18日(日) 第1回益田圏域模型展示会が開催されるのでその告知です!... | Facebook

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コメントレスやホームページ更新は、帰宅してから行います。遅れてしまっていてすいません。

それじゃそんなわけで……(BGMイン

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いやサイコロはしませんよw

「グロック以降のプラフレームハンドガンなんて玩具だぜ」みたいなことを抜かす老害で終わるよりも、純粋趣味道の弾丸を放とうって話

 

キャッチアップ、レイテンシー

怖い話ですね。非常に思い当たるフシがあるというのがまた怖い。自分が銃器知識を丹念に蒐集していたのが十代の頃で、あの頃は毎日銃器本や銃器雑誌やモデルガンに触れておりました。ベレッタのM92とM93Rの違いが判らないなんて「ア・リ・エ・ナ・イ」状態でした。

だが今はどうだというのか。わたしは新しい銃器知識をキャッチアップしているというのか。いやしていない。ちょっと前に久々に買った銃器雑誌で、いわゆる「modernized AK」スタイルのアサルトライフルを知って、あー時代が確実に変わった、と今さらながら思いました。AKと聞いてあの木製ストックと剛健性を第一に挙げるのはもうロートルなんだなと。共産圏の銃っていうイメージも、もう今を生きるヤングにとってリアリティのない「?」であるのでしょう。

むかしのことを思い返してみる。
わたしが十代の頃、銃器業界のトップはベレッタ、グロックH&Kというあたりが席巻していました。コルトのガバメント式ハンドガンのライセンスが切れる直前直後あたりで、各メーカがいわゆる「ガバコピー」に勤しんでいた頃。S&WのM500リボルバーが「S&W最強伝説未だ健在なりし!」という話題はありましたが、これにしたって今思えば「古き良きアメリカ」追慕の回顧であったなぁと。すでにこの頃、ハンドガンのハイパワー競争っていうのはとっくに終わっていて、マン・ストッピングを云々するのはサブマシンガンをいかに運用するか、って議論になっていました。というか話はすでに銃器の「威力」よりも「コストと安定性」に移っていました。

すでにこの時代(90年代)でさえ、ガバやS&Wが「古典」になっている時代でした。モーゼル?それは骨董愛好の領域でした。

じゃあ今の銃器業界はどうなのか。自分がツイッターをやっていた頃(この10年です)、RT(リツイート)でコルトやレミントンが倒産!とかいうのが入ってきて、コルトとかレミントンとかの名前を知ってるガンマニア寄りゲーマーは「えーっ」と騒いでいました。

でも自分はもうちょっと冷静に「まぁ前々からのアメリカ銃器メーカ業界の商売まわりから考えると、それもそうなるだろうなぁ」と、正直「ほーぅ、そうかい」くらいではありました。

その程度には、アメリカ銃器メーカのしんどさっていうのは伝え聞くくらいには、一応情報をキャッチアップはしていたことになるのかしらん。でもそれは例えば世界情勢でいうところの「北欧の福祉モデルは優秀だったけど近年はやっぱりリソース不足でしんどそう」みたいな雑な把握でしかなく、それくらいは銃器マニア業界の経験があれば誰だってわかる。

だいぶ話はズレましたが、確かに新しい銃器、兵器の型番、覚えられなくなったなーっ。もちろん当該ツイートのユーリィ・イズムィコ先生こと小泉悠氏はロシア&極東の軍事の専門家ですから、自分のようなニワカミリオタまがいとは知識レベルもコミット度合いも天とミトコンドリアほど違うというのは大大前提として。ましてイズムィコ先生はそれ(軍事アナリスト)で専門的にごはんを食べているのだから、軍事知識をキャッチアップ「する・しない」「したい・したくない」の話ではないんですよ。

そう、要するに、他でもないわたくし自身が、ミリ(軍事、武器)関連に対して、かつてほど熱が失われている……あー、この表現するのキツい……「老害」になってきてる、っていう話なんです。

 

自意識を間違えた奴が自爆しそうだよな

その「老い」を認めるのは……耐えがたいものだな!

しかし実際、自分は「もう知ってる」と思い込んでいるわけです。ていうか実際知ってるわけです。日本刀の打刀と太刀の違いを。撃鉄のシングルアクションとダブルアクションの違いを。キングタイガー王虎もといケーニヒスティーガーIIヘンシェル砲塔を。スピットファイアの栄光のスーパーマリンエンジンを(youtubeさえあればレストアされた実機のエンジン音を聞ける時代なんだぜ)。十代からこつこつと雑誌や本を読み、模型を作り、妄想たくましくしていたわけです。その熱は嘘じゃない。そして妄想と分かちがたい知識、そのこびりつき度も嘘じゃない。

問題は、「いま」の武器・兵器界隈の現場にコミットしていない。ようはマニアとして「熱」が燃えておらず、かつての熱の残滓で動いているようなもの。今自分はついったーをやっていないので、「かつての知識」で老害マウントとることもないのですが、しかし、例えば創作でミリ(軍事)知識を使うとなると、「古いよそれ」となりそうな感がある。歳をめされた女性が、例えば少女趣味小説を書くとして、しかし現代のガールズ知識のディテールがコレジャナイ感になっているのと、構図は全く同じである。

「現代の●●知識のディテールがコレジャナイ感」というのは、見る人が見れば一発でわかってしまうことで。これはどんなに言いつくろっても、その取り乱し方と補填補足の仕方にすでに加齢臭がにじんでしまっているようなもので。こういう状況下に自分も足を踏み入れたとすると……ふと、かつて若者だったわたしたちの前で、あたふたして取り繕っていたおじさんおばさんの痛みが、やっとリアルにビビッドにわかってくるのです。

 

純粋さは隠すだけ損だろう?

マニアであったことは嘘じゃない。でも、「今、マニアじゃない」ことも、悔しいながら嘘じゃない。そして、軍事知識に代わるものに今夢中になっているのも嘘じゃない。さらには、今だって決してミリ(軍事)、武器が好きなことも嘘じゃない。嘘だったらどうして未だに中2妄想箱庭で遊んでいるんだ。模型をやっているんだ。

「自然であれ」と自分の中のマニアの古き血が告げる。
「そして驕るな、在野の趣味人たれ」と古き血が静かに告げる声を聴く。

自らの現在の限界を知るということは、むしろ在野の趣味人として喜ばしいことです(研究者的態度、とも言います)

わたしは確かに、いまは武器、銃器、兵器などの軍事のマニアではない。「昔好きだった」程度のものです。でも、全くの未経験者からしたら、結構知識は持っているのです。ならばそれはやはりアドバンテージでしょう。知識は古いかもしれませんが、「銃器の基本構造」は熟知している。タマを飛ばすのが銃器なら、その基本は。それを今からイチから覚えなおすのとはわけが違うのです。勘所は承知している。

そんならあとは知識と熱の問題で。以上を一言でいえば「いかに純粋でいられるか」ってことです。この「純粋(なマニア的態度)」っていうのは、「いかなる場合でもマウントをとろうとしない」っていうことです。純粋さとマウントって水と油以下どファッキンじゃないですか(まじで)。それくらいの自制をせねば、「古参マニア」とは名乗れまい。

 

だから記念日と称してしまえ。皮肉は却下だぜ、クワイエット

 老いを認める。いくらでも言い換えましょう(この時点で老いだ)。「現時点での限界を認める」。でもくじけはしない、卑屈にならない。わたしは自分の知識のメンテナンスをしたいと思います。今だって武器が好きなら、やっぱり実際の武器をメンテナンスするように、知識をメンテナンスしていきたい。

かつてわたしは、モデルガンでですが、ハンドガンのフィールド・ストリッピングなんぞ目をつぶっていても出来たものです(実際やった)。それくらいの知識を、かつてのように身体化したい。

まぁようするに、人生を楽しみたいって話です。誰かに追いつきたいとか、引けをとりたくないとか、で趣味をするのだったら、ハナから趣味をしない方がずっと健全だと思います。ようやくわたしもそのあたりを心底了解するようになりました。趣味人として周回遅れのスタートかもしれませんが、まぁそれはよろしい。

なぜ趣味をするか、といったら、自分の機嫌をとるため、というのが、今わたくしが気に入っている表現です。インプット→アウトプットの義務だとか、創作生産性の義務だとか、今はもういいや、と「思い込もうとしている」のです。思いのほかこの「自分の機嫌をとる」っていうの、つい日々の生活で忘れてしまいそうになるんです。

つい「無駄にしたくない」とか「趣味的生産性がー」とかって考えそうになる。でも、今は「おっとっと、いけないいけない、自分の機嫌をとろう。やっぱ今日も疲れてるんだから」っていうように思い返そうとしています。意識しないと、つい義務感に引っ張られる。純粋じゃないですね。純粋でいたいんだ。少なくとも趣味においてはどこまでも純粋にいたい……!

そして自分の人生は、常に趣味人たりたいのだ。でも趣味を義務にしたくはない。ここのところ難しいなーっ。常におのれとの格闘か。でも己自身を大切にするのはおんのれじゃ、の精神です。趣味道の功夫クンフー)です。生き延びたんだから趣味に感謝できたら最高だ。よし、これから自作中2武器のデザインをし直しですわぁ。

 

※今回の章タイトルは以下の曲から引いています。

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キミたちの日常には耽美シューゲイザーの幻想が足りないのは明白

今日も仕事や日常にお疲れですか。そうですか。嫁姑問題? マイワイフがキレて自分のおもちゃを全部処分した? あるいは土地遺産問題? どうでもいいわ、しね!

よし、古今東西ドリームポップ/シューゲイザー(以下耽美シューゲ)を聞こう! わたしたちの疲れた生活には、幻想に身を任せ、幻視の為に轟音を聞き、心象風景に逃げるっちゅうことが足りんのですよ!

 

●耽美シューゲのオレオレ定義

幻想

・ノイズギターの壁が揺れている

・クリーンギターのピャァアンとした鈴鳴りの音が揺れている

・心象風景を幻視してしまう……

・ヴォーカルは不思議系、あるいは幼年期への憧憬に溢れた切なさ系

the pillows山中さわお氏はオルタナの定義を「当時の先鋭的アプローチにカントリー音楽の流れが混ざり合ったもの」としたそうですが、それなら耽美シューゲはもっと簡単で「フィードバックギターノイズシンフォニーとカントリー精神の融合」っていうのが一番手っ取り早い定義です。

・疾走よりも揺れ揺れの耽美幻想を

・おれたちはエフェクター(とくにファズと空間系)に多額の金額を投じる

・じゃあヴィジュアル系V系)?って言われると、それは違うが、しかしthe cureとかの80'sゴスの流れを無視してドリームの耽美を語ることは不可能だし……まあここに関しては「フィードバックギターノイズ(の壁)」を絶対に必要としている、ってあたりでひとつどうか

・ちょっとだけ、イモい(田舎っぽい)(だからバリバリ都会系の耽美シューゲって成り立たないんよね)

・馬鹿野郎その上記イモさは幻想への銀の鍵なんだろが

 

●以下のyoutube参考音源ですが(取説)

「これが耽美シューゲの教科書だッッ」とするつもりはありません。以下は単に自分の音楽favブックマークです。わたくしが耽美シューゲを聞きたいな、ってときに引っ張り出してる音源、ってだけです。

だから、耽美要素のない「素晴らしい轟音」は、あえてここから排除しています。モグワイ入れてないし、ソニックユースもだし。最近改めてニルヴァーナのカートのギターサウンドってやっぱ良いな、って思ってるんですが、それでも耽美とはズレるので入れていません。

今回このfavブックマーク記事をupるのは、ひとえに今の自分がアートスクールを聞いて、耽美シューゲはやっぱり良いな、と思ったのが理由のひとつ。

もうひとつは、アートを勧めてくださった音楽ブログ管理人さんが、今現在inジャストナウタイム、「Loveless」以前のMy bloody valentineに相当ハマりかけておられて、じゃあ耽美シューゲの沼世界にズッポンと蹴落としてしまえ、という酷い理由です。

じゃ、今日もレッツ轟音!

●Ride「Like A Daydream」

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まぁ、アートスクールから耽美シューゲという路線で、わかりやすいのをひとつ、っていう。

「ドリームポップ」と「シューゲイザー」の違いはひとえに「フィードバックギターノイズシンフォニー」(の壁)がどうしようもなく含まれているか否か、という問題です。だから耽美シューゲ以前にドリームな音楽を演っていた奴らも「耽美先史」として語ることは出来ます(それこそキュアーとか)。でもそこまでいくと際限がないんで、この記事では一応「ジーザス&メリーチェイン以降」とザックリさせてください。

しかしライドのこの音源、ドリーミーでありながらどこかスコンと抜けている所が、なんとも良いです。

そうなんですよ。耽美轟音濃度がマシマシになればなるほど良いか、っていうと、そこはそうとも言い切れない部分があるのが耽美シューゲの難しいところですね。次郎系ラーメンじゃないんだから。Lovelessは最高の名盤ですが誰にとってもの名盤ではない、っていう話でもある。幻想を夢見るには、時として軽やかさも必要だったりするから。

●MONO「Nostalgia」

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で、そんなことを前に言っときながら、いっきにポストロックでシリアスな方向にいくというね。日本のレジェンドです。

薄曇りの空に遠く鳴る鐘の響きのようなフィードバックノイズシンフォニー。どこまでもシリアス、どこまでも幻想。現実と夢想の両方を、鮮烈な血すら滴らせているギターで貫いて、貫いて、あの地平まで!

●Ringo Deathstarr「Kaleidoscope」

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アメリLo-Fi文化というか、海岸端のガレージロック文化というか。

特にこの国には、ヘナチョコさと狂った轟音の壁を、さも「うーん、おれたち当たり前にやってるだけなんだけどな」と言わんばかりに肩の力を抜いて耽美シューゲを演っている奴らが結構いまして。

その代表格……インディー臭ぷんぷんで、「リンゴ・デススター」なんてバンド名を名乗っているくらいへなちょこで、アメリカの空の彼方に抜けていきそうで、どうしたって夢を見ちゃう、そんなインディー耽美シューゲ。次のバンドもそんな感じだよ。

 

●Soft Blue Shimmer「Chamoy」

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(公式bandcamp)

softblueshimmer.bandcamp.com

いやもう、こいつら最高なんですよ。カリフォルニア、ロサンゼルスのインディーバンドです。

自分は日本のインディーポップ/カセットテープレーベルのGalaxy Trainで知ってカセット買って聞いてみたんですけど、空(そら)の空気感や、水の飛び散り方が伝わってくるかのような瑞々しい揺れ揺れギターノイズ、クリーンギター。そこに絶品のエモーショナルなメロディのヴォーカルが乗るっていう、疾走軽やかさが。

あぁ良いなぁ、ああ良いなぁ、少なくとも今の自分のせせこましい圧迫された日常とは違うなぁ、っていう、軽やかさがあります。

 

●Cosmic Child「Blue/Green」

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最近知ったシンガポールシューゲイザーバンドです。いやぁ収穫収穫。王道の「鐘が鳴る」感じの空間系ギターワーク。そして空間の中をたゆたっているかのような、ぼんやりしたヴォーカル(誉めています)。王道の耽美シューゲです。こういう「居るところにはやっぱり居るもんだ」っていう音に触れられるから世界音楽旅行はやめられないです。

●Westkust「Cotton skies」

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スウェーデンシューゲイザーです。女性ヴォーカル。あああ爽やかーーーーッ!! こうやって轟音ギターとヴォーカルが一気に「世界の色鮮やかさを塗り替えてしまう」って感覚が、幻視、幻想を追い求めてやまない音楽リスナーの醍醐味ですよ。どこまでも走って行って飛んで行ってしまえっ、っていう爽快感。

まあ確かにド耽美は少なめですが、夜寝てこういう夢見ることが出来たら最高じゃないっすか?

 

●土曜日と人鳥とコーヒー「ニーナ(Re:Recording 2016)」

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アートスクールに影響を受けた、と、ギターヴォーカル/コンポーザーのYuki氏は語っていました。このギターの「揺れ」方、喪失を歌うヴォーカル、その幻視の仕方。これが耽美シューゲじゃなかったら一体なんだ、って感じの神戸の現在活動中のバンドです。

 

Sigur Ros「Olsen Olsen」

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「これはシューゲイザーなのか?」って言われたら、確かにギターノイズ要素は少ないかもしれない、と答えるしかないところがあります……。

しかし「空間に幻想が鳴り響いて、幻想音楽が現実を本当に再編成してしまう」っていうのの、ひとつの証左なんです。このPVは。だから最後までPVを一緒に見てみてください。

アイスランドの音楽です。自分が耽美シューゲの定義を「フィードバックギターノイズシンフォニーとカントリー精神の融合」と断言している理由のひとつです。