残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

ART-SCHOOL「Flora」全曲感想ついったー連投

取り立てて意味のない前説

先日、久々に創作用のついったーアカウントにログインしました。

twilogを貼ります)

twilog.org

自分(残響@modernclothes24)のアカウントは、以前書いたように、昨年末で消去致しました。
この日記ブログをHTTPS化して、そのURL&ブログカード表示のテストをするために、唯一残してあった創作アカウントに久々に入ってみた次第です。

もうタイムラインの眺め方すら忘れてしまったくらい久々のついったーログインでした。せっかくだからちょっとだけツイート(つぶやき)してみよう、と。でも、やっぱり今の自分は、SNSを忌避しているようで、タイムラインの中でつぶやき行為していてしんどくなってきました。「人々の往来のなかにいる」って感覚がつらい。

ただ、この創作アカウントは、twitter小説のリアルタイム連投行為をそもそも行っていたものだったんですよ。なので、かつて日常的に行っていた「ついった連投(連ツイ)」がどれくらい出来るのかのセルフ調査を行うため、前々からきちんと聞いてみようと思っていた、ART-SCHOOLの4thアルバムについての連ツイ感想をしてみようとした次第です。

 

・過去に書いたアート関連の記事

(2ndアルバムについて)

遅ればせながら、Art-Schoolの2ndアルバムと自分の迷いon 2017-2018のおはなしを書いてみる。 - 残響の足りない部屋

(音楽世界地図scrapbox企画)

ART-SCHOOL - for only what sounds hearing over

 

●開始

ART-SCHOOLの『Flora』をはじめて聞くのよ。以下リアルタイムリスニング感想を投下します

1.「Beautiful Monster」

力強いベースの動きに、明るいコードワークが、なんとも「地に足の着いた」感を見せます。なんだ木下理樹元気でやってたじゃないか感。固かった種子は、それでも確かに芽吹き花となって咲いたという、春先の雨あがりからのささやかで力強い祝祭の息吹がある。

ベースはゴリっと刻んでいますが、ギターワークは浮遊する。そして木下の歌も夢見つつも、日常の確かさと祝祭の浮遊をどっちも纏っている。花が咲いたよ花が

2「テュペロ・ハニー」


Tupero Honey (LIVE)


またもやメジャーコード感の明るさに、なんとシンセが絡む。だけれどバンドサウンドの疾走感と幾何学的なギターワークが、明るさの中にも繊細さを見せる。木下理樹元気でやってたじゃないかパート2。

 

3「Nowhere land」

やや変拍子ちっくなリズムに乗せて、日記めいた木下の歌詞。本来ならカッティングやベースのR&B、シティポップ・ファンク感が軽快さを出すんでしょうが、そこに木下の歌と詩が乗ると一気にグルーヴがズルズルっと「屈託ロック」になるのが面白み。リズムが木下に喰われた!

 

4「影待ち」


Aメロで心細い街の灯りを表すかのようなミュートギターに木下の詩が乗る。サビの歪んだグランジギターとコーラスワークがまた良い。心象風景の繊細
どよ~んと重くなることなく、やっぱり日常を歩いているんだな、っていう歩みもある。「Love/Hate」じゃこういう足取りしてなかったぞ

 

5「アダージョ

今作、リフを練りこんでいますね。リズムも音色も。前よりも「明るくなった」ことの是非はともかく、リフの音楽的練りこみ土合は評価せんと嘘だろう

攻撃的なギターですが、クリーン音が補助して、ちょっと南洋的な抜け感もあったりして、木下理樹の「光」の解釈が変わったのか?とか

 

6「Close your eyes」

ギターの「揺れ」が心情の揺れをとにかく想起させる、っていうのはこのバンドのお家芸ですね。ただサビで「心の屈託や醜さを轟音でマスキングし葬る」みたいなのは今回あんまりないように思えます。地に足のついたといえば確かにストレートか。でも生の無邪気な肯定はやっぱない

 

7「LUNA」

ギターの落ち込んでいくアルペジオと電子音、空間処理。当時のポストロック界隈の影響もあるのかしら。そこまで実験的にも振り切ってはいないけど。

遅めのテンポの、やっぱ夜を歩いている曲。光はあっても冷め覚めとした月明かり。木下は本作では「(悲痛に)呟く」のでなく「歌う」のですね

 

8「Mary Barker」

明るいシャッフルビート、そうか何か酷い歌詞を載せるんだろうな、というアートスクール木下理樹への妙な予測ってなんなんでしょうか。でもこの曲ではそういう酷さの方へは行かないでよかった。良い意味で「昔の曲」って感じがします。古き良きあの日々、なニュアンス

 

9「SWAN DIVE」

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鐘のような耽美な空間ギター。ビートはしっかりと踏みしめて曲を進行させます。その中を木下の詩が歩んでいきます。

何かの光に向かってか、これまで目にしてきた光を忘れはしないぞという決意か。でもその光はもう一度終わったんだと。ギリギリまで両手を広げて入水するダイブ(水泳用語「スワンダイブ」)のよに

 

10「SAD SONG」

グランジ疾走曲。あ、2ndの頃よりバンドサウンドが上手くなっている!(失礼

そんなグランジロック手練感もあって、歌もしっかり聞かせてくれます。つまり詩の主人公もそれだけ一応はリアルに強くなったのだ、というか。でも相変わらず悔恨をしている……からこその魅力ですが勿論

 

11「Piano」

グランジ轟音を最終的にぶつければいいんだろ」みたいなバンドから「いろんな音楽を味わってみよう」みたいな音楽性の発展がみられる今作のアートスクール。そういう意味でもポジティヴと言えるでしょうか。中心にあるのが木下の悲劇美学ですから「とっちらかり」はないんですが。

うん、意外なほど「音楽性の散漫なとっちらかり」も「バンドの実験性」も感じられない。サウンドの色とりどりに、木下の詩と歌がしっかりと喪失悲劇の釘をブッサしているから、そこでのブレはないんですよね。それだけ伝わってくる木下の詩と歌なんですが

 

12「IN THE BLUE」

大地(グラウンド)的な広がりのあるドラムのビート。そしてシューゲイザー轟音。うっすら被さる高音が光というか光への希望らしきものを感じさせる。「堕ちる」耽美轟音ではなく「見据えて前に向かっていこう」という肯定感がある。生き生きとしている。バンドサウンドも「前へ!」と

 

13「THIS IS YOUR MUSIC」

シンセとギターの祝祭性。シャカシャカしたドラムワークが疾走性を余計煽る形の。「いくぜ!」って感じの。前の曲(Tr.12)からの展開と考えるととてもしっくりくる。それでもサビで「パッパッパラ~」と言われてビビったけどw

 

14「光と身体」

アコースティックギターが用いられたバンドサウンドのミディアムテンポ曲。「しっかりした」歌です。悔恨はあれど憐憫はない、悲痛ではあるけども絶望ではない、という。よし、木下、君は「しっかり悲しむ」ことが出来るようになったんだな、って偉そうにw
音としても説得力がある

アートスクールに「力強さ」って表現するの、すごい座りが悪いんですが、じゃあこう言いましょう「良い歌やないか……」

 

15「low heaven」

アルバム全体のエンドロール的な牧歌的ゆったり曲。結構ここまでの満足度が高いので、今このエンドロールを聞いていて「よし……」としているリスナー(自分)です。

木下と愉快なアートスクールの仲間達がどっかへ旅に出るなら「行ってこい!」でも「き、気を付けてね…」でもなく「そっか、じゃあ、また」みたいな軽さで十分でないか。それくらいには彼らも強くなったし、大丈夫だ、と思える。きっと。
少なくとも彼らがこの15曲のアルバムで見せてくれた物語に、そこらへんで心配にさせるようなヤバさは薄かった。「何かまたお話してよ」って送り出そう。

ああそうか。自分は木下理樹ART-SCHOOLに、「語り手」性というのを、いつしか求めているようになったんだな、と、ふと。おお久々じゃないか木下、ほう、何か話がある、ふむじゃあお茶でも飲みながら聞かせてくれよ、みたいな。自分の中に木下の物語を「聞かせてくれ」という態度が出来た。

「美しいけど辛いなぁ。それゆえの美しさだなぁ」と思っていた2ndアルバム「Love/Hate」だけど、本作「Flora」で木下に対するまっとうな信頼度が増した。この人の話、バンドの色彩を見たい聞きたい、と思った。聞いてよかった。バンドがポジ方向に振れた事の「わかりやすさ」が界隈でどう思われてるかは、まあお察しはする

ただまぁ、盤として「聞いてよかった」と素直に思えたし、木下理樹の世界に自然でまっとうな親しみを抱くことが出来た。個人的にはそのことがうれしい。

 

 

●このアルバムを聞くきっかけになった文章、そしてフリージア、バンド合奏

 

mywaymylove00.hatenablog.com

 

この連ツイ後、上記ブログ管理人・カナリヤさんからレスを頂き、このアルバムとも関連の深いシングル曲「フリージア」を教えて頂く。

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なるほど、今作Floraにつながる「路線」が見えます。あるいは木下理樹の見る風景の色彩、闇の温かさ、光の冷ややかさに、これまでとは違う、何かしかの変化があったのだな、ということがわかります。いろんな音を使っていますが、しかしオーバープロダクションという感じはしない。それよりも、ひとつの古い映画を見ているかのような情景感があります。この曲はこの曲だけでまとまっている、というか。だからシングルカットだけで、アルバムには入れられなかったのかな、とも。もちろん、だからといってアルバムよりも下、ってことはないんですが。シングル盤の数曲だけで構成される小宇宙のリードトラックとして任せられる、ということだと思うんです。

しかし、幸せになかなかなれないバンド、詩人ですね。ずーっと幸せを憧憬しているけど、自分にはそんな資格がないって信じ切っている。だからこそ見られる美もあるんですが、しかし、まぁ。

今、ふと、2ndの時の感想でも書きましたが、木下理樹にとってバンド・アートスクールが有る(トディをはじめとして)っていうことは、本当に、善いことなんだろうな、と自然に思います。

有難い、という言葉がありますが、有るのが難しい、ということで。

それは、木下理樹が自分の手足としてバンドメンバーを使う、ということではありません。

「そこにバンドがあって、皆で作っていける」ということが、ひとつの幸せの形なんだろうな、と。

もちろん、それはバンドメンバーとの和気あいあいを意味しているわけでもないんですが。「この悲しみがいつか消えてしまわぬように」というナイーブさを覆い隠すための手段としてバンドをやっているのでもない。

それでもバンドは……ああそうだ、日本語には「合奏」って言葉がありましたね。その営みが、木下理樹にとっては、我々が思っているより、もっと重要なのではないか、と思った次第です。

あなたのオルタナはなに

オルタナオルタナティヴ・ロック)って何ですか?

そこ行くあなたですよ。あなたのオルタナを聞きたいんですよ。わかっているんですか。

もう今おれはオルタナじゃないし、とか聞きたくないんですよ。あの日のオルタナが消え失せてしまいそうで、って話即ちオルタナなんですよ。

わかっているんでしょう。内心思っているんでしょう。だから話してくださいよ。あなたの心象風景を。

 

自分のオルタナの定義の話をします。

初めに、オルタナってのはノイズギターなんですよ。でもノイズをギャギャンンと余裕をもって鳴らしてさぁこれがオルタナで御座い、っていう安易さがオルタナなわけはないんですよ。商業オルタナなんつう悪名はここにかかるんですが。ええい、そんなものにこれ以上文字数を費やす暇はない。
で、その追い詰められた人間が放つ特有のノイズギターは、ある風景を絶対に伴うわけです。それ即ち心象風景の具音化であります。
ギターやアンプやエフェクターのブランド。それがあるからオルタナなわけじゃないんです。その愛器と幾多のライヴの死線を潜り抜けてきたからこそ愛器を愛器と為す「マイ楽器ラブソウル」の信頼。それは風景をこじあける鍵。あの日の心象風景を具音化させる鍵。だからファズを愛で思いっきり踏み込んでギターソロを奏でフィードバックノイズが走り電気音が感電する。どうだこれだ。


つまるところ、オルタナっていうのはギターノイズを使った音を介して、奴ら(音楽家)とおれら(聞き手)が対峙する。まずこのピリっとした対峙感があって、そこで奴らとおれらが音の中で無言の会話をするわけです。奴らの独特の意味わからん言語を、おれらは何とか聞き取ろうとする。そして時折垣間見える奴らの心象風景に、おれらがどこかで忘れ去ろうとしてきた感情を見出し、託し、同化させ、そしてまた音を聞く。

このギターノイズを介した心象風景の対話がオルタナティヴロックミュージック現象であります。

 

メジャーシーンからどんだけ離れているか、独自のキワキワバンド生活を送っているか、っていうのがオルタナの定義じゃないんですよ。メジャーから離れているっていうのは、ソニーミュージック本社東京都千代田区からどれだけ地理的に離れているか、っていう話じゃないことは明白ですが、しかし「独自のキワキワバンド生活」云々、っていうのにオルタナの本質を見出そう、っていうのは、ソニーミュージック本社東京都千代田区六番町から沖縄県波照間島(はてるまじま)まで離れる、っていうのとそんな違いはないと思います。
そのあたりの「アンチメジャー距離競争」っていうのは、さすがに今はないとは思います。あってもらっても困る。
自分はオルタナの定義を心象風景に置きたい。

 

心象風景の起こるノイズギターミュージックがオルタナ、っていうのが自分の荒い定義ですが、自分はこれでいいや。少なくともその定義で聞くオルタナに自分は用があるし、今も自分はその心象風景を大事にしている。

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例えばの話、bloodthirsty butchersの「デストロイヤー」を聞いていて、「うあぁあ」と思うわけです。気分がアゲアゲになるのでもなく、リズムで踊りだすんでもない。

いつかの自分はどっかに向かって走っていたらしきことを思い出す。

なんで走っていたのかはよくわかんないけど、人生がハピハピHappy楽しすぎてそんな走り方をするとはちょっと思えないって感じではある。
そんときにセイタカアワダチソウが空に向かって伸びていたことを思い出す。

空の雲と夕暮れの赤が混ざって、少しずつ蒼の空が黒がりに混ざっていく。

薄い川の水の流れがやけに透明だったていうこととか。

どっかの工場の煙突だったか、どっかの団地の日常の灯りだったか、ともかくどっかの誰かの日常の静けさを感じながら。

自分は町の郊外を走っていたことを思い出している。35歳に無事になることなんて皆目信じていなかった歳若い頃があったんだよ。


それから年月が過ぎ、性欲と酒精と承認欲求で人間は腐っていくんだよ。そんな風景をどんどん見てきた。

でも性欲と酒精に逃げる前に確かに人々は頑張っていたっていうのもしっかり見てきたんだよ。どっちを許せばいいんだかよくわかんないよ。


そんな日々がどんどん重なっていく。一個一個のエピソードの鮮烈さが失われていく。熱い水に刃を入れるかのようなヴィキッとした鮮烈な印象が遠くなっていく。


やがてこんな自分でもどんどん日常がうまく回るようになっていく。仕事だって出来ちゃったりする。過去の自分からの進歩に笑ってしまう。だが心のナイーブさが磨滅していってるのにも気づいている。ナイーブさが無くなったから仕事も生活も無事に進められるって話だ。大人になったなぁ。


でも、いつかの自分がどっかに向かって走っていたあの時の鮮烈な悲しさと、赤い空に高速で際限なしに飛んで行ってしまいそうな感情ってやつ。そんな少年の自分に、どっかで嘘をつき続けているような気がする。

 

そんな一切合切を、オルタナティヴ・ギターノイズロック音楽が、スカーンとあの頃に蹴落として、スカーンとあの頃に非常に共振する風景を見せてくれる。「これだった、よな?」っていう感じで。

それが自分にとってのオルタナなわけです。そんなに簡単に忘れていい心象風景じゃないだろう?っていう。

 

以上の話を一言で纏めると「10代リマインダー」っていう空恐ろしいドライな表現ありがとう嬢ちゃんウヘヘ、っていう事になっちゃいますが、そんな事言ってくる奴はワンパンするにも値しないよ。


あなたにとってのオルタナとは何ですか?よろしかったら聞かせてやってくれたらうれしいです(コメント欄にでも)

清潔を巡る問答ーー熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』感想その3

 

その1

熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』一読目の感想 - 残響の足りない部屋

その2

『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』感想その2 - 残響の足りない部屋

 

この本の第5章は「秩序としての清潔」です。
「清潔」の分析をします。

 

Q「清潔でなくてはならないのですか?」
A「国民総出で全家庭が皆ことごとくオール・ボットン便所に戻りたくはなかろうでしょう。いやボットン便所もまた清潔への第一歩だったのですよ」

Q「清潔であるメリットは何ですか?」
A「疫病の回避ですかね」

Q「では疫病を回避できたら、そこでクリアっつうことで、どんどん増大していく清潔志向は、ほどほどに解除できないもんですかね」
A「いえ、次の疫病、次の汚濁、次の次の不潔を駆逐していくのが清潔道です」

 

Q「そもそも人間って動物は不潔ではないのですか? 平野耕太は漫画「ドリフターズ」で、戦国時代の人間観として「俺もお前も糞の詰まった肉袋」とキャラに言わせていますが」
A「アレ戦国の蛮族死生観やん」
Q「でも人間という動物の構造は変わっていないわけですよね。おつむに情報をたくさん詰め込んだら、戦国時代の蛮族とは別の知性体になれた、と断言はできますでしょうか」
A「当たり前に人を殺していた時代よりは進歩しているのでは」
Q「そこなんですよ。我々は現代人だ、って言っておりますが、たかだか70年前、世界大戦をやっていたじゃないですか。あの時代の方々を侮蔑するつもりはございませんが、あの時代の民衆の思考回路の極論に「生き残る為の殺人の肯定」は有った、と言えなくもないんじゃないでしょうか」
A「それを発言する時点で現代社会ではギルティの予感がしますぞ」
Q「もうちょい。つまり戦後70年を経て、戦後世代、まして先進国のミレニアル世代にとって、「生き残る為の殺人の肯定」は「漫画か?」というのが基本的思考回路です。だけどこの変遷はたかだか70年でしかないわけです」
A「つまりあなたの言いたいことは……死生観や清潔観といった人間観・世界観のフィジカル側面は、ただの現代人の加速した思い込みに過ぎない、と?」
Q「そこもうちょっとお話で詰めてみません?」
A「いいでしょう」

 

Q「本書の熊代氏はこの章で「秩序・清潔」と「暴力・不潔」を対比させて語っていますが、「秩序」を担保し保障するのは暴力です」
A「芥川龍之介の「侏儒の言葉」でも引いてみますか。---「しかしまた権力も畢竟はパテント※を得た暴力である。我々人間を支配する為にも、暴力は常に必要なのかも知れない。あるいはまた必要ではないのかも知れない」」

※パテント……特許

Q「人間を管理するためにも、清潔は常に必要なんでしょか」
A「いや、そこは違います。清潔はやはり耐えざる社会の衛生メンテナンスによる【善き報酬】にほかなりません。というか、そうであるべきなんです。清潔はステータス画面のグッド・パラメータであったはず」
Q「はず、ですよね。じゃなんで、こんなに息苦しいんですか、清潔衛生志向の現代コロナ禍社会は」
A「やはり清潔を強迫する【強迫性】によるものではないでしょうか」
Q「暴力と強迫の違いは?」
A「単純に、暴力によるやがての破壊を手前にほのめかす圧力……それを強迫と呼ぶのではないでしょうか。語義的には」
Q「強迫性障害によくみられる、過度の圧力反復性は?」
A「……良い指摘です、と言うのもなんですが(苦笑)。つまり清潔という【目的】を完璧に完遂するために用いられるのがそれ、と考えるのが妥当でしょう」
Q「なるほど、完璧に完遂。あなたがおっしゃった清潔道……「次の、次の次の不潔」の駆逐の為」
A「やばいですね、ヘルシングの世界だ」

 

Q「熊代氏は戦後世代よりこの話を進めています。もちろん私が上記で戦中世代のラディカルさを持ち出したのは極論を提示するためでありますが、しかし戦中世代は【自然】の中で闘争を行っていた、ともいえるわけです。現代の衛生社会……人工的管理社会が到来する以前の、【自然】と共にあった社会で」
A「そこはどうでしょうね。熊代氏もこの章の末尾で、500年以上前のエラスムスを引いているわけです。【都市】の誕生と民衆の衛生志向は、常に軌を一にするものであったでしょう」
Q「おっと失礼、これは確かに。しかし、衛生を巡るラディカルさが、この戦後70年で異常加速したのは、異論ありませんね」
A「ありません。この本、つまり熊代氏の目の見る問題提起は、そのあたりの急激な上昇を巡る諸相についての問題です」
Q「【自然】の話ですが、対比されるのは【人工】です。もう少し言葉を補えば、【自然(不潔)】と【人工(清潔)】の対比ですが」
A「少し話を急ぐようですが、それを【自然(不安定、不確定)】と【人口(確定的)】と補ってもよろしいでしょうか。結局、不潔と清潔を巡る話は、人間の「不安定で不確定な自然世界」を御する為の、安全と快適さ……つまり【確定性】を人工的に求める営み、と抽象できます」
Q「具体例プリーズ」
A「例えば便所ひとつとってみても、水洗便所を得るまでに、どれだけの人間の苦労があったか、っていう話です。草原の隅っこで獣やほかの蛮族の敵におびえながら糞をへりだす原始人スタイルから、人間は進歩しました」
Q「我々、うんこの話が好きすぎではないでしょうか」
A「汚言症なんでしょうかねw しかし、【自然】の例示としては分かりやすいんジャマイカと言ってみるテスト」

 

Q「だから【人工】は否定出来るものでなく、【清潔】も同じ。コトは程度問題ではないのでしょうか?」
A「問題は清潔道ーー「次の、次の次の不潔」の駆逐、というラディカル性をどう自覚するか、にあるのでしょう。しかし強迫性障害が一部の人間にしか、そのつらさを正しく認識されていない以上、基本的に清潔を巡るラディカルさは、オーバーキルを常とするのが普通になるでしょう」
Q「オーバーキルが普通、ですか。では次の清潔、次の次の清潔、は……」
A「ザラキめいた即死呪文に近づいてきたなぁ(涙」
Q「現代人は戦争でもしとるんですかw」
A「そこです」
Q「えっ」
A「相互監視社会、ディスコミュニケーション、正論ポリコレ合戦、リスク管理、除菌……実際のところ現代人は相互に【闘争】をしている、というモデルを、もはや早々に当てはめてみた方が、安全側の議論だ、という気が、わたくし、あなたの言葉で急激にしてきました」
Q「これは【市民社会の議論】のレベルではない、と?」
A「「万人の万人に対する闘争」ということばがありましたね。悲しいですが、現状が「そうではない」と言い切れますでしょうか。もちろんホッブズが『リヴァイアサン』で描いていたものと逐一の一致はしませんが、しかしインターネットを見るだけでも、万人が万人に対して闘争してるように見える時があります。どうでしょう」
Q「……じゃあ、どうすればいいんですか」
A「………………」

 

Q「清潔を巡る話が、「万人の万人に対する闘争」にまで行きついてしまったのは悲しい話です。いったい皆誰と戦っているんだ(AA略)、っていう」
A「ここで熊代氏は【清潔】がおかしいのでなく、清潔を維持しながら【排除、阻害、先代からの不合理】を普通の人々に喰らわせるに至ったなにがしかをきちんと検討し、この現代社会の人工的な秩序というシステムそのものをチェックする必要がある、と述べています」
Q「前回の記事でこのブログの管理人はメンテナンスの必要性を言いましたが」
A「それが暴力性や強迫性につながらなければ良いんですがね。少なくとも、現状の清潔社会もまた、ある種のメンテナンスを絶えず行ってきた結果であるのですから」
Q「つまり、闘争に陥らずに、メンテナンスを続けていく【無限の撤退戦】が今求められるというのですか?非常に地味な結論になりますが」
A「いっぱつカマシたれ~、的な革命思想にまずは陥らないのが重要です。というか、一番最初に話を戻しますが、この社会の【清潔】なるものを、自分自身が勝ち取って磨き上げていない(つまり所与の前提となっている)事も、そもそものオカシな話であるのです」
Q「まぁ、自分でキレイにしてメンテナンスした玩具は愛着がわきます……そういう話ですかね?」
A「それを社会にまで敷衍できたら良いですね、という話です。しかし安易に社会参画がどーの、というのもわたしの趣味ではなく。やれる範囲で自分の生活のメンテ。それがそもそもの【清潔】だったはずですから。なによりも問題は「次の、次の駆逐」という清潔強迫性障害なんです」

 

(熊代氏のこの本の感想はまだ続きます)

最近わたしの音の暮らしはこう

この数か月、VaporwaveやチルウェイブやシンセウェイブやLo-Fiヒップホップのmixを延々とBGMとしてかけている事が多くなった。

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不意に空いた休憩時間、そんな現実の時間(とき)の流れを、無為に溶かしていってるという感覚がたまらない。
実際、それだけ自分も疲弊しているのだと思う。
だいたいこのveporwave感覚は、日時が変わっての深夜TVのタルい番組やCMを延々と見ている感覚だ。深夜ネットサーフィンをしてどこぞのまとめサイトでユルい動画や音を延々流し聞きしている音感覚だ。明日も起きなきゃならないのに眠れず、微妙な焦燥感とダルさがコーヒークリープのように入り混じった灰色タイムフィーリン。
現在、世間は連休らしい。たまたま今日だけは自分も休日が重なったが、その休日の時間をこういうダルい音で溶かしている。

たびたび自分が言う「世界音楽旅行」で例えれば、これは知らない国に入国して「ウォーッ」とテンションが上がっている状態、ではない。
むしろ旅の途中、安宿に泊っていて、降り続く長雨で外にも出られずに、窓の外を延々と眺めているような感覚。
ヨーロッパよりはむしろアジアの地方都市の感じの。妄想で例えるという。

疲れているのだろうな。本館ホームページガリガリ更新する熱量が今ちょっと薄れていて、脳内の思考を、こうしてただ文章にして放出している。自分もダルければ音もダルい。このシンクロに癒されているといえば、癒されている。

(……twitterを止めて以来、日常でふと脳裏に泡のように浮かんでくる、他愛もないささやかなジョークを、たゆたう河川のごとき世間の流れに放流するという「即興を詠じる場」を失ってしまった。もちろん捨てたのは自分であるが)

(……もうひとつ。無理をして「明るく振舞おう」って事を考えて、そのように実行に移そうとしている時点で、やはりすでに疲れている……)

別に自己正当化するわけではないが、上記「このダルさ」もまた音楽の旅と言えるのかもしれない。人生は旅、というのもまた手垢がついた表現だが。

向井秀徳アコースティック&エレクトリック

そういえばまた向井秀徳の音楽を聞いている。それも向井秀徳アコースティック&エレクトリックのライヴ音源をひたすらに。

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ナンバーガールのヒリヒリ感やZazen Boys(とくにMIYA加入以降)の戸愚呂巻く蛇のようなキワキワ感も素晴らしいものでありますが、今は向井アコエレをとにかく聞いている。そして染みる。自分も歳をとったのか、と一瞬思うが、いやそれは本質ドンズバではない。このわたしの日常の最近、やっぱり何かしら疲れている。でもその疲れている目に映る風景に愛おしみを抱きたいとも、少し思っている。その道しるべのような道祖神の音。それが今の自分にとっての向井アコエレなのだと思う。

どの時代の向井アコエレか、と考えたのだけど、しかしどの時代の向井アコエレでもOKのような気がする。06年のフジロックでも、最近のフェスでも、この向井アコエレの弾き語りスタイルの演り方が変わっていないのだから。というか、向井アコエレの本質は、時代性とか流行とかとは実際無縁の所で弾き語っている唄うたいなのだ。冷凍感覚を抱えたどっかの誰かがふと立ち止って聞き染みる歌なのだ。すごいな向井は、と思う。失いたくない唄うたいだと思う。

 

未だに音楽に飽きていない自分自身に少しながら、ぢわぢわと驚いてもいる。

 

(カナリヤさんの日常報告シリーズに対する返歌でもあり)

Illusion Is Mine - Nothing is difficult to those who have the will

『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』感想その2

熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』一読目の感想 - 残響の足りない部屋

↑感想その1

 

著者さんのブログ

 

自分はもともと埼玉県の南東部某所、関東の国道沿いタウンのあたりに住んでいました。東武線を数駅くらいで東京都足立区に入り、10駅も過ぎれば上野あたりに乗り付けられるあたりです。感想その1で、在りし日の駅構内の汚ったねぇ側溝を描写しました。側溝の様子はだいたい上野駅も竹ノ塚も草加も似たようなもんでした。

現在、いろんな事情で自分はシマーネ農業王国というウェストサイドオブジパング~西日本~の僻地に住んでいます。後述しますが、すべてに納得して住んでいるわけではございませんが、現状ベターな選択肢、程度には納得はしています。

ところで、自分が幼少期を過ごしていた埼玉県南東部某所のあたりをレポ写真ったブログがありまして、ドゥーミーな眠れぬ夜更けに延々と写真や解説記事を読んでしまっていました。その街並みのその寂れっぷり、廃墟っぷりの凄いこと。自分も数年前、幼年期を過ごした故郷を今一度見てみん、と、このエリアを一通り自転車を借りて回ってみたのですが、まぁ、確かに相当寂れておりました。その数年前の実地見分を思うに、このレポ写真ブログの視点・筆致は少々書きすぎではないか?と故郷へのひいき目で思うものの、しかし……地続き的な納得性はあると言わざるを得ない……と思ってしまうのも事実で。そして、レポ写真ブログは、わが故郷に全く縁もゆかりもない方がレポートしているのですから、明らかにこのレポ写真ブログの筆致のほうが「客観的な姿」と言わざるを得ない。

今となっては、幼少期を過ごしたあの某所タウンに、自分の親族は一人も住んでいません。数年前再訪して、その事を改めて思い知り、そしてこの寂れ方の客観性をもって、いよいよ自分の故郷が失われていっているんだな、とつくづく思うようになりました。

現状、自分にしたら「そうか」としか言いようがない。

 

さらに言えば、某所タウンの中心地的なところが、現在アジアンタウン要素が強くなっていってる、とそのレポ写真ブログで読みました。現在わたしは趣味でフィリピノ語(タガログ語や英語をベースにしたフィリピンの公用語)を学んでいるのですが、レポブログの街頭写真の看板に書かれている文字を見て「おっ、ここサリサリ・ストアじゃないか(フィリピンのべんり雑貨屋みたいなもの)」みたいな情報がサラっとわかる程度には自分もフィリピノ語が身に付いたのか。

現在、全日本的に各地の町でアジアンクラスタ、ブラジリアンワーカーの流入が進んでいますよね。自分は今、シマーネ農業王国というところに住んでいますが、この土地でもブラジル人、ベトナム人、フィリピン人の出稼ぎ労働者がとても増えています。業務用スーパーの張り紙にブラジル・ポルトガル語が併記されているのにも普通になりました。

自分は外国語を趣味で学んでいるので、そういうフィリピノ語の文字やブラジル・ポルトガル語の文字を見ると、知的テンションがマジガチアゲ上がってぢーっと見てしまうのです。最近、多少読めるようになってきて、しばらく「よしよし」と自分を誉めてやります。ベトナム語の入門書もこないだ買ってきたのですが、まだまだチュ・クォック・グー(ベトナム語のラテン字表記)も覚えていない状態なのでまだまだ。

しかしフィリピノ語にしてもポルトガル語にしても流暢な会話はまだできないですね。その一点だけで自分にとってすでに外国人労働者の方々は尊敬に値するのです。自分はそこまでフィリピノ語やブラジル・ポルトガル語をしゃべれないぞー書けないぞー、と。フィリピン人やブラジル人の餓鬼にも劣るとはこのことだ。そして現状、英語がそこそこ通じる国でないと自分が生きていくのもムズい。ましてフィリピンやブラジルに行って生きていけるか、と想定するとさらにムズい。そう考えると余計に出稼ぎに来ているフィリピン人やベトナム人やブラジル人の方々を凄く思う。

そういったフィリピン人、ベトナム人、ブラジル人などの外国人労働者の「痕跡」を、埼玉県南東部タウンにおいても、シマーネ農業王国においても、一般民衆は「異物」と思っているようで。この国際化社会において、それらは異物。えっ、じゃあシマーネの方々、国際化じゃないほうがいいのですか?と問うたら、いやそうではない、と。国際化は歓迎だ、と。

でもさぁ、世間にフィリピノ語やブラジル・ポルトガル語の表記が増えることが「国際化」じゃないの?って問うたら、シマーネの皆さん、「それはちょっと……」っていうんですよね。矛盾していますね。しかし……みなさんの言うことというのは、つまり「欧米が浸透していくのが、正しい国際化」って無意識に定義してる節があって。フィリピンとかベトナムとかブラジルとかの経済的に日本より後進している所が流入してくるのは、「異物」として見てしまう感覚的定義。

現状、自分にしたら「そうか」としか言いようがない……。

 

例えば、上記のようにして国道沿いや団地の(ニュー)タウンは劣化していき、再開発がない限り、もとのように発展することはない。というか、この場合「リセット」と書くのが適当か。

(ニュー)タウンが劣化していく、というのは、抽象的な言い方になるが、汚濁や歪みや軋みが増え、インフラは古いものとなっていき、住む人はどんどん巣立っていく。どんどん、時間の流れに取り残されていく。そこに自己再生能力はない。まして、住んでいた住民が自主的に改善しようにも、その発端となる地域風土への愛がない。自分にしたって、あの埼玉県東南部のニュータウンを事情により離れさせられなかったら、こうまであのニュータウンに恋々と思慕しているかわからないところがある。

劣化していくニュータウンであるが、「都市として」止まるわけにはいかない。そのためにはいくつかの「めんどくささ」を受け入れないと、都市は都市として一定の活性を維持することが出来ないらしい。そのひとつが「コンプライアンス」の導入であり、もうひとつが外国人労働者クラスタの受け入れ。

コンプラとは何か?といったら、そりゃ「健康的で清潔」を志向する「道徳的な秩序ある社会」を達成するための……ルール、基準、相互監視、自主規制、「証拠」と「論理」をたてに相手を詰めていく正義手法、といった、まぁ、「不自由」ですわね。

そして外国人労働者クラスタは、労働者とあるだけあって、都市の稼働における熱である。都市というものを経済を回す稼働機関ととらえるならば、炉にくべられる何か、というか。上級国民が押しつける何かを担う人々、というか。

コンプラの徹底は、すなわち不寛容であるのは言うまでもないですが、ではどこまで徹底すればいいのか、というと、このあたりの「エンド・オブ・コンプラ」について議論がされたことはあったでしょうか。熊代氏の本書が沈鬱なのは、エンド・オブ・コンプラの行きつく地点を予測予言しているからであると思うのです。

精神医学にとって「不寛容」さ、というのが憎まれるものであるのは、今さら言うまでもないんです。でも、じゃあどうやって「寛容」になれるのか、っていうと、これはすごくムズい。日本社会が金欠になってる以上、どっかから資本駆動システムの「熱源」を引っ張ってこないとならない。ていうかせめてテメェらの苦労をどっかのだれかにおっかぶせたい。そーして寛容になれるんじゃね大発明!?って理屈。

……そうか、としか言いようがない。

そうか、そうか、つまり「貧乏」になったのだな、という指摘は正しい。

まあ自分としてもその議論の着地点はリアルでまっとうだな、と思うんですよ。日本だって貧乏になった。米国でトランプ大統領が大統領になったのも、自分は単純に米国が「貧乏」になったから、とシンプルに思っています。英国ブリクジットも。で、貧乏になったから、じゃあどうするか、っていうのがここからの議論だと思います。貧乏から目を背けて、余計に浪費するっていうのがいわゆる「貧困層」のパターンだ、っていうのは皆さんわかってるじゃないですか。

思うよわたしゃ、何よりメンテナンスが必要なんだ、と。これは工作趣味者としての意見でもあるし、外国語趣味学習者としての意見でもある。

社会においてそのメンテナンスは何か、というと、都市のインフラストラクチャだけじゃない。都市が変化していく風景をぢっと見つめる目や。かつて「平穏」があったとしたら、まずその平穏の手触りをしっかと心の中に留めて、じゃあこれからの平穏を作っていこう考えていこう、という意志や。皆さんお嫌いの「異物」と目している外国人労働者は本当に異物なのか。彼らには彼らの事情があって、こちらにはこちらの事情がある。少なくともちょっとだけ外国語をかじるだけでも、その「事情の大変さ」っていうのは、感情的に推察は出来る。しんどそうだな、程度でも。

こういったことをひとつひとつやってくほうが、はるかに建設的だと思う。多分自分が生きている間で変革するこたぁないとは思うけど。それでも。

でも今日も汚濁をぶっつぶすポリコレ合戦だったり、異物を排除する外国人差別だったり。もちろんそれだけ余裕・寛容がない、というのは、貧乏だから、その日が大変だから、ストレスたんまりだから、っていうので、今日もまた日々は過ぎる。

コロナ禍の社会は、自分からしたら「潔癖症が止まらないッ!」と見える。当然、潔癖症は止まらないものである。キレイキレイが病的に止まらないから潔癖症という不寛容なのである。

どうやったら「雑」になるのだろう?と思う。この場合の「雑」とは、都市のインフラをメンテナンスしながらも、雑然とした生き生きさが常にある状態で、かつ、いろんな種類のひとたちが雑に豊かに交わっている地点、を想定している。古い言葉で「雑民」というのを思い出す。誰もが雑民なのだと。それは日本上級国民が貧乏に堕ちた、という意味ではない。誰もがそもそも皆雑民なのだ、神聖スマートピープルはこの世にはそもそもいないのだ、というリアルな視点から始めないといけない。当然神聖スマートピープルのサブ従属ピープルもいない。「名誉白人」なんていない。誰もが日々のめんどくささに耐えているんだ、と。ある人はこころのやまいか。ある人は資金繰りか。ある人は家庭の事情か、ある人はどうしようもなく受け継いでしまった己の卑しいエゴか。

自分は今、シマーネ農業王国でなんとか暮らしています。いつ自分もコロナ村八分にされるかわかったもんじゃありません。自分は他人に期待することをどんどんやめています。他人に期待して、世間価値観を自分の中にインストールしていったら、どんどん自分がおかしくなっていってしまいそうです。多分、世間に飲み込まれたが最後、メンテナンスは真の意味では為されなくなるのでしょう。

自分は、手入れ、メンテナンスをしっかりしていたい。自分は非=社会的人間ですが、しかし社会の敵(反社会的)たろうとは思っていません。非=社会的であるくらいに距離をたもって、はじめて社会と落ち着いて関係を保てる。外国語を学ぶのもそうですし、社会風土風俗をぢーっと見てる、というのもそうです。

社会は劣化しているかどーかはともかくとして、貧乏にはなりました。でも、いやだからこそ、メンテナンスが大事だと心底思います。一発逆転という価値観を捨てましょう。多分、一発逆転は「貧乏」改善にも起こりませんし、「潔癖症推進」社会の改善にも起こりません。このブログを見ている方でメンタルヘルスを病んだ方々や精神科医の方々がどの程度いらっしゃるかわからないですが、こと潔癖症強迫性障害の治療で「一発逆転」はマジでなかったじゃないですかこんちくしょーーーーーーッ!(血涙

 

メンテは本当大事。多分メンテで経済がドカンとアゲアゲになることはないですが、でも下がることは……とここまで考えましたが、社会のみんなのコンプラって、皆さん「これがメンテだッ!」と思いながらやってんのかしら。多分そうなんだろうな。こわいな。

じゃあ正しいメンテ法って何かいな、っていうのですが。自分も知りたいっすよ。
せめてまず「神の一手(一発逆転)」はない、と認識し、地べたに座って一個一個。そんで余裕をもって自分にできるメンテをしていくほかないなーっていうごく当たり前の結論になり、それは皆さんもうすでにこの社会で皆やっていることで、その努力に頭がさがりますし、これ以上、を求めるのも酷だ。だからこそこの本の熊代氏も悩んでいる。社会のリソースは少ない。社会の雑民の精神的リソースも少ない。どうすりゃいいねん。

基本的に「多様性」は疲れる。

自分はこのブログで再三語っているように「全世界全時代全ジャンルの音楽を聞こう」と決心して早15年たちました。この音楽趣味(旅)の基本となっているのが、「世界は多様である」ことを当然として認識し、その当然さを「喜ぶ(愉悦する)」っていう態度なんですよね。これ、自分は当たり前のようにずーっと抱いている考えなんですが、結構奇跡的な考えでもあるな、と。だから自分すげぇって表明したい思いは、このブログを読んでる読者のみなさまが思ってるよりずっと「ない」です。

いやね、「多様性を楽しもう」ってあたりで決着結論できればいいんですよ。でも、現状みなさん、それ単純にできないじゃないですか。自分にしたって音楽や外国語趣味があるからそう思えてる、半ば強者の論理だ、っていう自覚はありますし。国際親善交流ってホント大事だなーってそういう文脈で思うんですけど。

だからやっぱりね、本書でも書かれているように、タイトルにある「健康」「清潔」「道徳」「秩序」っていうののアップデートが必要なんですよ。少なくともこれらを一回分解せにゃならん。本書は社会のスケッチをしていますが、本質はこの「分解」を狙っていると思う。機械をメンテするには一度分解しなくちゃならんでしょ的意味。

わたしたちは、もっと社会の構成「部品」を分解してみたらいいんですよ。いろいろ自分なりに分解していって、その部品のどっかに、愛おしいと思えるものがあったらめっけもんで。自分は音楽や外国語だった。あるいは都市の風景であったりとか(panpanya先生の漫画はほんと最高ですね)

あなたが何を愛するかはわかりませんが、少なくとも社会しゃかい、と大文字で大上段にたってメンテしようっ!っていうのは、実はちょっとしんどいんじゃないかと思うのですよ。もう社会の上から変革革命はちょっと置いておこう。たぶんポリコレが原理主義になるのはそのあたりのでっかい正義が悪さをしている。それよりはこうやって社会の諸相を部品として分解してみて、どっかに愛せるものが見つかったら、それを地道にメンテしていく。うん、このあたりが非=社会的な趣味人としての自分の結論として着地出来るとこですわ。

 

(熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』の感想はまだ続きます)