残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

娯楽の力を信じてない人はどっちかっていうと、生きるだけの豚

※この場合の「娯楽」とは、いわゆる「表現」「アート」「エンターテイメント」……ひとの手による創作物、を指します。クラシックもモンドリアンの抽象画もまどか☆マギカソニック・ユースも「全部」これにカテゴライズします。
 
 
娯楽はなんのために必要か?
これは、各娯楽ジャンルの特性によって、若干変わってくるかもしれませんが、自分にとっては「現実からの離陸」であります。
 
現実はクソゲーだ、という言葉が「神のみぞ知るセカイ」や「ノーゲーム・ノーライフ」あたりで語られるようになりましたが、自分の感覚としては「現実は苦痛であり地獄」と思うようになりました。
 
そしてそこから娯楽を求める……それは逃避であります。
このクソな現実から逃げる、という。
 
それはヒキーどころの話ではなく、ある意味ヘンリー・ダーガー的な現実否定&自己撞着の話ではないか?
いや、そうなんですけどね。
 
もっとも、他のひとにとっては娯楽ってものはそこまでではなく、あくまで「日常のスパイス」だと思います。
 
あっと、ここで「オタク」と「一般人」の区別っていうところであげられるとこだと思うんですが、この「日常のスパイス」の域で押さえられること、が一般人の定義っぽい感じかもしれんです。
 
オタクは、物語だったり音楽だったり、エロゲだったりを「ガチ」で望むことをこそ希求します。
ところめが、一般人はあくまで「日常に彩りを添える」。
 
オタクにしたら「もっと一生懸命になれよ!」という感じになるのでしょうが、一般人にしたら「何で?」になるでしょう。
 
そしてわたしからしたら、「何で?」に対してより多くの「何で?」です。だって、リアルって、クソじゃないですか。
 
謀略、権威、侮蔑、コンプレックス……さまざまの内的外的地獄に囲まれているセカイ。また、自分自身の病苦にさいなまれるセカイ。
こんなものを愛せるものか。
 
……さて。
そんなセカイですが、そんなセカイから、果実のように、花のように……汚濁に咲く睡蓮のような「美」が生まれるのも事実であります。
それは、このセカイのクソを担保にして美が生成されているかのようなシステムを想起するかのような。
 
だから、娯楽は前提として、リアル(現実)を必要とする。ここまでの話は簡単ですね。
 
だーからわたしはリアリティあふれる物語が嫌いなのだw
 
それを夢見がち、といわれるのだと思います。けどわたしは、積極的に現実を離陸したいわけです。
現実から離れるために。
 
これはわたしが幼少のころから、現実から離陸したい! と思っていました。
なぜなら、現実は、空想の世界に比べて、「自由」じゃない。
こんな自由じゃない現実はクソゲーだ(そのころにはクソゲーって言葉はありませんでしたが。ああ昭和60年代)

 

だから……わたしは、物語を愛する。
 
その一方で、わたしは物語を「現実に接続」したほうがいいのではないか、という感じもするのです。
ここで何回かいってるクンフー論というのも、その一環、というか大部分です。

現実に、娯楽で得られた知見を接続することにより、現実(己のリアル)をバージョンアップする。

 

「クンフー/祈り」試論(1) - 残響の足りない部屋

「クンフー/祈り」試論(2、後半) - 残響の足りない部屋

クンフー論は、物語や音楽を「自分に枷をかすかのように楽しむ」もので、自分でルールを設定して、毎日毎日、自分の「模型クンフー」「音楽クンフー」を重ねる毎日を、自分のナチュラルとして設定する、というのが大体の主旨ですが。
 
なぜそうするかというと、ひとつには「娯楽をもっと愛するため」
もうひとつは「娯楽に真剣に向き合うため」
さらには「娯楽を自分の身体にしみこませるため」
 
 
……っとっとっと。さらに本題からずれてってるような気がw
自分が言いたいのは、娯楽がなんでこの世において必要か、ってことで。
 
で、自分がなぜ娯楽を必要とするかについては書きましたね。
 
では、社会、人類が娯楽を必要とするのはなぜか、ということについて語ります。
 
人間にとって、娯楽は必要か?
これは、意味のない問いです。
なぜなら、前提として、テーゼとしてまずこの手のひとたちは「パンさえあれば生きていけるじゃない」みたいな、戦後直後のひとみたいなことを言うからです。
 
ですが。
音楽で、漫画で、腹は満たされません。それは確かだ。
しかし、心は、どんどん削られていくのです。
 
この世はクソゲーです。自分が思うようには、全然うまくいきません。
くだらない会議、くだらない接待、くだらないツキアイ……そういったものをしょうがなくやっていかなければなりません。
 
この世で生きていくうえで、こころってものは、どんどん削られていくのです。
それを、メシで回復するのも可能ですが、それは三日くらいメシを抜かして、それでパン一個を食べたときに「やった……俺生きてるよ……」と思うようなものです。
 
それ以前に、「三日くらいメシを抜かさざるを得ない状況」というのが、まず実存哲学的に「不条理」なセカイであるわけです。
まずこういう状況では、メシ以前に「俺はこの世界に望まれてないんだ……」と絶望の淵に立たされてしまいます。
そのような状況において、必要なのが娯楽なのです。
 
娯楽は、ひとのこころを満たします。メシは……自分がメシ産業で働いているからいえるんですが、メシは「一回の食事」でもって命をつなげることはできるんですが、一週間、一ヶ月先まで、命の尊厳、ひととしての思考の誇り、までをつなげることはムズいです。
だから、娯楽は、「精神」をつなげるメシなのです。
そういうことすら理解できない人間は、所詮ひとをアゴで使って使い捨てにするような人間です。
 
孤独は、ひとのこころを蝕みます。
娯楽は……おそらく娯楽だけが、ひとのこころを癒します。あるいはひとの愛もですが、しかし人というものに裏切られ続け、ひとに傷つけられてきたひとに対し、「もっと人を信じろ!」というのも暴論でしょう。
 
娯楽は、ひとそのものではありません。
しかし、ひとより「高位」の存在です。
ひとそのものではないだけに、「ひとがなしえること」よりも大きなことをなしてくれます。
 
第一ですね。
ドストエフスキーの小説が、ひとの偉大さを、世の中のン千万人にどれだけ与えたというのか。
「まおゆう」「ログ・ホライズン」がどれだけ、この世界を、地道ながらも堅実に改革していくんだ! という思いを抱かせてくれたか。
ソニー・ロリンズの「サキソフォン・コロッサス」がどれだけ、ひとの心に寄り添ってきたか。
 
まあ、世の中には娯楽が多すぎる、って意見もわかります。
どれから手をだしたらいいか、って具合に。
 
しかし。
それが世界の多様さなのです。
それをポストモダン的に「みんなとつながれる物語がナイヨー」と嘆くよりも、個人の逃げ場としての(塹壕としての)コンテンツを、個人的にほそぼそと探していくほうが……そしてその逃げ場で得られた栄養を、次の日の生活に生かしていくほうが、よほど「ひとのため」であり、「己のため」であります。
 
そのお助けをちょっとでもしたいなー、って感じで、昨日から音楽記事(どっちかというと初心者むけ)を書いてるんですが、いかがでしょう?
 
んでは。
「まおゆう」から、そこんとこを見事に言い当てた言葉を引用して今日はアデュー。

 

まおゆう魔王勇者 2忽鄰塔(クリルタイ)の陰謀

まおゆう魔王勇者 2忽鄰塔(クリルタイ)の陰謀

 

 

 

貴族子弟「ぼかぁ、雅を信じていますからね。
 連中は貴族のくせに、雅も文化も信じていやしないのです」
 
雪の女王「文化……」
 
貴族子弟「歌だの踊りだの芸術だのってのは
 決して馬鹿にした物ではないのです。
 
 犬がドレスを着ますか? 猫が絵を描きますか?
 熊が詩作をしますか? 豚が歌劇を演じますか?
 そんなことをするのは魂を持つ我らだけですよ。
 これぞ人間らしいと云うものです。
 無駄に見えても、ちゃぁんと意味があるんです。
 
 わたし達がわたし達であり、
 わたし達の今日をわたし達の明日につなげるために
 文化と洗練は続いていくんですよ。
 貴族に生まれたのなら、
 それくらい信じないでどうするんでしょうね?
 
 下からおだてられないと貴族を続けていけないのなら
 とっとと商人にでも軍人にでもなってしまえばよいのに。
 生まれただけで貴族面しているから、これっくらいのことで
 動揺するんですよ。
 “事はすべてエレガントに運べ”と祖母も云ってました」
 

引用ここまで。 

 

この世には、娯楽ばっかりしているひとたちがいますが、そのどれだけが娯楽の力を信じて、その娯楽でもって精神を明日へとつなげようとしているでしょう。

それができないようでは……たとえtwitterや2chでキレた意見を言ったところで、豚……ただ他人をヘイトするだけの、豚でしょう。