自分のサイト(ブログ)に定期客がくるか?
これは命題ともいえるでしょう。
で、来ない場合。
でも、それがなぜか(なぜこないか)をわかる、というのはなかなかムズいものです。だってわかってたら、こういう状況(サイトになかなか客がこない悲惨な)
にはなってないしなぁ(笑)
いやいや笑いごっちゃなく。
たぶん一番の命題的に問題視されるのは
「このブログにはなにも新たな社会的価値がない」
ってことなんじゃないか、って思います。そりゃあ、新たな社会的価値がなければ
きませんわなあ、客……
「新たな社会的価値がないとだめなんですか!2番じゃだめなんですか!」
的なコメントやらブクマやらがつきそうですが(蓮舫氏的に)、ダメでしょう。やっぱ。
あなたが読者のこと考えてくださいよ。
2番のとこ、わざわざググってまでいかないっしょ。
なぜその「命題を一番に取り上げたブログ」(仮名称)が価値があるかっちゅうと、命題を一番に取り上げたブログだからだ、っちゅうトートロジーになっちゃっておいウロボロス、となるのですがw
だって、それが「イノベーション」の意味だし。
いいや、この「一番論争」は。どうせいくらいっても「2番じゃダメなんですか!」的なひとがくるし。(これ即ち「緑色の豆腐もあります」的物言いで、ネットで一番価値のない物言いでもあります)
非生産的だ。ちきりん氏もそういってた。たしか。そんじゃ(ry
いやいやそんじゃーねしてどうするw俺がいいたいことはまだこっから始まったばかりだ俺の男坂は……と小ネタをいれたところで、本題にはいります。
社会的価値を新たにつけるにはどうしたらいいか?
どうもなりません!(笑)
だって、それがその人の努力の成果ですし、あるいは才能の果実ですし……
そんなことを考える暇があったら…要するにギミック・メソッド的なことを考える暇があったら、手を動かして、足を運んで、目を働かして「新しい」なにかを、見つけないといけないわけです。自明です。
あっと、そうそう、「新しい」の定義なんですが、取材もと……「ネタもと」は、新しかろうが古かろうがいいんです。
たとえば「今話題の○○事件だが、これに対する気のきいたコメントを、ン千年前の孔子はこーいってた!」とかってね。
ていうかこれ、学問……哲学、文学、思想の基本的メソッドなんです。温故知新といえますし、あるいは脱構築、あるいは読み直し。
科学だと「新しい」は、古いのの否定のイノベーションですが、人文だと古いのから「発掘」するのはいくらでもアリです。
そこらへんを深く考えると、「人間って進歩しないのね……」とネガ思考に陥ってしまうから、そこは危険だ!(笑)
そう、「新しい」の定義ですが、「知識的に新しい」と、「感覚的に新しい」のふたつがあります。
先の例だと、知識的には新しいとこは、まあ「○○事件」と「孔子」を組み合わせる人文的メソッドですが、感覚的には「孔子」を出してくるとこです。
ようは「おもしろおかしく伝える」ってことです。ネタ化するともいう。
「えー、あの孔子ってアレでしょ、教科書で習った。忘れたけど。へー、キレたこといってるじゃん」みたいなことを、読者に与えられたら、勝ちであり、価値です。
まだ見ぬ新たな知見と、まだ見ぬおもしろさ。どっちかあれば価値であり勝ちです。両方あれば大勝利です。それでブログ(HP)にひとがこなきゃ、世が間違ってて、見る目なしってことです。後世のひとから「あの時代のあいつらバカじゃねーの?」って叩かれます。
じゃあこのブログ、それができてるの? できてねーんですな……
たとえば、こないだ、今をときめくカゲプロのアルバムの批評をやったんですよ。
じん(自然の敵P)「メカクシティデイズ」 - 残響の足りない部屋
これ、くるかなー、って思ったんですが、反応がない。非常にない。
なんでかなー、と思って自己分析したんですが、まず「楽曲自体の音楽情報の分析批評」ってのが、カゲプロファンには「知ったことかのブルシット!」なんですね。彼らは音楽の物語とかキャラを求めてるんであって、分析に価値がないらしい。この世界はどうやら少しヤバ(世界事情的略
それはカゲプロ厨の罪じゃなくて、俺の罪なんですな。求められるところを把握してなくて、俺の分析オナニュイ(フランス語っぽく)を繰り広げたところの。でもいつか価値がでるって信じてる! アーン信じてる!
ただもうひとつのわたしの罪ってのが、そのテキストがおもしろくなかった、ってことです。
そう、ただでさえ、分析なんちゅうのは、おもしろくないもので。だからこそ、エンターテイメント性が必要。
そこんとこの努力を惜しんで……というかたいして考えてなかった俺が悪かった。これはカゲプロ厨とかいってられなかった。
……というわけで、話題のものを取り扱ったって、バズるわけじゃないってこと。いや、カゲプロ、単純に曲がいいから批評したんですが。ほんとう。
あとね、ある程度下品じゃなくちゃアカンのかしらね。
といっても、この場合の下品ってのは、「アジテーションする」って意味で。煽り文をところどころに盛り込むって意味で。
まず記事タイトル。そんでもって、冒頭のとこ(だいたいはてブやtwitterあたりで冒頭転載される10文字くらい)。ここんとこをかーなーり下品にしなくちゃ、今の世の中、ひとは寄ってこないらしい。お上品なのは死ねってか。
まあ、売文なんてそんなもんかしらね……って、このブログで今のところ課金するつもりはないですが、そもそも新しい価値を与える、とは、ある種のサービス業です。ある種のサービス業は、メタファーとして、売春婦にすげー近いです。そのことは前にこうかきました
連載コラム「21世紀の小説家(という仕事=ビジネス)」2 - 残響の足りない部屋
だから、とびっきり親切になる必要がある。
読者は「これくらい知ってるだろう」って思いこんでたらだめっす。知らないから、検索したり、リンクをたどってきてくれるわけです、みんな。
だから、とびっきり親切になる必要がある。
文章を丁寧に、とりあげる知識を、前提から丁寧に。投げっぱなし的な感じで書いてたら、誰も「あ、このひと頼りになるわ」って思わないでしょうし。
親切になるってことは、「負ける」ってことではないです。むしろ……負ける、と思うようなひとは、文章書かないほうがいいかもし
れません。
だって、そのような勝負事は、文章道とはかけ離れていて。文章の道とは……誰かに負けるか、ではなく、自分に克つか、です。
そう、自分の文書が、絶えず昨日までの自分を勝ち下せるか。問題はそこです。
ほら、よくあるでしょう? 他人をたえずヘイトしているような文書。あるいはブログ。
それがそのひとにとって、マシな知見をひとに……いや、己に与えることができたら、それで勝ちです。でも、それが一切なかったら(要するにオナニュイだ)、負けです。
そうでなかったら文章……いや、おそらくひとのあらゆる営為は無意味となってしまいます。少なくとも、絶えず昨日までの自分を下すこと。
たとえ、過去の黄金時代が、自分の絶頂だったとしても……いや、絶頂だったか
らこそ、よけいに「今~これから」を、勝っていく必要があるのです。
そうしなかったら、もう、ずっと、過去に縛られ続けるひとになっちゃうじゃないですか。ましてや、「これから」の延びしろがあるひとだったら、よけいに書いていかなくちゃならない。正しい方向へと。
こうなってくるとクンフー論だな……
クンフー論。それは手段を目的化し「楽しむ」を追求すること(13488文字) - 猫箱ただひとつ。
まあ、「今日の自分は、昨日の自分を下せたか」というのは、この論の本筋からはずれ始めたので、なんか今回はここで終わりとします。こういう適当さがブログ道だ!(笑)