残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

日記10/18 新キャンプギア、AI絵と哲学と優しさ

●冬キャン・ギア(USB電気毛布)

先日のキャンプ記事の続きです。

modernclothes24music.hatenablog.com

My New Gear……ということで、USB電気毛布です。いや、今週末行く隣町の山林キャンプ場なのですが、当日の最低気温を天気予報で見たら、どうも8~9℃っていうじゃないですか。寒いですね。現在冬はおろか晩秋までもいかずの秋ですが、どうも冷え込みが急。

冬キャンプの経験はございます。それ用の装備も、もちろん備えております。冬用のキングサイズ寝袋(わたくしの図体がでかいもので……)を使いますし、ホッカイロも持っていきます。服も冬用のを着ていきます。ですが、それでもまだ不安。一年ぶりのキャンプということもありますし。この不安がるビビリ精神は、キャンプというレジャーにおいては安全側の良い傾向なのでしょう。しかしそれでも、不安に苛まれるのはよくないですし、「準備をしとけばよかったーッ」と後悔もしたくない。

なので、本日ホームセンタでYAMAZENのUSB給電式電気毛布を買ってきました。モバイルバッテリから給電するポータブル・タイプです。今この日記記事を打鍵している最中も、試験的に膝にかけておりますが、あったかいナリィ……。これは「良い」ですね。寝袋の中にも入れられますし、キャンプ椅子に座る時のブランケットとしても使えます。冬に作業机でまんがを描く時にも使えます。これまで、冬、机と椅子で作業をするのは寒かった……(当然の理屈)

modernclothes24music.hatenablog.com

先日、モバイルバッテリも大容量のを2個買いました。それまで使っていたポータブルのモバイルバッテリが、さすがに少容量で、キャンプには心もとなかったのです。長年使用しているので、供給電力にも不安がありました。今回、USB電気毛布もこの大容量が2個あれば大丈夫でしょう。

 

●続・AI絵の話

modernclothes24music.hatenablog.com

この話題(AI絵)、いま私はほとんど追っていないです。それでも聞こえてくる話は、AIの進化が凄いみたいですね。

ところで、このAI絵でこんなに話題になる……ということで思うのが、「結局多くの人は、ご自身であまり絵を描きたくなかったのかな」ということです。たぶんね。

絵を描きたいというより、絵を「欲しい」という。結果としての絵をこよなく愛す反面、手段としての絵を愛せず……という。

その気持ちは凄くよくわかります。とくにそれが「絵が描けないコンプレックス」に基づくものだとしたら、私の同胞と申す他ありません。自分の画力の低さに絶望し、しかしそれでも絵が「欲しい」、というお話は、本当によくわかる。本当に、私の同胞です。自分の画力をスルーして絵を描くことが出来たのなら、それはどんなに夢の魔法かと。

たまたま、今の私は「絵を描くことを趣味に出来んものか」と考えて、現在絵の勉強をしています。歩みは遅いです。全然絵が上手く描けない。絵という「手段」を本当に自分は趣味として愛せるまでに育てあげられんのかい?と何度も思います。でも、自分は絵を描いてみたいのです。「絵を描く人生」を送ってみたい。

 

AI絵の問題は実は哲学の領域に足を踏み入れているのだと思います。

哲学者は哲学の問題解決を、他人まかせに出来ないのだ、と言う話があります。「俺(他の哲学者)がこの問題はここまで解決しておいたから、お前(哲学者)はここまでの思考をスルーしても良いよ」という訳にはいかない、という話です。

これで言うなら、科学は「積み重ね」が出来ます。「俺(他の科学者)がここまで考えておいたから、お前はここまでの思考をスルーしても良いよ」ということが成り立つジャンルなのです。「巨人の肩に乗る」ことが出来る。ところが、哲学はそうはいかない。

哲学者が問題を抱えるのは、その哲学者自身の実存に関わってくる問題である。哲学者自身が解決を導き出して納得せねば、他人にどう言われても、自分は納得しない。出来ない。例えるなら、「俺はカレーをここまで食べておいたから、君はここからカレーを食べていこう」と言われるのに等しい不条理がある……という話。

これに似たところが、私とAI絵を巡る話であるのです。焦点は「私が絵を描くこと」にあって、AIが絵を描いても、「私が絵を描きたい気持ち」は無くならないのです。いや、もっと渇いて、餓えることになるのだと思います。なぜなら、「私が絵を描いていない」からです。私がやらなくちゃ、渇きが満たせないジャンルがあり、そういう人間がいます。私であったり、あるいは世の中にもこういう人間がそれなりに居るはず。絵に執着する……呪われた人間が。

 

さて一般論。絵が描けない、という現実を突きつけられて、己の無力感というか、敗北感に触れることになります。これは、学校において勉強が出来ない、とか、運動が出来ない、とかと同じものです。たまたま、現代社会では「絵が描けない」ことが、人間性の否定とは結び付かないので、絵が描けなくても差別されることはありません。それが勉強(学問)だったらそうはいかない、という。

私は今でこそそれなりに本を読み、勉強をする人間です(と思う)。絵を描くにしたって、まず画法書から買い込みましたからね。でも、そうであるがゆえに、ある方面での優しさというものが欠如していっている人間だ、ということを、最近よく自覚します。

たまたま私は、絵が描けなくても良い社会で生き、たまたま私は、勉強・学問が苦ではないように発達した。しかしそれが故に、「勉強をするだけで苦痛、敗北感、差別感を味わう」人たちの気持ちを忘れていた。

私だって昔は、数学とか全然出来なかっただろう、と。たまたま大学時代に自分なりの勉強の仕方を覚えたから、独学で数学に親しむ今がある。そして、数学を苦手としなくなったから、かつての理系コンプレックス(アレルギー)を忘れようとしている。愚かだった時代、みたいに。

優しさがない。おそらく、AI絵を巡る議論にも、この私と同じように優しさがない。優しさの無い議論は、どうにも0か100かになりやすい。そこにコンプレックスとエゴが付与されると、もう蟲毒だ。

AI絵の議論に対して、私はたまたま「絵を描くことを趣味にしてみたい」という気持ちがあるから、自分自身が絵を描く理由はきちんとあるのだ、という立場になれている。そういう立場上、まだ精神安定は良い。自分自身で絵を描く勉強をし、作品を作っていれば良いのだから。

でも、「とにかく絵が欲しいッ!」という人や、「AIの方が楽に絵が出来てしまう、くくやしい……」という人、「AIに自分の仕事や存在意義が脅かされるッ!」と焦る絵師の話を聞くと、やはりこの問題と議論に、優しさが欠けている、と思う。そして私自身の立場がのんきなものかもしれない、とも。

答えは出ませんね。ともかく、「私は」絵が上手くなりたい、と思う。なんのために絵が上手くなりたいのか。絵で思考したい、絵で楽しみたい。絵で「自由」になりたい。それらは、私自身が描かなければ得られない価値なのです。まぁ、渇きや餓えを癒したい、と言うこの気持ち……絵の呪い。これを強迫的・焦燥的に解決しようッ!って考えるのも、また問題なので、長いスパンでもってじっくりと絵を学んでいきたいと思います(肝に銘じる)。

ブンドド工作少年の人生は30年も続く

私(ブログ筆者)は、ただ今36歳です。もうそろそろ来(きた)る10/24に37歳です。

ところで、私が模型に初めて触ったのは、3~4歳の時の元祖SDゲルググです(キット対象年齢10歳以上)。そこから模型でブンドド遊びをする人生がはじまりました。SDゲルググは親に作ってもらったもので、自分自身でプラモを作るようになったのは、もうちょっと後ですね。自分で作るようになったのは、1991年のSD頑駄無……地上最強編の時あたりからかな。6~7歳の頃ってことですか。

ということは、模型人生30年ですか。まさかここまで自分の模型ブンドドが続くとは思いませんでした。

まぁ、何度か途中で止めた模型趣味ではありますが、結局いつかは復帰している。そんなわけで私は自分のことを出戻りモデラーと思っています。別にその事で引け目は感じておりませんし、何より私が今も模型を続けていられることは嬉しく思っています。

そうは言うものの……経年の実感がないのも事実。30年経ったとはいえ、私が模型を作る時の実感覚(趣味感覚)は、今も小学4、5年生のままで止まっている感がございまして。「ええっ、SEEDってそんな前なの?」。前なんだよ。20年は前なんだよ。

●ブンドド「なんか」

模型でブンドドなんかを30年ねぇ……。「なんか」と書いているように、昔から私は模型を改造したり、ブンドドしたりするのを、どこか幼稚というか、低級な遊びと思っていました。世の中のモデラーは凄い作品を作るし、ジオラマを作るし。フィギュアも凄いし、ドールハウスも凄い。それに引き換え、私はブンドドである。幼児性の極みではないか。結局ブンドドするために、作ったキットもすぐにバラしてミキシングするし。だからろくすっぽ完成品が残っていない。

ただ、そんなことを何十年もやってきているのだから「立体物を手で触って自由に発想する」ことだけは長けているらしい。それでストレスを感じたことは一切ないし、手慰みをしていればきっと何かを発想するだろう、っていう無意味な自信だけはある。これが……これが自分の特技なのか。

正直、絵を描ける特技の方がよかったよナー、と思ってしまいますが(苦笑)。それでも、子供の頃、絵よりも模型をやっていて、結局未だに模型の方がストレスフリーだという現実。「えーっ」と思ってしまうところがございますが……でも、ささやかなりとはいえ、ストレスフリーに出来る特技があるのは、人生よかったのだ……と納得させましょう。うーん……。

思えば、私が子供の頃、すでに周りの子供はビデオゲームばかりしていて、手を汚して模型を作るという子供は、かなり少なかったように記憶しています。そういえば、模型屋で同級生・クラスメイトと会ったことないな……。今さら気づきましたが。

そんな風に、子供の頃から自分の世界、箱庭でブンドドを繰り返してまいりました。うん……ブンドドや模型改造に費やした時間は、10000時間なんてとっくの昔に越えていますね。今まで考えたこともなかったですが。だってブンドド「なんか」ですもの。誰に自慢できる趣味でもない。

でも、趣味を他人に自慢しなくちゃいけないのか?と考えたら、全くそんなことはないですね。自分も昔は承認欲求がありました。けど、今、承認&自慢よりも、ストレスを解消できたらそれで良いや、と考えたら……結局子供の頃のブンドドに戻ってきてしまっているのです。結局これかよ。でも、自分はこれでいいや、と今は思える。「私が今も模型を続けていられることは嬉しく思っています」と先に書きましたが、こういう文脈というか、今までの歴史があって、思えていることです。

●最近の人形工作

最近は、オリジナルの人形を作っています。もちろんドールとまではいきませんが、オリジナルキャラを作っています。造形用粘土にポリキャップを仕込んで素体を作り、プラモデルのパーツをおもいっきりバラして、人形の小物や服に見立てて付ける。また、紙で髪の毛を作ったり(駄洒落じゃないよ)、布で服を作ったり。

オリジナル人形の素体(ボディ。黒いのがポリキャップ)

そう書くと、模型人生が遠くまできたような気もしますが、やっていることは結局相も変わらずブンドドなのでした。このオリジナル人形も、多少ヴィネット的なミニジオラマに配置することは考えているが、それでもやっぱり部屋でブンドドして遊ぶ。気に入らなくなったら即座に改造する。

そんな風にして、ブンドド工作少年の人生は続く。今は、オリジナル人形のためのオリジナルパーツを工作するために、取っておいたランナーを切り刻んでいます。プラ棒にしたり、加工したりね。しかし、箱に入っているこのランナーを見て「どうすんだこれ……」と思ってしまうのも否定しない。

どうすんだこれ その1

どうすんだこれ その2

また、最近は、ガンプラなどからパーツをもぎとるのはいつもの事ながら、そのもぎとりパーツを小さなケースに入れて、ちゃんと管理しようとしているのですよ。もちろん自作オリジナル人形のためです。(ケースの上のは針金です。もちろん人形作成に使用)

パーツBOX(小)

こういうことが出来るようになったことに、自分は大人になったという実感をしみじみ持つのだよなぁ……。えっ、小学生の餓鬼でもやってる? はい、まことその通りですね。返す言葉もございません。

 

●ドール特撮写真

それから、ドールでこういう特撮写真を撮ったりしています。この背景は100均で買った背景ボードです。今は便利ですね……。

↑ 最後のこの植物は、模型ではなくて実際の植物・ミニ園芸です。ドールを立たせてみました。

また、今は背景美術を自分で描くこともやっています。この空の背景がそれです。

30MM、エスポジットβ

こういうのはストレスなく楽しく出来ますね。スマホで撮って、フィルタをかけて画像編集をしています。
また、自作の撮影ブースも作っちゃったり。

肖像 その1

肖像 その2

この2枚の肖像写真は気に入っていますね。こういうのも私の中ではブンドドなんですよ。

 

●参考記事

modernclothes24music.hatenablog.com

↑ 安全第一は大事ですね。

modernclothes24music.hatenablog.com

↑ 「結局、箱庭工作と音楽かよ」というこの気持ちは、悪いものではないです。

キャンプのはなし(初心にかえって……)

2018年のアニメ/漫画「ゆるキャン△」に安く影響されて、時間をかけてキャンプ道具を買いそろえ、私は2019年の10月末からキャンプをはじめました。

アニメ『ゆるキャン△』ポータルサイト

 

いまは2022年の秋ですが、なんだかんだでこれまで7回キャンプ(野営宿泊)をし、来週に8回目のキャンプをします。一応これまでキャンプ野営経験を数えてまいりましたが、もう数えるのやめても良いな……、と思えるくらいには、継続している趣味・レジャーと言えるのではないでしょうか。

だいたいこんな感じ

●ソロキャン派です

私のキャンプスタイル……と言えるほど大したものではございませんが、きさまのスタイルはソロキャンorグルキャン(グループキャンプ)のどちらか?といわれたら、間違いなくソロキャン派です。初期の志摩リンの如く、いままで他人とキャンプをしたことのない人間です。

自然のなかで、孤独を味わい、楽しみたくてキャンプをしています。神経ビリンビリンな社会やインターネットの喧騒を遠く離れ、ゆるやかに時間が過ぎていくのを楽しみます。癒される。

森林にしずむ夕景

日常の、ばかやろーっ!(と海に叫ぶ)

山の中腹の池

 

高い樹々より落つるこもれび

●今までに書いたキャンプレポート

redselrla.com

↑ 第3回 臨海キャンプ場(未完レポート)

 

http://redselrla.com/analoghp/camp5th/index.html

↑ 第5回 渓谷キャンプ場

 

redselrla.com

↑ 第6回 森林キャンプ場

 

森のなか

youtu.be

↑ 自分で録画した動画をyoutubeにupしました。

●怪我をしてもひとり

尾崎放哉か。しかし、ソロキャンをするほどに身に染みて思うのが、このことですね。ソロである以上、すべて自己責任。孤独を楽しむと言っておきながら、「さびしいよぅ」なんて言えるはずがない。それ以前に、自分ひとりの状況下で、何か怪我でもあったり、獣とのトラブルがあったりしても、それは自分がなんとかしないといけないのです。

自分自身の自力(地力)が試されるとは、まさにこのことです。あらゆる悪状況を想定する想像力と、それに対応しきるだけのアウトドア・サバイバル技術や体力、そしてアドリブ対応力や決断力を養わねばなりません。これは大げさに言っているのではなく、キャンプの経験を重ねれば重ねるほど、「危機管理」を疎かにしてはいけないな、と強く思います。いや、まちカドまぞくのシャミ子の危機管理フォームじゃなくてね。

しかし、志摩リンの祖父の箴言慣れてきた頃が一番危険」とは、まさに本当にそうだ、と思いますね。実際、去年最後にやったキャンプ(第7回。場所はこちら)は、全くトラブルなく、あまりにスムーズに楽しめたキャンプでした。強いてトラブルがあったといえば、キャンプ前に右手の指に深爪をしてしまったくらい……。

それでも、その時そんなユルい状況であっても、「今、自分は油断している」と思えていました。明らかにキャンプに慣れて、油断している……。スムーズにキャンプが行えるくらいには、経験を積んだのかもしれませんが、そうであったとしても、自分の心の中に「慣れ」が巣くっているのを認識してしまいました。

 

●初心にかえって……

来週のキャンプは、隣町の山林のキャンプ場で、今まで全く行ったことがありません。事前情報はネットの公式サイトと、家族が昔、キャンプ場の近くを車で通りかかってチラ見した情報、そして天気予報、といったところ。キャンプ場のルートの途中までは、何度も行ったことはあるのですが……もう少し広域の情報を入手しておく必要があるかもですね。

本日、キャンプの一週間前ですが、物置からキャンプ道具を出して、風を通しました。カビや虫はなく、道具に破損もなく。あとはパッキングですね。

何より、キャンプ当日まで、身体を仕上げていく必要があります。前より太った……というのもそうですが、なにより風邪を引いてはいけないのです。最近、冷え込んでまいりました。ここで風邪をひいたら、キャンプどころではない話です。

そういう風にひとつづつ、キャンプはじめたての頃のように初心に返って準備をするのは、きっと自分にとって必要なことなのでしょう。炎に薪をくべるように、しっかりと、かつ慎重に。

youtu.be

↑ 自分で録画した焚き火の様子です。

 

それから、キャンプご飯がいつしか代わり映えのしない献立になってしまっているのもちょっと、ですね……。簡易ラーメンかおにぎりか、って具合です。一度、何を血迷ったかおでんを作ったことがありましたが、実にキャンプ向きでない食事でした……(汗)

簡易ラメーン

実は飯盒でご飯を炊いたことがありません。デイキャン(日中キャンプ)もしたことがありません。最初に書いたように、他人と一緒にキャンプをしたこともありません。なんだ、経験があるように書いてきましたが、まだまだ経験不足ではないですか。そんなものです。何事においても。

経験不足と悪い予測にビビるのではなく、そういうことも踏まえてキャンプを楽しめるようになると、よいですよね……。

 

●参考記事

modernclothes24music.hatenablog.com

↑ 自分がキャンプをする理由というか、思想の大本的にはこんな感じ。けっこう妄想的。

 

www1.odn.ne.jp

↑「Nagale's Homepage「岳流」」内、キノコ写真館。
畏友・Nagaleさんの日記やtwitterでのアウトドアレポートを楽しく読んでいます。

tinyplaza.link

↑ 「Marumaru's TinyPlaza」内、キャンプレポート。
去年よりキャンプを始められた畏友・まるまるさんは旺盛にキャンプをされ、楽しいレポートを書いておられます。

 

www.hotpepper.jp

www.youtube.com

↑ 人間椅子・和嶋氏を、誠に勝手ながら極個人的にキャンプの師と勝手に仰がせていただいております。

 

2020年冬の日記より「絵をめんどくさがらずに」

先日の記事(ブログ日記)からの実践として、以下、リアルアナログノート日記からのネタの抜粋を、文章として展開していってみます。

modernclothes24music.hatenablog.com

 

2020年12月の日記から

「絵をめんどくさがらずに」

2年前の自分が、このようなメッセージを未来の自分に書き残していた。

絵をめんどくさがらずに」。まさにその通り……です。絵をめんどくさがるから、日々、絵から逃げてしまう自分が居る。そうして逃げ続けた結果が、この「絵・漫画が描けないコンプレックス」だ。触ればアツくなるほど熱されてしまった嫉妬心だ。

結局、私はめんどくさがりやなのだと思う。つい、楽をしたがる。何かを作っても、雰囲気でごまかす癖がついてしまっている。雰囲気だけでも醸し出せれば重畳?励ましジャークユです(Дякую ウクライナ語で「ありがと」)。でも、肝心の地力(画力)はつきませんよね。

絵に対する意識を「めんどくさい」にしないこと。スモールステップを設定して、ちょこっとづつでも絵を描くことに親しんでいくこと。

 

それから、当時の日記のメッセージの下部に、良いことを書いていますね。「イメージで描かない」。資料を用意せず、脳内のイメージでちゃっちゃと描こうとするのをやめなさい、という戒めです。これも実に正しい。

資料を用意せず、イメージだけでちゃっちゃと描く……つまり「形をきちんと見ないで描く」ということをすれば、私程度の画力で出来るものは、当然、良くない絵しか出来ません。

この「(資料を見ずに描いた)良くない絵」の何が悪いって、他人からバカにされることよりも、もっともっと以前のキツさとして、「自分で描いた絵を愛せない」ってところなんですね。描いて、その結果が徒労感のみで終わる、というのは、趣味として大変よろしくない結果です。こういう状況は避けねばならない。

そのためには何をすれば良いか? そう、「イメージ(だけ)で描かない」「ちゃんと資料を用意して、資料を良く見て描く」ということをすれば良いのです。明確ですね。絵は、この準備においても、めんどくさがってはいけないのですね……めんどくささは、自分をいろんな手段で殺すな、と思った次第です。

 

路上の乗り上げブロック

2020年の冬。panpanya先生の漫画を読み始めて1年以上。路上観察という観点が自分の中に染み付いた頃合いです。こういう風に路上のアイテムをスケッチしていました。今より真面目だな……。絵としてもそんなに悪くないし……やっぱり資料をちゃんと見て描く、ということの大切さが身に染みます。

 

階段の踊り場、街灯

なんか今よりも立体感を意識して模写スケッチ練習していたッ! これもまた路上観察的な観点からのスケッチです。
階段の踊り場の奥は、窓を描いたつもりでした。パースの狂いはありますが、しかし「階段を描きたい」という気持ちは確かにありました。

 

路上の雑草、小さい花

この絵、好き。筆ペンでささっと描いた路上の草花スケッチですが、なんか平和で穏やかな心持ちのある絵です。

 

やっぱり、絵を、少しずつでも頑張っていきたいですね……!
2020年の当時は、まだ漫画作品を一冊も描けていませんでした。それから考えると、今は2冊も漫画同人誌を作れたのです。進歩ですよ。そういう風に、自分の進歩を自身で噛みしめて、満足し、そして今日や明日のお絵描きに繋げていきたいですね。

おお、なんだかこの日記読み返し&ネタの文章展開、凄く精神衛生に良いですね……!博愛という考えが頭の中に浮かぶ。ふと思えば、ロシア語では「世界」を表す言葉と、「平和」という言葉が同じで、「Мир(ミール)」という単語で表します。世界に平和を、ミールィ・ミール。そんなことまで今想起してしまいました。

明らかに飛躍しすぎた意識で失礼しました。お絵描きに大事なのは、やっぱり一歩一歩ですね。スモールステップ、話が最初に戻りました。そしてやはりその精神からすると、一番の敵は、「めんどくさがる」ことですね。実は世界平和や外交問題においても、「めんどくさがる」ことこそが、実は非常な敵というか悪というか。簡単に言うと、相手との対話をめんどくさがること。これが本当の敵、悪なのですね。おお、絵の話が世界情勢の話になるとはこのザンキョの目をもってしても予想つかず……。

日記0926 ノート日記11年分とネタの文章化

すこし、文章の練習をしたいと思った。そのために、自分の書きつけた11年間のメモ日記は役に立つと思った。

 

今年のはじめ、「自分の文章が嫌い」という記事を書いた。以下のリンクです。

自分の文章が反吐が出るほど嫌いだから、自分を変えていく - 残響の足りない部屋

この記事では「私の書く文章の薄っぺらさは、私自身がしっかり思考していないからだ。そんな自分を変えていかなければならない」という内容を書きました。この内容は、今も間違ったことではないと思っている。

けれど、今回思う「文章の練習」をしたい旨は、上記の記事の「思考せねば・自身を変えねば」というのとは、今回ちょっと違ったところから来ている。

 

2011年あたりから、私は日々の生活の中で、思いついたこと&気になることをノートにメモることをはじめた。なんだかんだで11年続いているらしい。だからノートは何十冊にもなっている。ミスプリント用紙の裏紙に書きつけたものや、Pomeraワープロ専用機)に打鍵したものもある。それらを合計して換算してもノート100冊にはいかないとは思うが、ノートが何十冊にもなっているのは事実である。

もちろん、このメモは大したことを書いているのではない。ためしにこの数日ぶんから拾ってみるが…… (「←」は読み返しての註やツッコミ)

  • カタリア・ウー(語り合う) ←創作箱庭物語の人名でも考えていたらしい
  • カリギュラ・ライクな彼氏をギュウッとラヴ、カレ牛 ←早口言葉を思いついたらしい
  • ping pong ピン・ポ~ン ←チャイム音が気になったらしい。創作箱庭物語に使えるとでも思っているのか
  • 自分と関わりのある人間がどんどん私の人生から退場していくな ←祖母の容態が悪くなり入院し、病状が悪化している件
  • 漫然と喰ろうている ←夜中、夜食を食べ過ぎたらしい
  • FF9のフィールド曲(あの丘を越えて)とFF3の悠久の風って似てね? ←あとで聞き返したらそんなに似てなかった
  • ミネラルの内容:カルシウム、マンガン、鉄、リン、コバルト、硫黄、カリウムマグネシウム、etc…… ←人体の代謝・循環機能についての再確認メモ
  • panpanya先生の新刊まであと数日 ←たのしみ

こんなのがずっと続くメモが、私の日記というか日誌というか。量だけ多いただのメモ帳ではないか? いや、まったくその通りですね。

箇条書きどころか、「思いついたこと&気になったこと」をただメモって羅列しているだけ。あんまり文章にしていません。分類もしていない。

 

このノート書きつけは、自分としては「ストレス解消」だと思っている。思いついたこと&気になること……脳の中で悶々として渦巻いているものを、ノートに書きつける文字にして形にして出せば、少し楽になる。

ようはう●この排泄と同じである。実際、このノートには日々の記録として、う●この回数を暗号で書いている時がある。う●この様相が「ええっ」と思うようなものだった場合、体調が悪いと推察されるので、それも書いている。こんなことを聞かされているこの記事の読者のほうが「ええっ」と思っていらっしゃるのではないか。

 

で、この量だけあるう●……じゃなかった、日記=メモであるが、ここで書かれているメモを、このブログの文章のネタ元にすれば、良い文章の練習になるかな、と思った次第であります。

思うに、文章をゼロから立ち上げて書くのは、そりゃあしんどいので、忙しかったり疲れていたりすると、あまり文章を書かなくなっていく……と思う。あるいはついったーでの短文投稿で気が済んでしまう、という。べつに文章を書かないこと自体や、ついったーのことを悪く言っているわけではないのだが、文章の練習を考える人間にとって、ちょっとノーサンキュー状況だよね、って話でござい。

その点、日々書きつけたメモ(ネタ)を、少しだけ文章として「展開」することは、文章の練習としてうってつけではないか、と思った。それが今回の「文章の練習」をしたいと思った理由だ。

「11年分の日記のメモを、ちょっと短い文章として【展開】してみたい」という気持ちがある。それがまぁ、面白そう、というだけ。それだけで充分楽しめそうなのだが……しかし、思うにそれは「文章の練習」をしたいきっかけではあっても、「理由」ではない。

なんで自分は文章の練習をしたく思ったのだろう。

 

これは話が一番最初のあのリンクの記事に戻ってしまうのだが、やっぱり2022年の秋の今に至っても、私は「自分自身(残響さん)」という人間が、そんなに好きではないのですね。とくに自分の紡ぐ言葉、文章、ってものが、やっぱり薄っぺらく、嘘なように思える。

そしてもし、私の紡ぐ……吐く言葉が文章が、誰かを不快にさせていたら……と思うとぞっとする。いや、もうすでにそうなっているのではないか、とひそやかな確信があるからこそ、今、私は文章の練習をしたく思っている。

言葉を正す、というとなんだか孔子論語みたいですが。しかし、大学院を中退してかれこれ10年以上。その間、創作小説を書いたりもした。批評をやったりもした。けれど、そもそも自分の言葉が、よくないものになってしまっている、と思った。

言葉を正すことが、自分自身を即、正せる……とは思っていません。そこまで安易には思っていない。けれど、まず正しやすいものは、やはり自分の言葉なのではないか、とも思う。

 

上記で何回う●こと言ってる汚言症なのかい私は、って話でございますけれどね。まぁ、でも、必死こいて自分を潔癖に正す、ってことをしようとしているのではないから、ご安心ください。あくまで、メモ(ネタ)を使って、文章の練習をしたい、という気持ちが第一です。

 

●追記・写真

11年分のノート日記ですが、今、自室にあるものを4~50冊ほど引っ張り出してみました。ミスプリント裏紙やpomera打鍵データはちょっと出すのが難しいですね……。

↑ 下列の一番右のノートの表紙絵は自分で描きました。

ノートの表紙には、書きつけはじめた日付と、ノートを最終ページまで使い切った日付を記載してあります。

ノートにメモを取る時には、毎日、日付と曜日だけは、ノートの紙の最上部に書いておきます。

他は全然ルールなんて守っていないノートの書きつけですが、表紙の日付と、毎日の日付曜日だけは、一応11年間守れています。

近況報告:台風14号での被害は当方は大丈夫でした

ブログ管理人の残響です。今回はタイトルの通りです。

大型勢力の台風14号が日本列島を横断せんとしていました。私の住まうシマーネ農業王国も、台風の進行ルートにかかっておりまして、関係各位の皆様から、ご心配を頂きました。私からすれば、皆様の方が大変かと思いましたが……お心遣いに感謝致します。

今回の台風でしたが、シマーネ農業王国の中でも、私の住む出雲(県東部)は、偶然にも上手い形で暴風雨がすり抜けてくれました。なので、今回、私や家は何事もなく無事です。

ですが県西部は被害の様子がニュースから聞こえてきます。秋の実りの収穫にも、悪影響が出ているようです。

 

今回、台風の勢力・規模が剣呑でしたので、避難用リュックを用意しました。中身は若干の着替えと、常用のおくすり。スマホ、モバイルバッテリ×2、ヘッドライト。財布と通帳。そしてMP3プレイヤーと、データバックアップ保存の外付けHDD×2です。これが、ある程度の機動性(逃げる場合の)を確保しながら持ち運べる限界でした。

私の場合こういう時、レコードやカセット、本や模型は持ち出せないのでしょう……。趣味人として、こういうのは痛いところですが、何事につけても「落としどころ」というのはございます。最優先すべきは命、周囲の人々の安全、そして当座のサバイバルの無事。それからデータ、といった具合です。

 

しかし最近、線状降水帯のしらせが多くなりましたね。気象予報でそのしらせが届く度に、私は上記の避難リュックを用意するようにしています。去年(2021年)の大雨被害で凝りたというか、肝が冷えて、恐怖が刻まれてしまったといいますか。避難用リュックを拵えるのが慣れてしまったのも、これはこれでどうなのかと。

それから、台風が来る前に、裏山から水が流れても大丈夫なように、土嚢を積んだり、放水路を整備したり……。スマホやモバイルバッテリーを充電したり、ランタンを用意したり。なかなか剣呑な数日間でした。

 

キャンプをするようになって、こういう災害対策にちょっと通じるようになりました。ギアも多少は持っていますしw しかし、一番大事なのは、自分の体力と、冷静な判断力、精神力です。その上での備えですね。

 

今日、台風一過の後、一気に冷え込みました。涼しいを通り越して、寒いです。今年は冬になると、また雪への対処になるのでしょうね。日本海側は結構雪が降るのです。こちらもこちらで、備えが必要ですね。

秋。その冬までの束の間の、穏やかな光の季節をたのしみたいと思います。模型を作ったり。秋のM3はオンラインイベントを見るだけになります(サークル不参加)。キャンプもしたいですね。